6.別世界
「おかえり、春ちゃん」
ドアが開く。
元夫の率は変わらない笑顔で春鹿を迎えた。
もうマンションの鍵を持っていない春鹿は、オートロックで部屋を呼び出し、部屋もいちいちインターホンを押さなければならない。
春鹿は結婚時に住んでいたマンションに食器を取りに来ていた。
離婚して家を出るときには全部不要だと思って置いてきたのだが、白銀で料理を再開してから惜しいと思うことが多くなっていた。
率に送ってもらおうと思ったのだが、「わからないから見に来て」と言われて選別に来たのだ。
「ごめんね、このためにわざわざ早く帰宅してくれたんだよね」
率はまだジャケットを脱いだだけのネクタイ姿で、春鹿のために残業なしで帰って来てくれたのだろう。
結婚していた時は毎日午前様だった男だ。
「外で一緒にメシでも食って、それからうち寄るでもよかったのに」
出されたスリッパは客用のものだった。
春鹿のルームシューズは捨てられたのか。出て行く時に自分で捨てたかどうかは覚えていなかった。
「この後会社の子と合流するから。それに、まあ、なんとなく遠慮もあったり」
「遠慮、いまさら? ホテルだってわざわざ取らなくても。うちでいいのに」
率は朗らかに笑った。
春鹿と同い年の率は見た目にはもっと若く見える。いまどきで、相変わらず洗練されて、自慢の夫だった。
「親しき仲にもかなって。きっとずるずる甘えちゃうから」
「真面目か」
「真面目だよ、田舎者だから」
春鹿はキッチンの水道を借りて、手を洗った。
水回りを一見しただけで台所が全く使用されていないことがありありとわかる。きれいには保たれているが、埃がたまっている。
部屋は散らかっていた。
「はい、段ボール箱、用意しといたよ」
「ありがと」
「どう、実家? すぐギブアップして帰ってくると思ってたのに」
「私もそうなるかなって思ってたけど、それなりに」
「お義父さん、そんなに思わしくないの?」
「ううん、そこまでじゃなかった。心配ありがとう」
食器棚を開けてあれこれ取り出す春鹿を、キッチンの出入り口の壁にもたれかかりながら率は見ている。
「コップ一つと皿一枚置いておいてくれればいいよ、俺は」
「さすがにそんなわけにはいかないでしょ。家で食事してないの?」
「してないなー」
「体、壊すよ」
「心配だったら戻ってきてよ」
「……ごめん」
春鹿は作業の手を休めて俯いた。
テレビの音もBGMもない部屋はしんとしている。
濃いオレンジ色のペンダントライトが、ダイニングテーブルを照らしている。
「……とか言って、別にそこまで寂しいと思ってないでしょ?」
春鹿は率を軽く睨んだ。
「いや寂しいよ。すごーく」
「ハイハイ」
率は冷蔵庫を開けて、缶ビールを取り出した。
プルトップを引く音は、室内に似合わないフレッシュさだ。
缶ごと一口飲んで、
「いや真面目な話さ、いつでも戻っておいでよ、春ちゃん。今どき、結婚の形なんてなんでもアリじゃん。籍なんかどうでもいいし」
ビール用のピルスナーは除けて、春鹿は無言で緩衝材に包んだ食器を箱に詰めいく。
ぼんやり眠くなるような間接照明に、デザイン重視の北欧家具。お気に入りの部屋だった。
今はもう別世界だ。
「俺はまだ好きだから」
東京で聞く好きは、ひどく軽く聞こえる。
率は歩きで最寄りの駅まで送ってくれた。
「月に一度は東京来るんでしょ? またね」
そう言って別れた。
改札を通過してしばらく、春鹿が振り返ると率はまだいて、笑顔で手を振っていた。
率との出会いは、何のドラマ性もない合コンだ。
競合他社の企画職の率と営業部だった春鹿。はじまりはゆるやかに、一年ほどは飲み友達だった。酒の勢いで一線を越え、付き合うことになった。結婚したのも、その延長に通過儀礼としてあったから、そんな曖昧な理由だ。
もう一度会社近くまで戻り、いきつけの居酒屋に向かう。
「あ、来た来た! 田部主任、こっちです」
「遅ーい!」
「ごめんごめん」
同期のA子と後輩が三人集まっていた。
春鹿の友達は東京の方が多い。というより、東京にしかいない。今でこそ晴嵐との行き来が再開したものの、それまでは地元の誰とも連絡を取っていなかった。
「遅いから元ダンナに拉致られてるかと思った」
「率氏はそんな人じゃないですよ! もー、ホントに主任、なんで別れちゃったんですかー? 勿体なすぎます」
率は社交的で、理解もあって、ギャンブルも女遊びもしない。自慢の夫で、誰もが羨むいい夫だった。
「しかし電撃離婚でしたよね。まさか浮気されたとかじゃないですよね?」
「それはない。率の名誉にかけて」
これは本当。
「期限を決めずに実家に帰って父と暮らしたくて」
これも本当。
「嫌いになったとか、他に好きな人ができたとか、そういうわけでもなく?」
