11.白銀東京スクランブル(3)
運ばれてきた食事はそのまま食べごろが過ぎ、手元の飲み物にもしばらく誰も口をつけようとしなかった。
どれくらいの時間を無言で過ごしていただろうか。
最初に口を開いたのはA子だった。
「……理解が及ばなくて、知らなかったとはいえ、ごめん、ね。率がそんな身勝手するやつじゃないって、知ってたのに一方的に悪者扱いしちゃってた。でも、……私なら、墓場まで持って行ってほしかったって思うかも」
「そうだね。カミングアウトなんて、する側の自己満足だ」
A子がその場で項垂れる。
率のジョッキの中のビールはさっきから全く減っていない。
晴嵐も同じだ。
A子だけががぶがぶと飲んでいたが、それも男二人とベクトルが違うだけできっと同じ理由からの行動だったのだろう。
一気に底が見えたジョッキを乱暴にテーブルに置き、
「結婚した相手とはすべてわかり合いたいと思うのが女心なんだよ」
「それは率さんもそうだったんだべ。だはんで、春鹿さ打ぢ明げだ。春鹿の事さ好ぎだがらこそ、全部さらげ出すたがったんでねえが?」
「……でも、そんなこと言われても、私なら相手を遠く感じるだけだよ」
「カミングアウト自体は、一年か半年くらいかな、ずいぶん前に打ち明けてたんだ」
「……そんなに前に? 別れる直前まで普通に仲よかったんじゃん。そんなこと微塵も感じさせないくらいに……」
信じられない顔で、A子は顔をゆがめた。
「うん。カミングアウトしたけど、だからって即終了にはならなかった。俺は嫌いになったわけじゃなかったし、もっと大切にしようと思ったし、もちろん自分たちが爆弾を抱えているのはわかってたけど、夫婦でもありながらも性別を超えた友人としても関係が成立してるって能天気な事を考えてた。その間、ハルちゃんは戸惑って、悩んで、理想と現実みたいなものの板挟みになってたんだろうと思う」
「……けして自分の手が届かない存在の率がいることに、孤独も感じてたと思うよ。率が100/100で愛してても、受け取る春鹿にはもう、半分の50/100にしか思えなかったんだよ」
「うん」
率は神妙に頷いた。
晴嵐は黙って話を聞いていたが、
「それで、吾郎さの事故がきっかげになったんだが?」
「うん。お義父さんの怪我はそんなタイミングだった」
あれほど実家を嫌っていた春鹿だったのに、白銀村に帰りたい気持ちがあるとわかったとき率は驚いたという。
「情けないけど、その時はじめてもしかして俺から逃げたいのかなって気づいたんだ。ハルちゃんにばかり負担を強いていたと改めて気づいて、一度距離を置いたほうがいいのかもしれないって。結婚後のカミングアウトが後出しじゃんけんだった負い目もあったし」
「それは確かにね」
「だから俺としては、一旦白紙に戻すというかリスタートするために離婚っていう形をとったつもりだったんだ。白銀村に帰ったまではよかったんだけど、予想外に居ついちゃって……」
「そこには、ずっと春鹿を待つ幼馴染がいたってわけかー」
「うん」
「いや、さすがにずっと馬鹿正直に待っではいねよ……」
「いや、そこはそれくらいに脚色した方がロマンチックだから! 率にはトンビに油揚げのタイミングだったねー」
「いや」晴嵐はかぶりを振る。
「春鹿は今も率さんの理解者だ。率さんを裏切れねっで言っでた」
「まさに呪いじゃん!」
A子が声を上げる。
「うん、呪いだよ。だから、三滝さんにハルちゃんを幸せにしてほしいとも思ってるのも本音なんだ」
「……勝手」
「ばって、率さんが話しでぐれて、あいづが言葉を濁すてあった意味がようやく分がった」
晴嵐は勢いをつけて残っていたビールを飲み干し、空になったジョッキを率の前に叩き置く。
「だら、こっがらは正々堂々勝負だ」
「そんなの、三滝くんが圧倒的有利でしょ」
「そうでもねよ。俺には何もねがら」
目の前の二人が、晴嵐の言葉の続きを待っている。
「春鹿さ離婚すて帰って来だ頃は、そった未来思い描いだごどもあった。ばって冷静になってみだら、将来のビジョンも地位も金も自信もなぐで、情げねえ話、春鹿を幸せにするなんてホラでもしゃべれねぐらいの状況で、チャンスさあっでも手なんてどうでい出せねがった」
「うん、むしろ何をモタモタしてるんだろうって思ってるよ」
「うるせ」
晴嵐は不貞腐れたように言い、
「率さんの話さ聞いで、春鹿さ白銀に帰って来た意味もなんとなぐわがった。これがらは俺なりに春鹿を支えていぐ。十六年も離れて、他の男のとごさ嫁に行って、それでも俺は白銀で待ち続げた。見守るのも、俺なりの愛の形だ」
率は苦笑する。
「ったく、三滝くん、かっこいいね」
