卒業記念祝賀会における慣例である婚約破棄儀式、その理論と実際
習作です。
卒業研究:卒業記念祝賀会における慣例である婚約破棄儀式、その理論と実際
執筆者:薔薇組所属 レニデブル・アデルナリア・シュクリ・ドゥミ・エレニア・ソラリス・インサータ、レニデブル・ドゥミ・シャイナーンタ、レニデブル・ドゥミ・レガリアルアータ
副執筆者:
当学園の卒業記念祝賀会では、婚約破棄を模した儀式が慣例としてとりおこなわれている。
おもな登場人物は、三名である。
婚約者に婚約破棄を申し渡す男子生徒(彼を男子生徒1と称する)。
婚約破棄を申し渡される女子生徒(彼女を女子生徒1と称する)。
男性1が新たな婚約者とする女子生徒(彼女を女子生徒2と称する)。
本儀式における婚約は、あくまで卒業記念祝賀会とそれに先立つ一ヶ月限定の、仮の結びつきであり、学園を卒業後の生活に影響を及ぼすものではないとされている。
男子生徒1および女子生徒1は、その年度の最優秀生徒が推挙される決まりである。学業の成績のみならず、生まれや卒業後の進路、また素行なども視野に入れた上での最優秀であり、学園側が決定する。
女子生徒2は、生徒たちの投票により選ばれる。
婚約破棄儀式は、男子生徒1が女子生徒2との真実の愛に目覚め、本来の婚約者であった女子生徒1との婚約を破棄する筋立ての寸劇である。この寸劇が終わると、在校生・卒業生のみならず、招待された者もまじえた舞踏会へと式が進行する。
* * *
「なんで卒業研究の題材に、こんなくだらないものを選んだんですか」
「……おまえ、いくらわたくしが温厚だからといって、主人に向かってそんな――」
「姫様が温厚? 間抜けの間違いではありませんか」
ダールはそういって、その淡い青灰色の眸をほそめた。
「その表情もよ。ただでさえ冷血とか酷薄とか呼ばれているのに、それではもう、氷そのものよ」
「冷血でも酷薄でも結構。姫様の頭がかるく茹っているのも存じあげてますし、理解もします。ですが、なぜ卒業研究にこれですか? しかも、俺の連名を求めるとか、ないでしょう。俺にも、この妙なものにかかわれというんですか」
ダールは、空欄になっている副執筆者の項を指先でとんとんと叩いた。長い指。あっ、ささくれがある。痛そう。あと、無駄に良い音がする。
黙って見ていると、姫様? と詰められた。
「名前を載せてくれるだけでもいいのよ。わたくしが、書くから」
「なにがでっちあげられるかわからない文章に自分の名前が載るなんて、恐怖しかないですね。それはそれとして、なぜ俺なんです?」
「おまえは一応、わたくしの護衛を兼ねているじゃないの」
「仕事は仕事、学業は学業です。卒業研究の副執筆者として俺の名前をお貸しすることは、護衛業務に含まれません。納得できる理由が提示されない限り、お引き受けすることはできません」
「……だって、おまえは当事者になるだろうから」
わたくしがそういっても、ダールはまったく顔色を変えない。
眉目秀麗成績優秀文武両道学業成就……なにか間違ったものが混ざった気もするけれど、とにかく最優秀生徒といえば、わたくしたちの学年ではダールで決まり。つまり、レポートでいうところの男子生徒1に教師陣が推すのは、間違いなくダールのはず。
「なに勝手に確信してるんですか」
「だって、当然でしょう? 学年でいちばん素晴らしい男子生徒といったら、おまえに決まっているじゃないの」
ここで、いやそんなことは……とか否定しないのがダールだ。彼は、あからさまにため息をついた。
「思い込みで突っ走るのも、たいがいにしてください」
「だって実際、進級試験で一位をとったのは誰? 魔法実技だって、誰よりも高く評価されていたじゃないの」
「これに関与した瞬間に、成績一位から転がり落ちると思いますがね」
「それはないわ。誰だって思うはずよ。おまえは、わたくしの我が儘につきあわされているのだろうと」
ダールはわずかに眉を上げた。
「そういうところは、冷静に判断できるんですね」
「わたくしは王女ですもの」
「妥当な関連性は認められませんが、姫様が王女殿下にあらせられることは存じ上げておりますよ」
「そう? ぞんざいな扱いを受けるから、そろそろ忘れられてしまったかと思ったわ」
「既知の事実より、不可解な点の究明にいそしみましょうか。なんで、これを題材に選んだんです?」
「だから、おまえが――」
「俺が男子生徒1に選抜されるかは未定ですし、俺たちがどうこうできる問題ではありませんが、姫様の仮定が現実になったとしましょう。で、だったらなんです?」
「――卒業後の進路に、影響するのではないかと思って」
卒業記念祝賀会における婚約破棄儀式。実際には婚約してもいない男女を婚約者に見立て、なぜかそれを破棄させる。
謎の儀式としかいいようがない。
ただ、配役が決まると盛り上がるし、祝賀会における寸劇も当事者でなければ面白く見物できる。実際、入学した年は先輩がたの卒業祝賀会でこれを見て、凄いなぁと思ったのを覚えているし……まぁ、なにが凄いのかは、よくわからなかったのだけれども。
一昨年は、お兄様が男子生徒1に推挙され、本物の婚約者である女子生徒1に婚約破棄を申し渡し、人気投票でぶっちぎりの一位当選を果たした隣国から留学中の聖女様と真実の愛を発見なさったりしたのだった。
ほんとうに謎の儀式ではあるけれど、これが意外とその後に影響を及ぼすことを、わたくしは知ってしまったのだ。
「殿下のことですか」
わたくしは、うなずいた。うなずいたけれど、お兄様のことは心配はしていない。だってお兄様だし。
心配しているのは、シミュライア様のことだ。
シミュライア様は、わたくしとお兄様の従姉妹にあたる。シミュライア様のお父様が、わたくしたちの叔父様、つまりお母様の弟なのだ。お兄様とシミュライア様、そしてわたくしは、子どもの頃から一緒に遊んだりして過ごした仲。遊ぶだけでなく、公式の行事などにもよく並んで出席した。女性の王族がちょっと少なめなせいで、シミュライア様は頻繁に準王族としての責務をこなしていらした。
ほんとうに……親しくしていたのだ。シミュライア様がお兄様と結婚してお義姉様になるといっても、今までとなにが違うのかしら? といった感じに。呼びかたが変わるくらいじゃないかしら。そうなったら、シミュライア様は王太子妃だし。
シミュライア様なら安心だなぁ、とわたくしは思っていた。しっかりしてらっしゃるし。女子生徒1に選抜されるくらいだから、成績も優秀、素行もいうことなし。
ところが!
