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第二章……七・八世紀の維摩会(20)

私は、前の第一章で四つの先行研究論文を取り上げたが、その中で七・八世紀においての維摩会と藤原氏の関係の中で、鎌足と不比等そして仲麻呂の三人が深く関わっていることと、前章で取り上げた先行研究論文の中にもこの三人が必ず取り上げられていた論文があることに気付いた。

 そこで本章では、鎌足から不比等そして仲麻呂の順に、節で区切って論じていく。

     ※

    第一節……藤原鎌足と維摩会(21)

 藤原鎌足(22)は、古代日本の政治と文化において、それらの中心にいた藤原氏の祖として知られている。なお、鎌足の詳細な経歴は、論文の都合上、真に勝手ながら、今回は割愛する。

この節では、その鎌足と維摩会との関わりについて論じていく。

     ※

 鎌足と維摩会との関わりは、藤原氏と維摩会との関わりの「起源」と言っても過言ではない。

 第一章でも述べて重複するが、鎌足と維摩会との関わりで最初とされるものの経緯は以下の通りである。(23)

・斉明天皇二(六五六)年の鎌足が体調を崩した時に、百済の禅尼法明が『維摩経』を読誦

したら、体調は良くなっていった。

 そして、次の年である。

・斉明天皇三(六五七)年の山階陶原家に初めて精舎を建立して斎会を設けたこと。

 そして、さらに翌年である。

・斉明天皇四(六五八)年に山階陶原家に呉の僧福亮を講匠として招いたこと。

 以上の内容は、第一章でも取り上げた『扶桑略記』以外にも、私が集められる限りにおいて集めた史料(24)の中には、文章は少し異なるが同様の内容の記述があった。これは、『扶桑略記』が維摩会の歴史を研究するための代表的史料であると考えざるをえない。(25)

 維摩会に関する参考文献の中で「藤原鎌足と仏教」を著した横田健一氏(26)と「興福寺の建立」を著した福山敏男は(27)、斉明天皇の在位時は、都がまだ飛鳥の地にありそこから離れた山階の地に精舎を建てたことについては「疑いを禁じえない」と述べていた。

 それでは何故、維摩会が山階の地で行われたと言われるようになったかについては、横田氏が自身の著作で、山階陶原の家が精舎つまり寺院とされたのは鎌足の死後からだとして、その後山階寺創立の記憶が忘れられ、その後身である興福寺で維摩会が行われたことから、鎌足が維摩会を始めた斉明天皇の在位時に山階寺が存在しなければならないという推測の論理が、斉明天皇の在位時に山階陶原の家で維摩会が行われたという説が作り上げられたのではないかと見なしていた。福山も同様のことを述べていた。(28)

 両氏のこの考えは、第一章で取り上げた四つの先行研究論文には、私が読んでいた限りでは、無かった。私は、これについては以下のことを考えざるをえない。

・第一章で取り上げた論文は、両氏の著作より後に発表されているから、新しい発見があったから。

・両氏の説が、定説となったから、わざわざ書き記すほどでは無くなったから。

 但し、両氏は斉明天皇三年に当時、都が置かれていた飛鳥の地の自分の邸宅で、ということで、維摩会が行われていたことは、事実としてもよいと見なしていた。

 私は、この節のタイトルにもあるように、鎌足と維摩会について述べてきた。その述べてきた中で、この節の最後に私自身が鎌足と維摩会について考えたことを以下に述べていく。

 斉明天皇二年の鎌足が体調を崩した際に、禅の尼僧による「維摩経」の読誦で治った、というエピソードは―当時鎌足が体調を崩していたことの有無は別として―何度も述べているように維摩会の支柱経典である「維摩経」は病に関する内容の経典であるため、それと掛け合わせるために創作されたものであると考えるしかないということである。

 そして、藤原氏の源流であり神祇祭祀を司っていた中臣氏出身の鎌足が、仏教儀礼の一つである維摩会を行っていたということは、鎌足自身に仏教信仰の意思があったと表面だけを見たら思うしかない。(29)

しかしながら現実は、仏教という外来だが、大陸という当時高い文明を持っていた地域由来の宗教である。このため今後世の中を上手に生きていくためには、これから流行する可能性のある仏教を信仰しておいた方がいい、という考えから維摩会が始まったと考えてもいい。

