6.
ミルクを吸わせたパンを口元に持って行くと、イザベルは一生懸命吸い付いてきた。ミルクでひたひたにして、ぐっしょりとしたパンから水気が退いていくから、ちゃんと飲めているのが分かる。
「良い子ね、イザベル。いっぱい飲むのよ……?」
わたしの左手には、ミルクを入れたお皿。右手にはパン。隣には見守ってくださるお母様。そしてもう片方の隣には――いなくても良いのに――ちぎる前のパンを持ったレイチェルが、わたしがイザベルにミルクをあげるところを見守っている。ううん、本当は見張っているつもりなのね。この人は、わたしが赤ちゃんに何かしやしないかと心配で仕方ないみたい。唇を尖らせて、空いた方の手を宙に浮かせて。今にも文句を言いそうなのに、でも口に出すことができないのは、わたしがミルクをあげるとイザベルが大人しく寝てくれるからね。
やっぱりレイチェルのやり方は間違っているのよ。だってアリスにお願いして買ってきてもらった阿片のシロップを厨房でミルクに混ぜてあげるようにしたら、イザベルはちゃんと大人しく眠るようになったんだもの!
阿片ミルクって知ってる、って聞いたら、メイドのアリスは手を叩いて笑顔で頷いてくれた。
『ええ、もちろんですとも! おやすみシロップのことですね?』
『そうなの? ミルクではなくて?』
後ろにいてくださるお母様の黒いドレスが背中に触れるのを感じながらたずねると、アリスは屈みこんでわたしに目線を合わせて教えてくれた。
『ミルクに入れたりもしますね。名前の通り、赤ちゃんがぐっすり寝てくれるから、姉や叔母とかが重宝していました。……あの、妹様のことで?』
『そうよ』
イザベルは、本当はまだ妹じゃないんだけど。でも、アリスとかお母様以外の大人に言うとややこしいことになるのは分かっていたから、わたしはそこには触れないことにした。妹様を可愛がってあげてください、とか、奥様と打ち解けてあげてください、とか。うるさいったらないんだもの。イザベルのことならちゃんと可愛いと思ってるし、レイチェルのことならこのお屋敷の奥様なんかじゃないんだもの。
それに、とにかく、一番大切だったのは、その時はイザベルを泣き止ませることだったから。ねえ、わたしはちゃんとあの子を可愛がって心配してあげてるでしょう?
『あの子、あんまり泣いてばかりだから心配なの。お医者様は阿片ミルクが良いって仰っていたんだけど、レイチェルは飲ませてあげないんだって。ねえアリス、あなたが用意してあげられないかしら?』
『まあ、お安い御用ですわ! イザベル様は確かに心配ですものね、その辺の薬局で、すぐに手に入りますからね!』
そううけ合ってくれた通り、アリスは次の日には小さな小瓶を持ってきてくれた。
そこからは、またお母様が教えてくださったわ。少し嫌だったけど、わたしからレイチェルに話しかけてあげたの。赤ちゃんにミルクをあげてみたいわ、って。レイチェルが傍で見ていても良いから、って。レイチェルは驚いていたみたいだったけど、嫌だなんて言えないわよね。だって、仲良くしたいってずっと言ってたのはあちらの方なんだもの!
