第一章……先行研究論文の整理
右の章名の通り、ここでは維摩会に関する先行研究について論じていくが、最初に本エッセイのテーマでもある「維摩会」とは何かを、簡潔に述べていく。
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維摩会とは、奈良の興福寺で十月十日より十六日まで行われる法会である。奈良は南都とも言われているため、ここでは説明を割愛するが、宮中御齋会と薬師寺最勝会と合わせて南都三会の一つに入っている。
この維摩会は斉明天皇二(六五六)年、百済の法明尼が藤原鎌足(史料によっては「鎌子」と記されている場合もある)の病平癒を祈願して『維摩経』問疾品を誦して験を得たということを始まりとしている。翌年鎌足の陶原の家に山階寺を建立して維摩会を修した。その後、藤原不比等も慶雲三(七〇六)年に修し、和銅七(七一四)年には山階寺を移建した興福寺で維摩会を再開した。
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その維摩会の古代においての変遷について「はじめに」の部分でも述べた通り、鎌足・不比等そして仲麻呂の藤原氏の三名を軸にして見ていく。しかしその前に本章では維摩会に関する四つの先行研究論文を紹介していく。なお、各論文の掲載の順は発表の年代順である。
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・「興福寺の維摩會の成立とその展開」(一九八〇年)(1)
上田 晃圓 (2)
上田氏が著した本論文では、維摩会と興福寺それぞれの成立と創建そして、それらの展開について述べられていた。
本論文には、序論以外の四つの項目があり、それらは以下の通りである。
(一)、維摩會の成立について
(二)、興福寺の創建と維摩會
(三)、維摩會の構成と南都三會について
(四)、維摩會表白について
(一)では、維摩会の起源に関することが述べられていた。上田氏はここで、維摩会の起源に、以下の二説を述べていた。
①『扶桑略記』(3)に記されている、
・同(斉明二丙辰)年。内臣中臣鎌子連寝疾。天皇憂之。於是百済禅尼法明奏云。維摩詰経。因問疾発教法。試為病者誦之。天皇大悦。法明始到。誦此経時。偈句未終。應聲廼痊。鎌子感伏。更令転読。
・(斉明)三年丁巳。内臣鎌子於山階陶原家。在山城国宇治郡。始立精舎。乃設斎会。是則維摩会始也。
という斉明天皇二(六五六)年の藤原鎌足が体調を崩した際に百済の禅尼法明による「維摩経」の読誦によって体調を回復したことをきっかけとして、その供養のために翌三年山階の陶原家に精舎を建てて斎会を設けたことから始まったとする説。これは『濫觴抄』(4)『の巻上にも、これに近い記述があった。
②『元亨釈書』(5)第十六巻に記されている、
釈福亮。呉国人。受三論于嘉祥。斉明四年。内臣鎌子於陶原家精舎。請亮講維摩詰(「維摩経」)経。
という斉明天皇四(六五八)年に元興寺の僧福亮を講師として、陶原家の精舎という場所で、維摩経の講義を行ったこととする説。但し、①でも取り上げた『扶桑略記』にも同様の記述があった。それは以下の記述である。
同(斉明四戊午)年。中臣鎌子於山階陶原家。屈請呉僧元興寺福亮法師。後任僧正。為其講匠。甫演維摩経奥旨。(以下略)
ちなみに、『元亨釈書』の第二十巻には、①の鎌足と法明尼に関する記述もあった。それは以下の記述である。
法明尼。百済人。斉明二年。内臣鎌子連寝病。百方不瘥。明奏曰。維摩詰経因問疾説大法。試為鎌子連讀之。帝詔讀之。未終巻病即癒。王臣大悦。
私は、①の説を見直すたびに、維摩経が「病」と関係が深い経典だから、いわゆる創作ではないかと思わざるをえない。しかし上田氏は、①の法明尼に関する記事は史実性に乏しいとみられながらも単なる創作潤色と考えて無下に否定されるべきものではないと述べていただけではなく②説が①説を根源としているとも述べていた。
そして、①説の起源が法明尼による『維摩経』の問疾品の部分の読誦に起因して鎌足の病気が平癒したとするところに重点が置かれたものであり、他方②説は鎌足の追善的意味から維摩詰と文殊との抗論に鎌足を擬して考えられ、そのうえ福亮以後講師を請用して維摩経が講問堅義されたところに重点が置かれたものと考えている。