このことから鎌足も政治家であるから文字通り現実主義者であったと考えるしかない。

 ここまでは鎌足と維摩会について説明してきた。次はその鎌足の子である藤原不比等と維摩会との関わりについて述べていく。

     ※

第二節……藤原不比等と維摩会

 藤原不比等は(30) 、第一節で取り上げた藤原鎌足の子である。不比等のことを簡潔に述べると、持統天皇期以降、大宝と養老の両律令の編纂(31)という日本を古代律令国家にするための礎を築いた日本史上重要な人物の一人である。前章の鎌足が藤原氏の祖とするなら、不比等はその後の藤原氏の発展の祖と言っても過言ではない。(32)

 この節では、その不比等と維摩会との関わりについて述べていく。

 このエッセイを書くにあたって、集めた先行研究論文と参考文献そして参考史料を読んできて、以下の通りにその経緯を記すことができる。(33)

(一)、慶雲二(七〇五)年……不比等は体調を崩した。祈祷をして調べると父である鎌足が行っていた維摩会を怠っていたことが原因とされた。

(二)、慶雲三(七〇六)年……前年の出来事をきっかけとして、十月に智宝を講師として公城東第で維摩会が行われた。

(三)、慶雲四(七〇七)年……十月、観智を講師として厩坂寺で維摩会が行われる。

(四)、和銅二(七〇九)年……浄達を講師として殖槻(浄刹)寺で維摩会が行われる。

(五)、和銅七(七一四)年……興福寺で維摩絵が行われる。

 以上、時系列でならべてみた。なお、(一)に対応する原文は『公卿補任』(34)(35)の記述である。

(一)に対応する慶雲二年の記述。


  大納言 従二位 藤原朝臣不比等 五月大納言藤原朝臣臥病。詔賜度者廿人(是賜度舎之始也)。兼以布四百端。米八十右(石)。施京諸寺。


(二)に対応する慶雲三年の記述。


  淡海(不比等)公城東第、初闢維摩法会、屈入唐学生智宝、講無垢称経、


(三)に対応する同四年の記述。


  淡海公在厩坂寺、請新羅遊学僧観智、請維摩詰両本経、


(四)に対応する和銅二年の記述。


  十月、右大臣就植(殖)槻之浄刹、延浄達法師、修維摩会、惣歴五箇年矣、


(五)に対応する同七年の記述。


  十月、維摩会始移修於興福寺、凡移修此会於九処矣、然間中絶四十二年云々、 


 以上の経緯を見てきて、不比等が維摩絵と関わるきっかけが、自身の体調不良であることだ。不比等の前の鎌足が維摩会に関わりを持つきっかけも自身の体調不良である。

 このことに関して、井山温子氏は『公卿補任』等にその記述が見受けられるとして、史実である可能性が強いとしている。(36)

 私は、不比等の体調不良の話は史実だと思わざるをえない。鎌足の体調不良は後世の潤色だと言われることがある。その潤色の参考になったのが不比等のそれではないかと考えてしまう。何故なら、今まで途絶えていた維摩会を復興と美化させるためには、それ相応のエピソードが必要な場合があるからである。

 ところで、不比等の頃の維摩会の経緯を「扶桑略記」を参考にして書き記したが、福山氏は、『扶桑略記』の維摩会に関する記述は、藤原良世が昌泰三(九〇〇)年に記した『興福寺縁起』またの名を『昌泰縁起』を参考に書かれたと考えていた。(37)

 そのため『昌泰縁起』(38)に記されている不比等と維摩会に関する記述を以下に記す。


  慶雲二年歳次乙巳秋七月。後太政大臣臥病不豫。是日誓願。劣臣怠緩不継先志。自今以後躬為膳夫。歸敬三寶。供養衆僧轉維摩於萬代。傳正教於千年。遙捧芳因。永資先慈。


 ちなみに『扶桑略記』は、嘉保元(一〇九四)年に成立したと谷本氏は述べていた。

 最後に、不比等が今まで行われなかったとされる維摩会を復興させた理由に、鎌足と同様でこれからは仏教を信仰しなければならないと思っていたからである。不比等は政治家として世を渡り歩くためには、その後の古代日本の文化の根幹となる仏教を信仰しておいた方がいいと考えていたと、私は思わざるをえない。

