〈化猫の弔い〉-1
東京の下町にあるターミナル駅、東千住。
その近くの、小さな日本家屋の引き戸の脇には、よく見ると小さな表札がある。
『番』
と、墨で一文字のみ書かれている。
その木戸から、人が出て来た。着物姿に風呂敷包みを抱えた男だった。
東千住駅から、丸井やルミネのある方向とは正反対の側…つまり地下鉄の音大口から出るには、どの路線の改札からでも、出たのちに南方向に向かい、タイル壁の長い通路をひたすらに進み、次の駅までたどり着くのではないかと思う程進んだ先にあるエスカレーターに乗る。
上り切って目の前の道に出、左折しよう。片側一車線の車道と、その両側にガードレールの付いた歩道がある。とりあえずこちら側の歩道をゆく。
数メートル歩くと横断歩道があるが、そこはスルーして。
次の横断歩道が少し遠くに見えるだろう。そこを渡る。
渡る前に気付くだろうか。それとも渡りながらであろうか。横断歩道が終わった先に真っ直ぐ進んでゆく人や、向こうからやってくる人が結構な数いる。が、そこに道路はない。
そこはビルとビルとの隙間だ。ゆえに狭く、交差する人々は譲り合いながら、交互にゆき、或いは来る。長さは100メートル程。その頭上には屋根のように歩行者と上空を隔てるエアコンの室外機置き場。
隙間の先にはまた開けた街並みが見える。別々の空間を繋ぐ秘密の通路なのかもしれない。もちろんそこを抜ける。
その先は前方に路地が続いている。昔のガス灯を模した街灯が、路地を縁取るように並んでオレンジ色に輝いている。その外側には、大小のマンションが建ち並ぶ。明かりの灯る窓がちらほら見える。今は午後5時過ぎ、陽が落ちるのがずいぶん早くなった。
路地を道なりに進む。すると、マンションばかりだった道沿いに、戸建ての住宅が混じるようになる。さらに進む。左カーブの頂点のあたりから、コンクリート造りの高い塀が始まるのが見えるだろう。
暗くてよく分からないかもしれないが、この塀には継ぎ目が見当たらない。ブロックを積み上げたのではなく、型に流してつくられたものだ。上方には家紋らしき模様が何か所にも浮き出ていて、その上には波に見立てた流線型の屋根。立派だがなんだか古めかしい塀だ。
塀の上から、中の屋敷が少しだけ見える。豪奢な造りの洋館らしい。が、庭はかなり荒れているらしく、不恰好に伸びた木の枝やそこに引っ掛かったままの枯れ枝も見ることができよう。華奢な造りの門は無骨な鎖で固く閉じられ、煉瓦敷きのエントランスはほんの隅にその面影を残すのみ。
さて、その塀の手前に、右に曲がる道がある。街灯はなく、狭く暗い雰囲気の、いまどき見ることの稀な、赤土が剥き出しの道だ。そこをゆく。間口は狭そうだが、入って進むと幅は存外広い。
塀の反対側はマンションの壁だったが、すぐに終わり、竹林が姿を現す。その下には雑草が茂っていて、ひんやりとした風が吹いてくる。
そこをも過ぎると、目の前、行き止まりに、かなり古そうな日本家屋がある。
角の洋館と同じ頃の建物であろうか。ただしこちらは古いながらも手入れはきちんとなされているようで、引き戸の玄関に嵌められた摺り硝子はよく磨かれており、黒みがかった板壁は塗り直されたばかりかのように艶を持ち、屋根の瓦は欠けや摩耗など見当たらない。敷地内の雑草も取り払われていた。
そしてその家は、真新しい竹を組んだ塀に囲まれていた。
家の中では、ひとりの男が出掛ける支度をしていた。
しなやかな紬を仕立てた漆黒の着物に身を包み、濃い灰色をした角帯を無駄な皺ひとつなく結んでいる。半衿も足袋も黒だった。
彼は丁寧な手つきで神棚から白木の箱を下ろし、両手で包み込むようにして隣の部屋へ運んだ。箱は幅約30センチ、奥行はその半分ほど、高さはさらにその半分くらいで、あまり重そうな様子ではない。
「臭いぞ。早く包め」
低い声がした。
「今包みますよ」
男は言い、だいぶ日に焼けた畳に正座で座ると、箱を傍らにそっと置き、目前の戸棚の引出を開けた。
中には畳まれた布が何枚も収まっていた。彼はその中から、黒と白と薄茶色の市松模様をした布を取り出した。広げると、それは風呂敷であった。
広げた市松模様の風呂敷は、厚手の木綿地のようであったが柔らかな風合いで、その真ん中に置かれた箱を優しく守るように、四隅を対角に結ばれる。
「ほら、これでいいでしょう?」
男が、奥の部屋に向けて言った。部屋を隔てる無地の白い襖が少し開かれている。その向こうにいる者と話しているようだ。
「ふん、少しは我慢してやるさ…」
襖の向こうで声がした。
「早く捨ててくるがいい」
「言われなくても、行って来ますよ」
男は包みを左脇に抱え、立ち上がった。
「今回は近所ですが、時間はかかるかもしれません」
「適当に打ち捨てておけばいいのに」
憎々しげな口調。
「そうはいきません。ちゃんとお付き合いしなくては」
言いながら、男はふと思いついたかのように、再び座り、包みをそっと畳の上に置いて、掛けていた丸眼鏡を外した。
「ふん。弱いものは身を守るのに骨が折れるな」
「あなたの弔いの時には、その体を思い切り投げ捨てて差し上げますよ」
「無礼な!」
襖の向こうから叫び声が上がった。
男はそれには構わず、衿元に手を遣り黒い絹のハンカチを出し、しばし眼鏡のレンズを磨いた。それから眼鏡を掛けて満足げに頷くと、ハンカチを元に納め、すっと立って、部屋の隅の衣桁から羽織を外してその身にまとった。
そして包みを抱いて奥の土間へと行き、隅に置いてあった黒い布製のスニーカーを履く。緩めてあった黒い紐を、きちんと足に合わせて締め、結んだ。
「行って来ます」
晴れやかな口調で彼は言った。
相手は黙っている。座布団の上で寝返りを打つ、その音だけがわずかに聞こえた。
つづく
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