5.16年目のリベンジ
「ラッキー。ちょうど春鹿さんがおかみさんのとこに来てた!」
いそいそと戸田が戻って来たのを、晴嵐は銀糸をよりながら耳だけできいた。
春鹿が仕事の昼休憩を使って三滝家に顔を出したようだ。
近頃、つる子は何かと用事を作っては春鹿を呼びつけている。
そんなことでもないと春鹿は外出しない。買い物に出かける以外は引きこもりのような生活を送っている。全く村を出歩かない。しかしそれは当然なことで、徒歩圏内の家の外に出る用事がないからであって、何も殻に閉じこもっているとかそういうわけではない。
車屋へ行った帰り、村人に出くわしたその次の日に、春鹿は、つる子と吾郎が世話になっている砂利家に挨拶に顔を出した。
その情報が今、どれほど白銀村に広まっているのか晴嵐は知らないが、とにかく三滝工房内には春鹿が帰っていることは知れている。
「横通ったらなんかいい匂いしたし! おし、午後からも頑張れる!」
「戸田くん、サボってないで早く作業はじめてよ」
とうとう千世の雷が落ちて、戸田は肩をすくめた。
「昼飯の食器を返しに母屋に行っただけじゃーん」
作務衣に袖を通しながら、
「春鹿さん、いつまでこっちにいるのかなー。仕事されてるんでしょ? 吾郎さんの足だって緊急に要介護ってわけでもないし。さすがにもうすぐ帰っちゃいますよね。すでに十日くらいにいるし。ランさん、聞いてないんですか」
「……知らね」
晴嵐の答えは不自然ともいえるそっけなさを含んでいたが、指先で扱うミリ単位の作業は自然と猫背になるし、そもそも集中力を要する。
手を動かしながら話すことは普段からない。
だから、不愛想も当然のことととスルーされた。
「この前、買い物に連れて行ってあげてたじゃないですか。そん時に聞かなかったんですか?」
「聞いでね」
「普通聞きませんー?」
確かに尋ねるだろう。実際に、晴嵐も再会したその日に聞いた気がする。
「戸田くん!」
千世がいらいらしている。
「ああ、枯れっぱなしの毎日に潤いのある日々に……幸せ。ま、人妻だけんど」
戸田は嘆くように天を仰いでから、胡坐をかきなおし、作業に入った。
*
「……ランさん、ほんとに知らないんですか?」
いつもの三人で夕食を終えて、母屋へ帰ろうとした晴嵐は千世の声に呼び止められた。
杉林がまだ残って作業をしているので、工房は煌々とあかりがついているが、一歩庭へ出ると真っ暗だ。肌寒く、虫の音は耳鳴りのようにうるさい。
千世の唐突な質問に晴嵐は首をかしげた。
「は? なにを? 何の話だべ?」
「……春鹿さん」
「ああ、昼間の話が、戸田の。知らねよ」
晴嵐はポケットから潰れた煙草のパックをトントンと叩いて一本取り出し、火をつけた。
ライターの火が一瞬明るく辺りを照らす。
「春鹿さんって元カノなんですよね」
誰に聞いたのか。春鹿が帰って来ても、改めてその関係性で括られることはなかったので少しだけ動揺した。
「高校生んとぎの話だべ」
「でも、春鹿さんとこっそり会ってますよね? 夜、吾郎さん家に行ったり」
「え、何だ、千世。俺のストーカーが?」
さすがに動揺して軽口を装ったが、対して千世は真剣な顔のままで、
「夜、静かだから、砂を踏む音って結構聞こえるんです」
確かに、千世の部屋は道に近い。
そして、晴嵐としても、そこまで気を遣っていたわけではない。
春鹿とのことは隠しているわけではないが、だからといってオープンに言う事も出来ずにいた。故に戸田などは、ただの幼馴染だと思っている。
特別仲良くもなく、仲悪くもない、近所の爺さん婆さんにするくらいのおせっかいをやくくらいの仲。だから、滞在中は足代わりをすることもある。
実際、春鹿が東京から帰ってくるまではそんな間柄だったはずだ。
離婚していなければ、きっと今も同じだったはずだ。
「……世間体、よくないと思います」
