第五話『人生のレール脱線事故』
アンゼリカ姫といえば、以前ちょこっと触れた人である。祖父である喪装皇バッカニアスの武才を最も引き継いでいると語られる武勇の女傑であり、ユラが外見どおりの性別であるならば彼女率いる『鉄姫隊』に入隊する道もあったであろうと話していた人だ。
だが、喪装騎士団所属のガラとアンゼリカ姫はそもそも所属する組織が全く違っており、これまでもなんら接点が無かった。呼び出される理由が判らないのはガラもジオも同様だ。これは一体どういうことかと首を捻りはしたが、しかしガラにとっては主君の娘であり、一軍の騎士団の団長。いぶかしみながらもガラは早速呼び出された場所に行く事にした。
ガラ=イサオミは普通に女性が好きである。心の中に想う女性も一人いる。
だからだろうか。大勢の女性が居る場所は正直気後れする。饅頭は好きだが、饅頭が百個あったらもうご馳走様、見るだけで嫌という心理に似ていた。
ゆえに女性の姿が多く見受けられる鉄姫隊はどうにも無駄に気疲れするのである。さっさと呼び出された用件を片付けて帰ろうと思い、呼び出された扉の前に立ち、来訪を告げるためにノックする。
「喪装騎士団第三大隊長、ガラ=イサオミであります。アンゼリカ様に呼ばれ、参上いたしました」
「ご苦労、入れ」
中から涼やかな声が聞こえてくる。
扉を開けて中に入り、姿勢を正す。なにせ相手は現皇帝のディアヌス陛下の娘であり、あとやたらフレンドリーな先帝陛下の孫娘に当たる人だ。某ちりめん問屋の楽隠居爺ほどの雲上人ではないが遥か目上の相手であることはどっちにしても一緒である。
緊張するガラの様子に、部屋の中で椅子に腰掛けるその人、アンゼリカは苦笑した。
滝のように背に流れる金色の髪を指で梳りながら、もう一本の腕で頬杖を突き、興味深げにガラを見上げている。
さしずめ、美虎と言うべき人だろうか。華やかさよりも動きやすさと快適さのみを追求した質素な服に身を包んで彼女はさて、と言った。
「さぞかし困惑した事だろうね。鉄姫隊の団長がなぜ自分を呼び出したのかと」
「……は、いえ。そのような事は」
心の中を言い当てられ、ガラはくい、とほんの少しだけ片眉を吊り上げた。
気にした様子も無くアンゼリカは言う。
「気にしなくていい。確かに唐突だったからね。……さて、直接的な用件を話す前に、まず事情を説明しておかなければならない。……私の妹に当たるセレネアの事は知っているか?」
「は、まあ人並みには。未だに社交界にもお姿を見せず、噂に伝え聞く容姿で若い公達の心をざわめかせている深窓のご令嬢とか」
ガラの言葉にアンゼリカは溜息交じりの頷きを返した。
「そう、十六にもなるのに未だに社交界はおろか、人と会うことすら恥ずかしがる子だ。父上やお祖父様、私を含め、まともに会話できる人間は両の手で事足りるほどの人見知りでね。
で、だ。その子が先日、少数のお供を付けてこっそりと町に出たらしい。……その事は知っているか?」
「いえ、それは初耳です」
思わぬアンゼリカの言葉にガラは演技の必要も無く驚きの声を上げた。人見知りが激しいと聞いていたのに、その思わぬ行動力に少し感心する。
「そして、人の喧騒に紛れている内にお供のものとはぐれたらしく……そこで南方出身の傭兵に難癖をつけられたらしい。で、だ。其の時に疾風のように現れた麗人が自分を守るために三面六臂の大活躍を見せたらしい。黒い髪に、黒い目、豹のような身のこなしで悪党どもをばったばったと……」
ガラを見るアンゼリカの目がどことなく笑みを含んでいる。同時に背筋を嫌な予感が這い上がってきた。ガラは弟の所業に頭痛を感じる。困っている人を助け、悪漢を成敗したのだから兄としては良くやった、それでこそ漢だと賞賛してやりたいところではある。だが、まさか助けた相手が皇族に連なる相手とは。
下手に目立って注目を集めたくないガラは溜息を噛み殺した。まさか『助けない方が良かったです』と返事するわけにはいかない。
ともすれば、弟に直接礼を述べたいといった用件なのだろう。ガラはさてどうやってお断りしようかと早速頭の中で算段を組み始める。 仮病か、旅行か、親族の不幸か、まあ数日しのげばそんな事向こうが忘れてくれるだろう、そう考え、アンゼリカの言葉を待つガラだったが、彼女の言葉は予想の遥か一万光年先をすっ飛んでいた。
「で、ここからが本題なのだが。君の妹御に、是非にセレネア付きの女官に付いて貰いたいのだ」
…………………………………え?
