〈化猫の弔い〉-8
5分後かどうかは番には知るつもりもないが、女は思ったより早く戻ってきた。スーツがジーンズとカーディガンに替わり、スニーカーを履いている。
並んで歩き出すと同時に、女が言った。
「まだお名前をお聞きしていませんでしたよね。私は梅田といいます」
「私は番と申します」
「つがい」
女、梅田は呟き、すぐ番に向かって言った。
「留守番の『番』の字ですか?」
「そうです」
「珍しいお名前ですね」
「字を当てる方も珍しいです」
「私、これでも教師なので。国語ではありませんが」
「では何を教えていらっしゃるのですか」
「数学です」
「そうでしたか。そういう方なら、尚更、私の話は信じがたいでしょうに」
「でも実際に、ミケが見えるのに触れないという現象を体験しましたから…」
言いながら、梅田は、番に抱かれた三毛猫に目を遣った。「それに、私、人が真剣に言うことはとりあえず信じてみようと思っているんです。まず聞いてみて、それから判断しようと。番さんが話す様子は、嘘をついているように見えなかったです。…でもさっき、信じられないと言ってしまいましたよね。すみませんでした」
「それは目の前にこの子がいれば、生きていると思うのが正常ですから。私は気にしていませんよ」
「そう言っていただけると気が楽になります」
「私の言うことをとりあえず信じて下さるのなら、お願いがあります。それは」
番が足を止めた。
「私が急に、どこかに隠れるようにとか伏せるようにとか、言った際にはすぐ従って下さい。
理由は後で…話せる限り説明します。おそらくそんな事態にはならないと思いますが。お願いできますか?」
「分かりました」
しっかりとした声で梅田は答えた。「そうします」
ふたりはまた歩き始めた。
「ミケは、どこに行きたがっているんですか?」
梅田が訊ねた。
「荒川を渡るんだそうです」
番が答えた。
「そんな遠くに」
「人の足なら、そう遠くはないですよ。猫には遠いんでしょうか。私には猫のことはよく分からないんですが…」
「野良猫なら、そのくらいは行動範囲なんでしょうかね。実は私もよく知らないんです。でも猫が橋を渡っている所なんて、私見たことない」
「私もないですね、そういえば」
「ミケ、あんた橋を渡って向こう側に行ったことあるの?」
梅田は軽い調子で三毛猫の方を向いて訊いた。
「ある、そうです」
番が三毛猫の代わりに答えた。
「本当? 賢いんだね。そうか、普通の猫じゃないんだっけ」
「どうも想像しがたいですがね」
「番さんでもそうなんですか? あの、失礼かもしれない質問なんですが…」
「私はただの人間ですよ」
梅田が聞く前に番は言った。
「なんで聞きたいことが分かったんですか?」
「自分の胡散臭さを自覚している、それだけです」
「胡散臭いだなんて」
「いいんですよ。そう思われていると知ってやっていることです」
「番さんは、こんなことをいつもなさっているんですか?」
「さあ。どうでしょうね」
川沿いの歩道に出た。土手の上なので急に視界が開ける。番と梅田は、離れた所に見える橋を目指して歩き続けた。
「ミケの本当の姿は、私が今見ている姿なんでしょうか。化け猫って、なんかこう、もっと妖怪っぽくて怖いイメージがあるじゃないですか」
「本当の姿、ですか」
番は言葉を切った。だがすぐに続けた。「この姿はこの子の、本当の姿です。でも、違った姿になることもあります。それも本当の姿です」
「どういうことですか」
「言ったままですよ。どんな姿に見えても、この子であることに変わりはないんです」
「ですから、その中で本当の」
「梅田さん。今の梅田さんの姿と先刻の梅田さんの姿、どちらが本当の姿ですか? スーツを着ようがジーンズを穿こうが、どちらも梅田さんなのではないですか?」
「私の場合は、体の大きさや形は変わっていません」
「でも見る人によっては、あなたの印象はかなり変わるでしょうね。髪型や化粧を変えたらもっと変わるかもしれません」
「それと同じ事、だというのですか」
「そうです」
梅田はそれ以上には言い返さなかった。だが表情は明るくない。
ふたりは橋の前まで来ていた。
「梅田さん」
番が言った。「橋を渡らずにここで待っていてください。渡ってよい時に、迎えに参ります」
それだけ言うと、梅田の返事は聞かずに進みだした。
つづく
読んでいただきありがとうございました。