5.
クリスマスが過ぎて新しい年が始まってしばらく経った頃、レイチェルが赤ちゃんを生んだ。女の子――妹だって。でも、お母様以外の人から生まれた子を妹だなんて、変なことよね? レイチェルはずっとお屋敷にいるけど、わたしには関係ない人だもの。どうして誰も、いつまでいるの、って言わないのかしら。
『イザベルという名前にしようと思うの。ね、メイベルとも韻をふむでしょう? 姉妹に、なるのだから……』
レイチェルはそんなことを言っていたし、お父様も満足そうにしていたけれど。……それに、イザベルも、とても可愛いのは確かなのだけど。お父様が仰っていた通り、赤ちゃんって本当に天使みたいなのね。ううん、でも、あの子は妹なんかじゃないんだけど。
それにね、イザベルはあんまり良い子じゃないみたい。天使みたいに可愛いのはほんの時々だけで、一日のほとんどを泣いて過ごしているの。たとえ眠っている時でも、わたし、あの子が泣いてる声が耳の奥で聞こえるような気がするくらい。
「イザベル、またご機嫌が悪いのね。おむつかしら、ミルクかしら?」
だから今も、わたしはつま先立ちになってイザベルのゆりかごを覗き込んでいた。顔を真っ赤にしわくちゃにして泣き喚いていると、赤ちゃんってあんまり可愛くないの。見ているだけなら一生懸命で可愛いわね、って思うのかもしれないけど。でも、こううるさいと頭の中で鐘を鳴らされているみたい。何もかもちいちゃなお鼻とかお口とか、ミルクの甘い香りとか、ふわふわと柔らかい肌とか。そんな素敵なはずのところも、どうでも良くなっちゃうのよね。
「イザベル、お母様が見えるのね……? 赤ちゃんなら、嘘を吐いたり知らない振りをしたりしないのね……?」
でも、わたし、イザベルのことはレイチェルほど嫌いじゃないの。ううん、この子が妹だったら良いのに、って思うくらいには好き……なのかしら。だってこの子、お母様のことをちゃんと目で追っているみたいなんだもの。ずっと泣きながらではあるんだけど、お母様がゆりかごの周りを歩くのに従って、レイチェルに似た青い目を動かしてるの。お母様が黒い手袋の手を伸ばしたりすると、びくっとすることもあるわ。このまま大きくなって、わたしとお母様と一緒に遊べるようになると良いんだけど。シセイジじゃなくて、ちゃんとしたわたしの妹に、どうにかすることはできないのかしら。その前に、こんなに泣いてちゃ息をする暇もなさそうで……少し、心配ではあるのよね。
「お母様、この子あんまりミルクも飲まないんだって。どうしたら良いのかしら」
わたしが尋ねると、お母様は少し首を傾げて何か教えてくれようとしたようだった。でも、わたしの手のひらに文字を書いて――本がなくてもお話はできるのよ――くださる前に、ばたばたと慌ただしい足音が響いて、わたしは手を引っ込めなくてはならなくなった。
「メイベル! あの……イザベルと、遊んでくれていたの? どうして、泣いてしまったのかしら」
「さあ。この子何もしなくても泣くんだもの。早くおむつを替えてあげるか何かしたら?」
レイチェルったら、わたしが赤ちゃんに何かしないか心配してたみたい。レイチェルのことが嫌いだからって、赤ちゃんは関係ないのに。それに、顔色を変えてゆりかごに駆け寄るほど慌ててるのに、それでもお母様にはご挨拶ひとつしないの。やっぱり意地悪でおかしな人だわ。
「そう……。あのね、お医者様にイザベルを診てもらうの。遊んでくれるなら、また後でね」
「ふうん」
それだけ言うと、レイチェルはわたしの方もほとんど見ないでイザベルを抱き上げて出て行ってしまった。メイドのアリスは、赤ちゃんが生まれてもお父様もお母様も変わらない、なんて言ってたけど、確かにお父様は前と同じでお仕事や社交にお忙しいみたいだけど、レイチェルは赤ちゃんにかかり切りみたい。まあ、泣いてばかりだから心配なんでしょうね。うるさくまとわりつかれない分、わたしだって気が楽だし。ただ、ふうん、って思うだけよ。
「お母様、イザベルは大丈夫かしら? レイチェルに任せておいて……?」
お母様が待ちなさいと言っていたのは、赤ちゃんの可愛さをご存知だったからだと思うの。イザベルを見て分かったわ、レイチェルと赤ちゃんは別なのね。レイチェルには出て行って欲しいけど、そうなってもイザベルは置いて行って欲しいわ。お母様がイザベルのお母様になって――そうしたら、本当に妹だと思えるはずだもの。
