〈化猫の弔い〉-9
番の進む先が、コンクリートの橋の上ではなく雑草が蔓延る(はびこる)河原になっていた。夏草は枯れかけて、目立つのは番の肩ほどにまで長く伸びたススキの穂。ひんやりとした風が吹くと穂が擦れた音を立て、流される。もうひとつの川がそこにあるように。
少し先には本当の川の流れがあるのだろうが、水の音がするばかりでその様子は見えない。
番はまっすぐに歩いてゆく。それが手に抱く三毛猫…化け猫の意思だった。
不意に背後から、生ぬるい風を浴びた。
番は反射的に振り向きながら、身を屈めた。
周囲は暗闇であった。だがそれよりもっと黒い色をした影が、彼のすぐ後ろにいたのだ。大きさは番と同じくらい。
「その手にあるものを」
影から声がする。男とも女とも若いとも老いているとも分からない声が。
「ここに置いていけ」
番は駆けだした。三毛猫と風呂敷包みを抱えたまま。
影は追っては来なかった。番は足を止めた。
するとまた背後から声。
「その手にあるものをここに置いていけ」
番はまた走った。声は止んだ。だが番がまた立ち止まると、同じ声で同じ言葉が聞こえてきた。番は止まるのをやめ、走り続けて川に出た。そして川の中に一歩踏み出した。
甲高い叫び声が上がった。
それは番の手の中から。三毛猫が発した叫びだった。
化け猫は水が苦手だといわれている…番はそれを思い出した。
その時には三毛猫の体は大きくなって番の手から消え、水際の地面に降り立ち、黒い影と対峙していた。
化け猫は背を丸め、唸り声を上げた。
影は風に揺られながら少しずつ大きく、形を変えた。それは化け猫と似たような、四肢で地面に立つ獣のような姿であった。
化け猫がその中央部に向かって飛びついた。影は倒れた。だが化け猫の足元から煙のように浮き上がると、再び元のようになって揺らめいた。
化け猫はまたそれに飛びかかった。
番は風呂敷包みをしっかりと抱えて、水を避けてススキの藪に身を隠した。化け猫の本体はこの風呂敷包みの中にある。影から隠しておきたかった。
息を潜める番。
化け猫と影の戦いはどちらの動きも変わらぬまま続く。
どうにかしなければ、と番が思ったとき。
チ チ チ
番の胸元から小さく音がした。
それは番の懐剣淡雪が、白蛇の姿で鳴らす、警戒の音であった。
生ぬるい風が番の背後から吹いた。
「その手にあるものを置いていけ」
言い終わらぬ間に番は駆けだした。そしてまた藪の中に隠れた。
するとまた背後で
「その手にあるものを」
声がした。
番は振り向きざまに淡雪を振り下ろした。そこには番と同じくらいの大きさの影が同じように屈んでおり、淡雪が当たると凹み、しかしすぐ元に戻った。
チ チ チ
淡雪が懐剣のまま音を立てた。
「その手に」
影は人のような形をなし、番に近付いた。
「あるもの」
番がもう一度淡雪を突き立てようとした。が、できない。
「を」
影は歪み、その後もっと番に迫ってきた。
「置」
影が番の左手を包み込む。番は左手を引き、風呂敷包みごと羽織と着物の間に隠した。
「い」
影は動揺したかのように動きを止めた。
番はそのまま後ろに下がった。影は追って来ない。
それを確認すると、番は駆けだした。
影から距離を取り、番は考えを巡らせた。
淡雪が効かないのはどうしてなのか。あの影は霊体ではないのか。番の大きさと化け猫の大きさの2体いるのはなぜか。どうしたら化け猫の木乃伊を守れるのか。
どうして化け猫はわざわざここへ来たのか。
水が苦手だというのに川岸などへ。
後ろからススキが揺れる音がして、生ぬるい風が吹いた。
番は咄嗟に、右手に握った淡雪を袖の内に隠した。
「化け猫の木乃伊はどこじゃ」
先刻の影と同じ声。生温かくて湿気を帯びたものが番の背中にぴたりと張り付く。番の体じゅうに悪寒が走った。
「いないの。これは…そう」
影は独り言を呟いた。
「人の死骸」
つづく
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