7.
しばらくの間、レイチェルの荒い息遣いと、暖炉で薪がはぜるぱちぱちという音だけが聞こえていた。春はもうすぐそこだけど、朝晩やお天気の悪い日はまだ冷えるから。赤ちゃんが、イザベルが風邪をひいたりしないように、みんな気を付けて、大事にお世話しているのよ。なのにどうして、イザベルは硬い木の箱なんかに寝かせられているのかしら。
そんな、関係のないようなことを考えてしまうのも、どうしたら良いか分からなくて……怖いからよ。レイチェルがわたしを睨んでいるのだもの。お父様が腰を抱いているからイザベルがいる箱の傍にいるだけで、そうでなかったら、今にも飛び掛かってきそうだったのだもの。
わたしはお母様のドレスに縋りつくみたいにしてやっと立っていた。お母様は、どうして何もしてくださらないの? 守って、くれないの?
「貴女、でしょう……!? おかしなことばかり言って気味の悪い子……! 私も赤ちゃんも嫌っていたから、こんなことをっ。仲良くできればと、思っていたのに……優しくしようと思ったのに! いつまでも、懐かないで……っ」
「レイチェル、落ち着きなさい。こんな小さな子にできることじゃない。メイベルは妹を可愛がっていたんだろう? この子を責めても仕方ない、使用人をよく問い質して――」
お父様とレイチェルの話は、何を言っているのか分からなかった。だからわたしは、わたしに分かることを言った。レイチェルは何だか怒っているみたいだけど、本当にどうしてか分からないんだもの。
「お医者様が阿片ミルクって言ってたから……よく眠れるようになるのにあげないなんて可哀想だから……だから、アリスに買ってきてもらったのよ。お母様が、教えてくれたから……」
レイチェルがやらないことをやったから、なの? でも、イザベルはちゃんと泣き止んでいたじゃない。それが、いけないことだったの? だからレイチェルはますます眉を吊り上げて、お父様は驚いた顔をなさって、それから、お医者様も深々と溜息を吐いたというの?
わたしは悪いことなんてしてないわ。だから、はっきりそう言ってやらなきゃと思うのに。わたしの声は、どうしてか弱々しく震えていてた。
「また、お母様! あなた、この子は何かに取り憑かれているのよ! 死んだ母親の幽霊か、それか、もっと恐ろしいものに! ずっと、放っておいたからいけないのよ!」
「いや、子供は想像力豊かなものだろう!? 母親を恋しがってたから、話を合わせてやることもそりゃあるさ! このままじゃいけないと思ったからこそ、君に来てもらったのに――」
「お母様は死んでないわ! ここにいらっしゃるもの!」
お母様が見えない振りをするだけじゃなくて、死んでしまった、なんて言うなんて! 死んでしまった人はいなくなるのでしょう? お母様はちゃんとわたしの傍にいてくださるもの。触ることもできるし、わたしを撫でたり抱きしめたりしてくださるわ。
「……イザベルだって。そこに、いるのでしょう? 出して、あげないと……」
レイチェルを押しのけるようにして、わたしはイザベルが寝かされているらしい黒い箱に走り寄った。ほら、いつもみたいに可愛い寝顔よ。ほっぺたもふわふわで、焼き立てのパンみたいなの。つついてみると、泣きたくなるくらい、胸が苦しくなるくらい柔らかいのよ。
「え……?」
でも、指先に触れたイザベルのほっぺの感触に、わたしは思わず手を引っ込めてしまった。冷たい。それに硬いの。どうして? イザベルはお利口に眠っているのではないの? でも、いくら眠っているからって、どうして息を感じられないの? これが、死んでしまうということなの?
「お母様……?」
わたしは首をひねってお母様の方を見た。だって、わたし、お母様の言う通りにしたのだもの。お母様は何でも教えてくださって、わたしが寂しい時も怒った時も、慰めてくださったの。指で文字を辿って、大切よ、愛してるわ、って言ってくれて、ずっと一緒だったの。だからわたしは何もおかしいとは思わなかった。イザベルも、良い子になったし。でも、やっぱり変だわ。こんなに色んな人がうるさくしてるのに、イザベルは全然起きたり泣いたりしないんだもの!