上田氏は、それを中国から伝わった維摩経信仰の典型化したものであり、それが藤原氏の私寺である興福(山階)寺を中心に根付いていったものであると考えていた。
私は、上田氏の右の考えに関して、「そのような経緯があったのか」と思わざるをえない。
(二)、では、興福寺の創建が維摩会と重要な関係にあると述べられていた。ここでは、最初に前項の起源で有力な禅尼法明に関する説は史実性が乏しいとしながらも、単なる創作潤色と考えて無下に否定できないと見るべきだと改めて述べていた。そして、維摩会は、不比等の死後から仲麻呂の奏上文の発表までの間全く行われていなかったのではなく、『維摩会表白』に記されていたように、断続的に行われていったと考えられていた。(6)
(三)では、維摩会の構成と南都三会即ち興福寺維摩会を含めた薬師寺最勝会と宮中御齋会について述べられていた。また、本文を読んでみると、南都三会が南都三会として、体系化していくのは平安時代の承知六(八三九)年の勅からと上田氏は述べていた。そして、維摩会の構成について、立義即ち論議は、当初講師と問者間の問答論議(論文では「論議」)が仁和二年からは研学竪義と(8)「問者との論議へとへと変わっていったと述べていた。(7)
(四)では、本論文の文を参考にすると、『維摩会表白』は、鎌倉時代の華厳宗出身の高僧宗性(一二〇二年~一二九二年)の弟子宗顕の直筆本である。上田氏は、表白には完全に否定されるべきではない歴史事項があるから、史料としての価値を評価していた。(9)
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・「『維摩会表白』の史的意義」(10)(一九九三年)
高山 有紀
高山氏が著した本論文では、『維摩会表白』(11)そのものについて、「縁起」と「次第」そして社会的側面の三つの観点から考察をしたものだった。
高山氏は最初に、「縁起」としての側面としては、維摩会の由緒を今日に伝えるわずかな史料の中で、『表白』の縁起は、それに関わる情報を豊富に取り組んでいるところにあると述べていた。
次に「次第」としての側面では、『表白』の構成が、維摩会講師の所作に対応していることから、その講師の所作の詳細や具体的に読誦する章句の内容について検討が行うことができたと述べていた。そして、高山氏はこの『表白』は維摩経講説の内容を今日に伝えるほぼ唯一の史料であるとも述べていた。
最後に『表白』の社会的側面については、門跡の実権を象徴するという機能を作り上げたことと、始行を控えた講師にとって、『表白』が貴重な教本になっていたことから、学侶の教学活動に導入されるという機能を見出したと述べていた。
そして最後に、『表白』に社会的史料としての役割が期待されると述べていた。
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・「藤原仲麻呂における維摩会―天平宝宇元年の奏上をめぐって」(12)(二〇〇五年)
冨樫 進
冨樫氏が著した本論文では、奈良時代後半に絶大な権力を持っていた藤原仲麻呂が天平宝宇元(七五七)年に維摩講即ち維摩会を興隆させるために、時の孝謙天皇と光明皇太后に奏上した。その奏上文には、維摩会の歴史について以下のように述べていた。この話が書かれていたのは『続日本紀』巻(13)二十である。
閏八月(中略)壬戌。紫微内相藤原朝臣等言。臣聞。(中略)今有山階寺維摩会者。是内大臣(冨樫氏は、鎌足と補記)之所起也。願主垂化。三十年間。無人紹興。此会中廃。乃至藤原朝廷。胤子太政大臣傷講堂之将墜。嘆為山之未成。更発弘誓。追継先行。則以毎年冬十月十日。始闢勝筵。至於内大臣忌辰。終為講了。此是奉翼皇宗。住持仏法。引導尊霊。催勧学徒者也。(以下略)
その中では、維摩会の原点である鎌足と不比等の体調不良に関することには触れずに、ひたすら「天皇・皇室を助ける」という意味で国家を繁栄に導く、という意味の文と学業が栄えるという意味の文章がほとんどであり、仏教については当時の国家仏教的内容であったと冨樫氏は見なしたうえで、維摩会が藤原氏の氏族儀礼から護国儀礼へと変わっていった(14)と述べていた。