お兄様は、女子生徒2であるところの聖女サリーを選んでしまわれたのだ。えっ、もう儀式は終わりましたよね? なんで舞踏会でも儀式の役を演じているの? と、素でダールに訊いてしまったくらい。そういえば、そのときもダールに頭が茹っているといわれたのだった。
「調べてみたら、過去の事例でも、いろいろあるのよ」
「調べた? どうやってです。学園内の記録では、その後どうなったか、なんてわからないでしょう。姫様が、無駄にたくましい想像力を駆使なさったということですか?」
ダールはほんとうに失礼だ。わたくしの想像力は、たしかに自慢の逸品だけれども、無駄ではないのに。
「わたくしが王女だということを忘れているのではなくて? 王家の情報網を使ったの」
「……国家予算の無駄遣いが発覚しましたよ、今」
「無駄じゃないわよ! ちょっと、おまえはわたくしを馬鹿にし過ぎよ」
「ちょっとではないですよ。今のは、かなり馬鹿にしています。で、どんな調査を命じて、どういう結果だったんです」
「無駄なんでしょうから教えないわ」
「俺の名前を使おうと目論んでらっしゃるなら、全部吐いてもらわねば困りますね」
「……いいわよ、もう。わかったわ。あなたの名前は使わない」
わたくしは、ダールに署名を入れてもらおうと持って来た紙を、取り上げ――ようとして、阻止された。ダールが、指でおさえたのだ。一本の指しか使っていないくせに、なんなの、もう。しかも、ささくれができているくせに! ささくれが悪化して痛くてたまらなくなる呪いをかけようかしら。
「で、どういう結果だったんです。調査」
「……婚約破棄を演じた生徒たちは、だいたい関係が悪くなっているのよ。でも、卒業記念祝賀会までの二ヶ月、つまり仮の婚約者を演じていたあいだは、とても仲睦まじかったそうなの。こちらは学園内の記録で確認したわ。それと、在校生からも情報を集めました。お兄様やお姉様が在学していた生徒に話を聞いたの」
魔法学園は、中立を謳っている。つまり、我が国の領土内にはあるけれども、経済的には自立しているし、なんなら戦力的にも自立していると思う。教師が全員、超一流の魔法使いだし。そういう事情もあって、わたくしはもちろん、お兄様だって特別扱いはされなかった。資料も、読みたければ自分で探すしかなかったし、これを調べるのだって、苦労したのだ。
「で? 人間関係が儀式の役割に応じて変化するって、どの程度の割合で?」
「まだ算出していません」
「姫様は計算に向いてませんからね。俺が計算しましょう」
事実なのだけど、ダールの余裕の笑みが憎らしい。
実をいうと、ダールを巻き込もうと思ったのも、そのためだ――わたくしは、数字がかかわると、とたんに駄目になってしまうから。もっともダールにいわせると、数字なんか関係なく駄目っぽいのだけれど。
「資料はここには持って来ていないわ」
「使えない……」
「副執筆者になる気もないかたに、わたくしの卒業研究の資料をお見せするはずがないでしょう」
「副執筆者にしたいんだったら、資料を持って来て説得すべきでしたね」
ぐう、と声が出そうで出なかった。これがぐうの音も出ないという現象か……と、わたくしは感心してしまう。
「ダール、もういいでしょう。おまえはわたくしの馬鹿な話に興味がないし、無駄な研究に力どころか名前も貸してくれる気がないのだと、よくわかったわ。だから、忘れてちょうだい」
「なにをおっしゃるんです。興味はありますよ。俺は姫様のなさることには巻き込まれると決まっているので、今後どのようにその研究を進められて、どういう結論を出すおつもりなのかについて、把握しておきたいです。でないと、落ち着きません」
「まぁダール、わたくしが、おまえが落ち着くかどうかを気にすると思うの?」
「気にしてください」
「はい」
真顔でいわれたので、思わず素直に答えてしまった。
「資料はお部屋に?」
「いえ、指導教官のレレディアス先生のところに」
「レレディアスか……。では、取りに行きましょうか」
本気を出したダールに、わたくしは逆らえない。ほとほと実感した。
レレディアス先生は、研究室にいらっしゃらなかった。わたくしは研究室の合鍵を持っているので、さっさとお邪魔したけれども。
「……たしかに、卒業後、男子生徒1と女子生徒2が婚姻関係を結ぶ確率は高いですね」
「でしょう?」
「まぁ、当然のことですが」
「え?」
「男子生徒1は、いわゆる有望株ってやつです。出世間違いなし?」
「……おまえ、自分のことをそこまで高く買うの、どうにかならないの?」
ダールも我が国の貴族の一員だけれども、家格はあまり高くない。年が近くて優秀なので、在学中のわたくしの護衛を請け負っているけれど、それだって家格が低いからこそ依頼もできるというものだ。
ああでも、本来そこまで高い地位に就きそうではないのだからこそ、出世の伸びしろも大きいとはいえるだろう。
「姫様の方が、よほど俺を高く買ってらっしゃいますよね。俺が男子生徒1になるって決めつけてらっしゃいますし」
「当然でしょう。この学年で、あなたより優秀な生徒なんていないもの。わたくしがよく知っているわ」
「姫様、いつも二番ですからね」
いわなくていいことをブッ刺してくるこの口、なんとかならないのだろうか……と思いながら、わたくしはダールの口をみつめた。くちびるも、少し皮が剥けている。指先もだけど、手入れしないのだろうか。
「……わたくしのことは、いいのよ」
「よくないですが、話を戻しましょう。女子生徒2は生徒に、つまり同年代に人気がある人物です。では、どうなると思います?」
「どうなるの」
「出世しそうな男子生徒1を女子生徒2が落としにかかる。あるいは、魅力的な女子生徒2を、男子生徒1が落としにかかる。両方もあるかもしれませんね」
「じゃあ、女子生徒1の立場はどうなるの!」
お兄様に捨てられたシミュライア様は、どうなるの? 今でもたまに行事でご一緒するけれど、シミュライア様はとても凛となさっていて……たとえお兄様とサリー様が近くにおいでになっても、態度はなにも変わらない。ご立派だと思う。
シミュライア様は、悔しくないのかしら?
