第二十二話『ご隠居、気分的に音速を突破』
ご隠居は、王城を走っていた。
普段ならば人々の上に立ち、その模範であるべき偉大な英雄王は日頃から意識している為政者たる厳格な表情を完璧に捨て去り、孫馬鹿老人の本性を剥き出しにして100メートル9秒台の超健脚で王城を走っていた。
その日はいつもと変わらぬ日常であった、はずだった。だが、その考えは一瞬で放棄して疾走していた。無理も無い。もたらされたその報は孫を愛する老人に取って驚愕すべきものであったのだから。
全力で疾走する。その彼の視界の向こうに壁が見えた。カーブだ。廊下を曲がるには速度がありすぎる。だがご隠居は壁に激突する速度であっても、なおも足を止めない。とにかく今は一分一秒が惜しかった。早く、早く孫娘のところに行かなければ。
壁の衝突を三角蹴りで回避し、壁を走りながら超強引に速度のベクトルを変えてほとんどスピードを落とさずに疾走。
普通に働く王宮の人からすればえらい迷惑だっただろう。なにせ、伝説的な武名を持つ老人が凄い速度で廊下を走ってくるのだ。廊下の端に寄って回避するのに精一杯である。
英雄王から、人々の迷惑を顧みない暴虐の魔王にクラスチェンジしたバッカニアス=フォン=ドーベルトは走っている途中で、自分と同じように全速力で走る女性の姿に気づいた。
「お爺様!!」
「アンゼリカか!!」
併走するジジイと孫娘。
英雄王と女将軍は許される限りの全速で走る走る走る。
ショートカットの為に適当な部屋の入り口を飛び蹴りでぶち壊し、唖然とする人々を置き去りにして机の上に飛び上がって疾走する。考えうる限りの時間短縮を行う。他人の迷惑などなんのそのである。
二人の間に意思の疎通のための会話など必要ない。会話をすれば酸素を取り込むための呼吸のリズムが狂う。二人ともここまで大慌てになる事態など片手の指を出ない。今回のものはその中でも格別に重要なものだった。ならばお互い何を聞いて狼狽し、どこを目指して全力疾走しているかなど確認しあうまでも無い。
速度の限界に挑むような勢いでご隠居とアンゼリカは――孫娘の――妹の――部屋に飛び込んだ。
「あら? お爺様、アンゼリカ姉様」
突然扉を蹴破るような勢いで飛び込んできた二人にセレネアは不思議そうに尋ねた。
周りには色取り取りの布が用意されており、ドレスの仕立てのための専門業者が何人か居る。そばには彼女付きの女官であり、警護役も兼ねる刺姫であるササメが頭を下げて控えていた。
「せ、セレネア! ほ、本当なのか?!」
確認の言葉に驚きがありありと滲んでいる。祖父と姉の驚きように、なぜそこまであわてているのか大体の察しをつけた彼女は頷いた。
「ええ、私、今度のバルアミー男爵の夜会に参加させていただこうと思っています」
「……どうしてそんな急に思い立ったのかね?」
ご隠居の言葉はアンゼリカの疑問と同じであった。
祖父の言葉に少し可笑しそうにしながらセレネアは答える。
「どうしてって……、特に理由は。私もそろそろ夜会に出てもいい年頃でしょう?」
「そ、それはそうなのだが」
くすくすと小さな笑い声を立てる妹の言葉に、アンゼリカは戸惑ったように口篭る。彼女の夜会への初出席は確かに遅いぐらいだ。だが、自分や父であるディアヌスが幾ら薦めても首を縦に振らなかった彼女がどうしていきなりそんな決断を行ったのか。それが疑問だった。
ご隠居は、セレネアの言葉の根底に質問を忌避する硬いものを感じた。これは恐らくどんな事をしても答えてくれないだろう。アンゼリカと目線を交わし、頷きあう。
「ふむ、まあ確かに別に気にするほどでもないのう。……分かった。それならゆっくりと衣装選びをするがよい。決まったらまた呼んでくれ。孫娘の晴れ姿を目に焼き付けておきたいのでな」
そう言いつつ、ご隠居はササメに視線を流す。ササメは軽く頷きそれに答える。
「では、行こうか」
「はい、お爺様」
セレネアに明るい笑顔を見せながら二人は退出した。
「さて、いったいどうなっておるのじゃ?」
ご隠居とアンゼリカは、その場にササメを招いて席を共にしていた。最初同席を固辞していたササメもそういった事を気にしない二人に押される形で椅子に座している。
ササメ自身も二人が何を尋ねたいかぐらいは把握している。現在の状況にもっとも困惑しているのはセレネア付き女官の彼女ぐらいだろう。