余りにも意外な言葉を聞けば人間どうにかなってしまうものなのだなぁ、とガラは他人事のように思った。どーでもいが、この後の弟の醜態をまったく笑えない。
「は。今なんと……?」
「君の妹御に私の妹の女官として傍に付いてやって欲しい」
丁寧に一度言った事を繰り返すアンゼリカの言葉に、ガラはぶっ倒れなかった自分自身を褒めてやりたかった。
滅亡の予感に膝が笑いかけたが気合でそれを堪える。心臓が激しく脈打ったが、表面上ではそれを完璧に押し殺し、顔は涼しいまま、その実服の中は冷や汗でびっしょりという器用な真似をしながらガラは言った。
「し、しかし。い、妹は極度の人見知りでして、人付き合いを避けており……」
前もって準備してある、人と関わる事を減らす言い訳をガラは半ば機械的に注げた。有効な反論を練る事ができるほどに冷静さを取り戻していなかったのである。
「そうだとは私も思う。だが、彼女は少なくとも町に出て自分で買い物をすることが出来るのだろう? セレネアは、……あの子の場合は更に人見知りが激しくてな。だが、昨日私が久しぶりに会いに行けば、あの子はとても楽しげに自分を助けてくれた麗人のことを話していた。……まったく、姉の私がやきもちを焼くぐらいにそれは楽しそうにな。
まるで自分を守ってくれた女騎士に恋しているようだったよ。もし妹君が男だったら流石にこんな話は出せなかったが。神の采配に感謝だな」
ガラにしてみれば神の采配に憎悪と怨念の篭った呪詛を投げかけたい所である。
アンゼリカのクリティカルヒット気味の一言にガラは血を吐きたくなった。自分が死ぬとしたらストレスによる過労死だな、と思う。
だが、それでも全て投げ出して絶望に満ちたまどろみを望む心を押し殺し、必至に抗弁する。ここで受け入れれば滅びの明日が待っているのだから。
「し、しかし、妹は女官としての経験など皆無で、セレネア様に対して失礼をする恐れが……」
「無理を言っているのはこちらなのだから、その辺は心配する必要など無い。……それに、あの子に必要なのは腕の立つ女官ではなく、話のできる友達なのだ。その点、妹御の……確か、ユラ。彼女ならあの子も心を開いてくれそうだしな」
まずい、じわじわと退路を塞がれている。包囲殲滅は戦闘の理想だからなぁ、さすがアンゼリカ姫、戦をさせれば尋常ではない。
ガラは、だらだらと服の中で汗をかきながら必至に逃げの策を考える。
幾らなんでも拙すぎる。弟の性別が発覚すれば盛大に拙い。子々孫々まで続く恥の歴史を後世に残さなければならない。この期に及んでも母親の遺言を守り通す心は愚直を通り越していっそすがすがしくさえあった。
「た、ただ、妹は二十歳になれば言い交わした相手があり」
「それも聞いている。勿論ユラ殿が二十歳を迎えれば女官の任を解こう。其の辺りはその時に改めて話し合えば良いしな」
うっかり口を滑らせた言葉にガラは絶望する。今の言い方はまるで女官になることを半ば承諾したような返事ではないか。
元々二十歳になるまで結婚できないというのは、ユラと相談して決めた方便だった。
二十歳になると同時に言い交わした相手と結婚する為に地方に行き、その代わりに血のつながりのある親戚が来るという事にして、晴れて男に戻ったユラが帰ってくるという筋書きであったのだ。
「きゅ、急なお話なので、妹と相談して参ります」
「こちらこそ、貴殿も仕事があるだろうに、申し訳ない。色よい返事を期待している」
アンゼリカのその言葉に、ガラは一例を返し、室内から出た。
リトマス試験紙のように一瞬で蒼い顔に変色した事を自覚したガラは、廊下で待っていたらしいジオを見つけた。見つけたが、ショックの余韻が強すぎて頭の中に入らなかった。一言もかけずにまっすぐ歩く。
「おい、ガラ。心配して待っていた相手を無視するなんて君らしくないな。まったく、ホモだち甲斐のない……」
ジオが続けてキタナイ言葉を吐く前にガラは条件反射で相手をぶん殴っていた。
いい感じで吹っ飛ぶジオを無視して踏みつけて前進し、蒼い顔のまま急ぐ。
「ま、待ちたまえよ……、事情の説明ぐらいはしてくれ……」
ガラの足をジオが未練たらしく掴んでいる。踏んで気絶させる手間と早く内容を話し離してもらう手間を比べて頷いた。踏んで気絶させる方が手間要らずと判断すれば躊躇いなく実行したであろう。
「……考えたくない出来事が起きたんだ……」
絶望的な気分のままガラは内容を教える事にした。
一人で抱え込むよりは誰かに相談した方が気分が楽になるに決まっている。そう考えて話す事を決心したのだが、よりによって今現在相談できる唯一の相手が弟の貞操を狙う変態。
ガラ=イサオミは何処で人生のレールを脱線させちゃったんだろうと真剣に悩みながら先ほどの会話を話し始めた。
「男の身で出仕? それはまた、どうしようもないな」
もはや返事する事すら億劫なガラは頷きを返すのみだった。
騎士団も使う演習場の厩から馬を連れてきて、疲れたようによしよしと背を撫でてやる。
「任せろ、ガラ。こういった以上、俺もユラが出仕するのを防ぐ為に行動しよう」
「ジオ……」
今まで見せた事のない親友の真剣な表情にガラは感極まった声を漏らした。そうだ、彼も弟の身を案じる友人の一人。どっちでもオーケーだなんてどうでもいい些細な出来事でないか。ガラは感動で胸を熱くし、頷いた。
ジオは、真剣なまなざしのまま、言った。
「女官になられたら、ユラ君に気楽に会いに行けなくなる。そうなったら、俺と彼との桃色未来予想図はどうなるんだ……!! 安心しろ、ガラ、俺の持つ全知全能を駆使してユラ君と俺との明日を守ってみせる、任せてくれ、お義兄さん!!」
ガラは鬼神の咆哮を上げながら凄まじくキレのある上段回し蹴りでジオを蹴り飛ばした。悶絶し、宙で一回転し頭から危険な角度で落下する彼には目もくれず、ガラは馬にまたがり、自宅への帰路を急ぐ事にした。
やはり信じられるものは己のみ。隙を見せればすぐにやられる非情な天下太平の世の中であった。