――わたくしは、悔しい。
思いだして、気分が沈んでしまった。怒るより、悲しい。寂しい。なぜ、シミュライア様があんな仕打ちを受けねばならなかったのか。わたくしたちは、すでに家族のように過ごしていたのに……。
「この調査、よく網羅してますね」
「国家予算を使ったんだから当然でしょう」
「姫様は、男子生徒2、3についてはまだ書いてらっしゃらないですけど、調査はそこまで及んでいる」
「男子生徒2、3……」
「教科別の成績で選ばれる端役ですよ。ほら、男子生徒1と一緒に、女子生徒2を守る役です」
「ええ、そうね。用語としては、そうなるのだろうけれど、考えていなかったわ」
「女子生徒3もですね。全員含めて計算すると、これは概算ですけど――」
ダールは、さらさらと数式を書いて見せた。
えっちょっと待って、その紙、わたくしの卒業研究の一頁目よ! なんで勝手にらくがきしてるの、らくがきじゃなくて計算式だけど!
「こうで、こうだから……ほぼ毎年一組くらいの割合で成立してるし、なんなら三組できちゃった年もありますね。婚約破棄儀式に参加した生徒たちの中から、かなりの高確率で婚約に至る者が出ているのは事実か……」
少し考えてから、わたくしは不満を漏らした。
「ねぇ、なんで男子生徒は成績順なのに、女子生徒は人気投票なのかしら」
「一般的に、女子の方が男子には魔力で劣るからでしょうね」
「……ちょっと! 失礼じゃなくて、それ?」
「事実です。最強女子と最弱男子なら、最弱男子が負けます。ですが、等しく訓練した男女であれば、男子の方が圧倒的に強い。我々は生物として、そういう均衡で存在している。だから、どうしようもありません」
「どういうことよ」
「つまり、成績上位の男子に、将来の結婚相手になりそうな魅力的な女子を斡旋するために発生した催し……という仮説を立てました」
ダールの発言について、少し考えてみた。
……なにそれ。
「なにそれ!」
「俺に怒られても困りますけど」
「そんなの婚約仲介でいいじゃないの! なんで婚約破棄からはじまるのよ!」
「俺に怒られても困りますってば。寸劇の参加者って、事前に練習もあるでしょう? 今まで接点がなかった者同士なら、またとない出会いの機会になるんじゃないですか? 学園側から婚約者にどうかねと打診するより、ずっと自然ななりゆきで距離を詰められるってことでしょうね。寸劇の題材が題材だから、恋愛の話題にもなるでしょう。つまりこれ、集団見合いですよ」
「だって……。あら、待って、ダール! おまえ、わたくしの卒業研究の内容を勝手に結論づけているわよ!」
ダールは鼻で笑った。その高い鼻、へし折れてしまえばいいわ!
「卒業研究には、ほかの題材を探した方がいいんじゃないですか?」
「……わたくしは、わたくしの発想をだいじにしたいのよ」
「発想ねぇ……。婚約破棄儀式に、なんらかの秘密の呪法が隠されているとか、そういう妄想ですか?」
「黙秘するわ」
当たってるけど。むちゃくちゃ当たっているけれど!
このままだと、男子生徒1の有力候補であるダールが、学園伝統の謎の呪術にやられてしまうのではないか、とか、そういうことを想像していたわけだけど!
「なにか起源はあるでしょうね。学園史をあさったら、出てくるんじゃないですか? 卒業記念祝賀会での婚約破棄事件」
「儀式になる前の?」
「儀式になる前の」
「そんなの調べたくないわ。だってそれって、本物の婚約者を、衆人環視のもとで捨てた人がいた、ということでしょう? お兄様が、お芝居なさったのを見ただけでも嫌だったのに……そんなの、つらいわ……」
そう、名前もよく知らない先輩たちの婚約破棄儀式は、面白く見物できたのに。一連の寸劇を終えた先輩たちが、笑いあってダンスの輪に入っていったのは、素敵だなって思ったのに。
お兄様のときは、駄目だった。お芝居だと思っていても、つらかった。それが現実になったらもう……とても受け入れられなかった。
「つらいから、止めようとなさってるんですか?」
「……そうなのかしら」
「さっきから、俺のこと男子生徒1って決めつけてらっしゃいますけど、姫様は女子生徒1の最有力候補じゃないですか?」
わたくしは答えられなかった。
正直、その可能性が高いとは思う。
ダールはなんでも一番だけれど、わたくしは学科試験も魔法実技も二番をとっている。皆が引くほど勉強して、訓練して、それでもダールに勝てたことはなかった。ダールはこともなげに、最弱男子と最強女子ならと比べるけれど、わたくしこそが、まさに最強女子なのだった。だって、ダール以外なら、だいたいの男子には負けないのだし。
「つらいんですか?」
「なにが」
「婚約破棄儀式に参加なさることですよ」
考えてみる。
わたくしは、去年の儀式を思いだした。去年、女子生徒1を演じられたのは、南の王国から留学してきていた裕福な商家のお嬢様だった。商家といっても、取引の規模はそれこそ国家予算級だそうで、我が王家よりもお金持ちではないかと思われた。
男子生徒1は、我が国の王宮付き魔法使いの息子で、まぁつまり知り合いだったわけだけれども――彼も卒業後、女子生徒2との婚約を発表したのだ。女子生徒1を演じた彼女は帰国してしまって、今はどうしていることやら。
女子生徒1に選ばれるくらいだから、きっと故国で優秀な魔法使いとして活躍しているのだろう。誰かとつきあっているという噂もなかったし。
彼女のことを考えても、心はさほど乱れない。
――やっぱり、一昨年だ。
お兄様とシミュライア様のことが、ずっと心に引っかかっている。
「ひとつ、お教えしておきましょうか。シミュライア様のことですが」
「シミュライア様?」
「殿下のこと、どうしても兄弟としか思えなくて、異性としての魅力を感じたことがない、って困ってらしたんですよね。知ってました?」
知らない。
「……嘘?」
「嘘じゃないですよ。あれはね、どっちかというと、殿下の方がふられたんです。知ってました?」
「えっ。だって婚約破棄……」
「学園の儀式に印象引っ張られてどうするんです。あれは芝居です。実際には、シミュライア様が耐えられなくなったんですよ。婚約破棄なさって以降のシミュライア様の表情、清々しいったらないでしょう?」
なんてお気の毒に、でも凛々しくていらっしゃる、憧れだわ……と思っていたことは、とても口にできなかった。
