ただいま、白銀村
東京から新幹線と在来線を数本乗り継いで、そこから車で走ること四十五分のところに田部春鹿の実家はある。
女の名で『はるしか』というのに珍しがる人は多い。
父がマタギだからと言えばそのことにも、名前に『鹿』の字がつくことにも納得される。しかしそんな由来を、春鹿は東京に出てきて十六年、話すことはほとんどなかった。だから、知人友人にはただの珍しい、変わった名前だと思われていることだろう。
本州の北、とある県戸有郡白銀村。
人口の五十パーセント以上が高齢者。いわゆる限界集落だ。
路線バスは通ってはいるものの朝と夜の一日二本。しかも『白銀村入口』バス停から集落までは山道を歩くこと三十分。
『ド田舎』と聞いて想像するまんまの村だと思ってもらっていい。
ただ、そんな山奥の過疎村にも世界レベルの誇れるものが一つある。伝統工芸品である銀細工の花簪は重要無形文化財に指定されるほどの代物で、白銀師と呼ばれる人間国宝が村にいる。
もっとも春鹿はそのことでふるさと自慢をしたことはない。初対面の人との会話のネタにすることもない。
春鹿は白銀村が大嫌いなのだ。
何の夢も刺激もない、ときめくものなどもっとない、旧式で閉鎖的な村社会が大嫌いだった。
村で暮らしたのは高校までだ。上京を許される前から、大学は東京に行くと決めていた。
無事大学に合格し、上京にも親は特に反対しなかった。
そして大学を謳歌し、卒業し、就職した。東京で知り合った人と何の問題もなく結婚して、自分の故郷が白銀村であることをほとんどの時間思い出さなくなった東京生活も十六年目という今年、実家に戻って暮らすことになった。
まさかのUターン。
そのおまけみたいに離婚をして、再び独身になって。
「うるさすぎる……」
白銀村最寄りの駅、田町駅に降り立つと、恐ろしいほどの大音量の蝉の合唱だ。
屋根もない吹きさらしのホームには太陽の光が降り注ぎ、割れたコンクリートの隙間から雑草が生えている。
駅員も常駐しておらず、次の電車も二時間後にしか来ない駅舎は、降車客(といっても、田町駅で降りた客は春鹿を含めてたった三人だったが)がはけてしまうとその無人感たるや、駅とは一日何万、何十万という人が利用するものという日常に慣れた春鹿には、ドラマのスタジオセットのように思えた。
空が青い。
夏休みの田舎が舞台の映画に出てきそうな水色をしている。
山あいの三方は、黄緑、緑、深緑、カーキ、モスグリーン、エメラルドグリーン、あまたの緑色のグラデーションと、ぽつぽつと点在する建物の少なさ。
ため息すら出ない。
同じ景色に相対するにしても、帰省する時には感じることのない感傷に襲われる。
田町駅の改札を出ると何台か車が停まっていた。
この辺りにコインパーキングは存在しない。枠も線もない、舗装もされていない土と草の空き地に白色の軽トラックばかり。
車がないと生活が成り立たない地域、かつほとんどの世帯が農業、林業に関わっている。『一家に一台軽トラック』は田舎の常識だ。
「てゆーか、うちの車どれ……?」
田町駅まで父親の吾郎が迎えに来てくれる約束になっている。
どの軽トラが我が家のものか見分けられないでいると、一人の爺さんが春鹿を認めて手を挙げた。
改札を出たところで足が止まってしまっていた出戻り娘を、片足を引きずって迎えに来ようとするから、春鹿はようやく我に返る。ゴロゴロとスーツケースを従えながら急ぎ足で父の元へ向かう。
吾郎が狩りの最中に崖から落ちて骨折した。まだ雪の残る春先のことだった。
折れ方が悪かったらしく、後遺症が残ってしまった。日常生活に大きな支障はないが、深く山に入って狩りをするのはもう難しいらしい。
母親は春鹿が小学生の頃に家を出て行き、兄弟もいない。
「父ちゃん、ただいま」
「おう、遠いところご苦労さんだったな。荷物はごんだけか?」
「うん、とりあえずは」
春鹿が新婚旅行用に買ったスーツケースなので一週間分くらいは入る。
大きめのそれを吾郎は軽々と持ち上げ荷台に乗せた。長年、山で鍛えた腕力はそのままらしい。
しかし、クマやイノシシを狩るマタギに、近未来的に輝くドイツ製のスーツケースはあまりに似合わない。
狭くて簡素な軽トラックの助手席は、田舎の土の臭いがした。