 ちなみに、この後藤原仲麻呂と維摩会との関係について、述べていくのだが、その仲麻呂が書いた『藤氏家伝』(39)という書物には、不比等に関する項目がないのである。

 その中で、福山氏は『政事要略』(40)にある維摩会に関する項目の中の「舊(旧)記云」という部分は散逸したとされる「不比等伝」であると述べていた。

 その該当する文章は、以下の通りである。


  舊(旧)記云。不比等贈太政大臣者。是鎌子内大臣第二子也

  慶雲三年十月。大臣於宮城東第設維摩会。奉為内大臣令講無垢称経。自作願文云。凡維摩会者。内大臣之所始也。大臣観善根之遠植。慮慈蔭之弘覆。遂尋遺跡。莫廃此会。仍以二毎年十月十日一始。至二十六日畢。即是内大臣忌日也


 以上、不比等と維摩会との関わりについて論じた本節を終える。


第三節……藤原仲麻呂と維摩会 (41)

 藤原仲麻呂は(42)、奈良時代後半の貴族で政治家である。彼は前の章で述べた不比等の子南家武智麻呂の子つまり不比等の孫である。

ここでは、その仲麻呂と維摩会との関わりについて論じていく。

私が仲麻呂と維摩会との関わりを知るうえで、真先に浮かんだ史料は第一章でも取り上げた『続日本紀』(43)の天平宝字元(七五七)年の仲麻呂が時の孝謙天皇と光明皇太后への奏上文である。「第一章」で取り上げたが、ページがかなり進んだため、以下に改めて書いていく。


  閏八月(中略)壬戌。紫微内相藤原朝臣仲麻呂等言。(中略)今有山階寺維摩会者。是内大臣之所起也。願主垂化。三十年間。無人紹興。此会中廃。乃至藤原朝廷。胤子太政大臣。傷構(講)之将墜。嘆為山未成。更発弘誓。追継先行。則以毎年十月十日。始闢勝筳。至於内大臣忌辰。終為講了。此是奉二翼皇宗。住持仏法。引導尊霊。催勧学徒者也。(以下略)


 以上、奏上文の一部を「略」しながらも書き記したが、維摩会の起源に関することは「今有山階寺維摩会者。是内大臣之所起也」としか記されていない。今まで私は何度も述べてきたが、維摩会の中心である維摩経は、病と関係が深い経典である。その経典を中心とした法会の起源に、例え創作であっても、祖先が体調不良即ち病に罹ったということを述べていてもいいはずである。ところが例の奏上文には、それを思わせる記述はみられなかった。

 第一章で取り上げた冨樫氏の考えを参考にすると、奏上文に維摩会の起源として重要な要素の一つである鎌足と不比等の体調不良にかんする、いわゆる治病説話を盛り込んでいないということである。(44)

 それは史実か創作かは別として、仲麻呂はそのような説話を盛り込んでしまうと、維摩会はいつまでたっても藤原氏内での私的儀礼に留まったままであると考えていたに違いない。

そして、藤原氏の私的・氏族的仏教儀礼である維摩会を、当時の国家即ち朝廷の支援を受けられるようにするためには、そのような説話は排除をして、維摩会の起源を、今日の律令体制に立脚した中央集権国家の礎を作った功労者の一人である「鎌足が始めました」としか記さなかったと考えられるということである。

 そして、そのような奏上文を発することにより、維摩会を私的・氏族的仏教儀礼を護国的な要素を強調することにより、藤原氏を他の氏族よりも優位に立たせる目的があったと述べていた。これは、この奏上文が発せられた年に、橘奈良麻呂の乱が起こり、仲麻呂が危機感を抱いたためであるということについて、私は納得せざるをえない。

 少し補足する。この奏上文が発されたきっかけは、奈良麻呂の乱が起こったこと以外にも存在する、これについて、冨樫氏もある程度は述べていた。

 その人物とは、当時皇太后であった聖武天皇の皇后光明子である。彼女は、天平五(七三三)年と同十一(七三九)年に自身の体調が良くなることを願って維摩講つまり維摩会に近い儀礼を行っていたのである。(45)

 仲麻呂が天平宝字元年閏八月にこの奏上文を発したのは、以上のような背景で奏上が間違いなく受理される状態であったからであると思わざるをえない。それを匂わせる記述は奏上文の省略した部分にある。(46)