でも、ダールがわたくしの返事を待っているようだったので。
「そうだったのなら、よかったわ。誰もつらい思いをしていなくて……ただの、わたくしの勘違いだったのなら」
「そうですね。俺たちの卒業記念祝賀会でも、誰もつらい思いをしなくて済むでしょう」
「……」
お兄様とシミュライア様とは違い、わたくしとダールは婚約をしているわけではない。ダールは在学中の護衛を担当しているだけで、卒業したら――卒業したら、どうするのかしら。
女子生徒2とか3とかと、婚約するのかしら……。
「ダール、おまえは卒業後、どうするの?」
「仕官しますよ。王宮付き魔法使いの採用枠に空きがあるので」
「そうなの。はじめて聞いたわ」
「そりゃ、今はじめて話しましたから。……姫様は、俺の進路には興味などお持ちではないのかと思っていました」
「なぜ?」
「訊かれたことなかったですし」
「今、訊いたわよ。……それに、訊かなくても教えてほしかったわ。だって、おまえはわたくしの護衛を担当しているのだし」
「在学中の」
すかさず補足されて、なんだか胸がぎゅっとなるような心地がした。胸がぎゅっとなるって、なんなのかしら。ちょっと解剖学的な興味が湧くところね。解剖するのは無理だけれど、魔法での解析ならできるかもしれないわ。
「……進路が決まっているなら安心ね」
「姫様も、指導教官とちゃんと話した方がいいですよ。卒業研究だって、卒業後の進路に活かせるものにした方がいいでしょう」
わたくしは眼をしばたたいた。卒業後の進路?
「わたくしの卒業後の進路を、おまえは知っているの?」
「外交官を目指してらっしゃるんですよね?」
「……話したことがあったかしら?」
その通りなのだけれど……ダールに話した記憶はない。眉根を寄せて思いだそうとしていると、ダールは彼にしてはめずらしく、やわらかに笑った。
「姫様は俺のことをなんにも知りませんが、逆は違うんですよ」
「え?」
どきっ、としてしまった。わたくしとしたことが。動揺しているところへ、ダールが追い打ちをかけた。
「俺は、姫様のことならなんでも知ってるんです」
どきっ、第二弾に襲われたわたくしは、おそるおそる尋ねてみた。
「なぜ?」
「いつ、なにに巻き込まれても、対応できるようにですよ。護衛をぬかりなくつとめるには、必要なことです」
「……ねぇ、もう少し雰囲気のある表現はできないの?」
「曖昧な表現は誤解のもとです」
「それはそうだけど」
「だから、卒業記念祝賀会も安心してるといいです。なにがあっても、俺がなんとかします。姫様をつらくさせるようなことなんて、起きませんし、起こしません」
自信たっぷりに断言されてしまうと、わたくしはうなずくしかなかった。
* * *
結局、当然のようにダールは男子生徒1に推挙された。わたくしは女子生徒1。一位と二位なのだから無理もない。
「正直にいって、わたくし、自分でも引くほど勉強したのよ。それでも学科試験でおまえを抜けなかったのが、学生生活最大の心残りだわ」
「姫様は、一位になりたかったんですか」
「決まっているでしょう」
「へぇ。すみませんでしたね。ですが、俺もそこは譲れなかったんで」
ちっともすまないと思っていなさそうな顔で、口調だ。
「おまえ、その態度では王宮でうまくやっていくことはできないわよ」
「王宮で?」
「ええ。王宮付き魔法使いになるのでしょう?」
「その予定ですが、上司や先輩相手にこんな態度をとると思います? 姫様は、俺を馬鹿だと思ってるんですか?」
「……今! 仕えるべきあるじであるわたくしに向かって! その態度をとっている人間が、なにをいっているの、馬鹿なの!?」
「俺は姫様の護衛を引き受けているだけですよ。お仕えしているとかあるじとか、勘違いしないでください」
わたくしたちのやりとりを、ほかの生徒たちが困ったような半笑いのような顔で見ているのに気がついて、わたくしはこほんと咳払いをした。
「僕らのことはお気になさらなくて大丈夫ですよ。むしろ、すみません」
これは男子生徒2。試験で三位を争っている生徒である。男子生徒3と、女子生徒3が小声で同意した。
「お邪魔してごめんなさい」
「おふたりでどうぞ。こちらはこちらで、練習しておきますので」
「そんなわけには参りませんわ。全員でちゃんと合わせませんと……。わたくしたち、演技は素人ですけれど、選ばれたのですから」
卒業記念祝賀会で、あの婚約破棄儀式を演じるのが、わたくしたちの役目なのだ。
演技がうまい生徒はひとりもいない。強いていえば、人気投票一位をとった女子生徒2が、なにをやっても可愛らしいので可愛い。つまり、多少演技が演技でなくても、存在するだけで許される。さすが人気投票一位。
その女子生徒2が、わたくしに向かって微笑んだ。
「皆様とご一緒できて、光栄です」
はい可愛い、はい正義、はいこの公演は成功間違いなし!
わたくしはまず、舞台上での皆の位置を決めることを提案した。演技らしい演技ができないのだから、立ち位置だけでも見栄えを最高にしよう、という作戦だ。もちろん、女子生徒2ができるだけ正面を――観客となる生徒たちの方に、はっきりと顔を見せる位置を最優先に決め、その上で、彼女が映えるようにする計画だ。
わたくしは婚約を破棄される役なので、迂闊な位置取りをすると、彼女と観客たちのあいだに立ってしまう。これはまずい。
「姫様、なに這いつくばってるんですか」
「観客から、レティーシャの大正義の可愛らしさがよく見えるように……」
「それじゃ不審者ですよ」
「視線を切りたくないのよ。そんなこと、あってはならないわ! 皆にレティーシャの愛らしさがはっきり見えるようにするのが、わたくしの使命よ」
ダールが呆れたようにいった。
「姫様のご自由にと申し上げたいところですが、レシエンヌ嬢のことも考えてあげてはいかがです? 姫さまの後ろで腹這いにさせるんですか?」
「……申しわけなかったわ」
あわてて起き上がり、わたくしの後ろでまごまごしている女子生徒3の手をとって謝った。わたくしが腹這いになるのはともかく、ほかのかたに追従させるわけにはいかない。だいじな卒業式なのだ。女子生徒3は、お気になさらずといってくれた。やさしい。あと、可愛い。いい匂いがする。抱きしめたい。……なにこれ!
