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10.反撃開始(2)

 先日温泉で会った奥山からの同窓会の誘いを晴嵐が伝えに来た。


「行ぎだぐねなら無理すねで適当に断っどぐべ」


「いや、行く」と言った春鹿に、晴嵐は驚いていたがその反応は正しい。春鹿は自身でさえ、少し前なら絶対にそんな集まりになど行くわけなかったと思うからだ。


 その日、日付が変わろうかという時刻、春鹿は晴嵐の軽トラに乗せられていた。

 晴嵐は自分一人なら、帰る帰らないを含め一晩くらいどうとでもなるが、春鹿が一緒ではそうもいかないと言って酒は飲まず、運転している。


 結論から言うと同窓会という名の飲み会はそれなりには楽しめた。

 晴嵐が行く前にわざわざ注意してきたような下品でもなければセクハラ、モラハラ発言もなかったし、春鹿が想像していたほど低俗でくだらない会でもなかった。

 中学時代のクラスメイトもみんな、大人になり、社会人になり、父になり、母になって、それぞれ様々なコミュニティで生き、日々成長し、年齢の分だけ経験して学んでいた。春鹿はその年月を東京という場所で過ごし、こなしてきただけの違いだ。


 春鹿にも思い出して懐かしむことのできる青春時代があったらしい。

 その昔、相当いけ好かなかったはずの春鹿にもみんなは優しかった。マウントの取り合いなんて存在しない。

 昔話で笑えることの幸福に、普段以上に酒が進んだのか、店を出て車に乗ったとたんに酔いが回って来た。


 それは春鹿には珍しく理性を放棄したくなる種類の気分の悪さで、晴嵐に手渡されたペットボトルの水を、蓋を開けたまま脱力して手を放してしまいそうになるくらいの不調で、酒に飲まれるのは極めて珍しい事だった。


「酔いつぶれだらホテルさ連れ込むっづたべ!」


 苛立ちの混じった口調で晴嵐が言う。

 キスの前科がある晴嵐が言うと冗談にならないとツッコミを入れたかったが、悪心でそれも叶わなかった。座ったまま窓に身体をあずけるのが精いっぱいという狭い助手席ではなくて、快適な場所で横になりたい。むしろ、今すぐ休めるラブホテルのダブルベッドでも構わないくらいだ。


「そったらに酔っぱらっで。普段は酒さ飲んでも顔色ひとづも変えねで、まったぐかわいげのない大酒飲みのくせしで。なんだ、ちやほやされでいい気にでもなっだか」


 春鹿が言い返さないのをいいことに、晴嵐はこのときとばかりに嫌味三昧だ。


「こったな田舎の男にモテたっでなんの自慢にもならねぞ」


 出戻って来た春鹿と独身の晴嵐が共にいて、それでも未だ進展がないのは今後もその可能性がないのだと判断されたのか、付き合ってもいないのに『田部は晴嵐のもの』と認識されていた中学時代とは扱いが違った。

 晴嵐も普段のようにいちいち春鹿を構うことをせず、常に別のグループで喋って飲んでいた。


 春鹿があからさまに個人的な二次会に誘われているのにも、守れ、盾になれとまで都合のいいことは思わないまでも、晴嵐が止めに入ることも遮ることもしてくれないので、『今日、晴嵐と一緒に帰れないのかも』と不安を感じたくらいだ。

 それでも、お開きになった時、「帰るぞ」と晴嵐は言いに来てくれた。


「おい、平気が?」


 尋ねるように意識の届かない手を握られる。指先は自分でもわかるほどに冷えている。


「おめ、手、冷ゃっけぇぞ」


 片や晴嵐の手は熱い。


 車が家に着いた時、歩けない状態ならば、いつかの酔っぱらった千世のように負ぶってくれるのだろうか。

 それとも、あの時の晴嵐が言ったように、ねだればお姫様抱っこをして、ベッドまで運んでくれるのだろうか。


 軽トラは、深夜の峠に差し掛かる。


「おい、ハル。本気でヤバぇだばホテル寄るが? 誓ってなんもしねはんで」


 まるで含みのない、本心から体調を心配する口調と声色だったが、春鹿は返事をしなかった。


「家まで堪えれるが?」


 返事をしない時間を過ごして、うっすら目を開けた道がもうラブホテルを過ぎていたとわかったとき、なぜか泣きたくなった。


 この前、突然キスをされて、春鹿は怒っていた。

 怒っていたのに、きっかけを探していた自分がいたことに、今、気づいた。

 気づいたのに、晴嵐は気づいてくれなくて、泣けてくる。

 

「着いだぞ」


 いつの間にか眠ってしまっていたらしい。

 一瞬にも似た間だったが、一眠りした春鹿の気分はずいぶんましになっていた。

 ひっそりと暗い家のぼんやりとした玄関灯が、寝静まった今の時間を伝えている。

 