  伏願以此功田。永施其寺。弥令興隆。遂使下内大臣之洪業。與(与)天地而長傳。皇太后(光明子)の英聲(声)。倶日月而遠照上。


 また、このような内容が記されている史料は、私が集めた『昌泰縁起』にもそのような記述がある。


 天平五年春三月。皇后重願。如舊(旧)典復講説七日。祖考之志無妨咸熟。従彼已来至于今相承不絶乎。(以下略)


 他にも天平十一年の維摩講に関する記述がある史料に『万葉集』巻八(47)に掲載されている「皇后宮維摩講仏前唱歌」の次に記されている以下の解説文がある。


 右冬十月皇后宮之維摩講終日供養(以下略)


 何はともあれ、こうして維摩会は、平安時代に国家的仏教儀礼として発展していく下地を整えていくことになる。



(20)章名からも分かる通り本卒論の題目は『維摩会の古代史』だが、取り上げている時代の範囲は七・八世紀である。

(21)鎌足と仏教との関係を詳しく研究したものに横田健一著作の「藤原鎌足と仏教」(創元社『白鳳天平の世界』に載っている)がある。本節を書くに当たって役に立った。

(22)『国史大辞典』では、鎌足は推古天皇二十二(六一四)~天智天皇八(六六九)年まで生きたと記されている。「藤原」姓を贈られたのは死の前日であり、それまでの姓は『中臣』である。

(23)『扶桑略記』の鎌足と維摩会に関する記述は、第一章の四ページ以降に記されている。

(24)本エッセイで取り上げなかった、私が時間の限り集めたその史料に、『拾芥抄』(『故実叢書』二十二巻)下、『初例抄』(『群書類従』第二十四輯)下、『濫觴抄』(『群書類従』第二十六輯)、『維摩会記』(『続群書類従』第二十五輯下)である。

(25)私が第一章で取り上げた高山氏以外の三先行研究論文と本卒論のために使用した参考文献もまた同様である。

(26)本章注2に同じ。

(27)福山敏男著作「興福寺の建立」(『日本建築史研究』墨水書房)

(28)実のところ、福山論文は昭和十(一九三五)年に、横田論文は昭和三十五(一九六〇)年に発表されている。

(29)鎌足の出身である中臣氏は、いわゆる「仏教公伝」の時期に物部氏と同じく排仏派であった。上記のことを土橋誠氏は論文「維摩会に関する基本的考察」(一九八九年、『古代史論集』下に収録。塙書房)で述べていた。

(30)鎌足と同様に、『国史大辞典』では、不比等は斉明天皇五(六五九)年~養老四(七二〇)年まで生きたとされている。ちなみに私が今回の本エッセイのテーマに維摩会を選ぶきっかけが、不比等に関心を持ったからである。(大山誠一『天孫降臨の夢』NHK出版)

(31)養老律令が施行されたのは、『詳説 日本史B』(山川出版社)によると孝謙天皇の天平宝字元(七五七)年であるため不比等本人はこのとき既にこの世の人物ではない。

(32)『国史大辞典』によると、文武天皇二(六九八)年に、「藤原」姓は不比等の直系以外は「中臣」に戻されているため、不比等は藤原氏の「第二の祖」とも言える。

(33)井山温子氏の論文「八世紀の維摩会について」(一九九四年『続日本紀』塙書房、に収録)の不比等と維摩会に関する年表を参考にして書き記した。

(34)『国史大系』

(35)(一)の引用文以外は全て『扶桑略記』である。

(36)井山氏は(14)の論文で、これ以外にも「『大鏡』の裏書き」を示していた。なお『大鏡』については、本卒論筆者は未見である。

(37)(8)の福山論文

(38)「興福寺縁起(昌泰縁起)」『大日本仏教全書』「寺誌叢書」第三

(39)『藤氏家伝 注釈と研究』、著作は沖森卓也、佐藤信、矢嶋泉 吉川弘文館

(40)『国史大系』

(41) 本節を書くにあたって、第一章で取り上げた冨樫氏の論文と(14)の井山論文は参考になった。

(42)『国史大辞典』によると、仲麻呂は慶雲三(七〇六)年~天平宝字八(七六四)年まで生きたとされている。

(43)『国史大系』

(44) 第一章の冨樫論文

(45)光明子の維摩講については、『天平十一年「皇后宮之維摩講仏前唱歌」をめぐる若干の考察』(『記紀萬葉論叢』塙書房)に詳しい。

(46)『国史大系』

(47)『萬葉集』二(『新日本古典文学大系』2)




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