お母様は、今は暖炉の前にたたずんでいた。赤い火の粉が黒いドレスに舞ってとても綺麗。でも、何だか怖い。イザベルは温かかった。お父様も温かいわ。炎も。でも、お母様は温かかったかしら。抱きしめてもらうととても安心したけれど、どうだったかしら。手を広げて抱きついていけば分かるのよ。レイチェルが怖いんだもの、そうすれば良いのよ。でも、そうはできないの。わたしは、一体どうしてしまったのかしら。
足を縫い留められたように動けないでいると、目の端でレイチェルの影がゆらり、と動いた。まるでよろめいて崩れ落ちる時のように、よろよろと足を踏み出したみたい。
「そこに、いるのね……? 人殺し。悪霊、悪魔! 私の子を、返してよ……っ」
レイチェルは、暖炉の方へと向かっていた。お母様を――指さそうとしているのね。でも、ずれている。いるのね、って……まるで、ちゃんと見えてはいないみたい。レイチェル、今までは、意地悪で見ていない振りをしていたのではなかったの? どうしてそんな、夜の廊下を手探りで歩くみたいな、着ているスカートのドレープでつまづくような、おぼつかない足取りなの?
「お母様はそこにいらっしゃるわ……見える、でしょう……?」
レイチェルがお母様に襲い掛かったら、と思うと怖かった。でも、お母様がいないことの方がずっと怖い。だから、お父様とお医者様に聞いたのに。なのに、お医者様は、眉をひそめて首を左右に振る。それから、お父様は――
「メイベル……アシュリーは、お母様は天国にいるんだよ!? お前をいつも見守ってくれている、でも、空の上からだ……!」
「嘘よ!」
「返せええぇえええっ!」
お父様とわたしと、レイチェルの叫びが重なった。同時に、レイチェルがお母様に――暖炉に、飛び込んだ。でも、お母様は捕まらない。黒いドレスの裾さえも、レイチェルの指がかすめることはない。
「お母様……!」
お母様が心配なら、叫んじゃいけないはずだった。レイチェルはわたしの目と顔の動きでお母様のいる場所の見当をつけてるみたいだから。レイチェルにはやっぱりお母様が見えていないの? ぎらぎら光るレイチェルの目に見つめられるのは、刃物で射貫かれるみたい。狼にでも狙われたらこんな気持ちなのかしら。
「……レイチェル、火が――」
だから、大きな声なんて出せなかった。ぽつりと、雫が零れるように小さな小さな呟きが唇から漏れただけ。
レイチェルは大声でわめきながら手当たりしだいに腕を振り回している。お母様が見えているのではないようなのに、止まらないの。お母様は、そんなレイチェルをからかうみたいにあっちへこっちへと、踊るように動いている。お父様もお医者様も、レイチェルを止めようとして一生懸命で、下の方は見えていない。ちょうどわたしが俯くと目に入るあたり、レイチェルが動くにつれてうねるように動くクリノリン、大きく広がるスカート。そこに、這い上がるように舐めるように、赤い火が上っている。お父様のジャケットにも、カーテンにもカーペットにも。レイチェルが火の粉を撒いていく。
「――燃えている……!」
誰かが叫んだ時には、部屋中に炎が広がっていた。扉も窓も塞ぐように、炎の壁が天井近くまでのびている。レイチェルはもう、人の形の炎になって。そうして、イザベルが寝ている箱に覆いかぶさって叫んでいる。何だか分からないことを。
「お母様……!」
熱くて、喉が痛くて。わたしの服にも火が移っていて。煙に痛む目を、それでも懸命に開けてみると、燃える部屋の真ん中で、お母様は笑っていた。お顔はヴェールの下だし、声もやっぱり聞こえないの。でも、手を口のあたりにやって、顎を持ち上げて背中を軽く反らす姿は、きっと笑っているのだと思うの。部屋中真っ赤で明るくて、お母様が何人もいるみたいに影ができて――お母様は、今まで影ができていたことがあったかしら? そんなこと、気にしたことはなかったから。
「お前は、誰だ? 何なんだ……!?」
お父様が叫んだような気もするけど、炎がはぜる音に掻き消されてはっきりとは聞こえなかった。天井が、崩れてきたのかしら。目の前が赤と黒だけになっていくの。それからひと際大きな音がして、わたしの真上に熱い塊が落ちてきた。