第三章……本エッセイの総括
私は、本エッセイで、題目にもある通り「維摩会の古代史」を、鎌足と不比等そして仲麻呂に焦点を絞って論じてきた。ただ、焦点を絞った三人が三人であるため、今さらではあるが「七・八世紀の維摩会」について論じてきた。
その中で私は、維摩会の古代史から、日本仏教史の本質を、またはそれに近いものを見た気がしてならない。
何が言いたいのかというと、維摩会の古代史を辿っていたら、呪術的、儀礼的な仏教、教えを基本とする中身の宗教ではなく、儀礼などの形式的なものを基本とする、文字通り形骸化している信仰を未だにしている日本人や日本の風土の一部を見た気がしてならないということである。そしてそれだけではなく、日本仏教が時の権力者たちに都合のいいように、解釈や運用されてきた歴史の一部を見た気がしてならなかった。
その例とも言えるものが、維摩会が始まった起源とされるのは、藤原鎌足が体調を崩した際に、尼僧による維摩経の読誦によって、体調が回復したことである。
確かに本エッセイで何度も述べたが、維摩会の中心である維摩経という経典は、病と関係がある経典である。この鎌足の説話が創作か史実かは別として、維摩会の歴史を学ぶ、知るうえで、最初に向き合わなければならない。例えそれが創作、悪く言えば虚構であってもである。
話がそれた。私は何が言いたいのかというと、何度も述べるが、その維摩会の起源とされる、鎌足の説話の内容についてである。それは、鎌足が体調を崩した際に、尼僧による維摩経の読誦によって体調が回復した、という内容である。このとき維摩経はその経典の中に記されている内容ではなく、尼僧による経典の読誦で体調が良くなった部分で、経典は呪文の台本的な役割しかしていないということと鎌足がその維摩経を呪文のように唱えられているものを聞いて、体調が良くなったということに、私は着目した。
私は、この内容の説話を読む度に、この大学四年間で仏教史を学んできて、身に染みた言葉を拝借すると、経典の内容によって人間とは何かを考えるのではなく、経典を呪文のように唱えて、唱える者や唱えているものを聞いている者、その各々が、自分が今どうあっていたいか、どうあって欲しいかを考えていない、いわゆる呪術的且つ欲望充足を目的としている信仰の典型例を示していると思わざるをえない。
私が、大学四年間で仏教史を、厳密に言えば日本仏教史を専攻していた。その中で、それに関する講義を受けてきて、日本の仏教は、釈迦が説いた人間や世界の普遍性の追求するものではなく、経典を呪文のように唱えて、何か願望を叶える、または叶えようとすることを目的としていた、釈迦の本来の教えを無視した仏教らしくない仏教であると教えられたことを覚えている。
また、私は、日本の仏教は基本的に権力者に取り入れられた「御用仏教」であるということを教わった。「御用仏教」と私は書いたが、日本仏教史に関する大学の講義では、このような仏教を「律令仏教」と教わった。「律令」という文字がついているのは、そのような仏教が形成されてきたのは、律令が導入された時期であるからである。
そのようなことを改めて振り返ってみると、維摩会というものもそのような律令仏教と同様な存在であると思わざるをえない。
維摩会の律令仏教的な変遷は、仲麻呂のときも同様であったと思わざるをえない。
仲麻呂が、天平宝字元年に時の孝謙天皇と光明皇太后に発した維摩会を国家単位で振興を求める奏上文も、内容は維摩会を行うことによって皇室や国家の繁栄と安定を祈願することを目的としているところからも見てとることができる。
今回のエッセイでは、「維摩会」という仏教儀礼をテーマにして書いてきた。その中で私は、日本の仏教は、日本の伝統信仰である神道的なものに染まっていった歴史であるのだと改めて実感した。大学四年間で日本仏教史を学んできて、自分の体に染み付いた考えかもしれない。
ところで、私は本エッセイの第二章の二節で鎌足の子は不比等であると、書いたが不比等は鎌足の第二子である。
鎌足の第一子は、定恵(48)という僧侶である。定恵は皇極天皇二(六四三)年生まれであり、不比等は斉明天皇五(六五九)年生まれで、両者の間には十六年もの差がある。
これに関して横田健一氏は、不比等が生まれるまでは鎌足にとってただ一人の子であり、自分の後を継いでくれる者であったと述べていた。(49)
横田氏は、そのような大切な子を出家させたところから鎌足の仏教に対する篤い信仰心が見えると述べていた。(50)
私はこれに関しては、納得するしかなかった。
最後に、藤原氏の氏寺である興福寺の創建についてだが、国史大辞典では「平城遷都の和銅三(七一〇)年に創建された」と記されていた。このことは本エッセイで何度も取り上げている『扶桑略記』と『昌泰縁起』にも同様な内容で記されていた。但し、谷本氏と高山氏がこれから維摩会の歴史を知るうえで史料として期待している「維摩会表白」では、「和銅二年」になっていたがそこでは、平城遷都も和銅二年であった。(51)
(48)「じょうえ」と呼ぶ。
(49)横田健一著作「藤原鎌足と仏教」昭和三十五(一九六〇)年(『白鳳天平の世界』創元社)
(50)(2)の横田論文
(51)ここでは、第一章で取り上げた上田氏の論文に載っていた建治三(一二七八)年の「表白」を参考とすると、「和銅二年己酉四月、皇都遷於平城。法会復移」という文がある。