第十六話『なにか大切な事を忘れている人達』
時は遡って。先日の夜。
ご隠居から色々大切なものを守るため逃げ出したガラは、岳蝶の首筋をよしよしと撫でてやりながら、もうあの愛に狂った鬼神が追ってこないことを確認し安堵のため息を吐いた。
「……ふぅ」
ガラは夜空を見上げる。
自分はまた、同じ過ちを繰り返してしまった。
あの呪われし文面によって、また彼は人を傷つけてしまった。人の心に癒せぬ深い傷を刻み込んでしまったのである。
許されるのだろうか、自分のような罪深い存在が。これもまた罰なのだろう。
ここだけ見るとシリアスに見えるが前後から考えるとどうしてもギャグになってしまいかねない真摯な独白を続け、岳蝶の歩みに任せるガラ。
この辺から読み始めた人のために説明すると、呪われし文面とはラブレターであり、その激しい愛の告白に人が耐え切れず死の淵を彷徨ってしまうである。
今回その愛の囁きを読んだ筋肉ムキムキ皇帝を己に惚れさせてしまい、弟と親友とその妹を見殺しにして彼は絶賛逃亡中なのであった。
え? なに? この突っ込みどころ満載の大まかなあらすじはいったいなんだって?
しかし実際に起こったことだから始末におえないのである。作者も自分で読み返してどうせいちゅうんじゃとぼやきながら今回の話を作っているのであった。
さて、これからどうしようと考える。
あの鬼神から逃げたは良いが、あの時は自分自身の貞操を守るため思考をすべて費やさなければならなかったので前後の事を判断する余裕など一欠けらも存在していなかった。一日外で暮らして愛の鬼神から姿を隠さなければならない。
着のみ着のまま外に出たのだから金銭の持ち合わせも無い。自宅はご隠居の追跡の危険性があるから不可能だ。
親しい友人のジオに泊まろうにも、それは不可能だろう。ともすればご隠居が知らなくて、自分の親しい人の所に行って一晩宿を無心するしかない。
一人、女性の顔が浮かんだ。
駄目だ、それは駄目だと頭の中に浮かんだ顔をかき消す。自分は彼女に酷い事をしてしまったのだ。許されるわけも無い。自分で自分が許せない。
「ガラ君」
だから、自分を呼ぶ懐かしい声を聞いた時はきっと幻聴の類だと思った。
それでも懐かしさが捨てきれず思わず振り向いてしまう。
街の街頭の中では似つかわしくない、華麗な夜会服に身を包んだ淑女が立っていた。大きく胸元の開いたドレスに赤い薔薇のように華やかなスカートの衣装、見るからに金をかけているのが良くわかる豪奢な服。亜麻色の髪を結い上げ、花簪を髪に差した女性。夜会で華麗に咲く高級で豪奢な薔薇を連想させるその女性。華やかで派手で豪奢な女王のような美女は嬉しそうに微笑んだ。
ガラは最初自分の名前を呼んだはずの女性と、記憶にある女性が余りに食い違っていることに一瞬見間違いかと思い、よくよく見て顔の造作が同一である事に気付き、あ、と呟いた。
「……レティ? 君か」
「懐かしいわ、ガラ君。君の周りを張らせていた甲斐があったわ……がふっ」
彼女は自然に流すにはかなり油断ならぬ言葉を漏らし、一歩踏み出して、んで血を吐いた。唇が主に染まり、少し彼女は背を屈める。
「社交界での浮名は聞いている。……大丈夫か? シア」
「ええ、もう大丈夫。ありがとう、変わらず優しいのね。嬉しいわ」
ガラはそのまま彼女の手をとって近くの椅子を勧める。
岳蝶に背を預けるガラと、近くの椅子に腰を預けるレティシアは共にお互いの眼を見て口を開いた。
夜半を過ぎた街中には人は誰もおらず、彼女の乗ってきたらしい馬車が目立たぬ場所に影のように控えている。
「綺麗になった。最初見たときは誰かと思うぐらいに見違えた」
「あ、ありがとう。……でも余り褒めないで。また血を吐いちゃう」
恥ずかしそうに微笑む彼女にガラは、俯く。そうだ、自分があんな文章など送ったばかりに彼女に拭いがたい傷を与えてしまったのだ。
「社交界でよさそうな人はいたか?」
「いいえ。……幾人かと話してみたけども、やはり駄目。……あなたのラブレターに比べれば、どの相手のくどき文句も子供の戯言にしか聞こえない……」
