第三話『微妙な破滅の始まり』
さて、これまでそれなりに順風満帆だったユラ=イサオミの人生がなんかこうぶっ壊れ始めたきっかけは、いい事をしたからだった。
い、いや、この小説は『人には不親切にしましょう』をスローガンとする悪徳小説ではない。
ただ、ユラの善意に対して、行われた行動は間違いなく善意であったのだが、それは紛れも無く本人達にとって盛大な『余計なお世話』だったのである。
きっかけが起こったのはユラが十八歳の誕生日を迎えて『あと二年か……』と感慨深げに呟きながらいつもどおり市場に出て夕食の物色を始めた日であった。
まあ、その日はさりとて変わった事があったわけではない。
いつものようにユラは露店を物色していた。その優れた容貌、たおやかな雰囲気は考えようによってはミステリアスな美女に見えなくも無いが、生憎と真剣な表情で野菜の鮮度を見比べ、値段を確認しながら行ったり来たりを繰り返していてはミステリアスも裸足で逃げ出すもんである。逆にその俗っぽさが露店の人たちもユラに対して気後れすることなく声を掛けることのできる理由なのであるが。
馴れ馴れしく肩を叩く酔漢をなごやかに微笑みながらあしらい、鮮度の良い魚を進める魚屋の主人の言葉に目を見開いて注目し、くすくすと楽しげに微笑む姿は完璧女性であった。
本人は殺気を孕んだ目で否定する事はまず間違いないだろうが、生まれたときからずっと女として育った年季は生半なものではない。よほどの眼力に優れた人でなければ見抜けないだろう。……と、ここまで書いておいてなんだが、性別を見抜く眼力ってどこで養われるのだろうと作者は自分自身で首をひねるのである。
……日が少しずつ夜闇の勢力に押し出され、地平線に沈みかける夕方、ユラは夕食の為の材料を買い込み、そろそろ自宅に帰ろうとした。籠の中に放り込んだ食材を一瞥し、買い残しがない事を確認したその時、絹を引き裂くような悲鳴が耳朶を打った。
「え?」
視界をめぐらせば遠くに人だかりが出来ている。野次馬根性でスカートのすそを持ち上げて乙女走りを敢行しながら人ごみを掻き分け近くによって見れば、一人の少女がぶるぶると震えている様が見えた。
数人の男に囲まれている。漏れ聞こえる辺りの人たちの声から察するに肩が触れたの触れてないので大声を上げる柄の悪い奴らが少女に難癖をつけているらしい。
馬鹿め、というのがこの場に居る人々の共通の思いだった。
皇帝のお膝元のディミスタンは世界でも有数の治安を誇る町だ。こんな騒ぎを聞きつければあと数刻するだけで警邏が男達を連行するだろう。そんな常識すら知らない南方からの傭兵達らしい男に向けられるのは侮蔑の視線だった。
だが、常識知らずの傭兵達以上に常識知らずだったらしいのは男達に囲まれている少女の方だった。数刻待てば警邏が駆けつけ、犯罪者を蹴散らすという事実を知らないのだろう、真っ青な顔をして震えていた。
見た目貧しい身なりをしているがフードに隠れている豪奢な金色の髪は目を引き、首から提げているネックレスは精緻な細工が施されている。素人目にも相当な品物だ。奪い取るだけで結構な金額になるだろう。
与しやすい良家の子女と思って難癖をつけたらしい傭兵だが、彼らが放つ暴力の臭いに屈さずに蛭のように吸い付いて付かず離れず視線で牽制する群集によって不埒な行為にはいまだ及んでいないらしい。
警邏が来るまで後数分、少女には悪いがあと少しの我慢だと、群集が到着を今か今かと待つその時だった。
「そこまでです」
凛とした声と共に、見た目不振人物でありミステリアス美女候補生でありその実オカマ疑惑主人公が群集の中から一歩進み出た。
ユラ=イサオミは自分の実力の程を詳しくは知らない。
なにせ、比べるべき師匠は次元の違う強さを誇っており比較の対象にならない。
兄に手合わせを頼んでも『……威厳が……』とか言って徹底的に逃げ回る為に試した事がない。
自分が強いという事はわかる。だが、その強さを測るための物差しがない。
