1.
玄関のポーチの方がさわがしくなったので、わたしはお父様がいらっしゃったのを知った。この屋敷にいるのは、いつもはわたしとお母様だけ。ほかのお屋敷にいらっしゃるお父様が訪ねていらっしゃるのは、珍しいこと。
「お母様、お出迎えに行った方が良いかしら……?」
刺繍をしていた手を止めて顔を上げて、使用人たちがポーチに集う気配に耳を澄ませながら、わたしはお母様にお聞きした。
お父様は、優しいから好き。この屋敷にいらっしゃる度に流行りのお服や甘いお菓子、綺麗なご本をくださるの。でも、お母様にはなぜかとても冷たくて、いないように扱われるの。ひどいわ、お母様ともちゃんとお話してあげて、って怒っても、お母様のことを忘れたりなんかしないよ、って笑われるだけで。でも、お父様はお母様とは決して目を合わそうとさえなさらないの。
お父様のそういうところは、わたし、とっても嫌いなの。だって、お母様のことはお父様よりももっとずっと大好きなんだもの。お父様がいない間も一緒にいてくださるのはお母様だし、刺繍も、文字の読み方も、なんでも教えてくださるの。黒い絹の手袋をはめた手で、髪を撫でてくださるのも気持ちが良いわ。
だから、またお父様はお母様の前をすっと通り過ぎてしまうのかしら、と思うとそんなところは見たくなくて。できればお出迎えしないでこのお部屋で待っていれば良いんじゃないかしら、と思ってお母様に聞いたのだけど。お母様は、ゆるゆると首を横に振った。いつものように、言葉に出しておっしゃるわけじゃないけれど、わたしにははっきり聞こえる気がした。だめよ、メイベル。お父様に失礼をしてはいけません。決して厳しい言い方じゃないけど、聞かないではいられない。お母様の声は、きっとそんな響きなのでしょうね、って。わたしはずっと思ってる。
「……はあい」
だから今も、わたしはおとなしく返事をすると、指ぬきを取って、刺繍の針を針山に突き刺して立ち上がった。椅子からぴょんと飛び降りて扉に向かうわたしの背中には、お母様がついていてくれる。
「おお、メイベル、大きくなって……! 良い子にしていたかい?」
「ええ、お父様、お帰りなさい。お母様が色々教えてくれるのよ」
手すりをたよりに階段を降りると、ちょうどホールに入ったところだったお父様と会うことができた。まだ帽子をかぶったままのお父様は、わたしを抱き上げて頬ずりしてくれたけど、やっぱりお母様には目もくれない。良い子だったのを褒めてくださるなら、お母様も褒めてさしあげなければいけないでしょうに。
首をひねって、まだ階段の上からわたしたちを見下ろしていらっしゃるお母様の方をうかがってみる。いつものように、黒いヴェールの下でどんな表情をなさっているのかは分からないけど、背筋をぴんと伸ばしたまま、両手を身体の前で組んだお母様は全然怒っていらっしゃらない、ような気がする。お父様はいつもこうね、って諦めていらっしゃるみたい。
「いつも寂しい思いをさせてすまないね。今日こそは、本邸に来てくれないかと話をしたくてね。使用人がいるとはいえ、いつまでも別邸にひとりでいるのではなくて――」
「お父様」
お父様が何か言おうとしているのをさえぎって、わたしは言った。お父様のおっしゃることは時々訳が分からないから、申し訳ないけど聞きたくないこともあるの。それに、とっても気になることができてしまったから。
「その方、だあれ?」
お父様の後ろには、若い女の人が立っていた。クリノリンで釣鐘みたいにたっぷりと膨らんだドレス。裾や袖のレース飾りもたっぷりとして。本物みたいな花の飾りの帽子の下からは、金色の髪がのぞいてる。きっとシニョンに結っているのね。何本か刺さった真珠のピンがきらきらしてる。その女の人の、青い目も。
なんでわたしを見てあんなに笑っているのかしら。大人って、子供を見るとにこにこするものではあるみたいなんだけど。お父様もわたしは可愛いって言ってくださるし。でも、初めて会う人なのに何だか馴れ馴れしくはないかしら。
「ああ、彼女はレイチェルといって――お父様の、お友達なんだ」
「はじめまして、メイベル。貴女のお話はよく聞かせてもらっているから、こうしてお会いできて嬉しいわ。小さいのにしっかりしているというのは本当なのね……?」
レイチェルという人が手を伸ばそうとしたのは、握手をしようとしたのかしら。頭を撫でようというなら、小さな子扱いされてるみたいでいやな感じ。だからわたしは身体をよじってお父様の腕から抜け出すと、レイチェルから数歩離れたところでスカートの裾をつまんで見せた。
「……はじめまして。ごきげんよう」
レイチェルという人の、話し方もいやな感じ。蜂蜜を使いすぎた、甘すぎるお菓子みたいにべったりとして、手も髪もべたべたになりそうな感じ。こういうのを何ていうか知ってるわ。不躾な、っていうのよ。子供だからって甘いものに夢中になると思ったら大間違いなの。
それに、この人の失礼なところはそれだけじゃないわ。この家の女主人はお母様なのに。お母様を差し置いて、お父様みたいにいないように扱って、私だけに挨拶するなんて、何だかおかしくないかしら。お母様をの方をまたちらりと見てみれば、階段を何段かおりて、わたしたちに近づいている。やっぱり、お母様でも黙っていられないということなのかしら。
「お客様、なのね? いつまでいらっしゃるの? お茶と……お食事も召し上がるのかしら」
早く帰ってくれないかしら、と思いながらたずねてみると、でも、お父様は満面の笑顔でわたしの傍にひざまずいて、頬にキスをした。それから言われたのは、目の前が真っ暗になるようなこと。とても我慢ならないようなこと。
「レイチェルは帰らないよ。帰るのはお前の方だ、メイベル。お前ももう八歳だ、そろそろレディになるための教育が必要だしね。これからは三人で暮らそう」
「……どういうこと? お母様は?」
わたしの声が低くなったのに気付かない振りをして、お父様は大げさに笑った。立ち上がって両腕を広げて、わたしとレイチェルを同時に抱え込むようにして。こんな人と、少しだって近づきたくなんかないのに。
「レイチェルが新しいお母様になってくれるんだよ! お前が引き籠ってばかりでは、前のお母様も心配だろう」
「わたしのお母様はお母様だけよ! 今もそこにいらっしゃるの! 新しいお母様なんかいらないわ!」
お父様ったら、なんてひどいことを。お母様の目の前でほかの女の人にキスするなんて。しかも、わたしをお母様から取り上げるなんて。それとも、お母様からわたしを? どちらでも良いわ、どちらでも同じだわ。とにかく、そんなこと許されるはずないのに!
「メイベル、お母様が恋しいのは分かるわ。でも私、貴女のお母様になれるように頑張るから。どうか、仲良くしてちょうだい」
「触らないで!」
レイチェルが伸ばしてきた手を払いのけて、わたしはお母様に駆け寄った。お母様の黒いドレスにしっかりしがみついて、お母様の影に隠れるようにして、お父様とレイチェルをにらむ。
でも、お父様は困ったように笑っているだけで、全然気にしたようには見えなかった。