8.うつろうもの
春鹿が土間でトレッキングシューズの紐を締めていると、ガラガラと玄関が開いて晴嵐が顔を出した。
着ているウインドブレーカーの黄色がよく似合っている。
「さ、行くべ」
「どこに?」
「どこにって栗拾いだべ?」
「は? なんで」
居間にいた吾郎が顔を出す。
「おめ一人じゃ心配だべ、せいちゃんさ頼んで来でもらっだのよ。慣れでねやつが山さ入るどロクなごとがねがらな」
「裏の山なんて小さい頃から何度も入って慣れてるし。おまけにこの季節だし」
「そういう油断が命取りになるべさ」
晴嵐がそう言いながら春鹿に跪いたかと思うと、その靴ひもをきつく結びなおす。
正しく結べていなかったらしい。そもそもその靴も、このためにネットで購入したものだ。春鹿には山登りの趣味などない。
吾郎が、裏の山の落ちた栗を収穫に行くというので春鹿が止めた。
いくら裏山と行っても足は依然不自由だ。行けなくもないが、逆に栗くらい春鹿にも拾える。もとより子どもの頃から何度も行っている。
だから、吾郎の許可も下りたのだと思っていたが。
一人で行けるのに、と顔に書いてあったのだろう。
晴嵐は眉をひそめ、
「づーが、おめ、栗の量なめでんじゃねーぞ。二人で行っでも一度で運べねよ?」
栗の木があるのは、裏の白銀山の登り口で、言っても家から五分足らずの緩斜面だ。
普段着にスニーカー履きでも行けるようなレベルで、しかし、晴嵐も軽登山用の装備で足元は山林用の長靴を履いていた。
夏ならともかくというのが吾郎の意見で、万が一に備え、春鹿も防水仕様のウインドブレーカーを着ている。
「休みなのに悪いねー」
「礼さ、栗ご飯でOKだべ」
「じゃあ剥くのも手伝ってもらわないと」
「お安い御用」
昔ながらの竹で編んだ籠を背負って、軍手をはめた手に火ばさみを握って、前を行く晴嵐を追いかける。チリンチリンと晴嵐のつけた熊鈴が鳴る。
空は曇り空。風はもう冷たい。
栗林が見えてくると、辺りには《《いが》》と《《いが》》から外れた栗の実が気が遠くなるほどの数、落ちていた。
すでに収穫の時期を逃しているので、《《いが》》はほとんど茶色くなっている。
「軍手嵌めてでもトゲは刺すべな」
「わかってるよ、子どもじゃないんだから」
「楽しい!」と思えたのは最初の三十個くらいで、春鹿はだんだんと面倒になってきた。
小石ほどの大きさの栗は意外に手間がかかる。
「私、スーパー銭湯にはまりそうでさ」
おざなりに栗を拾いながら、黙々と拾い続けている晴嵐に話しかけた。すでに春鹿の作業スピードは晴嵐の半分以下に落ちている。
「この前の湯さ、よがっだだろ」
「うん。気持ちいいし、癒された。日本人の温泉好きを初めて理解できた」
「そう思うのは、トシ食ったせいだべ」
晴嵐は春鹿を見ずに笑う。
「この前の所じゃなくてもまた行きたくて、調べたらうちから行けるところに三か所くらいあるんだね」
「ああ、山の湯と谷の湯と沢の湯だべ」
「行ったことある?」
「一番よぐ行ぐのは沢の湯だ、近ぇがら」
晴嵐は戸田や千世と平日でも行くらしい。
住み込みの二人が住む離れの風呂は使うと掃除しなければならず、それが面倒だからだそうだ。
「スーパー銭湯巡りしようと思って。なんともババくさい趣味だけど」
「もう少し足を延ばせばもっとあるべ」
「へえ、楽しみができたわ」
それからは、それなりに真面目に栗を拾った。
ひたすらに拾い続けてしばらく経った頃、
「あー、暑ぇ!」
叫ぶ声だけが聞こえてくる。
一部の急斜面に植わっている栗の木の辺りにいるらしい。
死角になっているので姿は見えない。
「晴嵐ー? 水飲む?」
荷物をまとめて置いていたところに戻ってペットボトルを手にし、声のする方へ向かう。
