神の贄
長い廊下を、ひたひたと音をさせながら、高瀬は歩く。
纏うのは、あの赤い着物だ。
目的の場所につけば、宗方と呼ばれた家政婦の女性が、来客用の湯呑をお盆の上に片付け、どこか別の場所へと向かう途中だった。
彼女は子供を流産し、夫に離縁されたという。
だが、それは果たして真実か?
…それが、きっと今分かる。
普通に姿を現したのでは、霊感のない彼女には見えない。
だから。
高瀬はすっと手を伸ばし、家政婦の身につけたエプロンの裾を掴んだ。
その瞬間、まるで何かに惹かれるように、彼女が振り返り、そして。
ガチャン…!!!
「ヒィ…!!!」
床に湯呑が落下し、音を立てて割れた。
けれどそんなことを気にする余裕もないのか、自分のすぐ足元に立っていた赤い着物の少女を見下ろした彼女――宗方は、ガクガクと体を震わせ、驚愕に目を見開く。
「ゆ…幸希お嬢ちゃま……?」
自分で口にし、すぐに違うというように首を振って、次に口にした名前は――――。
「美幸っ」
その名を口にした途端、まるでそれを確信したかのように崩れ落ちる宗方。
「美幸…っ!あんたなのかい……あぁ、なんでそんな姿に…。あんただけは、あんただけは逃がしたはずなのに…!」
――――逃がした。
確かに彼女は、そういった。
逃がす。それは、あの場所から。
「幸希かい…?あの子のことが心残りだったんだろう…!?だから私は反対したんだっ…!それをあの男が…!あの子は私の……私の可愛い孫だったのに…!!」
※
「…宗方さんが幸希と幸樹の実の祖母…?」
「どうやらそうみたいです…」
つまりは、”さっちゃん”の母親ということになる。
「内密の話として処理されたようですが、彼女は当時、今で言う結婚詐欺のようなものにあっていたようで…」
公には結婚していたということになっているが、実は違った。
借金を背負わされ、赤ん坊を身ごもったところで捨てられたのだ。
「一人ではとても支払いきれない金額の借金を背負い、赤ん坊を育てることなど到底できなかった宗方さんは……生まれたばかりの我が子を、室井家の人間に金で売った」
呪法の復活を狙い、女児を必要としていた室井家。
そして借金のために金が必要だった彼女。
双方の利害が一致し、のちに美幸と名付けられる赤ん坊は室井家に引き取られた。
「とはいえ、いくら金で我が子を売ったといっても完全に見捨てることはできなかったんでしょうね…。彼女本人も家政婦として家に残り、娘の成長を見守っていた」
そして、いずれかの段階で自分の娘が幼くして死ぬ運命にあると知り――なんとかして助け出そうと考えた。
「…随分、身勝手な話だね」
この陰鬱な話に、主任がテーブルに肘をつき、深い溜め息を吐く。
――――高瀬と主任、二人が今いるのは、室井家の所有する本社ビルのすぐ近く。
寂れたカラオケルームの一室だ。
話をするのにちょうど良かった、ただそれだけの理由である。
タクシーで会社に向かう途中、突然現れた高瀬に驚いた主任は、しかし高瀬から事情を聞くなり、すぐに移動を指示した。
ゆっくり話が出来そうな、人気のない場所へと。
高瀬自身の姿は誰にも見えないが、確かにこの話は余人に聞かせられるような代物ではない。
そうしてやってきたこの場所で、話は始まった。
「実は室井社長の祖父は、彼の父親が幼い頃に殺されているんです」
「殺さ…!?」
「……やったのは、宗方さん」
当時から、あの屋敷には宗方さんしかお手伝いはいなかった。
通いで時々やってくる人間はいたようだが、常にそばにいるのは彼女だけ。
そんな彼女にすれば容易いことだったろう。
「睡眠薬を多量に摂取したことによる自殺…。少なくとも、ケンちゃんが調べた資料ではそう書かれていましたね」
呪法の復活を目論んでいたとは言え、実際には彼の会社は赤字続き、いずれはあの家も担保として出さなければいけない状態だった。
そんなタイミングでの服毒死は、彼女の目論見通りうまく自殺として処理されたのだろう。
誰もそれに疑問を持つ人間はいなかった。
「私も最初はそこまで不思議に思ってなかったんですけど、まさかそんなことになってたなんて…」
現在、殺人には時効は成立しない、
だが、そもそも自殺として一度処理されてしまったものの罪を、今更問うこともできない。
「けれどそのおかげで、一度は座敷牢に入れられ、死を待つ状態にまで陥った彼女の娘は無事に助けられた」
タイムリミットが迫っていた。だからこその凶行――。
すっかり考え込んだ主任を見下ろしながら、高瀬がぽつりとつぶやく。
「主任、即身仏の作り方って知ってます?」
「…え?」
「修行をしながら少しずつ食料を減らして、最後には僅かな穀物と漆、または虫の幼虫などを飲み干しながら自ら死んでいく」
――――それとこれとがどう関係がある?