相手が自分の手に余る場合でも数刻のうちに警邏がやってくるはずである。その騒ぎにまぎれて逃げ出す程度の実力はある。少女を助けるという事を目的と設定するならば、警邏が来る時点で既に負けは無い。後はどれだけ上を目指せるかである。
問題は面が割れているという点であるが、そこいらは兄の大したことのない権力に頼むかと姑息な事を考えていたりする。
この辺りの不徹底さが後で人生を揺るがす大失態に繋がるのだが、そこいらはまだ作者の胸のうちと言うやつであった。
それになりより。
怯えて震える少女を助けるだなんて騎士の物語に良くある状況じゃないか。
ユラは物語の登場人物になったような恍惚感を胸に抱いて一歩進み出た。口元は盛大に微笑んでみせている。
「ああん? なんだ姉ちゃん」
「私、……姉ちゃんに見えますか?」
理不尽な質問を返すユラ。
今の彼を男と見間違えるやつがいたら目の病気である。眼科に行ったほうがいい。
そんな当たり前すぎる事を質問するユラに傭兵の一人が怪訝そうな表情を浮かべた。
殺そう、彼らの実に当然の反応にユラは逆恨み百パーセントの超理不尽な感想を抱き、同性も異性も篭絡できそうな笑みを浮かべた。
この場合、同性とは男性であり、異性とは女性の事である。
こうやっていちいち注釈を入れなけりゃならないから女装主人公は面倒臭いのであった。
そんな微笑に見惚れたかのように震えていた少女がこちらを見ていた。
目が合う。少女が息を呑む様が遠目でも分かった。
「大丈夫」
それだけを告げてユラは一歩踏み出し、目の前の傭兵を見た。
興味を引かれたらしい傭兵の一人が、好色な笑みを浮かべて此方に近寄ってくる。この外見も案外役に立つな、ユラは自分の見た目にだまされてくれる相手に微笑みを浮かべて伸びる影のように静かにそれでいて鋭く踏み込んだ。貫き手が奔り、男の気道に突き刺さる。
「か……」
空気を得るための気道に突き刺さる一撃で意識を断絶させられた男は、白目を剥いてぐたりと脱力し、意識を断たれ、脱力した男が地面に倒れ付すよりも早くユラは数の不利を補うために行動していた。
地面に敷かれている敷板を踏み砕くかのような大一歩前進。おおおぉぉぉぉぉ!! 大声を唇からほとばしらせ、その挙動と共に放たれる掌打の一撃で盛大に吹き飛ばす。可憐な見た目に反した絶大な一撃に傭兵の一人が宙を舞った。少女の周りの男目掛けて傭兵が吹き飛ぶ。
「な、なにぃ?!」
外観を尽く裏切るその光景に傭兵達は絶叫した。
与し易い女性の登場だとニヤニヤしながら見ていたら、予想の遥か彼方を行く絶技に顎が外れる思いである。
兎に角一対多という状況には持ち込まれるな。一撃必殺、それが無理ならば一撃離脱を心がけろというのがご隠居の教えだった。
鍛えに鍛えたユラの肉体は主の期待を決して裏切らず、地を這い獲物を狙う獅子の如き凶速で白打の距離にまで踏み込んでいた。
「く、くそ!!」
槍を構えていようが、振る、突くの動作を行えない距離ではむしろ邪魔でしかない。
即座に武器を捨てて素手で対応すればいいのだが、手に持つ獲物を捨てるという自分の圧倒的優位性を自ら捨てるという思い切った行動はなかなか出来ない。故にこそつけいる隙が出来る。
槍を下げた男はたやすく間合いに踏み込まれた。払うにも、突くにも不都合な距離、間合いを開けようとして後ろへ飛びのく。
だが、人体の構造上足は前に進む事を基本に出来ている。
それになにより、迷い無き迅雷の如き踏み込みと、狼狽と焦燥に駆られ敗北から逃げようとする後退では技に込められる気合が違いすぎた。
正拳突き。全身の間接がこの上ないまでに連動し、幾万回に上る鍛錬が発揮する、慣れに慣れた動作を完璧な動きで実行する。
間接が連動して放たれた砲弾の如き一撃は槍の柄をへし折り、男の鳩尾に突き刺さった。吐瀉物を撒き散らし、くの字に折れ曲がった相手にはもはや戦闘能力はない。一瞬の判断の後、倒した相手を尻目にユラの双眸は獲物の索敵を続ける。双脚は有利な位置を占めるために休まず動く。
