10.反撃開始(5)
バスルームから出ると晴嵐は上着の雪を払っていた。鼻の頭を赤くして、前髪にはまだ白い雪の粉が残っている。
「たげ降っちゅわ」
「え、マジか?」
春鹿は慌てて部屋の窓に近寄り、カーテンの隙間から窓の外を覗く。
空から落ちてくる雪の勢いがチェックインした時よりも増している。
「うわ、ほんとだ。ちょっと、コレやばくない? 明日ちゃんと帰れる?」
振り返ると、意外にも晴嵐は笑みを浮かべていた。
春鹿は急に、自分が濡れたままの髪でいることに気恥ずかしさを覚える。
一応未婚の男女が一つの部屋に一晩、二人きり。
何が起こってもおかしくない。
ただの男女ではないのだから。無関係ではない男女なのだ。
しかし、晴嵐はいつも通り無遠慮に、長靴から室内スリッパに履き替えるとベッドに腰掛けて、
「大丈夫だ、明日には帰れる」
「……何で笑ってんのよ」
「いやぁ、おめが村さ帰れねって心配するのがちょっと意外で」
「え、だって……」
「昔の、高校ん時のおめなら、村さ帰れねぐなって市内のホテル泊まるっつっだら大喜びだったろうし、今のおめでも少すでも都会にいるごどの方が好ぎだろうと思ったはんで」
タバコが吸えない晴嵐は手持ち無沙汰らしく、コンビニで買ってきたばかりの袋からペットボトルの水を出して飲んだ。
口をつけたそれを、春鹿に差し出し飲むかと聞く。
春鹿は首を振る。
「だって、帰れなかったら困るでしょ。工房、遅刻しちゃわないかなーとか……」
「俺の仕事の事さ心配しでんのが? 会社勤めならともがぐ。それに冬の間は雪さごとが一番の仕事だ。銀細工は内職みたいなもんだべ。こっだらに降ったっきゃまずは雪かぎすねど仕事になんね」
「まあ、それは確かに」
県道は除雪車が入るが、村の中の細々とした生活道路は住民で雪かきをしなければならない。もっと雪が積もれば屋根の雪下ろしもしなくてはならなくなる。
若者が少ない村だから、自分たちのこと以外の力仕事に駆り出されるのだろう。
「ホント、あんた偉いわ」
「偉いっで、おめ人ごとでねよ? うぢがら入っておめのとごさ行ぐ道、おめがやるんだべ。吾郎さにやらせるのがよ?」
「げ! ホントだ、そうじゃん。私がやらなきゃじゃん! 今まで父ちゃんに頼りっぱなしだったから忘れてた。やばい、できる気がしない」
「心配すっな。手伝っでやる。最近はいい機械もあるしな。あれのおかげで千世もずいぶん戦力さなっだ」
「……千世ちゃんも……若いのに立派だわ。雪国育ちでもないのに。あんたも、みんな、偉いよ」
春鹿も、隣り合うもう一つのベッドに座った。
晴嵐は壁側に自分の寝床を陣取っている。
「ねえ、晴嵐。なんで、あんた結婚してないの?」
晴嵐は虚を突かれた顔になってから、軽いため息の後に、
「いきなりだな」
そう言って後ろに倒れ、仰向けになった。
「……なんでって、そりゃ、さあな、何でかは俺も知りでよ。話はあっでもながながな。まず村に来たがる娘っ子さいねし」
「うそだ、あんた昔からモテたもん。今だってファンがいるくらいモテててるじゃん。あんたが結婚したいって言えば、村に来てくれる子は絶対いるよ。あんただって、もういい年なんだから」
「まあ、いづかはするがもしんねけど、今のとご予定はね。なんだ、俺の結婚がどうかしだか?」
「あんたがまだ独身だからいけないんだよ……」
「何がだよ、おめに関係ねえべー?」
晴嵐は顔をしかめた。
「関係ないけど、関係あるの! あんたが結婚して子供とかいて、だったら、私はただの近所のおばさんでいられたんだよ。東京に出て行ったただの幼馴染でいられたのに」
「おめのしゃべりでごとがよぐわがんね。近所のおばさんになりたいのが? 俺の結婚、結婚言うなら、俺と再婚でもするが?」
春鹿は一瞬考えるように話をやめたが、すぐに真面目な声で返した。
「……それはそれで無理な話でしょ」
「何も無理なごどね。やけぼっくいに火がついだってだけの話だ」
自嘲めいた笑いとともに首を振る。
「ううん、三滝の坊ちゃんの嫁がバツのついた出戻り女でいいわけないじゃない」