「なにもあいびきとがしてねよ。吾郎さもいるし」
「吾郎さん、毎晩のようにジャリさん家で飲んでるじゃないですか。いない日もありますよね?」
「いや本当にやましいごとなんでねから。仕事には影響出さね」
「仕事に影響出されるなんて無論です!」
「わがっでる」
「……もしかして、好きなんですか?」
「いや、さすがにそれはねだろ。十何年も経っでさ」
「……とにかく、春鹿さんがいつまでいらっしゃるのか知りませんが、気をつけた方がいいと思います……」
「うん、わがっだ。わざわざ、サンキューな」
春鹿の車は、明日納車だと聞いている。
そうなれば晴嵐が世話を焼くことも減るだろう。
外気に冷やされた腕をさすりながら、晴嵐は家に入った。
*
白銀から車で一時間。電車なら田町の駅から四十分。
『市内』と呼ばれる市街地に出れば、それなりに何でも揃う。
映画だけはもう少し足を延ばした郊外型の大型ショッピングモールに行かなければならないが、それ以外のたいていのことは市内で事足りる。
食料品から衣料品、本屋やゲームセンターなど駅ビルのテナントには有名チェーンの店も入っていたり、高校や塾もある。白銀村を含む山間部住民にとっては一番近い都会だ。
晴嵐たち三滝工房の面々も、遊びに出かけるとなればだいたい『市内』であるが、とある土曜日の夜、市内の安居酒屋で、杉林を除く三滝工房の従業員三人の飲みの席に春鹿が居心地悪そうに参加していた。
「部外者なのに厚かましくおじゃましてしまって……」
乾杯を終えて第一声、晴嵐の対面に座る春鹿が頭を下げる。
「何言ってんすかー! 俺が誘ったんじゃないですか!」
一方、晴嵐の隣に座する戸田は一杯目も空けないうちから、テンション高めだ。それもそのはずで、ダメもと、あるいはノリで誘った飲みの席に、春鹿は意外にもOKした。
それで、急遽この週末に飲み会がセッティングされたのだが。
春鹿が来たことに驚いているのは、おそらく戸田よりも晴嵐の方だ。
「今日は存分に飲んで食べてしてください! ランさんのおごりなんで」
「誰がそんなごと言ったよ」
「なんでー。春鹿さんがせっかく来てくれたのに!」
「いえ、ちゃんと自分で払いますから……」
借りてきた猫のような態度の春鹿が恐縮している。
しおらしい態度も、またいつもの普段着ではない服装も化粧もして、春鹿は知らない人のようだった。
注文したサラダが運ばれてくる。
出入り口側に座る千世がそれを受け取って、さっとトングを掴んだ。
「私、やりますんで」
「あ、ありがとう」
春鹿が出し遅れた手を引っ込める。
晴嵐たちは仕事の後、三人で乗り合わせてやって来たが、春鹿はその前に用事があると言って現地集合だった。美容院に行ってきたらしい。いつもは束ねている髪を下ろして、アクセサリーなんかもつけている。薬指に指輪はない。
「皆さんにはいつも父がお世話になって。ありがとうございます」
「そんな、全然ですよ! 村の暮らしなんて、持ちつ持たれつじゃないですか」
「二人とも若いのにちゃんと村で暮らしてるんですね……偉いなぁ」
「私は白銀村が嫌いじゃないんで。春鹿さんは嫌で出て行ったんですよね?」
「……うん」
「ま、そういうのってもともと住んでた人と後から来た人間とでは感じ方が違うじゃんー? 近くにあるものほど見失いがちっていうか」
珍しく戸田が空気を読んでいる。
春鹿のような年代の女性は村には珍しいので、千世が喜ぶかと思ったらそうではなかった。
誰に何をどこまで聞いたのか春鹿の、そして、晴嵐との過去についても少なからず知っているらしい。
もともと、ひどく人見知りするたちの千世だ。白銀に来た当初も、馴染むまでに時間がかかった。そして、緊張や警戒が攻撃的な一面となって外に出るタイプだから、学生時代も敵は多かったと言っていたことがある。




