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書庫の隙間

作者: マグロ頭

 本好きにはいろいろと種類があると思うのだが、その中でも私は私自身が少し特異な部類に入る本好きであると自覚している。

 私は本を読むでもなく、集めるでもなく、ただ囲まれているのが好きなのだ。何段もある幅の広い本棚に隙間なく並べられた本、堆く部屋の隅に積み上げられた本、開いたわけでもないのにカビのような少し水っぽいにおいがする本、全部好きだ。愛していると言ってもいい。図書館なんて、もう一日中過ごしていても飽きることはない。住んでしまってもいいくらいだ。もちろん、本は読まないままである。二メートル以上ある本棚が、幅一メートルもない間隔で並んでいる光景など、感動すら覚えてしまう。

 そういった本がある空間は、私を安心させたり穏やかな満たされた気分にさせてくれたりするのだが、それがどうしてそうなるのかはあまりよく分からない。私は幼い頃から本に囲まれていたわけでもなければ、この歳になるまで本に慣れ親しんだわけでもないのだ。理由は、まったくもって謎に包まれている。包まれているのだけれど、とにかく私は本が好きだ。厳密に言えば、本がある空間が好きだった。最近になって急にそう思うようになった。

 そんな本好きが奏したというか、とうとう度を越してきて、私は毎日仕事帰りに通っていた図書館から家に帰るのさえ億劫になってきた。加えて仕事もあるために俺が図書館にいられる時間と言うものは元々制限されていたのだけれど、そういった制約さえも不快に感じるようになってきた。

 私は、本に囲まれていたいのである。ただただ無数の本に囲まれていたいのである。それ他には何もいらなかった。面倒なデスクワークばかりの仕事も、少し倦怠期に差し掛かってきていた妻と向き合う食卓も、反抗的になってきた娘達の視線も、どれもこれも煩わしいものだった。図書館にいられる時だけが至福だったのだ。図書館から帰る道のりは、まるで世界の終わりを辿っているかのような気持ちになった。

 そんな苛立ちとも似通った想いを抱き続けていたある日、思い至って私は自宅に書庫を作ることにした。ちょうど、家にはずっと物置として使っていなかった部屋がひとつ残っていたし、書庫さえ作ってしまえば私はいつでも素晴らしい時間を過ごすことができるのだ。どうして今まで思いつかなかったのだろうと、自らを恥じたほどだ。私は休日を利用して部屋を整理し、ちまちまと本棚を作って、それを壁一面に、また部屋の中央にも狭苦しく並べ、奥に小ぢんまりした書斎を設けた。二ヶ月で完成した。元々私は綺麗好きで整理整頓は得意なほうだったし、手先も器用だったお陰で本棚も十分な見栄えのものが作れた。

 ここまでは簡単だったのだ。むしろ、そこからが問題だった。私にはもとより、我が家には到底全ての本棚を埋め尽くすほどの量の本がどこにもなかったのである。受け入れる準備だけが完璧に揃った時点になって、ようやくそのことに気が付いた。

 もとより、突然自宅に書庫を作り始めた私に対して呆れ顔だった妻はもちろんのこと、娘達も私の書庫にはまったく興味を持たなかった。

「やるのはあなたの自由ですけどね、その部屋を準備するのも本を揃えるのも、全部あなたの責任で、ひとりでやりきってくださいね」

 そう言っていた妻は、本当に何ひとつ準備を手伝ってくれなかったし、本を買い揃えるために必要な先立つものも鑑みてくれなかった。また、私も本を買うこと事態が好きなわけではなかったので、本棚を埋めるほどの大量の書籍を購入することがどうしても勿体ないような気がしてきてしまっていた。

 私の書庫は完成した。ただ本は一冊も入ることのないままに完成した。それは単に不完全な書庫に成り下がってしまっていた。

 なんだか仕事にも家庭にも図書館にすら興味を持つことができなくなってしまって、私は毎日をひたすら機械的に過ごすようになってしまった。熱に浮かされていたように書庫を準備した日々は、思い返せば輝かしい充実感に満ち溢れていたけれど、もう二度とそこには戻らないだろうことや、本に対する異常な執着さえなくなってしまっていた。それは不思議なことだった。そしてどこまでも虚しい虚無感だけが残っていた。

 そんなある日のこと、お隣の山崎さんが私に声をかけてきた。その日は日曜日で、会社が休みだった私は引き摺る無力感を抱いたまま近所を散歩していたのだった。早朝だった。同じく夫婦で散歩している人や、犬を引き連れた人、ジョギングする人など、私は様々な人とすれ違ったが、少し疲れてきていたので戻ることにしていた。それで山崎さんの家の前を通った時に声をかけられた。山崎さんはいかにも上品らいい空気を纏った人で、おそらく寝起きなのだろう寝巻きのまま新聞を取りに出てきたようだったが、髪は整っていて、すでに動き出した朝の空気に馴染んでいるようだった。

 おはようございます、と山崎さんは美しい声で言った。

「今日は特別冷えますね」

「そうですね。朝散歩をする人たちもコートを羽織っていましたよ」

「まあ、それじゃあ、やっぱり随分寒いのねえ。私も朝布団から出にくくてね」

 山崎さんは肩に掛けていた毛布をぎゅっと引き寄せて朗らかに笑った。

「そうだわ。あなた、確か家の中に書庫を作ったんですってね」

「え」

 私は瞬間返事に窮した。どうして山崎さんがそのことを知っているのかと思ったのだ。

 私の疑問を、わずかな表情の変化から読み取ったのだろう山崎さんは、えっとね、とひとつ言葉を挟んでからことの次第を説明してくれた。

「この前ね、ちょうどゴミ捨て場でそちらのご婦人に、千恵さんだったかしら、会ってね、そこでちょっとお話したのよ。あなたが書庫を作ったって。勝手に始めて家庭のことは顧みないし、せっかくの休みなのに騒がしいし大変って。あら、ごめんなさい私ったら。ごめんなさいね、こんなことあなたに話すべきじゃなかったかしら」