どうにかしてくださるのでしょう、ってお母様を見上げていると、黒い絹に包まれた手が伸びてきた。手を繋いでいきましょうって言うことね。だからわたしはその手を取って、ゆりかごの部屋を後にした。
お母様に連れられてきたのは、レイチェルの部屋の裏の小部屋だった。前に寝室でお父様とレイチェルが話していたのを聞いたような、使用人のための控えの部屋よ。壁を越えて、イザベルの泣き声がずっと聞こえてる。だから身動きして床が軋んだりしないかなんて、気にしなくても大丈夫そうね。
お母様に支えてもらって、壁に耳を近づけるの。泣いてるイザベルの声の合間から、お医者様とレイチェルが何を話してるか聞き取らなくちゃ。
「――月齢の割に少し軽いようですね。でも、五体も、目も舌も問題ないようです」
「ずっと泣いているばかりでミルクもあまり飲んでくれなくて……」
「まあ、癇の強い子というのはいるものです。ミルクは、母乳で?」
「はい。なるべく私が育ててあげたいので」
「パンにミルクを浸して吸わせてあげることも試してみてください。最近は哺乳瓶も出てますが……清潔を保つのはなかなか大変ですからね。若い使用人なんかが手入れの面倒がったりすると、命に関わりますから」
「ええ……」
お医者様が言うには、イザベルは心配ないということなのかしら。あんなに泣いてるのに本当に? 確かに、レイチェルは赤ちゃんのお世話を使用人にやらせたりしないわね。お母様もずっとわたしの傍にいてくださるし、母親ってそういうものなのかしら。それとも、わたしだけじゃなく他の人も信用してないのかしら。でも、お母様はしっかり私に教えてくださるけど、レイチェルはイザベルを泣かせてばかりじゃない。レイチェルに任せておいて、本当に大丈夫なのかしら。
「使用人といえば、勝手におかしなものを飲ませないように気を付けないと」
「ええ、夫の連れ子もいますから。万が一のことがないように……」
「ああ、それではお気を遣うことも多いでしょう。赤ちゃんにも伝わっているのかもしれませんね」
そこまで聞いたところで、お母様がわたしの袖を引っ張った。行きましょう、ということね。だからわたしは――イザベルはずっと泣いていたけど――できるだけ音を立てないように、そっと小部屋を後にした。
「阿片ミルクというのをご存知ですか――」
扉が閉まる瞬間に、お医者様がそんなことを言うのが聞こえた。
子供部屋に入った瞬間、わたしは地団駄をふんでお母様にうったえた。
「お母様、聞いた!? レイチェルったら、わたしがイザベルに何かすると思っているのよ! 自分が赤ちゃんを泣き止ませられないくせに!」
お母様は、言葉では答えてはくださらない。でも、わたしが怒っている理由はちゃんと分かってくれて、慰めてくださるの。抱きしめて、髪を撫でてくれて。わたしが落ち着くまでそうしてくれたら、次はどうすれば良いかを教えてくださるのよ。赤ちゃんが生まれてからは、お母様も一緒に見守っていたのだもの。わたしがどうすれば良いのか、イザベルだけを残してレイチェルを追い出すにはどうすれば良いか、教えてくださるはずよ。
ほら、本を取り出してページを開けば、お母様は指し示して教えてくださる。わたしが知ってる単語も日に日に増えていっているし。お話も、前よりずっと楽になったのよ。
「阿片ミルク……さっき、お医者様が言っていたものね? どんなものなの?」
お母様が辿る文字を追って、心の中で読み上げる。赤ちゃん……よく、眠る……薬。お薬なのね。
「レイチェルはお医者様からお薬をもらうの? それを呑んだらイザベルは良い子になる?」
お母様は首を振った。早とちりしないで、って、わたしの額を指先でこつん、ってするの。そしてまた文字を見なさい、って示してくださる。
「レイチェルは、赤ちゃんにお薬をあげないの……? ひどいわね。じゃあ、わたしが代わりにあげないといけないわね。でも、どうやって……?」
怒ったり、首を傾げたりで忙しいわたしに、お母様はお薬をどうやって手に入れれば良いかも教えてくれた。それは、とても簡単な方法。ひとりではお屋敷から出られない、お金も持っていないわたしでもできそうなこと。本当にそれだけで良いのか不思議なくらい。でも、お母様がおっしゃることなんだから正しいはずよね。
「ねえ、アリス。阿片ミルクって知ってる?」
だからわたしはにっこり微笑むと、メイドのアリスに問いかけた。