ダールが台を持って来て、彼と女子生徒2が高い位置に立つことで、わたくしと女子生徒3が観客の邪魔にならない角度を確保してくれた。さすがダールである。なにやら計算式をつぶやいていたから、勘でやっているわけではない。怖い。
男子生徒2と3は一段低くした方がいいかなとか、魔法でちょっとした演出を入れても文句は出ないかなとか、だったら衣装に光る効果を入れたらどうかとか、工夫をはじめると楽しくて、いつのまにか毎日の練習が面白くなってきた。さほど多くもない台詞を少し変更したり、誰かの台詞が飛んだときはどうしようと対策を話し合ったり。
はじまりは、ダールがわたくしを呼ぶのだけれど、名前を呼ぶ量をどうするかが問題になったのも、馬鹿馬鹿しいながら切実な問題だった。わたくしは王族なので、大量に称号を持っているのだ。結局、できるだけ簡略化することに決まった。
タイナニア王女――とダールがわたくしを呼ばわる。まっすぐにわたくしを見て、宣言する――あなたとの婚約を、破棄する!
王女に向かって「破棄する」でいいのか「破棄させていただく」とか「破棄をお願いする」とか、そもそも破棄という言葉に代わるなにか適切な用語はないのかとか、ここでも議論が勃発した……王族ってめんどくさい。
そんなこんなをしているあいだに、練習以外でも交流が深まり、自由時間にお茶をしたり、卒業研究の進捗を嘆きあったりした。
卒業研究は、じわじわと進んでいた。卒業研究が終わっていないのに卒業式の練習……これで卒業が認められなかったらどうするのだろう。
わたくしの研究は、結局『卒業記念祝賀会における婚約破棄儀式の過去と未来〜学園のより公平・公正な運営と渉外交渉』となった。婚約破棄儀式の原型となった事件も探し当ててしまった。ほんとうにあった、理不尽な婚約破棄事件! それを笑い話にするために捻出されたのが、翌年の婚約破棄儀式であり、これが慣例化して今に至るらしい……。
……馬鹿なの?
「姫様、時間ですよ」
図書館でせっせと原稿を書いていると、ダールが迎えに来た。寮に戻る時刻だからだ。
配役が決まったということは、男子生徒1であるダールと女子生徒1であるわたくしは、儀式までは仮初めの婚約者としてふるまうことになる。これらの儀式が、成績優秀者への恋人斡旋活動みたいなものだという仮説を採ると、すでに護衛者と護衛対象として関係がさだまっているわたくしたちが婚約者のふりをするなど、馬鹿らしいにもほどがあった。けれど、わたくしは前例を破るのが苦手な性格だ。このへんが、わたくしの駄目なところだと思う――ダールなら、それ以外にも山ほど駄目なところを列挙してくれるだろうけれど、遠慮したい。
そのダールは、わたくしの荷物を持ってくれている。参考のために持ち歩いている本も、書いて書いて書きまくった原稿も、けっこう重たいのだけれど……片手でかるがると。
「力が強くて羨ましいわ」
「たのもしいわね、とならないところが姫様ですね」
夕暮れが迫ると、ものの輪郭が曖昧になる。かたわらを歩くダールの顔さえ、見慣れているのに、誰か知らない人みたいな気がする。
「わたくしは、誰かにたよらず生きていきたいの」
「そうなんですか」
「そうよ。……わたくしのことなら、なんでも知っているんじゃなかったの?」
「今のは、不覚をとりました」
ダールにしては素直に認めるではないか。だから、わたくしも素直になってしまった。
「なにをどう頑張っても殿方に劣るなら、結局、そんなことは無理なのかもしれないわね」
「魔力と筋力はともかく、ほかはそう決まったものでもありませんよ。たとえば、生命としては女性の方が安定しているといいますし」
「長生きしやすいというわね。最後まで生きていた方が勝ち、というところかしら?」
「姫様は、きっと長生きなさいますよ」
わたくしは、ダールに尋ねた。
「おまえは、どうしてわたくしの護衛を引き受けたの?」
「向いていると思ったからです」
「報酬は?」
「学費は王家の世話になっていますが、それだけじゃないです」
「ほかには、なにをもらっているの?」
「卒業するまでは、内緒ですよ」
「卒業したら、もうお役御免じゃないの。そうしたら、話す機会もなくなるんじゃない? 今、教えなさいよ」
すると、ダールは小さく笑った。
「駄目ですね。今は教えません」
「おまえ、ほんっとうに、わたくしの命令をきかないわね」
「俺は姫様の部下じゃないですから」
「……もういいわ」
「それより、今は一応婚約者扱いじゃないですか、学内では」
「卒業式まではね」
「なにか、やっておきたいことはないですか。姫様は、卒業したら今ほどは自由がきかなくなるでしょうし」
ダールはいつも、わたくしが考えたくないことを指摘する。目を逸らしていたものを見るように、無理やり首を固定するのだ。
わたくしは、木立のあいだに置かれたベンチに腰をかけ、ちょっと休憩しましょう、とダールにいった。
ダールは近寄って来たが、隣に座ったりはせず、立ったままわたくしを見下ろしていた。これがまた似合うのがむかつく。見下ろすというより、見下すという感じだ。
「……先週、宮殿に戻ったでしょう、わたくし」
「ああ、パルミュイアの外交官を歓迎する晩餐会ですね」
「よく覚えているわね。そう、それ。そのとき、久しぶりにシミュライア様とお話ししたの。おまえに聞いた通りだったわ」
「……卒業式の話ですか?」
「婚約破棄の話。学内では、お兄様もシミュライア様も、わりと自由に過ごしていたそうなのよ。でも、儀式に選ばれて、婚約者として互いに時間をとるようになって……それで気がついたのですって。おふたりとも、全然、気もちが高まらないって。ちょっと問題に感じるほど、男女としての欲が湧かなかったそうよ」
ダールは黙っている。
しかたがないので、話をつづけた。
「だから、わたくしたちも、あまり婚約者っぽいふるまいはしない方がよいのではないかしら」
「なんでです?」
「え? だって、シミュライア様が――」
「シミュライア様が?」
「今、話したじゃないの。聞いてなかったの? ちょっと問題に感じたっておっしゃったのよ」
「それは、殿下とシミュライア様がほんものの婚約者だったから、ですよね? 俺たちは実際には婚約者でもなんでもないんですから、関係なくないですか」
「あら」
「……あら、じゃないですよ」
わたくしは、ため息をついた。
「でも、演技にもかかわるほどだったと聞いたのよ」
「姫様は、あのくだらない儀式にも本気ですよね」
「馬鹿なことをやらされているとは思うわ。それでも、生徒の代表としてまかされたのだから、しっかりやりたいの」
「俺にも命令するんですか? しっかりやれ、って」
「命令はできないわ。おまえはわたくしの部下ではないもの」
ようやく理解したんですか、とダールは呆れたようにいった。
「部下じゃないとか仕えてないとか、あれだけ主張されれば、そりゃあね……」
「婚約者なら、どうです?」
「なにをいっているの。婚約者って、命令したりされたりする関係とは違うでしょう」
「おねだりなら?」
「お……」
復唱しかけて、我に返った。おねだり? おねだり!?
