3.
聖書に大切に挟んであったのは、一枚の写真だった。お父様がずっと前にくださったの。お母様と三人で写真を撮りに行ったんだよ、って教えてくださったのよ。
「ほら!」
真ん中に写っているのは、赤ちゃんの時のわたし。レースとフリルがたっぷりのドレスを着せられて、指をくわえて座ってる。その後ろにいるのが、お母様! いつものように、黒いヴェールに黒い服で、まるで影のように、わたしを包み込むように抱いて、支えてくれているの。黒い手袋もそっくりそのまま、お母様がいつも、ずっと、わたしの傍にいてくださっている何よりの証拠じゃないかしら?
「メイベル……これが、貴女のお母様、なの?」
「そうよ! このままのお姿で、ずっとわたしの傍にいてくださるの」
これでやっと分かるだろうと思ったのに、でも、レイチェルは何でだかくすくす笑っていた。ううん、笑いをこらえているんだけど、我慢できなくて笑っちゃってる感じ。小さい子が馬鹿みたいな失敗をした時みたいで、すごく嫌な感じ。
「まあ、そういうことだったのね」
「……何よ」
しかも、レイチェルは手を伸ばしてわたしの頭を撫でて、その上抱きしめた! わたしが子供だからって、なんて馴れ馴れしいのかしら!
「メイベル、貴女はやっぱりお母様が恋しいのね。だからそんな写真をずっと見つめて、お母様のお姿が見えてしまうと信じ込んでしまったのね」
「違うわ! お母様は今もいらっしゃるもの!」
「でも、『お母様』は普通はこんなヴェールは被っていないものよ? 貴女は知らないし覚えていないのでしょうけど、写真を撮るのは時間が掛かるの。赤ちゃんは何十秒もじっとしていられないでしょう? だからお母様がこんな格好であやしていてくださったのよ。普段のお母様を覚えていないなんて、可哀想な子……!」
「違うってば!」
頬ずりなんかしようとするレイチェルから逃げたくてもがいていると、レイチェルの腰でシャトレーヌがしゃらりと鳴った。銀の鎖からぶらさがった、綺麗な細工の鋏や指ぬき、印章に鍵。お屋敷を取り仕切る奥様、女城主の証。だから本当はお母様が身につけているはずのものなのに、なんでこんな人なんかが!
「メイベル、良い子だから――」
「嫌よ!」
あんまり腹が立って顔が火にあたったみたいに熱くなった時だった。ぱし、と音が鳴ったかと思うと、わたしはレイチェルの腕から放り出されていた。床に転がりながら、どうして、って思って顔を上げると、目に入ったのは黒いドレスの生地だった。ソファにいたはずのお母様が、立ち上がってわたしとレイチェルの間に割って入っていてくださったの。
「お母様……助けてくださったの……?」
レイチェルの手を払いのけてくれたのもお母様だわ。そう気づいて問いかけると、お母様はゆっくりと私の方を振り向いて、それから小さく頷いた。それは、そうよ、って意味だけじゃない。わたしにはすぐ分かったわ。だってお母様もずっと我慢なさっていたに違いないもの! 使用人にも無視されて、レイチェルなんかが奥様みたいな顔をするのを、もう沢山って思っても当然よ。それも、わたしにまで失礼なことをしたんだもの。とうとうお怒りになったんだわ。
お母様のお顔は、やっぱりヴェールに隠れたまま。でも、それはわたしがそう思い込んでるからなんかじゃないわ。だってお母様はわたしに語りかけてくださってるもの。声や言葉じゃなくて、指先や、少し傾げた首の角度、わたしを覗き込む姿勢、そんな仕草で。そろそろやり返してやりましょうか、って。
「分かったわ、お母様……」
「メイベル?」
あはは、レイチェルったらまた顔色が青くなっちゃってるわ。わたしを子供扱いなんかして、得意がってたのもちょっとだけだったわね。お母様に突き飛ばされて、また怖くなっちゃったのね。
「お母様がちゃんといらっしゃるって、見せてあげるんだから!」
言うなり、わたしは駆け出した。レイチェルの横をすり抜けて、扉を押し開けて。スカートの裾を摘まみながら、お屋敷の中を走る。まるで十二時前のシンデレラみたい。追いかけてくるのは王子様じゃなくてレイチェルなのが残念だけど。
「メイベル、待ちなさい!」
「やだ!」
ちらりと振り返ってレイチェルに舌を出して見せると、前から来た誰かにどすんとぶつかってしまった。
「お嬢様、これは――」
「あら、ジェームズ」
わたしを抱きとめて、困った顔で見下ろしているのは従僕のジェームズだった。別にこの人を探してた訳じゃないけど、ちょうど良かったわ。わたしはにこりと微笑むと、背伸びをしてジェームズにささやいた。
「双子の子はもう十歳になるのかしら? お母様がお誕生祝いに贈った十字架はまだ持ってる?」
「え……?」
ジェームズが間抜けな顔で口を開けたのがおかしくて、わたしは声を立てて笑った。レイチェルが追いつきそうになったからまた走り出しながら、行き会う使用人たちに次々と声をかけていく。
「アガサ、階段から足を滑らせたのは大変だったわね。腰はもう良いのかしら?」
「エドガー、いつも美味しいパンをありがとう。ここに来たばかりの時みたいにもう焦がしたりしないのね!」
「シャーロット、お姉さんはお元気? 結婚前に赤ちゃんができてしまって大変だったそうじゃない?」
たまたまお仕事で出ていた人も、騒ぎを聞きつけて出てきたらしい人も。ひとりひとり、目を見上げながら言ってあげるの。こちらのお屋敷に来てから、使用人たちがどんな人で前にどんなことがあったか、お母様がちゃんと教えてくれていたもの。本を広げて、単語をたどって。指を立てて数字を挙げて。だって、わたしも女主人にならなくちゃいけないのだもの。使用人がどんな人たちか、分かっていなくちゃいけないんでしょう?