ガラのラブレター並みに魅力的な台詞だったらそれはそれで命の危機なので子供の戯言レベルでよかったのだが、ガラは懸命にも何も言わなかった。
「あなたの事、忘れようと思ったの。……でも駄目、あんなにドキドキさせられたのはアレが始めて」
「……二度三度あったらきわめて困る」
真面目な顔で実に相手の体を気遣った台詞を言うガラ、そんな言葉に楽しそうにレティシアは笑いながら頷いた。
不意に、笑いを収める。
「……あなたに会っても血を吐かないように、浮ついた愛の囁きに耐えられるように4年間、社交界で修行したの。
……ガラ。愛してるの」
修行に付き合わされた顔も名も知らぬ社交界の色男達に両手を合わせて黙祷したまま背を向けてガラは答えた。
「無理だ。……俺は近くに居るだけで君を傷つけてしまう。……俺と君は、もう終わってしまったんだ」
「……そう。じゃあ、最後のお願いを聞いてくれる?」
悲しみに満ちた声。良心が痛む。一つぐらいは良いだろう。出来うる限りかなえよう。そう思い振り向く。
レティシアは懐から長い筒を取り出した。笛だろうか? 別れの曲でも吹いてくれるのか? そう考えるガラ。だが、彼女の持つその笛には音程に差をつける穴も開いておらず、ただの円柱状の筒である事に気付く。
ガラはその形状の武器に見覚えがあった。だが、まさかという感情が先に立ち、反応が遅れる。
「ふっ!!」
レティシアはそのまま呼気を筒に吹きかけた。発射された毒吹き矢は狙いを過たずガラに命中する。
余りにも脈略ゼロの登場を果たした暗器にそんなアホなと言いたげな表情で崩れ落ちるガラ。崩れ落ちるガラを何処かから現れた男達がいそいそと運んでいく。幸せそうに微笑むレティシアは、そこでガラが乗っていた馬が自分を見ている事に気付いた。
その馬『岳蝶』の目が語っている。よくやったお嬢さん、いけいけGOGO、と。
そのまま『岳蝶』はきびすを返して走り去っていったのである。そのあまりに漢前な後ろ姿を見送りながらレティシアは少し見ほれてしまうのであった。
「レティシア=スノーローズ?」
兄と今回めでたく結婚する女性の名前の欄を見ながらユラは首を傾げた。正直聞き覚えのある名前ではなかったのである。
口元を己の吐いた鮮血で染めながらご隠居はようやくその双眸に正気の光を取り戻したのか、多少ふらつきながらも立ち上がり、椅子に腰掛けた。
その名前に真っ先に反応したのは、意外にもガラとはもっとも縁の薄いササメであった。彼女はその名前にぽん、と手を叩く。
「レティシア=スノーローズといったら……、社交界で有名な氷の薔薇様でねーか」
彼女に視線が集中する。
「氷の、薔薇?」
「うんむ、社交界に名だたる氷の薔薇。4年ほど前に現れてその美貌と気品、そして情熱的な愛の囁きもすべて鼻で笑うそのその冷たさでそんな名前を冠する女性って聞いてっけど」
「う、うむ。わしも聞いたことがあったな。突如現れた社交界の貴婦人。愛を語らっても誰もその彼女の心を射止めたものはおらず、その身持ちの固さから既に言い交わした相手が居ると評判の」
「……それが、兄さん?」
ユラは首を傾げる。
兄のガラは無骨な武人だ。社交界などに当然顔を出したことは一回たりとて無く、実直に騎士団員としての任務に忠実な軍人を判で押したような男だ。当然そんな美麗の女性と仲良くなる機会など持てるはずが無い。考えても疑問は募るばかりである。
だが、そんなササメの言葉に反応したのはジオだった。
「レティシア? ……ちょっと待て」
「ジオさん?」
なにやら思考するジオは真剣な表情で眉根を寄せた。
「……レティシア……、レティシア……まさか、彼女か?!」
思考が何らかの判断を下したのだろう。だがその自分自身の判断があまりにも意外だったのか、ジオは自分自身の結論に驚いたようにしている。
「あんちゃん、このレティシアってなんの人なんす?」
レニの言葉にふーむ、と呟きジオはあごに手をやり思考を続ける。
「……だが、確かに前後から考えて彼女の線が濃厚だな……。ユラ君、たぶん概要は理解できたと思う」
「理解できたって……」
聞き入る全員を前に、ジオは昔を反芻するように口を開いた。
「……レティシアは、俺がユラ君を見初める前の知り合いだ」