このような奏上が出された背景を橘奈良麻呂の乱をきっかけに、維摩会を国家的儀礼にして藤原氏を他の氏族と優越な状態にしようとしたねらいがあったと冨樫氏は述べていた。本論文では、この奏上が平安時代以降に維摩会が南都三会の一つとして、国家的儀礼になっていくきっかけとなった、と記されていた。
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・「『維摩会縁起』の史料性―古代維摩会史の復元史料として―」(15)(二〇〇九年)
谷本 啓
谷本氏が著した本論文では、『維摩会表白』即ち維摩会に際して読み上げられていた表白の縁起の部分が古代維摩会史の重要な史料になると述べていた。
その理由として、表白は歴代の維摩会講師が代々書き写していたものであるが、それほど差異はないとしている。そして、そのうち古いのが長暦三(一〇三九)年成立のものであり古代維摩会の基本的な史料とされる『扶桑略記』の嘉保元(一〇九四)年成立よりも早いというところに着目し、その縁起にも、鎌足の体調不良を尼僧の読誦で治したという話等があり、逆に『扶桑略記』が表白の縁起の部分を参考にしたのではないかと述べていた。(16)
なお、以上の説は、谷本氏自身が最初に言い出したのではなく、堀池春峰(17)という人の研究を参考にして本論文を書いている。
谷本氏が参考にした、堀池氏の論文、「維摩会と閑道の昇進」(18)にも『維摩会縁起』について触れられていた。(19)
そして、谷本氏は、表白の縁起部分は維摩絵の起源の部分について、鎌足の体調不良を維摩経の読誦で治したという話は史実性に乏しく創作であり、福亮という僧侶を講師として維摩経を講じたところから維摩会の始まりであるとしている。
前に紹介した上田氏の論文では、扶桑略記に記されている鎌足の病気平癒の話について創作は確かであっても無下に否定するものではないと述べられていたのに対して、谷本氏の本論文では、その起源の説を完全に創作と断定していた。
以上の記述を読んで、私は維摩会に対する考えというものが、人によって様々であることを改めて実感した。但し、谷本氏の本論文の注釈の中に、先に紹介した上田氏の論文が記されていたことから、上田氏の論文が発表された以降に、研究が進み新たな考えが出てきたと考えざるをえない。
(1)(昭和五十五年)『南都仏教』第四十五号
(2)下の名前の「晃圓」は「こうえん」と呼ぶ。
(3)『国史大系』
(4)『群書類従』第二十六輯
(5)『国史大系』
(6)上田氏のこの章は読解するには難しかった。私なりに読解して、このような文章になった。確かに、上田氏の論文末に載っていた「表白」には断続的に行われていたことをします記述があった。
(7)上田氏の論文の三章は、本エッセイの趣旨とずれるため、大変恐縮だがこの章の解説は割愛させていただく。
(8)「竪義」と書いて「りゅうぎ」と呼ぶ。
(9)「表白」の起源の記述は前に何度も取り上げた『扶桑略記』や『元亨釈書』と似ている記述があった。
(10)(平成五年)『史艸』第三十四号
(11)本エッセイの第一章で取り上げている論文の内、上田氏とこの高山氏の末尾には各論文、建治三(一二七八)年、宝治元(一二四七)年と記された表白が載せられていた。内容は、同じであった。
(12)(平成十七年)「日本思想史学」第三十七号
(13)「国史大系」
(14)それでも教えそのものではなく、経典を呪術的且つ形式的な信仰であることに変わりはない。
(15)(平成二十一年)『南都仏教』第九十三号
(16) なお、「表白」にもその説話が記されている。
(17)下の名前の「春峰」は「しゅんぽう」と呼ぶ。」
(18)一九八八年に『中世寺院史の研究』で発表される。後に『南都仏教史の研究 遺方萹』に収録された。私は後者を今回の参考文献とした。
(19)堀池論文では、「昌泰縁起」の通称で知られる昌泰三(九〇〇)年の「興福寺縁起」(『大日本仏教全書』寺誌叢書第三)