「……ちょっと、みんな本当なの!? 一体誰が教えたの!?」
「いえ、私共は誰も……」
「お嬢様が覚えているはずはありませんわ!」
「前の奥様の療養で、二歳の時にはここを離れていらっしゃったのに……」
レイチェルと使用人たちが言い合っているのもおかしくて仕方ないわ。ええ、ええ、わたしは前にこのお屋敷にいた時のことなんて覚えていない。なのに知っているとしたら、お母様が教えてくれたから、以外にはあり得ないわよね? お母様を無視する人たちだって、もう知らない振りはできないわよね? わたしと一緒にお屋敷をめぐっているお母様も、きっと喜んでいらっしゃるわ。黒い絹の手袋で、わたしの頭を撫でてくださるんだから。
レイチェルたちの手をすり抜けて、わたしは玄関を抜けてお庭へと走っていった。お屋敷の壁に沿って、綺麗なお花が植えられている。チューリップ、サルビア、ペチュニア。それも、赤やオレンジ、黄色で華やかにまとめ上げているの。でも、それを眺めてもわたしはあんまり素敵ね、とは思えなかった。だって、ここはお母様のお庭のはずなのに、そうではなくなってしまっているのだもの。お母様からうかがっていたのと、全然違う様子なんだもの。
「ジキタリス、ゲラニウム、ラベンダー……」
「メイベル、貴女――」
「お母様は青がお好きなのに。どうしてこんなことになってるの?」
はあはあと荒い息を吐きながらやっと追いついたレイチェルをにらむと、赤くなっていた顔がすっと白くなった。怖がってはいるみたいなのに、それでもわたしの隣にいらっしゃるお母様は見ようとしないの。本当に意地悪なんだから!
「わ、私は明るい色が好きだから、よ。お屋敷も庭も、私の好きなようにして良いと、お父様からお許しはいただいているわ」
手を胸の前で握りしめて、レイチェルはがくがく震えていた。今にも倒れてしまいそうだけど、わたしは許してなんかあげないの。だってひどいことをしているのはレイチェルの方よ。ちゃんと謝ってお庭を戻すまでは絶対に引き下がらないつもりよ。
「そんなこと――」
知らないわ、って言おうとしたんだけど。でも、言い切るより先に、レイチェルは口元をおさえてその場にうずくまってしまった。そこに、追いかけてきた使用人たちが集まって、レイチェルを助け起こす。倒れてしまった人に駆け寄るにしては、どうしてか笑っている人もいて、変なの。
「まあ、奥様……まさか!?」
「え、ええ。そうだと、思うわ……」
わたしには、何のことだか分からなかったんだけど。使用人の、特に女の人たちはレイチェルの答えを聞いてどっと声を上げた。
「ご懐妊ですね!」
「まあ、何ておめでたい」
「早くお部屋に戻らないと」
分からないけど。やっとお母様がいるって分からせることができたと思ったのに、そんなことはなかったみたい。男の人も女の人も、みんなレイチェルについて行ってしまって、レイチェルに笑いかけて。
わたしとお母様は、また誰からも忘れられて見えないみたいに取り残されてしまったの。
ヴィクトリア朝時代、当時はまだ露光時間が長く、被写体はその間じっとしていなければならなかったため、子供や赤ちゃんの写真を撮る際に母親・家族などが黒子的な背景に紛れる扮装をして、あやしながら撮影することがよくあったそうです。Hidden Mother Victorian Photographyなどで検索すると豊富な例を見ることができます。
下記のサイトでも時代背景等の説明が紹介されています。
togetter Hidden Mother写真の謎 https://togetter.com/li/525417
英語版Wikipedia Hidden mother photography https://en.wikipedia.org/wiki/Hidden_mother_photography
What are "hidden mother" photographs? http://www.deceptology.com/2012/01/what-are-hidden-mother-photographs.html