そう思ったのだろう。
その答えを、今から口にしなければならない。
…あぁ、嫌な話だ。
「女児達を”神の化身”…いえ、#生贄__・__#とするために、あの家の人間は代々、数えで7つに近くなった女児を座敷牢に閉じ込めると、彼女たちの食事を少しずつ減らしていき、やがては――――――」
ぶるり、と主任が微かに肩を震わせる。
「……自然死じゃなく、殺していたのか」
「…体が弱かった、というのは本当だと思います。おそらくはそれだけじゃなく、あの家に引き取られた段階で既に何らかの呪いをかけられていたのだと…。座敷牢での行いは、修行僧が行う潔斎と同じ。禊をして、神の捧げものとなるための…」
座敷牢に閉じ込めずとも、恐らく彼女たちは長生きはできなかったろう。
けれど、彼女たちは最後には必ず、あの場所に――――。
「むごいな…」
「それを知った宗方さんは、いくら捨てた我が子とは言え、我慢ならなかったんでしょうね…」
娘が殺される前に、当主を自らの手で――――。
「推測ですが、犯行には室井社長のお父さんも手を貸していると思われます。
資料によれば、室井社長の父親と美幸さんとは10歳以上の歳の差があり、彼は共に育った妹のような少女に恋愛感情を抱いていた」
「……犯行を黙認する代わりに、自分の妻として引き取ったということか…」
そうして助け出された美幸さんが産んだ子供が、幸希さんと幸樹さんの二人。
「その後、完全ではないとは言え呪いは受けていたのか、美幸さん自身もだんだんと病に冒され、早くに亡くなったようです…」
その件に関しても、気になることが、一つ。
「あの家の仏間で見たんですが、遺影の写真に妙に若い女性が何人か写っていて…。
もしかすると、あの家に嫁いできた女性は、それだけで呪法の影響を受けることになっていたのかも…」
もしくは、生贄とされた少女たちの呪いが、同じ女である”嫁”に向けられたのか。
「そもそも少女たちは当主の妻として養女に迎えられたはずだった。……だから、か」
恨んでいたとしても、無理はない。
「もしかしたら、それ自体が呪いの代償なのかもしれません…」
死ぬのは女ばかりで、この家の当主は皆、繁栄を極め、年老いるまで十分生き続けた。
自分自身では、なんの代償も払うことなく――――。
「呪い、か……」
本来はただ、豊穣の為の神を祀る、そんな信仰だったはずなのに。
なぜここまで歪んでしまったのか。
なぜ、呪いになど変化してしまったのか…。
「そして、問題はここからです。
一度は呪法を捨てた室井家、しかし偶然にも自分の娘が、ちょうど7歳を目前にして命を落とした――ー」
その瞬間、魔が差したのだと思う。