〈化猫の弔い〉ー2
その男、番は、家を出ると、舗装のない道を進んで竹林の横を抜け、マンションと洋館の間からアスファルト敷きの路地に出て、駅とは反対の方向に歩き始めた。
すっかり日が暮れてはいるが、人通りは多い。
そして、街の灯りは当たり前のように辺りを照らしている。
マンションが建ち並ぶ通りを、番はゆっくりと歩く。それは呑気に散歩でもしているかのように。
周囲を歩く人々は急ぎ足ばかりで、番はそんな人々にどんどん追い抜かれた。中にはわざとぶつかりそうな距離で抜かしていく者や、聞こえよがしに舌打ちして行く者もいた。彼らにとっては番のように歩く者は邪魔で、かつ自分の苛立ちをぶつけても構わない相手だという認識しかないのであろう。
でも番は、彼らの失礼な態度を気にするよう素振りは見せない。そんなものにはまるで関心がない様子で、彼は調子を変えずに歩き続ける。
そして狭い道に曲がる角で立ち止まった。道、というよりも建物の隙間だ。番の肩幅と同じくらいしかない。番は奥を覗き込んだ。先の方が明るい、別の道に出られるようだ。それに隙間の幅は一定のようである。通り抜けることができそうだと番は思い、そこを進んでいった。
やがて予想の通り、番は別の路地に出た。
番は止まり、手にした風呂敷包みに目を遣った。そして、少しの間じっとしていたが、行き先が定まったのか、視線を上げると右に折れた。
やはり、歩調はゆっくりとしている。
そんな番がまた足を止めた。
そこは居酒屋とラーメン店の間。プラスチックの丸いゴミ入れが、一部分しか収まらずにほぼ道にはみ出しているくらいの狭い隙間だった。とても人が通れるような幅ではない。それに、奥は暗くて見通せない。
番は困った表情で笑んだ。
「さすがに…無理です。すみません」
切れ長の目を伏せ、誰かに謝った。相手の姿はない。
それからまた、路地を歩き出した。
いつの間にか、酒を供する小さな店ばかりの通りに出ていた。
「あなた、まさか人前で酒なんて…」
番は歩きながら小声で言った。視線は下を向いていた。先刻謝った時と同じである。視線の先にあるのはその手にある風呂敷包みのみ。
「…そうか。可愛がられていたんですね」
そう言った番の足が、一軒の小料理屋の入口近くで止まった。
その足元には一枚の小皿。加熱してほぐした鶏肉らしきものが載っていた。店の誰かが置いたのだろうか。
「あなたの来るのを待っているんでしょうかね」
番はしばし、その小皿を見つめていた。
急に背後から声がした。「兄さん、そりゃ猫の餌だぜ」
振り向くと、中高年の男二人連れが、隣の店の扉の前でこちらを向いている。今ちょうど出て来た所らしく、どちらもすっかり酔いが回っているのが見て取れた。
「そんなに腹減ってんなら、俺らが奢ってやろうか?」
「着物着てるなんて、兄さん落語家か何かかい?」
羽振りの良さそうには見えない風体のふたりだが、気軽な調子で話しかけてくる。ついて行けば本当に飲み食いさせてくれそうな気さえさせられた。
だが番は、彼らの問いには答えず、言った。「その猫に会ったことがありますか?」
「一回見たな」
ひとりが言った。
「ああ? 俺はねえぞ」
「おめえは酔ってて憶えてねえんだろう」
見たと言ったひとりが笑い、番の方に向き直った。「でかい三毛猫がそこの餌を食ってるのを見たよ。でかいくせにすばしっこかったなあ、撫でようとしたら、ぴゅっと逃げられちまった」
「そう、その猫です」
「兄さんの飼い猫かい?」
「違うんですが、ちょっと、縁がありまして」
「縁か。なら、その店に行ってみたらどうだい? もっと話が聞けるかもしれないよ」
皿を出しているのであろう、目の前の小料理店を、番は改めて見た。
男たちは鼻歌まじりに去っていった。
やや建付けの悪い店の引き戸を開けると、カウンターの中の女将らしき女と目が合った。「いらっしゃいませ」
柔らかく、愛想のよい口調だった。明るい色調の着物と茶色い髪。40才前後と見受けられたが、客商売の人間である、実際はもっと上かもしれない。
番は入口近くのカウンター席に腰掛け、隣に風呂敷包みを置いた。
女将が渡すおしぼりと引き換えのように、番は清酒と総菜を注文した。
「上着のハンガー、脇にありますからね」
ハンガーは席のすぐ横に迫る壁に掛かっていた。だが番は羽織を脱がず、ただ静かに笑みながら頷いた。
店はカウンターが十席程、四人掛けのテーブルがふたつで、その七八割方が埋まっている。カウンターの奥にいる三人組の客が、ずっと女将に喋りかけている。女将はそれにニコニコと答えながら、他の客の注文をこなす。
やがて番の前にも、冷酒の入ったガラスの徳利と猪口、小鉢が置かれた。小鉢の中身は筑前煮。やや鶏肉が多めである。
一杯目は女将が酌をしてくれた。
冷涼で引き締まった香りと味を持つ酒であった。
呑んだ者の身を清めるような酒だ、と番は思った。
その隣で、椅子に置かれた風呂敷包みの結び目が、ひとりでに少しづつほどけていった。
それがやがて完全にほどけ、包まれていた木箱が露になったとき、店の中に猫の声が響いた。
つづく
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