「迎えに来てもらっておいてなんだけど、その足で運転できんの?」
「骨折は左だったべ。まー、医者には運転するなで止められてるが」
「えっ! まじか! ……でも、私、ミッション車なんて運転できないから運転変わってあげられない。ごめん」
「おめさ免許、オートマ限定だったべか?」
「違うけど、ミッションなんて教習所でしか運転したことないもん」
おおよそ上品とはいえない音を立ててエンジンがかかる。
ギアチェンジのシフトレバーの動きも大きく、がくがくと角度を変える。
すべてが優しくコンフォートという言葉に守られているオートマチック乗用車と違って、発進も加速もブレーキも、すべてに機能性だけを求められるメカのむき出し感の乗り心地が軽トラにはあった。
「ま、車がねぇとこごで暮らしでいげねぇのは病院の先生もわがっでっがら。気をづげて乗れとさ」
「それ、田舎だから通用するんだからね。危ないなぁ。けどまあ、そんな足なのに、迎えありがとね」
「お安い御用よ」
吾郎はその世代や生きてきた環境の割に理解のある父親だと思う。
山奥の狩人という職業から想像するほど無口でもない。
父を一人、地元に残して都会へ飛び出していった春鹿とも仲が悪いわけでもない。
実際、一年に一度くらいのペースで、田舎者丸出しの格好ではあったが、春鹿を頼って東京に遊びに来ていたくらいだ。
だからこそ、父が怪我をして足が不自由になったとき、春鹿も迷いながらも地元に帰ることを選択肢の一つに選んだのだ。
「ってことは、私も自分の車、買わないとダメってことかぁ」
段々に色づきはじめている田んぼを眺めながら、ぼんやり通帳の残高を思い浮かべる。
「あどの荷物は引っ越し屋にでも頼んだのか?」
「ううん。全部で段ボール箱五つだったから宅配便で送ってる」
「宅配便は二日に一度だべ」
「急がないやつだから別にいいよ、いつでも」
「しがし……いくらなんでも段ボールだけとは少なすぎやしねえべか。家具とがはねぇのか」
「うん、別に……」
インテリアに興味がないわけではなかったが、趣のある古民家ならともかく、古いだけのダサい田舎の家に、高価な輸入家具もデザイン家電もあったところでいたたまれない。
「まあ、マンションは率がそのまま住んでるしね」
「……そうが。すたっきゃ、東京におめさ帰れる場所はまだあるんだな」
「いや、そんな都合よくホテル代わりとかは、無理だよ、いくら円満離婚とはいえ」
春鹿は力なく笑った。
「しかしよ、新すい家具もねんなら、おめの部屋、高校ン時のまんまだけど暮らせるが?」
「……まぁ、それはおいおい模様替えするよ」
夏の終わり、クーラーなしの車内は、自動的に窓が全開になっている。ご多聞に漏れず父をはじめとする田舎の老人はエアコンが嫌いらしい。というよりクーラーのない家が多い。
確かに、十分に爽やかだ。自然の風が、東京のように生ぬるくはない。
九月の初め、気温も暑いは暑いが、残暑という季節を考えれば割り切れる範囲だ。東京の暑さの不快感はお釣りがくる。
家から一番近いコンビニを通り過ぎる。近いと言っても車で三十分。何年か前に、酒屋がコンビニに昇格した店だ。22時には閉店する。
上京してからも、結婚してからも、実家にはそれなりに帰っては来ていた。
十八歳のときに飛び出したきりというわけではない。
けれど、自分の部屋と同じで、白銀村にはいろんなものを置いてきたままだ。
大嫌いな田舎、嫌悪していた村社会、尖っていた青春時代、そして幼馴染。
十六年経って、いい大人になって帰ってきた春鹿だが、色々な過去とどう向き合うのか、まだ決めかねている。
「……父ちゃん、こんなことになって村でいろいろ噂されるかもだけど、ごめんね」
「そっだなごとは、母ちゃんさ出で行ったどぎさ散々言われでもう慣れっごだわ」
「いや、でも……さらに肩身の狭い思いさせちゃって、なんか、ほんと、すみません」
吾郎は春鹿の謝罪を笑い飛ばした。
「まあ、当分は大人すぐしでおぎてだろうと思ったはんで、おめが今日帰ってぐるのは誰にもしゃべってねはんで」
「……ご配慮ありがとうございます」
春鹿は深々と頭を下げた。
「せいちゃんも知らねよ」
「……うん、ありがと」
窓からの風に髪がなびく。
車は、谷間を縫う県道をどんどん白銀に向かっている。