「三滝の名前なんで白銀出れば井の中の蛙だ」
晴嵐は呟いてから、ごろんと寝返って身体ごと春鹿の方を向く。
「年をとるど、色々ややごすいな」
「……なにが?」
「若い頃なら、今夜、お前を抱ぎさえすれば全部解決しただろうなど思っで」
「は?」
春鹿はわかりやすく身構える。
何もされないと安心するには互いの位置が近すぎる。そして、何かされてもいいと流されるほどには条件が足りず、ただ人肌恋しさのためだけに抱き合うにはしがらみが多すぎる。
「おめが妙な大人の女になっで、何考えでるのかわがんねぐなったのは東京のせいだと思ってたけど、いざ俺もこったな場面になって、ただおめを抱いて解決する問題でもねぇなって」
「どう解決するつもりだったのよ」
「考えるより行動だ。抱いちまえばそれか既成事実? ガキでもでぎだらおめの気持ちも変わるだろし」
「子ども……」
「なんだ、いらねとがそういう主義か?」
「もしできてみなよ、離婚してデキ婚なんて、もう村で何言われるか……生きていけない」
春鹿は身震いした。
「……いや、ちょっと待って。改めて聞くけど、あんたまだ私の事好きだったの?」
一応、遠慮がちに問えば、「まあな」と熱の入っていない言葉が返って来た。
「とは言え、悪ぃけんど俺だって十何年もおめのごとさずっと想っでたわけでねよ。ただ俺は置いでいがれたあの頃のまま、環境も変わらねでここで生きてきたがら。冬眠しでた気持ちが目覚めたようなもんだ」
BGMもない狭い室内に、ブゥンと冷蔵庫のコンプレッサーが作動する。
ただその音を聞いていた。
「おめはどうなんだ? まだ前のダンナのごとが好ぎなのが?」
真っ直ぐに見つめてくる晴嵐の視線から、春鹿は逸らして、
「……好きではない」
「あ、そ」
ベッドを軋ませ、晴嵐が動いた。
「へば、もともと戸籍上さ独身なんだべ、浮気にもならねし、遠慮はいらねな」
そう言いながら、のしかかってくる。
「えっ、ちょっとちょっと、待って、ヤッても何も解決しないんでしょ……!?」
「解決はすねけれど、ヤらねでも解決しねしな。しかし、せっかくの据え膳、食わねば恥より損だ」
「そんな損得勘定でヤるな!」
「損得だけじゃね、俺はヤりでよ。高校のとぎから、ずっと、おめのことが抱きだぐて仕方ねがったべ」
春鹿は抵抗するが、すっかり上から覆い被され、首筋に晴嵐の息がかかる。
「ちょっ……、まっ……」
とうとうキスされる。拒絶できないわけじゃない。強引に見えるキスにはほんの数ミリ、逃げる隙が与えられていて、ズルい。春鹿に選ぶ余地が残されたキス。
出禁も接触禁止も、ただの幼馴染も頑なな田舎嫌いも、結局は『いやよいやよも好きのうち』だったと言うのか。
「長い、お預けだったべ」
その言葉が心に染み入りそうになったとき、
「……やっぱ、ダメ!」
脇腹を滑り始めた晴嵐の手が空を掴む。
春鹿は渾身の力で突き飛ばした。
「……嫌が?」
項垂れたまま、ややあってゆっくり首を振った。
それは肯定なのか否定なのかわからない答え方だった。
「あんたが私を好きで抱くんなら、できない」
「……またこむずかすいごとを……。おめを悩ませでるモンはなんだ? 元ダンナへの愛情か? 罪悪感か?」
「率の、元夫のことは、もう好きじゃない」
「へば……」
「でも! ……嫌いでもないの。だから、裏切れない」
「別れでるのに、なすて操立ですねばまいね?」
「おめは、ちゃんと愛されでだのが?」
その言葉に、春鹿は一瞬、体内の血液の流れが止まったように思えた。
愛されていたのかと言われれば、愛されていたと言える。
「率は、愛してくれてたよ。彼の精一杯で。それは今も。だから、それを裏切っちゃダメなの。率にとって、私は唯一の理解者なの。だから、私があんたの気持ちに応えたら、率は一人ぼっちになっちゃうの……」
「なんだべ、それは……」
同じベッドの足元で、あぐらをかいた晴嵐は乱暴に頭をかいて「風呂さ入っでぐる」
そして、
「……襲っだごと、謝らねよ」
と言って、ベッドから降りた。




