〈化猫の弔い〉-4
公園の中から路地に出る。街の灯りは全く見えない。東京の街中に本当の暗闇が存在しているということなのか。アスファルト敷きだったはずの道がぬかるんでいて、番が走るとその足に容赦なく泥が跳ねた。
だが番にそれらを気にする様子はない。
上空に獣の姿を探しながら、番は走り続けた。獣はあちこちに見られるようになっていた樹木に次々と飛び乗りながら、蛇行しているようだった。
番は走るのをやめた。
荒く息をつきながら懐中に手を入れ、取り出したのは一振りの懐剣。鞘は懐の中に納まったまま、白い革の柄を握ると、番は獣の動きとは違った方向に歩き出した。
やがて周囲に何もない、広場のような場所に入っていった番。雨はなおも降り続き、番の全身を濡らす。光のないその場所で番は足を止めると、懐剣を前方に構えて何か小さく唱えた。
突然、番の目の前に大きな影が落ちてきた。
それは番が追って来たもの、彼の倍以上の体躯を持った化け猫だった。化け猫は上手く地面に降り立つと、太さが人の腿くらいある尻尾を立て、唸り声をあげて番を睨みつけた。
番は素早く化け猫の眉間に懐剣を刺した。化け猫が背後にかわしたため、それは浅く、すぐに懐剣は落ちた。
懐剣を拾うためにかがんだ番。そこへ化け猫が爪を立て襲いかかった。
番は素早く懐剣を拾うと化け猫の前足を払った。刃は当たらず、番の右の腕と化け猫の前足がぶつかって番の方が飛ばされた。
しかし懐剣は握ったままだ。
すぐに番は立ち上がったが、同時に化け猫の爪が再び襲う。今度は避けたつもりだったが微かに彼の左足に爪の先が掠った。続けざまに横から張り倒された。そこへ噛みつかんと牙が迫る…。番が下がって避ける。化け猫は顔を近づけたまま、身を低くして進み出た。暗闇の中、番を遊び半分の獲物と認識しているのであろう化け猫の目は、その元来の闘争心によってか鋭く輝く。
番は大きく下がり、化け猫と距離を置いた。
しかし化け猫の動きは普通の猫と同じで、跳躍できる。半端な距離では却って攻撃しやすくしてしまう。今まさに、化け猫は番を見据え、狙いを定めて襲って来た。
だがそれは番の陽動だった。番は化け猫の爪をかわして顔のすぐ前に駆けて出ると、眉間に向かって懐剣を刺した。皮膚を突き破る感覚。それを確認して番は手を離した。
また強く獣のにおいがした。今度は血のにおいが混じる。化け猫は固まったようにじっとしており、懐剣が刺さった眉間からは、赤黒い血が大きな雫になって垂れてきている。やがて雫は切れ目のない流れになって化け猫の顔を伝い、体毛に吸われて赤い染みを広げた。
そしてついに化け猫の体が傾き、横倒しになると、それきり、動かなくなった。
番は羽織の内側に左手を入れ、出した。その手には風呂敷包み。黒と白と薄茶色の市松模様の…。
番は包みをほどき、白木の箱の蓋を開けた。
すると化け猫の体がみるみる縮み、萎れるように生気を失っていった。やがてその大きさが普通の猫くらいになったとき、体の中心からビー玉程の大きさをした青く光る靄が現れ、体と離れるとふわふわ宙を漂いはじめた。
その靄を追うものが。
白い蛇であった。白蛇は素早く地を這うと靄に追いつき、頭を高く起こしてそれに食いついた。靄のように見えたものは白蛇の口に咥えられ、はみ出した部分がびちびちと、まるで魚の尾のように跳ねていた。白蛇は番の方を振り返って、これは頂くとばかりに一瞥すると、一気に獲物を飲み込んだ。
番は縮んだ化け猫の骸を、そっと白木の箱に収めた。そしてすぐに蓋を閉めると、風呂敷にくるんでその四隅を固く結んだ。
その姿に白蛇が近付く。
白い柄をした懐剣が、その獲物が姿を消すと同時に化けたのだ。いや、白蛇が懐剣に変化していたというべきか。
「淡雪」
番が白蛇の名を呼び、言った。「終わりました。戻って下さい」
白蛇はするすると番の足元まで来ると、その背中を昇り始めた。そして肩に乗ると、おもむろに頭部を彼のうなじに近づけた。頭部はそのまま、まるでそっと水の中に入ってゆくように彼の体の中へ消えた。
同時に番が呻いた。苦痛に堪えるためか、目を閉じ、奥歯を噛み締めた。
白蛇の体長は1メートル弱、体をくねらせながら番の体に入ってゆく。首筋にそのうねりの凹凸が出ては消え、出ては消える。つど番は呻き声を上げ、包みを抱える両腕にも力が籠った。顔はすっかり青ざめ、足が震えていた。背を丸め、立っているのがやっとといった姿だった。
やがて白蛇のすべてが番の体内に収まると、苦痛は消えたのか、番が目を開けた。
荒く息をつきながら姿勢を正す。少しふらついた。丸眼鏡を一度外し、掛け直した。全身が小刻みに震えていた。
しばしじっとして息を整えると、番は元来た方へ歩き出した。
今の出来事は全く予想外であった。
白蛇が飲み込んだものは、その辺を漂っていた霊体だ。ただ力が少し強いようで、番が持ち歩いていた風呂敷包みに感づいてその中身に憑依したのであろう。中身の方も、かつては強力な霊気を持っている存在だった。それが呼応し合ってああいう姿になった。
箱の中身は、かつて化け猫だったものの木乃伊なのである。
それを番が白蛇の懐剣で引き剥がし、霊体は白蛇の贄になり、箱の中身は番が回収した、というわけであった。
懐剣は今のような事態の際によい武器であった。
が。代償がつく。
つづく
読んでいただきありがとうございました。