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『人の歩む道』

 大きなことを変えようと思ったって、私にはその力はない。誰だって無力感に苛まれることがある。けれど諦めてしまったら、後悔が残る。諦めない、っていうのはとても難しいことで。その諦めの積み重ねが人生なのかもしれない、なんて思うのは。そうかもしれないけれど、私は嫌だ。諦めたって、現状が良くなることはない。気持ちが軽くなることはない。心に残るのは、深い後悔と絶望だけだ。諦めてばっかりでは、自分に自信を持つことはできない。自分を誇ることもできず、ただ自分が嫌いになってしまう。他人と比べて劣っているなんて、私は何度思ってきただろう。同期と比べて、勝手に自分をダメなヤツだと思って。それに何の意味があっただろうか。そんなことを思ったって、誰の得にもならなかった。少なくとも状況が好転するなんてことは、ない。私は、他人にはなれない。他人の望む私にはなれない。私の限界は、私の限界で。他人が決めた私の限界ではない。私は、私だ。他人よりも人のことに興味はないけれど、それ以上に私は焦がれている。人、というのは素晴らしいものだ。不可能を可能にしてきたのが人だ。不可能なんて言葉は、いつだって人の進む道に立ちふさがってきた。けれどその壁を人は突破してきたからこそ、今まで人は生き残っている。善悪だとか、人の良い悪いなんていうものに何の価値があるだろう。一面を見て人を判断するのは、私には大して意味があるようには思えない。人の価値というものは、少数の人間を見て判断することではない。人の善性を盲目的に信じるのも、人の悪性を断じるのも、そこに大して意味があるようには思えない。人の前に壁がある。その壁を前にして、善人も悪人も関係がない。善人が善人たる所以、悪人が悪人たる所以なんていうのを議論するのは時間の無駄とは言わないまでも、とても虚しい。定義した悪人をいなくすることなんてできない。反対に定義した善人を増やすなんてこともできない。状況次第で人は善人にも悪人にもなるのだから、意味がない。生まれてくる場所さえ良かったら善人になっていた悪人はいったいどれくらいいるのだろうか。私には、それが少数であるとは思えない。善人の前にも悪人の前にも、人の前には等しく壁が立ちふさがっている。その無数の壁を壊していくことこそ、私は人の使命であるように思う。その恩恵は善人にも悪人にも平等に恩恵を与えるだろう。私は、環境であると思う。人、というものは徹しきれないものだ。そう私は信じている。悪人を糾弾することは義に叶っているが、その糾弾の声を永遠に続けることはできない。人の記憶からは、薄れていくものだ。そして環境が整っていなければ、悲劇はまた起こる。善人も悪人も、この世には無数に生まれてくる。状況次第で人は姿を変える。悪人をいなくすることはできないが、悪人に悪事を起こさせない環境を作ることはできるだろう。私には、そちらの方が大切だと思われる。人の自制心や道徳も勿論大切だが、人にはどうにもならないこともある。経済の波に翻弄される。これだけ挙げても、人一人一人がいかに無力かが解るだろう。一人一人は無力でも、世界のどこかで今も壁は壊されている。人、というのは良くも悪くも変われるものだ。それが、人の歩む道であると私は思っている。

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― 新着の感想 ―
[一言] 生まれ持って善人か悪人かなんてわかるものではないので、周囲の環境や人間関係はかなり影響が大きい部分だと思いました。「類は友を呼ぶ」ということわざはまさにこれを表しているような気がしました。 …
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