「ちょっと、これ以上ややこしくすんのやめてよ!? あ、デリカシーなかった。ごめん……」
肩をすくめたA子に、
「そうやっていちいち気を遣われる方が悲しいよ」
「う、ごめん……」
「あー、緊張した! けどすっきりした!」と長いため息をついてから、打って変わって明るい調子で「すみませーん」とさわやかに店員を呼んだ。
「生二つおかわり」と注文してから、残っていたビールをぐっと一気に空にする。
早速運ばれてきた泡の零れるジョッキを、率は晴嵐のものにぶつけた。
「正々堂々勝負。幼馴染なんかに負けないよ」と不敵に笑う。
「あー、私、春鹿にこの状況なんて言えばいいのー?」
「酔っぱらって何も覚えてないことにすればいいよ。飲もう飲もう」
考えてみれば全員同い年。
それなりに話は盛り上がって奇妙な飲み会は夜が更けても続き、結果、千世を心配させていたのだった。
*
土間で夕食の準備をしていると玄関の戸が開いて、鼻の頭を赤くした晴嵐が顔を出した。
「お、おかえり。よく帰ってこれたね。道、雪やばくなかった?」
外はまた雪が降っている。
体に積もらせた薄雪を払いながら入ってきたと思ったら、「土産」と言って、紙袋を上がり框に置いた。
「ありがとー……って東京土産。いらんわ」
「うー、寒。こっちはやっぱさんび」
「たった二、三日に東京にいただけなのによく言うよ」
晴嵐は早速、沓脱石に長靴を脱ぎ捨て、勝手知ったるとばかり居間のこたつに入る。
春鹿はため息をつきながらも手を止め、遅れて晴嵐の向かいに座った。
ほっこりと温かい。
縁側の二重窓の外は積もった青白いかた雪に、しんしんと音もなくしきりと降っている。
静かだ。
「たくさん出稼いできた?」
「あー、ま、ぼぢぼぢ」
「よかったじゃん」
ストーブにかけた薬缶の湯で、黄色いティーバッグの紅茶を入れる。
しゅんしゅんとこれでもかと沸騰していた湯を注ぐと、勢いよく飛び散った。
「……おめ、それ熱すぎんべ」
「すぐ冷めるって」
はちみつに漬けた土しょうがの薄切りを瓶から二、三枚すくって、マグカップに沈ませる。
「はいどうぞ」
三十半ばの男が、ふうふうとかわいい仕草で飲み物を冷ましながら、
「率さん、いい人だな」
「は?」
春鹿は文字通り吹き出した。
慌てて、そばにあったティッシュペーパーを箱から何枚も引き出しながら、
「率!? なんで!?」
「東京で会った」
「ちょっと、なにどういう経緯で!? 信じられないんだけど」
「なあ、ハル」
「だからなんでよ! ちょっと! 晴嵐ってば」
問いただしているのに晴嵐と目は合わない。
じっとコップの中を見ている。
そして、そのまま何も答えずに、
「今すぐにではなぐでも、いづが、率さんとヨリを戻してのが?」
「なに……何で会ったの? なんか言われたの?」
「いや、そうでねばって。でも、あの人、おめのこと今も好きだろ? おめだって好きだべ」
春鹿は軽くため息をついた。
「ヨリを戻すつもりはない。だから、私は白銀に帰って来たんだよ」
「……そうなのが?」
「うん。やり直す気があるなら東京にい続けるし、そもそも別れたりしないよ」
ただ、嫌いではないのも本当だから、将来、年老いた時に、互いに独り身ならばその時はまた一緒にいるかもしれないとは思う。
独りでいないための保険でもなければ逃げでも妥協でもない。
その頃にはもう、春鹿と率の間には友情に似たものだけが残っているような気がするのだ。
そう考えていることは言わなかった。
情はある。
「そうだ。A子さんが年末、白銀さ遊びに来たいっで」
おもむろに、晴嵐はこたつテーブルの上のかごに盛ったみかんをむきながら言った。
「A子? なんであんたに連絡来るの? え、もしかしてA子にも会ったの?」
「ああ、偶然な」
「あんた、東京で何してたのよ!? 人の交友関係、勝手に使って」
むいたみかんを割ったかと思うと、それをふた口で食べ終えて、
「けちくせなぁ。減るもんでねし」
「いや、せめて一言断ってよね。ってゆーか、そもそもなんで率に会ったの?」
「夕飯何が作ってけ。東京の飯さ、口に合わね」
「だから、なんでって聞いてるでしょうが!」
いいわよ、あとでA子に聞くわよ、とこたつテーブルを支えに、立ち上がると、「たたたた」
つい声が出る。
連日の雪かきで全身がひどい筋肉痛なのだ。
「名レストランが集まる東京の味がお口に合わないとは立派な舌だこと。っていうか、私が作る料理も東京の味なんだけどー? まあいいよ、今日も戸田君、ご飯食べに来たいって行ってたから晴嵐の分も作ってあげるよ、ついでだし」
「……今日も? も、ってなんだべ。おい」
ふん、と無視して土間に下りると、春鹿が夕飯の準備を再開した。