「うん。そういうソフトの話じゃなくてハードな理由かな。別居婚とか週末婚とか結婚を続けていく形は自由だけど離婚を考えてる段階で、そういう選択肢はなぜかなかったんだよね。逆にそこまでじゃなかったというか」
これも本音。
「たしかに子供がいないと、別れる別れないってなったとき、ストッパーになるものがないような」
一理あり。
「芸能人の離婚ってなるとワイドショーが散々憶測で原因解明っぽいことしてるけど、あれほど無意味なことないよね。その二人には二人にしかわからない事情があるもんなんだよ。春鹿もしかり」
これは真理。
「さすが、A子さん! 年の功?」
「うるさい。ババア扱いするなー」
離婚したことと率がバイセクシャルであることに関係はない。
それが離婚原因ではけしてない。だから離婚に際して、率は何も悪くない。
離婚したのは、人生の通過点としての結果だった。
吾郎が怪我をして、ふと白銀に帰ってみようかなと思ったのだ。
その時に、『結婚している』状態が邪魔になって、だから取っ払っただけのこと。
率が性に自由な主張を求めたように、このタイミングで実家に戻ることは春鹿が求めた自由だっただけだ。
春鹿が率の性嗜好を知ったのはもっと以前のことだったし、散々悩んだ率から打ち明けられた時もショックはあったが、愛されていないわけではなかったから。ただ、春鹿には絶対に入り込むことのできない心の隙間が永遠に率にはある。それは少し寂しかった。そしてそれはずっと続く寂しさだった。
「で、どう? あんなに嫌がってた実家だけど」
A子の問いに、春鹿は意識を戻す。
「それがそれほど嫌じゃない。いろいろ気が抜けてラク」
「なに都会に疲れた現代人みたいなこと言ってるんですか」
「リモート社員ってどうですか?」
「今日、課長に散々嫌味言われたよ。まあ、実際迷惑かけてるしね。そのうち、どんどん居づらくなって辞めざるを得ない、それがリモート社員の行く末かもなぁ」
「そうなる前に東京戻ってきますよね?」
「さあ、どうだろう」
「え、どうしたの? どういう心境の変化!? 実家で何かあった!?」
「私だったら、いまさら実家でなんて暮らせないと思います」
夜が更けても、居酒屋はいつまでもにぎやかだった。
ここでは人も街も眠らない。
東京での暮らしは好きだし、安定している。
しかし、明日白銀に帰ることもまた憂鬱ではなかった。
*
『田町駅』
駅看板の照明の漏れ灯りに照らされて、軽トラにもたれた晴嵐はやっぱり煙草を吸っていた。
「おかえり、春鹿」
「……ただいま」
ため息一つと、ヒールのかかとを鳴らして春鹿は《《お迎え》》の車に近づく。
「ああ、別世界……」
「あン? 東京で外車にでも乗ってぎだっで言いたいのが?」
「そんなこと言ってないじゃん。……なんか地に足ついてるっていうか、大地に立ってる! って気がするわ」
「なんだべそれ。てかおめ、なんつー土産の量だよ!?」
「だって今回は近所に配らなきゃいけないもん。私が帰って来てるのバレちゃったし」
晴嵐はスーツケースと土産の紙袋を春鹿の代わりに吹きさらしの荷台に積んでから運転席に乗り込んだ。
「ああ、そういえば、俺宛てに六ツ美からライン来たべ。おめに久しぶりに会いだいどさ。あいつ結婚して市内に住んでらじゃ」
咥え煙草のままそう言って薄っぺらいドアをしめる。
六ツ美というのは、白銀村に住んでいた一つ下の幼馴染だ。
「なにそれ、情報早すぎない!?」
「言っとぐけんど俺が言ったわけじゃねよ? 六ツ美のおばちゃんが嬉しがって連絡したんだべよ」
「お土産たくさん買ってきてよかった……」
「他の村にも声かげで、同窓会でもすっがぁ? 幹事やってけるぜ?」
「やめて。さすがにそれはまだハードル高い」
晴嵐がウインカーを左に出したので、カッチカッチとちゃちな点滅音が鳴る。夜のせいではないけれど、そのリズムがやけに耳に響く。
「春鹿、メシ食ったげぇ?」
「うん、食った。新幹線で」
「春鹿、土産ぁ何だ?」
「ばなな」
「おーいいね。ばなな、好ぎだべ」
「あんたの好みは知らんけど。ねえ、寒いから窓閉めて。タバコも禁止」
車内のラジオからはいい雰囲気の音楽が流れていた。
AM放送でこんな曲がかかることがあるんだと思うような曲でしばらく耳を澄ます。
晴嵐は煙草を消して、窓を閉めた。
「春鹿」
「はい?」
晴嵐を見る。
田町には民家が多いので街灯もたくさんあって、暗い車内でも晴嵐の顔は見える。
晴嵐は前を向いていた。
どんな理由でか知らないが昨日今日で日に焼けたらしく、赤くなっている鼻に前髪がかかっている。
風呂上がりなのか、ほのかに石鹸の匂いがした。
「……何よ?」
「おがえり、春鹿」
横顔が笑っている。
「……すぐ帰ってくるって言ったじゃん」
「ああ、言っだ」
春鹿は聞こえるようわざと大きな息をついてから、前を向いた。
「……でも、ただいま」