「て、てめぇ!!」
怒りの声が傭兵の一人から上がった。白刃が夕暮れの空の下、鞘から躍り出る。反射される赤い夕暮れの陽光が鮮血を連想させ、背筋にぞくりと悪寒を沸き立たせた。
群集から悲鳴が上がり、震えていた少女の唇から恐怖の叫びがひときわ甲高くあがった。
「……でも、今更抜いたところで、罪状が増えるだけですよ?」
だが、ユラは白打で真剣に対峙する戦慄を、少女の前で無様はさらせないという男の見栄で完全に押し殺し、指先の震えを気力で黙らせて、表面上は余裕のある微笑みを浮かべてみせた。冷や汗を顔には出さず、服の中で流すという器用なことをしてみせる。
「なんだと、貴様!!」
命の危機をもたらす凶器の出現にも不敵に微笑む女に、傭兵の一人が怒号を上げた。精神的優位を保ち、恐怖し怯える相手を嬲る未来を覆され、苛立たしげに叫んだ。
ユラは、傭兵の後ろを指差す。にっこりと微笑んだ。
「もう、警邏が来ましたから」
剣持つ傭兵の視線があさっての方向に一瞬踊る。
その一瞬で十分。詭弁で稼いだ数秒で先ほどへし折った槍の穂先をかがんで拾い上げ、即座に投擲の姿勢へ移る。
意識と視線をユラに戻した傭兵は、まるで魔術のように彼女の手の中に出現した槍の穂先に驚愕のうめき声を上げた。
銀光が煌き、投じられる一撃。
放たれた穂先が肩に突き刺さり、傭兵が苦痛の叫び声をあげた。
痛みで剣を取り落とす相手にユラは勝った、と心の中で快哉を叫んだ。身体は構えたまま残心を残し相手の反撃に備え、注意深く間合いを取る。
だが、痛みと可憐な女性に徹底的に打ちのめされたという屈辱感で傭兵達は顔を俯かせたままだった。武芸者として哀れには思うが同情は出来ない。やったことは明らかに犯罪なのだし。
「ふぅ……」
大きく安堵の息を吐くユラ。
物を単純に投げるということなのだが、ご隠居はかつてそこいらにあるものを投げまくって刺客達から生き延びたと言っていた。
『いやぁ、あの時は大変じゃった。料理の載った皿を投げたり燭台を槍代わりにしたりテーブルを吹き矢の盾にしたり味方を敵に投げたり』
ちなみにそれが白豚公が開催し、参加者のおおよそ九割が彼子飼いの暗殺者だったという殺意の宴である『刺客ノ席』の生き証人の発言であることに気付いたガラはその事実を後で書き写した。さりげなく歴史の第一級資料になったことは余談である。
「あ、あの……」
あ、と、ユラは心の中で呟いた。迂闊にも娘さんの事は意識の外にあったのである。
彼の隣には先程まで震えていた少女が居た。彼女は震えながらもはっきりした口調で頭を下げ、礼の言葉を述べる。
「あ、ありがとうございます……」
「いえいえ、今度からは気をつけてくださいね?」
にっこりと微笑み、ユラは向こう側からやってきた警邏の馬蹄の音に眉を上げた。
そろそろ退散しなければ。悪いことはやっていないが、事情聴取は免れないだろう。自分が悪事を働いていないことはこの場に居る人々が証人だ。
後は兄のしょぼい権力に頼んで穏便に済ませて貰おう。そう考えユラはくるりときびすを返した。瞳の端に少女が狼狽したような顔を浮かべるのが見える。
「お、おねがいします……、どうかお名前を……!!」
蚊の鳴くような小さな声だったが、それは内気な少女の精一杯の大声だったのだろう。
「名乗るほどのものじゃあありません。それじゃ」
微笑み、そう言って一礼する。両足を動かし即座に加速開始。
スキップしながら乙女走りでやたら勢いよく走り去り、喜びのあまり途中でスピンする自分の背中に再び声は掛けられなかった。掛けられても気付けなかったかもしれないが。
(やった、格好良い!! 僕、格好良い!!)
そんな彼の背にずっと少女の視線は送られている。
しかし、物語の登場人物のように悪漢を成敗し、少女を魔の手から救った事実はユラの心を熱く高揚させ、普段なら気付く微細な感覚を曇らせた。
買いこんだ夕食の材料を忘れていた事に気付いたのは自宅に帰ってしばらくしてからであった。