ぶるっと震えるユラ。レニがユラの代理で殴ろうかと思ったが、話の腰を折るので止めることにする。
「彼女は俺と同期の文官でな。実家は相当大きな大貴族出身だが、家を頼らず自分自身の実力で文官として一流になった女性だ。で、俺を経由してガラとレティシアは顔見知りになり、……まあ、たぶん好き合ってだと思う」
「……初耳だよ」
「ま、そんな事をいちいち話すことのほどでもないしな。あいつも黙っていたんだろう」
「ふぅむ」
イマイチ納得できないらしいご隠居が声を漏らす。
「……それで、実は俺はガラから恋愛相談を受けてな。……じゃあ、それならラブレターでも書いたらどうだ? といったんだが……それが、そもそもの間違いだった」
「間違いって……あ」
ユラはそう呟いた所でジオが言わんとする事を理解してしまったような気がした。血の気が引く音がする。
ご隠居を狂わし、自分達を失神させるほどの言葉の暴力。人の心を魅了せずには居られない文言の数々。
気がつけばユラとレニとご隠居は、先ほどの文章の悪魔的な力を思い出したのか、かたかたと震え始めた。怪訝そうな顔をするのは文章の実害を目にしていないササメだけだった。
「……今ではその文章の威力を正しく知っていたから毒を薄めている。……だが、な。ガラの初めて好きになった女性に対する心を込めたラブレターと、注文された大量生産品のどちらにより力がこもると思う? 俺も彼のものを添削すれば良かったと悔やんでも悔やみきれない」
ごくり、と緊張に耐え切れなくなったように唾を飲み込む音が緊張に満ちた室内に響いた。
「……ど、どうなったんじゃ?」
冷静沈着、豪胆な英雄王であるご隠居がかすかに震える声で訊ねる。深い深い、溜息と共にジオは大きく息を吐いた。
「……完治まで3ヶ月。凄まじい出血量だった。その余りの毒の強さに一時は暗殺説すら出た。だが、当然ガラは無罪。というかまさかラブレターを読んだら死ぬなど誰も考えなかったからな」
「じゃ、じゃあ、そのレティシアさんは、どうなったすか?」
遠い眼をするジオ。
「……なんとか一命は取り留めた。だが、彼女はガラを見るたび、あの文言を思い出してしまうようになったんだよ。顔を合わせるたびに吐血。日常生活に支障を来たすほどの吐血体質になってしまっていた。……レティシアはガラと俺に何も言わぬまま、首都から姿を消した。仕方ないことだと思って男二人で温泉に傷心旅行にいったりもしたなぁ」
「ところでよ」
挙手するササメ。そんな彼女に教師のようにはい、と答えるササメ。
「あたしが、レティシアさんの名前を出した時、すぐに思い浮かばなかったんだべ?」
ああ、それかと頷くジオ。
「いやな、彼女の印象なんだが。……分厚いメガネに、野暮ったい衣装の正直あまり華やかな印象の女性ではなかった。いや、磨けば光ると思ってはいた。だが、余り華やかでない印象が強すぎてな。……社交界での名前も聞いてはいたがきっと同名の別人とばかり……」
そこまで聞くと、ユラは念を押すようにジオに言う。
「つまり、ね。……兄さんと、そのレティシアさんはお互い両思い同士なんだよね?」
「間違いない」
しっかりと頷くジオの言葉に、そっか、と呟くユラ。
「……じゃ、明日は正装だね」
「うむ」
頷くご隠居。ちょっと待てと思う作者を無視して二人は椅子から立ち上がった。
「友人を代表して祝辞を述べなければならないな」
顎に手をやり早速文面を考えるジオ。
「あんちゃん繋がりで、自分も出席したいっすね」
「となりゃ、明日はユラは出仕できねぇべな。姫様に連絡しとかんと」
早速忙しさを見せ始めるイサオミさんち。ユラは箪笥から正装の衣装(女性用)を探し始める。
ご隠居とジオは顔を突き合わせて友人代表のスピーチを思案し始め、レニはユラと一緒に衣装を探している。
ササメは姫様に連絡を伝えるためにイサオミさんちから退出していく。
そしてなんか物凄く大切な事を忘れている彼ら一同は、明日のめでたい行事目指して一生懸命に準備を始めるのであった。
まさか突っ込み不在だと、ここまでオカシイとは作者にも意外だった。
そうしてガラというキャラクターの重要性を改めて実感するのであった。あーあ。