「ところでセレネアにはなんと言って退出してきたのだ?」
アンゼリカは確認の言葉を言う。セレネアが夜会に出席したことは目出度い。だがその理由を勘繰っている事が発覚してはへそを曲げてやはり出席しないと言い張るかもしれない。
「心配は無用です、アンゼリカ様。影武者を立てて姫様との対応に当たらせております」
そういった点はかつての暗殺者組織『覇王の棺』にとっては簡単な欺瞞工作なのだろう。表情にも口調にも誇るそぶりは微塵も無い。
「本題に移ります。……姫様が夜会出席を決心なされたのは私がバルアミー男爵閣下の婚約発表をお伝えした辺りからなのです」
「バルアミー男爵? 彼、結婚するのか」
妹ほど極端ではないが、夜会のドレスよりも甲冑姿を好むアンゼリカはその手の話には余り馴染みがなかったのだろう。言葉には素直な驚きの色が濃い。だが、それで納得もした。
「彼はセレネアと深い馴染みの御仁だからな。彼が結婚するという事で祝福してやらなければならないと考えた訳か」
そう考えるのがもっとも妥当だろう。ご隠居とササメも同意の頷きを見せる。
「ところで、バルアミー男爵のご婚約の相手はどなたじゃ?」
娘の乳兄弟ともあれば祝いの品を送らなければ。確認しようと思ったご隠居の判断は正しかったのだが。その言葉にササメは一瞬言いにくそうに顔を顰めた。それでもご隠居の意思に逆らえるわけも無い。ゆっくり、言い放つ。
「……それが、二ヶ月ほど前入った、ユラ=イサオミさんでして……」
「へぇ、彼女がか」
アンゼリカもその名前は覚えている。妹のよき友人になってくれることを願って多少の無理を押して来てもらった人だ。彼女が来てからセレネアも明るくなったという報告を聞いている。そんな彼女がこのたび目出度く結婚とは。縁とは判らないものだ。そう祖父に同意を求めようとして、アンゼリカは思わず言葉を失った。
ご隠居は椅子に座って恐ろしく珍妙な事を聞いた顔つきでササメを見ている。
今彼女に言われたことが想像の遥か向こう側を飛んでいる事を理解し、呻くように叫ぶ。
「い、いや、しかしあやつはおと……乙女じゃし!!」
思わず男と言い掛けてついうっかり一人の女装美青年の人生を破滅させかけたご隠居は無理やり言葉を軌道修正させる。かなり不審な叫びにアンゼリカは変な顔をした。
「何を仰るのです、お爺様。男性と乙女がくっつくのは至極当然のことではありませんか。そりゃ、男同士でくっついたり、女同士でくっついたら少し変ですが」
まさにその『変』な事態なのだが。
ご隠居は表面上平静を保ち、その実想像だにしていなかった事態に混乱する。
ユラ=イサオミは実は男性と言う秘密を持つ女官である。そしてバルアミー男爵は次代を担う有能な青年だ。
そう、男同士だ。で、あるにも関わらずユラがそんな話を受けた理由はいったいなんなのか。
(……ユラの奴。まさか本当に嗜好まで女性になってしまったのかのぉ……)
本人が聞いたら全力で否定するような考えを浮かべてご隠居はなんともいえない奇妙な表情を浮かべる。だが、それなら、とご隠居は立ち上がった。
自分はあの女装青年と親交がある。
疑問は尽きないが、その疑問を解決する最先端の道がある。直接話を聞きに行く事にしよう。そう判断したご隠居は、席を立つ。
「お爺様?」
「すまんな、ちと用事を思い出した」
ご隠居はそういうと、足早にその場を後にした。
さてと。
ご隠居はとりあえずイサオミさんちの前に立ち寄り、どうしたものかと考える。
なにせ現在ガラとレティシアは新婚アツアツさんだ。この愛の巣に足を踏み入れるほど野暮極まる事も無いだろう。どうしたものかなと考えていたご隠居だったが、ふとそこで靴音が響いている事に気付いた。
聞こえてくる場所は剣術の道場。ユラを鍛えるのに使わせてもらった場所だ。
さては、ガラかユラでも剣術修行しているのかと思ったご隠居だったが、良く耳を澄ませばその足音は一定のリズムを踏むものであったし、リズムに合わせるように拍手の音高い音が聞こえてくる。
これではまるで婚約発表の夜会のための舞踏の練習のようではないか。ご隠居はいっそう深くなる、ユラ=イサオミ同性愛疑惑に、溜息を付いた。
「……ジオに毒されおって」