「大丈夫か」


「……うん、どうにか。……ありがとう」


 自分で助手席のドアを開ける。晴嵐は運転席に座ったままだ。


「部屋までついで行ぐか?」


「……だから、あんたは出禁だってば」


 そう言って笑ったのに、こぼれたのはひどく自嘲的なものだった。


「おい、ちゃんと布団さ入っで寝ろよ」


「はいはい。おつかれーおやすみー」


 後ろ手で車のドアを閉める。

 さっきまでの崩壊しかけていた理性も元に戻り、春鹿は自分で歩いて家に入ったのだった。



 スーパーまで買い物に出た帰り、春鹿は三滝家の前で車を停めた。

 千世が庭で何か作業中だった。作務衣にダウンジャケットを着ているが寒そうだ。


「こんにちは。寒いねー」


「……ランさんなら組合の用事で出てますけど」


 千世は一瞬手を休めたが、春鹿を見とめるとすぐに作業を再開する。


「組合? へえ、そういう仕事もあるんだ。ま、どこの世界でもあるかぁ」 


 手を動かしながら、

「以前はおかみさんが出られてたんですが、代替わりというか、最近はランさんが渉外的なことを」


「なんか、晴嵐って昔はそういう細かい事務方のことを任せられる印象がないから、どうにも違和感」


 晴嵐はサッカー部のキャプテンだったけれど『俺、わがんね』の一言で、部長会議さえ副キャプテンに丸投げだった。

 晴嵐にはそれを許されるだけのカリスマ性があの頃あったのも事実だ。


 人並みに責任を果たせるようになったと喜べばいいのか、社会や常識の中に収まってしまうような人並みになったと悲しめばいいのか。

 大人になるというのは、必ずしもプラスの成長だけではない。失われたり埋もれたりするものもある。


「まぁ、顔を売るのも横のつながり作るのも大事な仕事のうちかね」


 千世はしばらく答えるかどうか迷っていたようだったが、

「……理想を言えば、職人は作品のことだけを考えてそれに集中できるのがベストです。でも……。うちのおかみさんもそうでしたが、奥さんがそういう役割を担われてることが多いので」


 そういうことか。

 それならばせめて秘書か事務を雇えばいいんじゃないかと思うが、そもそも妻がその仕事をすれば人件費はかからない。

 そして妻としてのその役割に生きがいを感じるタイプの女性もいる。


 春鹿は仕切り直しのため息を軽く吐いて、

「これ、晴嵐に渡しといてくれる? 頼まれてたの買ってきたから」


 レジ袋を差し出して見せると、千世はあからさまに不機嫌そうな顔になった。


「直接渡せばどうですか。どうせ今夜も春鹿さんのところに行くんでしょう、ランさん」


「別に毎日来るわけじゃないよ……?」


 春鹿の語尾は限りなく頼りない。

 最近、晴嵐は夕食の後にきまぐれ、というには頻度高く、晩酌をしに春鹿の家にやって来る。

 用事があってそのついでに、というときもあれば、「酒飲ませろ」と来るときもある。吾郎がいるときもあればいない時もある。

 ただ一杯か二杯飲んで帰る。時間にすれば十五分か長くて一時間。帰ってそのあとまた仕事をしているらしい。戸田が言っていた。


 別にやましいことはない。

 キスはされたけれど、その後はただの一度も男女の空気にはならない。駆け引きを楽しむような際どいムードにもならない。話が盛り上がることもない。

 無言でテレビを観たり、春鹿も晴嵐もスマホを触ったり。

 何のための何の時間かはわからないと気づかないふりをして、拒みもせず、夜な夜な酒を酌み交わしている。

 探しているのかもしれないし、避けているのかもしれない。均衡を壊す何かを。

 

「ま、急ぐものかもしれないから置いておくわ」


 春鹿は、レジ袋を近くにあった台の上に載せる。

 中身は注文を受けたエナジードリンクだ。


「ごめんね、邪魔して」


 そう言って車に戻ろうとしたとき、呼び止められた。

 千世が真剣な顔で見つめてくる。


「この先どうするんですか」


「この先? って、今から?」


 家に帰るだけだけどという答えは間違っているとわかっていて、とぼけたふりをしただけだ。 

 そんな春鹿を無視して、構わず千世は核心をついてくる。 


「ランさんとヨリ戻すんですか?」


 春鹿は足を止めた。


「ずっとこの村にいるんですか? そもそも白銀には戻りたくて戻って来たんですか? 逃げじゃないんですか? 退屈になったら、また出て行くんじゃないですか?」


「それは」


「だって春鹿さんは好きじゃないんでしょ? 白銀が嫌いなんでしょう?」


 そのどれにも答えられないうちに、千世は畳みかけてくる。


「だから今、迷ってるんじゃないんですか? またランさんを捨てて東京に行くことになるかもしれないから」


 違うよ、とはすぐに答えられなかった。

 けれど、

「そんなことで迷ってるんじゃない」


 それだけは言って、春鹿は停めていた車に乗り、エンジンをかけた。



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