「いいえ、構いませんよ。家のものに迷惑をかけたのは本当ですし」

「そうなの?」

「ええ」

 それから山崎さんは様々なことを教えてくれた。妻が私の突発的な行動に驚いていたこと、本当は少しでも手伝ってやりたいが言った手前できなくなっていること、最近夫の元気がなくて心配なこと、娘達のこと。どうやら妻は知らないうちに随分とお隣の山崎さんに相談をし、さまざまな助言を得ているようだった。

 それは妻のまったく新しい一面だった。ずっと一緒に暮らしてきたのに知らなかった一面だった。私は滑らかに動く山崎さんの口を見ながら、ぞっと、少し薄ら寒いような、罪悪感のようなものを感じていた。それはきっとこれまでの私に対する失望のようなものだったのだろうし、そんな一面を私にではなく山崎さんに表した妻への怒りであり、悲しみであった。

「いろいろと私のところの者がお世話になって」

「そんな、お礼を言われるいわれはありませんよ。ただ話を聞いただけなんですから。そんなの、誰にだってできることです」

「でも、私にはできなかった」

「ふふ。家族ってそういうものですよ」

 山崎さんは口を隠しながら上品に笑った。

「そうでしょうか」

「そうですとも。家族だから口にできない話題があるんです。きっと、朱里さんや紗江子さんにしても言えないことがたくさんありますよ」

「まさか娘たちまで山崎さんのお宅に?」

 驚きのあまり大きくなってしまった声で訊いたことに、しかし山崎さんはやんわりとした微笑をたたえるばかりで何も答えてはくれなかった。

「いつか分かることもあれば、一生分からないこともあります。それは家族にしたって同じなんですよ」

 そう言って、山崎さんは遠い目をした。空の向こう側を見るともなしに見ているようだった。もしかしたら先立たれた夫のことを思っているのかもしれないし、海の向こう側で仕事をしているらしい息子さんの家族のことを思っているかもしれなかった。

 どちらにせよ、私にはどうやったって分からないことだった。ふむ、世の中にはそういったどうしても分からない事柄が多く横たわっているようだった。

「そうそう。私ったらいやだわ、あなたを引き止めておいて肝心のことを話していなかった」

 手を身体の前でパチンと叩いて山崎さんは家の奥へと入っていってしまった。しばらくすると、両手に本を抱えて再び私のもとへとやって来た。

「はい、これ」

 ずしりとした重みが、両腕にかかる。私はその重さの正体をしばし見つめ、それから山崎さんの顔を見上げた。

「これは……」

「主人がね、本が好きだったのよ。それこそ家中に積み重ねるくらいに。もういないしね。処分しようと思ってはいるんだけれど、どうしてもできなくて」

「それで私の本棚に?」

「そう。あなた、空っぽのままなんでしょ。ちょうどいいじゃない」

「いや、しかし」

「いいのよ。貰ってちょうだい。人助けだと思って」

「はあ」

 そうして私たちは別れた。山崎さんは朝食をとりながらNHKの朝ドラを見なければならないと家の中に入っていってしまったし、私はしばらく呆然としたまますぐそこの家まで歩いて帰った。

 リビングから朝食のにおいがしてきた。立ち尽くしていると、妻が振り返っておかえりと言った。それから私の腕の本に気が付いた。

「あら、どうしたのそれ」

「隣の山崎さんに貰った」

「ふーん。よかったじゃない」

 言って、妻は優しく微笑み、再び朝食の準備に戻っていった。

「今食べるでしょう?」

「ああ」

「じゃあ、せっかくだから、それ、仕舞ってきたらいいじゃない」

「ああ」

 キッチンに向かう妻から背中越しにそう言われて、私はそのまま書庫へと向かった。空っぽの本棚が、少しだけ埋まった。同時に、私はなんとの言えない充実感と温かな気持ちになった。これはなんと言う気持ちなのだろう。何という感情なんだろう。本を読むことのない自分の語彙力の少なさがちょっとだけ恥ずかしかった。

 リビングでテーブルに向かい、天気予報を流しているテレビの音と、キッチンから聞こえてくる音とを聞きながら、私は少しだけ目を閉じた。

「はい、どうぞ」

「おう、ありがとう」

 目を開ければ、そこに湯気を立てる白米と味噌汁と、目玉焼きと温野菜が載った皿が置いてあった。

「いただきます」

 ずずっと啜った味噌汁は、いつもと同じはずなのに少しだけおいしいような気がした。

「うまいなあ」

 呟くと、妻が驚いたような表情で私の顔を覗き込んでいた。それから恥ずかしそうに顔を歪めてそっぽを向くと、「気味が悪いわ」と憎まれ口を叩いた。

 そんな食卓。廊下の方が騒がしくなってきた。珍しく娘達も早起きらしかった。

 今日は少しだけ本を読んでみようか。山崎さんに貰った本は、少し難解な専門書のようなものだったけれど、それでもいい、読んでみようと思った。

 書庫はまだ淋しいばかりだ。でも、その奥の書斎には優しい陽射しが射し込んでいるはずだった。

「おはよう」

 顔を出した娘達に、そうあいさつをした。


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