「ねえレイチェル、わたし、上手でしょう? イザベルがこんなに良い子になったわ!」
「え、ええ……」
わたしがミルクをあげるとイザベルが泣き止むのが、レイチェルには気に入らないみたい。だってこの人が抱き上げるとイザベルはまたすぐに泣いてしまうんだもの。横からお母様が手を出して、あやしてあげても効かないの。それでも、前ほどきんきんした泣き声じゃなくて、ぐずる、っていう感じなんだけど。でも、イザベルもレイチェルだと嫌なんじゃないかしら。今度お父様がいらっしゃったら、レイチェルにはイザベルは育てられないわ、って言ってあげなくちゃいけないわね。
「でも……泣かないのは良いけれど、イザベルは弱っているのではないかしら。何だか、ぐったりしているような……」
「そうかしら?」
レイチェルがそんなことを言いだすのも、負け惜しみみたいなものだと思ったわ。わたしが上手くイザベルをあやすことができているのが気に入らなくて、何かしら悪いところを見つけようとしているのね、って。
でも、わたしをそんな目で見ても無駄よ。わたしが何かしたってことじゃないんだもの。わたしがミルクをあげたらイザベルは泣き止んで、レイチェルが抱きあげたら泣き出すの。それが全てよ。
「……今度、またお医者様に診ていただかないと」
「大げさね。イザベルは良い子なのに。でも、心配ならそうすれば良いわ」
レイチェルがわたしの目をじっと見ながらそう言ったのは、多分、脅かそうとしたのでしょうけど。わたしは知らん顔で返してやったわ。本当に、わたしは悪いことなんて何もしていないんだもの。
おやすみシロップをくれる時、アリスは教えてくれたわ。
『奥様が阿片をお嫌いなのも仕方ないですわ。中毒になってしまうと大変ということですから。でも、ほんの少しなら大丈夫。私の田舎では、みんなそうやって赤ちゃんを育てているんですから』
だからわたし、シロップの量はいつもお母様に見ていただいているの。お母様の、ヴェールに隠れたお顔を窺いながら、もうそろそろかしら、って。それでお母様がうなずいた分しか入れていないの。それをあげているだけなんだから大丈夫だもの。
わたしが慌てたりなんかしなかったから、疑ったのを少しは悪いと思ったのかしら。しばらくの間、レイチェルはお医者様を呼ぶことはしなかった。それともお医者様はお父様みたいにお忙しいからだったのかしら。
とにかく、その間にイザベルはどんどん良い子になって、泣かない時間が増えていった。ついには、一日中ずっと泣かないで寝ていられるようになったの。いつもあんなに真っ赤でしわくちゃだったほっぺたも色が落ち着いて、雪みたいに白くてすべすべになったの。目を閉じてすやすやと寝ているイザベルは本当に天使のようで、抱きしめてキスしたいくらいだった。抱っこは、レイチェルがさせてくれなかったのだけど。それでも、わたしはお母様と一緒にご本を読んであげたり、またミルクをあげたりして、一生懸命イザベルのお世話をしていたわ。
だから、その日、どうしてレイチェルが慌ててお医者様を呼びにやらせたのか、わたしにはさっぱり分からなかったの。
ゆりかごの部屋に呼ばれて行くと、でもイザベルはゆりかごに寝かされてはいなかった。代わりに、テーブルの上に黒い小さな箱が置いてあった。あの大きさ、ちょうどイザベルが入れるくらいかしら。でも、ちょっとぴったりすぎて窮屈じゃないかしら。ゆりかごと違って、柔らかいお布団が敷いてある訳じゃないし。
部屋の中にいるのは、お父様とお医者様、それからレイチェル。お医者様が、お客様が来ているというのに、やっぱり誰もお母様にご挨拶しないの。これではこのお屋敷が礼儀知らずみたいに思われてしまうのではないかしら。それは、心配だったし嫌な気持ちだったけど、何よりイザベルが可哀想だったから、わたしはお父様に駆け寄った。
「お父様、どうしてイザベルはゆりかごにいないの? 柔らかいところに寝かせてあげないと可哀想よ。前みたいにまたたくさん泣いちゃうわ!」
「ああ、メイベル、優しいお姉さんになったんだね……」
鼻をすする音がしたのは、レイチェルかしら。お客様の前で、やっぱり失礼な人ね。でも、お父様も少し鼻をぐすぐすさせているみたい、かしら。目もなんだか潤んでいるし、風邪でもひいてしまわれたのかしら。
「お父様……?」
「メイベル、イザベルはもう良いんだ。ベッドもゆりかごも必要ない――安らかに、眠らせてあげなくては」
「どうして……!?」
お父様がひどいことをおっしゃるから、わたしはお母様が肩を抑えるのも構わず大きな声を出してしまった。でも、もっと大きな声を出したのが、レイチェルだった。
「阿片中毒よ! こんな赤ちゃんが可哀想に……! 無知なメイドがあげたりしないように、ってお医者様が教えてくださったのに……気を付けていたのに、どうして……!?」
大きな口を開けて、真っ赤な舌を見せて叫ぶ、レイチェルはイザベルよりずっとうるさかった。全然可愛くなんかないし、みっともないし。でも、レイチェルは泣いていた。泣きながら叫んでいた。一体どうしてかしら。
訳が分からなくて、何だか怖いから――わたしは、ただ、お母様のドレスをぎゅっと握りしめた。