愛弟子のあまりに無残な最期に(死んでない)ご隠居は空を見上げた。自分の人生でも恐らく最後の弟子となるであろう青年のその行き着く先にそっと目頭の熱さを感じ、涙をこらえる。だが、それでも。そうだとしてもその人の幸せとは本人が決めるものであり、例え師であってもそこまで干渉する事はできない。ご隠居は少し寂しそうな表情を見せて道場の扉を開けた。
「はい、そこでユラ君はフェルシアさんの手を腰に絡ませて仰向けに仰け反り!!」
「組み体操とかの方がいくらかかましな気がするねぇ……よっと!!」
「動作のひとつひとつが正確なのは良いけども、掛け声をいちいち入れる必要はないです、減点!!」
無駄口を叩きながらもユラはきっちりとフェルシアの両腕を支柱にして仰け反る。女官としての仕事を休んでの猛特訓。フェルシアはたしなみとして舞踏の心得はあるし、ユラもそちらに関しての経験は無いが、代わりにご隠居との剣術修行で培った体力がある。
付け焼刃とはいえ、十分様になりつつあるその二人の舞踏に教師役を務めるレティシアは満足そうに微笑んだ。ちなみに彼女の愛する夫はこの状態では何も手伝える事がないので珍しく食事を作っている。
フェルシアが自分の上半身を引き起こす動きに合わせてユラも同時に起き上がる。そのまま、手を取り合いお互いを見詰め合って回転。と、そこでフェルシアは道場の中に足を踏み入れた一人の老人に気付いた。
恐らく若き日は相当の勇名を馳せたであろう姿が容易に連想できる老人を見やり、次いで思い出す。
「せ、」
先帝陛下、そう言い掛けたフェルシアにご隠居は黙っているようにジェスチャーを送る。それ一つで理解力の早いフェルシアは次の言葉を飲み込んだ。瞬間、一回転。そこでユラはご隠居の姿を認める。
「あ、あれ? 師匠?」
そう言いながらユラは思わず足を止める。
「ようユラ、ご結婚おめでとうじゃな」
「蹴るぜ?」
言うが早いか、両腕はフェルシアに絡ませたまま、片足に履いていたハイヒールを半分脱ぎ捨て勢いのある蹴撃と共に弾丸のように打ち出す。ご隠居の顔面を狙った一撃。だがご隠居はそれを首をかすかに傾ける動作のみでかわして笑った。
そのあまりの晴れ晴れとした微笑にかえってユラの方が困惑する。
ご隠居にしてみれば愛弟子の同性愛疑惑を否定する言葉を貰い、心中は喜びで一杯であった。
「いや、めでたい」
「めでたくあるもんか」
ユラは紅を引いた可憐な唇を尖らせて唸った。ご隠居のめでたいという言葉は同性愛疑惑、ジオの同類という疑いが晴れたという事に関するものであったが、ユラはどうやら偽装結婚そのものに対する意見と思ったらしい。
「でも大事な友達の人生に関わる事なんだ。手抜きは出来ないよ」
その言葉に感極まったのか無言でユラを抱きしめるフェルシア。抱き返すユラ。呆れるご隠居。
「……コレの何処がめでたくないだ。超アツアツカップルではないか。もちっと人目をはばかれい……」
溜息を漏らし、そこまで言って彼はユラの姿を見る。
恐らく実際に夜会で使用する服を着ての練習なのだろう。
つややかな黒髪を結い上げて髪を止め、口元には薔薇のような紅を刺している。剣術で培ったその硬い腕を隠すためか袖は長く作られており、その所々に刺繍を入れ込まれている。
スカートは足元を隠すようなロング。ハイヒールの爪先がかすかに見える。全体的に白色に、かすかに赤みが掛かったような彩色のドレス。
まったく、予備知識が無ければ極上の美女にしか見えなかった。
「ご隠居様、今日はいかがなさいましたか?」
多少緊張した様子のレティシアの声が響く。彼女は一ヶ月前の結婚騒動の際にご隠居の正体に気付いていたが、ガラとジオに口止めされてその事実はユラの前では話してはいない。
ご隠居と呼ぶ捨てるのも本人の許可を得ているが、それでも恐れ多さが先に立ち、敬称を外す事など到底出来なかった。
「いや、今日はこの度の結婚話の事に関して質問したいと思いましてな」
レティシアの言葉に丁寧に返すご隠居。その言葉に視線で会話するレティシアとフェルシア。この国の最高権力者に事情を理解してもらえるなら、もしもの時に手助けしてもらえるかもしれない。
そう考えて二人は頷く。フェルシアは進み出て口を開いた。
「では、まず私に関する秘密をお伝えしなければならないのですが……」