こよなく上から目線で見下ろしながら、ダールは不敵な笑みを見せた。
「婚約者なら、なにかしてほしいことがあったら、おねだりするんじゃないですか?」
「おやめなさい、その……それ!」
「うまくおねだりできたら、考えてあげますよ」
かっとなって、わたくしは立ち上がった。
「おまえにしてほしいことなど、なにもありません。おまえがわたくしに『してくれる』ことなど、なにも求めていません」
自分でもおどろくほど低い声が出た。ダールが不快な笑みを引っ込めたほどだから、相当だ。
わたくしはダールの手から原稿を奪い、無言で寮に戻った。ダールは少し距離を空けてついて来たが、声をかけはしなかった。ついて来るのは当然だ。ダールには、わたくしの護衛という役目があるのだから。
部屋でひとりになったら、なぜか涙がこぼれて、とまらなくなった。学生生活の終わりが近く、感傷的になっているのだろう。
ダールがいうように、卒業したら、わたくしは王家の一員としての活動に時間をとられるはずだ。外交や交渉について学んでいるのも、王族としてそれが必要な知識であり技術だから。職業として選びたいわけではないし、選ぶこともできない。
王族とは、国を生かし、国によって生かされる存在。自立という言葉からは、ほど遠い生き物だ。誰かにたよらず生きる? 馬鹿馬鹿しい。不可能だ。
学年二位の成績だって、わたくしに望まれていることではなかった。わたくしは適当に学院に通い、王族として醜聞にならない範囲の成績をおさめ、不品行に染まらずに卒業することができれば、それでよかったのだ。
けれど、わたくしはそうできなかった……。
今になってみれば、愚かな選択だったかもしれないと思う。友人をつくり、語り合い、笑い、ときには喧嘩もしたりして……恋に胸をときめかせることが許されているわずかな時間を、わたくしはそのために使わなかった。
その理由を、わたくしは知っている。
――怖かったの。
きらきらした夢のような時間を過ごせば、それを失うのがどんなにつらいだろうと思った。婚約者という立場を失ったシミュライア様に、過剰な同情を――それも勝手な思い込みから――向けていたのも、彼女が失ったひとに見えていたからだ。
でも、そうではなかった。失っているのは、わたくし自身だった。はじめからなにも手に入れなければ失わずに済むと、ひどい計算間違いをした。手に入れなくても、わたくしは失っているのだ。なにもかも。
――ほんとうに、わたくしは計算が苦手だわ。
この先、わたくしの人生には、ほんの少しの自由しかないだろう。それを、わたくしは知っていた。だって、わたくしは生まれたときから王女なのだから。
* * *
徹夜に次ぐ徹夜を経て、卒業研究は完成した。指導教官は、まぁいいんじゃないのと適当な態度だった……そういう人物なのはわかっていたし、なにを書いても合格にしてくれるのも知っていたけれど、わたくしは全力を尽くさずにはおれなかった。
そういう性格だから。
そして今、わたくしは出番を待っている――婚約破棄儀式の。
わたくし以外の全員が舞台の上手から、わたくしだけが下手から登場することに決まっていたので、今、わたくしはひとりだ。
……そのはずだったのに。
「姫様、緊張し過ぎて台詞がとんでいたりはしないですか?」
「そういうこというの、やめてくれないかしら。それって、大丈夫なはずが大丈夫じゃなくなる合図よ……不幸な予言って成就しやすいのよ……」
「いや、全然大丈夫じゃないですよね? 向こう側から見たら、顔色真っ白でしたよ。ここで見ても真っ白です」
「そういうの、ほんと、いいから……」
あっちへ行きなさいと手を振ったが、ダールはまったく意に介さなかった。ほんとうに、わたくしの命令をきかない。学友たちの方が、よほどわたくしの言葉を尊重してくれる。……というか、王族だからなにをいっても命令ととられてしまうだけの話だけれど。
「卒業式だから、教えましょう」
「なにを?」
「俺が得ている報酬ですよ。ほら、前に訊かれたじゃないですか」
「……ああ。学費以外にもなにかもらってる、という話ね。いいわ、聞こうじゃないの」
気が紛れていいかも、と思ったので、わたくしはうなずいた。
すると、ダールはわたくしの手をとって、ささやいた。
「姫様のおそばにいる権利です」
「……は?」
「それと、姫様の信頼を勝ち取る権利。……これは、獲得できているか、実はよくわからないんですが」
ダールの声が不安に揺れるのなど、はじめて聞いた。これは……不安なのだと思うけど……不安? なんで? ダールが? なにを?
