〈化猫の弔い〉-3
三毛猫はカウンターの空いた所に飛び乗った。そして女将に甘えているかのようにもう一声、鳴いた。
「お前、久しぶりじゃないの」
嬉しそうに女将が言った。「でもそこに座っちゃだめよ」
そして女将が猫を抱き上げようと手を伸ばすと、猫は素早く飛び降り、さっと消えてしまったのだった。
客たちが床を覗いて三毛猫を探す。が、その姿はどこにもない。
そんな中、番はそっと風呂敷の四隅を結び直した。そして音もなく立ち上がると、
「ごちそうさまでした」
女将に向かって言った。
「ああ、ありがとうございます」
驚いた様子ながら女将は笑顔で答えてきた。
番は少し申し訳ない気持ちになりながらも、何も言わずに会計を済ませ、風呂敷包みを抱えて店を出た。
番は先刻と同じ歩調で歩き出した。
大きな通りに出て、交差点を渡る。駅と反対の方向に歩く。やがて次の角に来ると立ち止まり、考え事でもしているかのようにじっとした。
「少し休みますか」
番がまた、包みを見ながら言った。「ここでは賑やか過ぎるでしょうか」
番は角から離れ、少し進んだ所にあった、シャッターを下ろしたままの店の前で足を止めた。
「ここは…。そうですか、昔は雑貨屋を」
言いながら、店の壁に体を預けた。「ええ、私や人にとっては、30年前は充分昔なのです。あなたにとってはついこの間のように感じるのでしょうが…」
番は周囲を眺めた。今日家を出て初めてかもしれない。
「この辺りはまだ駅が近いですから、景色はすぐに変わってしまうのでしょうね。もう少し歩きましょうか?」
番は風呂敷包みを見た。が、歩き出すことはなかった。ここに留まりたい、という意志を汲むように。
家を出てからの番の行動は、殆どがその手にある風呂敷包みの中身が指示していたことであった。狭い隙間を歩いたり、店の軒下で佇んだり。小料理屋に入ったのと、そこで箱が開くのを黙殺したのは、番の気づかいであった。
箱の中身は。
急に小雨が降りだしてきた。
淑やかな音を立てた水の粒が、番と、手にした包みに落ちてくる。今いる軒先は狭く、雨はしのげない。
番はその場を離れ、早足で雨宿りできる場所を探した。
通りを曲がり、少し行くと公園がある。そこには樹木が植えられていたはずだ。番がそこに向かうと、公園の中に人影はない。ちょうど良いと、彼は樹木の真下の、地面が濡れていない所に飛び込んだ。
庇うように抱えていた風呂敷包みは、殆ど濡れていなかった。
なおも羽織の袖で風呂敷包みを覆いつつ、番は空を見上げた。樹木と建物で狭くなった空は、暗く、雲の流れも月の位置も全く分からない。ただ細かな雨粒が落ちてくるのみ。小雨は柔らかな音と感触ながらも、まるで侵食するかのように衣服に浸みてゆき、急速に番の体温を奪い、さらに何物かの気を波立たせた。
天気を気にする番は気がつかなかった。
手の中の風呂敷包みが、再びその結び目を解いたのを。
ガタン
風呂敷の中の箱が音を立てた。
番が驚いて見下ろすと、白木の箱が剥き出しになっていて、蓋が僅かに開いていた。
視線を上げた番。
その瞬間、濃い獣のにおいと二つの光を、すぐ眼前に感じた。光は白い。よく見ると獣の両眼だった。においは半開きの口から洩れていた。尖った歯が並ぶのが見える。口も目もその周囲が毛で覆われていた。それに長い髭の数本が、番の顔に触れていた。
「しまった…余計な『もの』が」
番が呟く。
獣は番を一瞥したのち、上を向いて大きく飛び上がった。その体はやや光を放っていて、雨の夜でも番にはよく姿が分かった。
獣は番が雨宿りしている木の高い枝の端に立つと、景色でも眺めるかのようにゆったりとまわりを見渡した。
やがて狙いを定めたのか、獣がジャンプした。番の視界から消えてしまった。番は獣の消えた方向へ、雨の中を走り出した。
つづく
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