10.反撃開始(4)
いつしかまた音もなく雪が降り出しているのに、駅舎の中から晴嵐を見守っていた春鹿は気づいた。
外で作業をする晴嵐の上着にはうっすらと雪が積もりはじめている。
駅舎の漏れ灯りにぼんやりと照らされて、スコップで車のボンネットや屋根の雪を下ろし、次は道を作っていく。白い息を吐きながら、時折、赤い顔に流れる汗をぬぐう。
豪雪地帯の冬は毎日、雪かきから始まる。
晴嵐の家はいつも住み込みの従業員の人手があったから、記憶の中の『坊ちゃん』はいつもぬくぬくとしていた。
「晴嵐、また降ってきたよ」
声をかけると、
「ああ、急がねど」
「もういいよ。あんたの車に乗せて帰ってよ」
「車、こごさ置いでおぐのが?」
「だってもう暗いし、自分で運転して帰るの怖いもん」
春鹿の車以外にも雪に埋もれたまま放置された車が二台ある。
晴嵐はそれを見渡してから、火照った頬を降る雪で冷やすように空を仰いだ。
「へば、乗れ」
スコップを肩に担ぎ直し、ざくざくと大股で駅舎の方にやってくる。
「ごめん、途中まで雪降ろしてもらったのに」
「確がにおめの運転で帰るには危ね。歩げるが? 滑るなよ」
「うん」
晴嵐は春鹿のスーツケースを提げ、雪の少ない道を先に歩いていく。
「帰れる?」
「慣れでら。んだども、今日は毛布どが積んでねえな」
「毛布?」
「スタックしで車さ動がせなぐなったどぎに車内で待機しねばなんね。エンジン始動させられねごどもあるすけ、待っでる間に凍える。ま、もしものどぎの話だ、滅多どねぇ」
「え、そんな事態になる恐れがあるの!?」
「おめなぁ、一応雪国育ちだべな」
二人は左右から座席に乗り込んだ。バンっと薄っぺらい音を立ててドアが閉まる。
なにもかもが冷え切っていて、外にいるのと変わらない寒さだ。
ワイパーを動かすと、まだ軽い雪が寄せられて視界が開けた。
「雪で閉じ込められたごと、何度もあるべ」
「昔は車と縁がなかったから……」
「まあ、なんとが帰れるだろ」
晴嵐は車を発進させ、駅のロータリーから出た。
あたりには人気はなく、車の往来もほとんどない。轍がかすかに残って見えるくらいだ。
白銀はここよりももっと雪が多い。
「ねえ」
春鹿は晴嵐の腕を掴んだ。
防水素材に雪が溶けて濡れている。
「市内で泊まって、明日の朝除雪されてから帰ろ」
「ああ?」
「危ないし。途中で立ち往生したら民家もないし。私は装備もないし、途中で動けなくなっても歩くとか無理だもん」
春鹿のスマホのバックライトが車内に光る。
市内まで戻ればビジネスホテルがある。
晴嵐の雪かきを見ている間、なんとはなしに空室を調べたのだ。その時はまだ空いていたが。
「やばい、残り1になってる! 予約するよ! 禁煙でいいよね?」
「こっがらなら山のホテルの方が近いべ。ラブホだげど」
「それこそ、あんな山の中の何もないところで閉じ込められた方が困るじゃん」
晴嵐は雪道を慎重にUターンすると、進路を市内に変えた。
「部屋、一緒?」
「贅沢言ってる場合じゃないでしょ」
「襲われでも文句は言えねな」
「あのねぇ、命を守るためにやむなく泊まるんだよ。緊急避難だよ。変な気なんか起きないでしょ」
市内が近づくにつれ、だんだんと白い雪の面積が少なくなり、ついさっきまでいた田町の駅での風景が嘘のようだった。
しかし、依然雪は勢いよく降っていて、このままいけば、明日にはこの辺りの平野部も結構な積雪量になるだろう。
ビシャビシャとタイヤが雪を跳ねる音を聞きながら、おもむろに春鹿が呟く。
「ドラマとかでさー」
「ドラマ?」
晴嵐は、さっきから煙草を吸いたいのを我慢していて、あからさまに間が持たない様子で指でハンドルを叩いていた。
「男女が雪山で遭難して山小屋で一夜明かすシチュってまあまああるけど、実際ないよね」
「そったな話、まあまああるのが?」
「女子の妄想の世界にはあるのよ。しかもロマンチックな設定で」
「ロマンチック、がぁ?」
晴嵐が微妙な顔をしたので、春鹿も苦笑する。
「そう、人肌で温めあったりするの」
「確がに凍えだとぎに人肌は有効だども」
「本気で命懸かってる時にさ、そこに男女の惚れた腫れたとかいう次元はないよね」
「んだなー。残りの燃料や食糧の問題もあるし、遭難でなっだら警察、消防、地元猟友会が総動員でおおごどだべ」
「ホントに。下界での状況想像したら雪山の小屋なんて緊急避難場所でしかないわ」
春鹿は窓枠に頬杖をつきながら、外の景色を見た。
「なした、急に?」
「……自分が大人になったなぁと思って。ちゃんと事前に、安全に避難する方法をもう知ってるんだなーって」
しばらく晴嵐はその言葉の意味を考えるように黙っていたが、
「確かに、俺も無茶ど無理の違いさわがるようになっだ。ばって、いつもなら、こっだな時はネカフェかカラオケでオールだ。それなのに、おめは躊躇いなぐホテルに泊まる選択さしで。やっぱり、おめは俺らどは違うなと思っだ。都会の人間だ」
頭にタオルを巻いた姿の晴嵐は、信号待ちの赤をじっと見つめている。
「でも、私は、さっき雪かきをしてる晴嵐を見て、すごいなって思ったよ。昔はだるいって滅多に手伝わなかったのに……」
「そったごど……みんなあだりまえにやってら。やらねどこごでは生きでいげね」
十八で上京して、春鹿も東京での生活がいつも順風満帆だったわけではない。苦労もあったし努力もした。
互いに、別々のところで種類の違う努力を重ねてきた結果だった。
ビジネスホテルにチェックインする。
狭いツインの部屋だった。
そこまで古くも、かと言って新しくもない。
「先に風呂さ入れば?」
「え、でもあんた雪かきしてくれたし、冷えてるでしょ、先に……」
「煙草ついでに着替えさコンビニで買ってぐる」
一方、出張帰りの春鹿は急な宿泊にも大した不足も不便もない。
晴嵐を見送り、湯を張った。
ドボドボと勢いよく音を立てカランから吐き出される湯をしばらく眺めてから、半分ほど溜まったところで服を脱ぐ。
湯船に浸かると強張りを解いていくのがわかる。
湯を止めると、急にしんと静まり返る。
水が滴る音さえない無音の中で頭を空っぽにして熱めの湯に身をたゆたわせていると、部屋の扉が解錠された音が聞こえて、春鹿は出るべく栓を抜いた。