「あの……意味が……よくわからないのだけど」
「わかってくださいよ。俺がわからないんだから、姫様がわかるしかないじゃないですか」
「ええ? ええ……っと、そうね?」
「俺を信頼してますか?」
「それは、……そうよ。だって、命を預けているのですもの」
「なら、教えてくださいませんか。どうなさったんです? 今日はずっと、ひどい顔色ですよ」
「あなたって、ほんとに褒めないわね! わたくし、貶されてばっかりだわ」
「いや、顔色なくなってるのを褒める趣味は、さすがにないですね」
「化粧の色を間違えたのよ」
「そんなことをいうと、化粧を落として確認しますよ」
「……意地悪をいわないで」
「それは無理です」
無理なのか! そこは自分の意地悪っぷりに恥入ってほしい。
舞台では、下級生の演奏と合唱がつづいている。次の曲が終わったら、婚約破棄儀式だ。
「ねぇ、もう時間がないわ」
「そうですよ。だから、さっさと白状してください。最近、ずっと様子がおかしかったですよ」
「……だって……わたくし……」
怖いの。
ぎりぎり、声になるかならないかくらいのささやきだったのに、ダールには聞こえたようだった。
今まで聞いたこともないような、やさしい声で乞われた。
「教えてください。なにが怖いのです」
「婚約破棄の儀式が終わったら……もう、嫌われてしまって。いえ、今すでに嫌われているのかもしれないし、そもそも好意をもってくれたこともないのかもしれないけれど。馬鹿にされていたことは知っているわ。でも、おまえと……卒業式が、儀式が終わったらもう、おまえとは、話もできないのかもしれないと……」
「そんなことにはなりませんよ」
「え?」
「だって俺、王宮付きですし」
「でも、王宮って広いのよ」
「知ってます。すぐ姫様付きになるので、問題ありません。俺、優秀ですから」
断言しやがった!
……淑女らしくない言葉遣いになってしまった。ちょっと、びっくりしたので。
「無理でしょう?」
「学園内で姫様を守りきりましたし、成績も一位を維持しましたからね。希望も通してもらえます。そういう約束も、できてるんで」
「あの……でも、なんで?」
「俺も、それは嫌だったんで」
「それ?」
「卒業式が終わったら、もう姫様と話せなくなるのが」
ちょっと、意味がわからない。
呆然とするわたしの指先に、ダールがくちづけた。……えっ? くち……なんですって?
「姫様がお嫌なら、一旦姿を消して仕切り直しも考えていましたが、それはしなくてよさそうですね」
「え? あの……ええ?」
「手も冷え切ってますよ。血が巡ってないんですね……もう儀式どころじゃないな。医務室に行きましょう」
「なに馬鹿なことをいっているの。ちゃんとやるわ」
「……ここは応じられるんだな。どこまで真面目なんですか。よし、計画二を実行」
「計画二って?」
わたくしが困惑しているのをよそに、舞台の向こう側で、男子生徒2が了解の合図をだした。女子生徒2も、かがやくような笑顔でこちらを……まぶしい。人気投票一位、ほんと凄い。
どうやら伝声の魔法を使ったらしいけれど、片手はわたくしの手を握ったままだ……さすがダール、器用にもほどがある。
「大丈夫ですよ。約束しましたよね、姫様がつらくなるようなことにはしません、って」
「それは……」
「俺は姫様の部下でも下僕でもないですけど、姫様に信を置いてもらえる相棒にはなれると思うんです」
「ええっと……」
「俺を信じてますよね?」
その質問は、さっきも答えた。
「ええ」
「じゃ、そのまま信じてついて来てください」
いつのまにか、下級生の演奏は終わっていて。舞台は真っ暗だ。
ダールに手を引かれて舞台に出ながら、こんなの全然違うと思った。だって、ダールと並ぶのは、女子生徒2の役割なのだ。わたくしは、ふたりの前に膝をつき、婚約破棄を申し渡される役なのに。
ダールや仲間たちにはなにか考えがあるのだろうけれど、こんなときもまた、わたくしだけが仲間はずれなのかと思うと少し悲しかった。
本来、女子生徒2が立つべき位置に立つわたくしには、なにが望まれているのだろう。わからないなりに、きっと最低限の指示はもらえるのだろうと想像して、わたくしはダールに寄り添った。つらいことは起きないという言葉を信じて――だって、信じると約束したのだし。
儀式のはじまりを告げる音楽が鳴り、女子生徒3が担当する照明――もちろん魔法だ――が、ダールとわたくしを照らしだした。
まばゆい光の中、ダールはわたくしの腰を抱き寄せた。そして、堂々と宣言した。
「タイナニア王女殿下、俺と婚約してくださいますか」
わたくしは、ぽかんとしていたと思う。それから急いで、小声で教えてやった。
「婚約を破棄してください、でしょう!」
「なに勘違いしてるんですか。俺が台詞を間違うわけないでしょう。これが計画二の筋書きなんです」
「え?」
女子生徒2が走り出て来て、わたくしを見る。ああ駄目駄目、こっちじゃなくて、客席に! 客席に、そのかがやく笑顔を向けて!
「タイナニア王女殿下! 魔力に劣る女子でありながら、つねに学年二位の実績を上げられた殿下を、わたくしとても尊敬しております!」
ものすごい棒読み! お願いだから客席を向いて、でないと許されないからー! わたくしの心の悲鳴が聞こえたのか、それとも計画二とやらで誰かが――絶対ダールだ――振りを付けたのか、女子生徒2は華麗に回転し、その先に待っていた男子生徒3の手をとった。事前に計画していた通り、見栄えのする立ち位置だ。誰が立っているか、という点だけは違うけれど。
「常時学年一位のダールこそ、王女殿下にはふさわしい!」
男子生徒3が、朗々と台詞を読み上げる――彼は、声だけはとても良いのだ。いやでも、なんですって? なにその台詞?
女子生徒3と男子生徒2も出て来て、完璧なお辞儀を決めた。
「今日のめでたい日に、婚約破棄などふさわしくありません。むしろ、皆で縁を繋げましょう。誰も悲しむことはない、別れを惜しむより再会を約しましょう。学園をはなれても、心はともにあると示しましょう!」
楽団に、ダールが合図を送った。
「さあ、皆で踊ろう!」
まともな婚約破棄もないまま、舞踏会がはじまってしまった……!