晴嵐は斜面を上がってきていた。
「ここさ落ち葉が滑って危ねがら俺が上るで」
「大丈夫、下りれるよ、このくらい……わっ!」
「春鹿!」
春鹿は言ってる傍から滑って、そこまで来ていた晴嵐に抱き留められた。
尻餅をつく前に後ろから抱き留められはしたが、慌てて駆け寄ってバランスを崩した晴嵐を下敷きに、そのまま一緒に身体ごと数メートル滑り落ちる。
「びっ……くりしたぁ……」
「そりゃあ俺のセリフだ。言わんごっちゃね……怪我はねが? 足、捻っだりしてねが?」
「晴嵐こそ平気……?」
「俺はなんどもね」
そこで初めて自分の体のすみずみを俯瞰してみた。
「私も大丈夫、と思う……」
どこにも痛みなどはない。
しかし、抱かれている晴嵐の腕の力には圧倒的な違和感がある。
「あのなぁ、子どもん頃と同じに考えるでねぇ。踏ん張る力も柔軟性も昔より無くなってんだべ」
「はい……」
晴嵐は春鹿をまだ離さない。
「晴嵐……? もしかして、どこか痛めた?」
怪我の有無を確かめようと身じろぎしたが、腕の力は緩まなかった。
「いや、大丈夫だ。痛いところはねよ」
「じゃあ」
離してよ、とは続かなかった。
離されもしない。
後ろから抱きしめられたまま、晴嵐の顔は見えない。
そのままの格好で、カサカサと山を風が通り抜けていく音を聞く。
互いにゴム素材の上着を着ているため、それがごわついて、体同士はそぐわない。密着している感覚もない。それでも力の強さは伝わってくる。
「春鹿」
未だそのままで、晴嵐は呟くように言う。
「……な、に」
「おめ、次は東京いづ行ぐ?」
「え? はあ? 何よ急に。何で今? 来週行くけど」
「その時、俺も行ぐ」
「は? なんで? 私、仕事だよ?」
「俺も用さある。東京で銀細工置いてもらっでる店さ行がねと」
「……そうなんだ」
「おめは一泊が?」
「うん」
「なら、俺も一泊」
二人の少し下で、晴嵐の籠がひっくり返って、集めた栗が散乱していた。
「あーあ、栗がひでぇごとさなっでら」
「私、拾うよ」
しかし、起き上がれない。
まだ晴嵐は離してはくれない。
「栗さ拾い終わったら」
「……うん」
「湯さ行ぐか?」
「……行く」
「んじゃ、連れで行っでやる」
「でもそれだと、今日もまた晴嵐は飲めないよ」
「別にいさ」
「栗拾うべか……」
「……うん」
「空」
「え?」
晴嵐に抱かれたまま、春鹿は木々の隙間の空を見る。
「今にも雪が降りだしそうな、空だべな」
「うん」
腕はまだ緩まない。
*
山で足を滑らせた春鹿だったが、その後の歩みを見ても異常はなさそうだった。
明日になれば打ち身や筋肉痛の痛みが出るかもしれないが、ひとまずのところ心配はなさそうだ。
収穫した栗を田部家の納屋に運び入れて、作業は終わりだ。
晴嵐は山とふもとを二往復し、最終的に収穫量は満杯のかご四つとなった。
「せいちゃん、すまねがったな。助がったべ」
栗は出荷用のネットに詰めるが、それは今から吾郎が一人でやると言う。
「ほんに手伝わねでいいべか?」
「いじゃいじゃ。ゆっくり座ってでぎるべ。選別は目利きがいるべな。さ、春鹿と湯に行って旨ぇもん食って来い」
晴嵐はポケットから出したタバコに火をつけて、水道で手を洗っていた春鹿に声をかけた。
「んじゃ、俺一旦帰るべさ、準備でぎたら連絡ぐれ。迎えさ来る」
「わざわざいいよ。うちの分の栗を水に漬けたら、すぐ用意して私が晴嵐ん家行くから」
「そいだば、あとでな」
「うん、ありがとね」
晴嵐は乗ってきた自転車に跨り、緩やかに漕いで、坂道を下る。
咥えたタバコの煙が後ろに流れて行く。
山でかいた汗はすっかり引いて冷えていたが、春鹿を抱いた身体の厚みはまだしっかり覚えていた。