* * *
「あの台詞は、ないと思うわ……」
わたくしたちは講堂を抜け出し、いつかのベンチに座っていた。今夜は、ダールもわたくしを見下ろさず、隣に掛けている。あと、ずっと手を握っている……ちょっと恥ずかしい。
「それは、皆にいわれましたね」
「でしょうね」
「だったら代案を出せといったんですが、誰も出せなかったんですよ。どうやら、文才のある者がいなかったんですね」
「文才とかそういう問題?」
「まぁ、伝えたいことが伝わればいいんです」
伝えたいこと。
わたくしは、頬が熱くなるのを感じた。頬だけじゃない。耳も熱い。顔が真っ白とかいわれていたけれど、今はきっと、真っ赤だ。夜でよかったと思う。
「本気なの?」
「冗談でやるのは、ちょっと……」
「ごめんなさい」
「や、謝られると逆にこう」
「でも、なんで?」
「嘘でもフリでも演技でも仮でも、婚約破棄はしちゃ駄目だろうと思ったからです。きっと、姫様が傷つくって。姫様を見ていたら、そう感じました」
ダールの答えは、まっすぐだった。まっすぐだけど、ちょっとずれてる。
「じゃあ、婚約したいというのは方便なの?」
「え、そこは誤解しないでください。本気です。婚約したいというか、結婚したいです。もっと本音をいうと、姫様を俺のものにしたいです。でも、姫様って俺のものになってくれたりしないと思うので……どういえばいいか、文才が滅びているなりに考えた結果、相棒になってほしいって思いました」
「たしかに、わたくしにはまだ婚約者はいないけれど……」
「根回しはしてあります」
「は?」
「いいましたよね。姫様のそばにいる権利」
わたくしは馬鹿みたいに口を開けていたと思う。そういえば、そんなこといわれた気がする。いってた。
「それ?」
「それですね。学園内で姫様を守りきることと、常時成績一位を維持すること。両立できたら、姫様に婚約を申し込むことは許してもらえる約束です」
まぁ、姫様の回答次第なんですけど、とダールはいうが、話が頭に入ってこない。
外堀が……埋まっている? まさか!
「あの……でも待って。こんなことをいうのは失礼だけれど、家柄の問題とかは、どうなの?」
「ですから、俺、優秀なんで。……そもそも、姫様が異常に優秀なんですけど、わかってます?」
「学園で二位になる程度にはね」
ほんとうに頑張ったのだけれど、一位にはなれなかった程度だ。そう自嘲するわたくしに、ダールは呆れたように告げた。
「あの資料、ちゃんと読みました? 婚約破棄儀式に参加した女子生徒で、成績二位って、姫様だけですよ」
その項目は、ちゃんと読んでなかった。
「そうなの?」
「そうですよ。姫様だって知ってるはずです。女性は、筋力と魔力では男性にはかなわないのが当たり前なんです。なんの努力もしない男性でも、かなり努力した女性を簡単に負かせるんです。生物として、そうなってます。なのに、姫様は、全力で努力する男がたくさんいる中で、二位をもぎ取ったんです。いってみれば、国の宝です。歴史的偉人です」
「それはないわ」
「ありますよ」
「ないわよ。わたくしは、まだ、なにごとも成し遂げていないわ。せいぜい、偉人になる才能があるかもしれない小娘よ」
「じゃあそれで。俺はもう偉人ですけどね」
まったく臆すところなく、いいはなつ。ダールって、魔法がどうこう以前に、まず精神が強いのではないかと思う。
「……おまえの自己評価の高さ、感心するわ」
「だって、俺は姫様に信じてもらえましたからね。もう偉人決定です。……俺の評価を真に高められるのは、姫様だけです」
「あの……ちょっと手が痛いのだけど」
握られた手を引いてみた。でも、ダールは少し力を弱めただけで、はなしてはくれなかった。
「俺と、生きてくれますか」
「……そんな風に思われているなんて、少しも知らなかったから」
「姫様だけですよ、気づいてないの。ほかの生徒はだいたい知ってます」
はい?
「なんですって?」
「知られてます。皆、なまあたたかい目で見てます。あと、だいたいの生徒は、姫様も俺を好きだと思ってます。俺もそうだと思うんですけど、さすがに自分のことになると客観的に判断できている自信がないので、確認したいんです」
「待って待って、追いつけない」
「じゃあ、一段階ずつにしましょう。姫様は、俺のことを嫌いじゃないですよね?」
「まぁ……嫌いではないわ」
「命を預けてくださる」
「学生のあいだは」
「もう卒業です。卒業したら会えないとしたら、寂しいと感じてくださいますか?」
わたくしは、ダールを見た。知っている人なのに、全然知らない人みたい。こんな表情のダールを知らないから。
「……寂しいわ。きっとそうなるんだろうと思っていたの」
「姫様は、そこで諦めてしまわれるんですよね。ちょっと残念ですけど、問題ありません。俺が頑張るので。姫様が俺に会いたいと思ってくださる限り、頑張れるので。……頑張ってもいいですか?」
「……でも、なぜ? わたくしのどこが気に入ったの?」
「え、死ぬほど頑張っても二位につけてくる女魔法使いが嫌いな男がいたら、それは俺じゃないです」
わかりづらい回答だ。あと、雰囲気がない。
とはいえ、雰囲気がないところがダールらしかったし、結局、わたくしはダールが嫌いではないのだ。むしろ好きなのだ。
「わたくしが女のくせに成績がよいから好きになったの?」
「それは当然ありますし、あとは……常時真面目で全力なところとか? 期待に応えようとするのも、俺にはないんで、まぶしいです」
「ないの?」
「ないですね。俺は俺のやりたいようにしか、やらないんで。他人の期待とか、気にしませんよ。あーでも、姫様の期待だけはちょっと別です」
「かなえてくれるの?」
にっこり笑って、ダールは答えた。
「かなえてあげたいなと思ったときは、謹んで」
「部下じゃないから?」
「そうです。姫様も、俺を見習えばいいです。他人の期待とか、どうでもいいって感じで」
きっと人生が楽になりますよ。そう諭された気がした。
そうでしょうね、と思う。そうでしょうとも。
「おまえのいうことは、正しいわ。いつもそうね。わたくしが気づきたくないことばかり、指摘するの」
「そうなんですか? たとえば?」
「たとえば、わたくしは期待されたら応えずにはおれないこと、とか」
「ああ、それが姫様らしいところですよね。俺の期待にも応えてくれると思っていいですか。まず婚約から、どうでしょう」
ほんとうに情緒も雰囲気もないので、わたくしは笑ってしまった。そして、いいわと口にしようとしたけれど、ぜんぶいう前に抱きしめられてしまって、きちんとした返事はできずじまいだったのだ――。
* * *
なお、学園の婚約破棄儀式は、翌年、廃止された。
お読みくださり、ありがとうございました。
2022/04/14追記:誤字報告について、活動報告に書きました。
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