第一話『兄弟仁義』
幼い頃の、ある日。
自分より更に幼い弟の赤子に対してあの頃の自分はあまりいい感情を持っていなかった。
いや、最初は憎んでいたと言ってもいいんじゃないかと思う。
虚弱な体で母親を心配させ、その愛を独り占めするものが憎くて仕方が無かった。
――――
遥か昔か、まだ見ぬ明日か。
世の乱という乱を平定し、大陸の統一という偉業を成し遂げた喪装皇バッカニアスという英雄が打ち立てたドーベルトと呼ばれる国があった。
かの王は誰よりも先陣に立ち、誰よりも勇敢に戦った。そして死した敵と味方に対して哀悼を表すため、僧衣と同じ黒と白に彩られた甲冑を身に着けたため、いつしかそう呼ばれるようになった。
喪装皇の名が歴史に初めて現れた北方十六の騎馬氏族を束ねる流星王との死闘。
東方半月の国との航路発掘。
大陸を襲った一大飢餓を乗り越える為の決死の輸送船団の出発。
喪装皇の義理の兄である白豚公が開いた『刺客ノ席』。
六大選王家からの廃嫡裁判。
聖剣、竜殺し(ドラグンバスター)に纏わる悲劇。
歴史の闇に葬り去られた第七の選王家に関わる陰謀。
戦乱の世が終わり、英雄王は自らの息子に次代の王の座を譲った。
子は父に似て英邁であり、英雄王に仕えた文官武官達はみな才気溢れる知恵者勇者ぞろいであったため、より一層の繁栄を迎えることになった。
……しかしまぁ、そこら辺の事情は正直本筋とはあまり関係ないのでこの際全部すっ飛ばす。
要するに物語の舞台が太平の世であることが伝わればそれでいいのであった。
晴天の空が建物に切り取られているように見える雑踏の只中。それでも燦燦と降りしきる太陽の恩恵は絶えず頭上に降り注いでいた。
偉大なる英雄、『喪装王』によって統治された次代の世。皇帝陛下のお膝元、大陸統一を成し遂げたドーベルトの首都であるディミスタンの活気溢れる街中は、常に活気と熱気に彩られていた。
あたりには物流の心臓と称えられているだけあり、さまざまな食料や嗜好品などが所狭しと立ち並んでいる。この首都を心臓とし、世界各地へと大動脈ともいうべきアーリア街道を通ってオールトの各地へ物資が運搬されるのだ。
そんな大都市の中を足早に歩くものの姿がある。
豊かな財を持つものであれば、この首都で手に入れられないものは何も無いだろう。
しかし、山のように立ち並ぶ露天商を見て回るその人は、あいにくと手近な場所で買い物を済ませることができるほど懐に余裕がないのか、もしくは単に節制することが目的なのか、先ほどから何週か露天をうろついていた。
観れば目を引く事は間違いないだろう。
そのしなやかな手足は美しい猫科の猛獣を連想させ、ロープから零れ出る目鼻立ちは多くの若者に素顔を夢想させるに足るものだった。
女性にしては少々上背が高すぎるかもしれないし、日が燦燦と降りしきる只中ロープをまとっているのだから一見不振人物に見えなくも無い。だが、その出で立ちに周りの人は慣れきっているのか誰も誰何の声を挙げようとはしなかった。
それどころか向けられるのは好意と同情の視線ばかり。
「あ、あの人だよ。皇帝陛下直轄の近衛隊、喪装騎士団員ガラ=イサオミの妹君、ユラ様っていうのは」
「ああ、……確か母親の遺言で二十歳になるまで結婚は許されていないんだろ?」
時折声を潜めて交される会話を耳に挟みながら、ふと逢う視線に楚々とした笑みを浮かべて軽く会釈する。男性ならばときめく胸を自覚し、女性ならば誰もが好意を抱くであろうそんな一歩引いたような穏やかな笑み。
「……いやぁ、本当に可哀想だよ。あれだけの器量なのに、母親の遺言で二十歳になるまで結婚できないだなんて」
「本当にねぇ。うちの馬鹿息子に嫁いでくれたら手綱をしっかり握ってくれそうなのに」
その言葉を聞き流しながら話題に上る人物、ユラ=イサオミは辺りの食品を物色し、今日の夜中の献立を頭の中で組み立てながら考えていた。
先ほどの会話と似たような内容は今まで何度も何度も聞き流してきた。聞けば聞くほど胸の中には怒りが蓄積されていくのだから。
聞くたび怒りの衝動に任せて大暴れしたくなる。そのたびに衣服を脱いで、胸の詰め物を外して大暴れしたくなる己を必死で自制しなければならなかった。
買い物籠の中のりんごを片手にする。八つ当たりそのものの感情で握り込んだ。握力で砕け散る。
「ただいまー」
「おう、お帰り」
家族二人が住むにはわりと広い自宅の扉を開け、食堂に脚を運べば其処にいるのは実兄のガラの無骨な顔だった。無骨な武人と言う言葉がそのまま当てはまりそうな彫りの深い顔立ち、短く刈り上げた母譲りの金色の髪、隆々と盛り上がった筋肉はまさに男の中の男といった風情である。
対してユラは線の細い楚々とした美貌に薄く唇に朱をさしており、その口元が健康的に日に焼けた肌に驚くほど映えて似合っている。
背に流れるつややかな黒髪は鴉の濡れ羽色に形容される美しい漆黒。手に取れば極上の絹布を指に感じるだろう。
だが、そのたおやかな容姿に似合わず、その四肢は細身ではあっても虎体狼腰とも言うべきれっきとした戦士の肉体であった。
二人ともまぎれも無く同じ母親のお腹から生まれた実の兄弟であるが、兄のガラが無骨な顔立ちの父親に良く似ていたのに対して、弟のユラは母親に似た線の細い造作の為に女性に間違えられる事しばしば……、というか女性として生活していた。
あぶなく作者自身重要な情報をスルーして書いてしまうところだった。ふぅ、やべぇやべぇ。
「……まったく、兄さんは良いよな」
どっか、と形容したくなるような乱暴な動作で椅子に腰掛ける。
『世間一般では可憐な女性』と思われている実はれっきとした男性ユラ=イサオミは、男の幻想を粉砕し、女性の憧れを踏み砕く夢想の大敵とも言うべき邪悪な動作で買い物かごの中のりんごにがぶりと噛み付いた。
ご令嬢、というよりはむしろ山賊の親分といいたくなるような野卑た動作に、ガラは苦笑する。
「まあ、そう言うなよ。俺だって色々と近衛としての役目がある。気楽な生活とは言えんさ」
「判ってるよ。兄さんが居るおかげで父さんも母さんも居なくなった僕らが生活できるんだから。……でも、僕は怪しい女装野郎とばれるか否かの綱渡り人生だぜ?」
はぁ、と溜息を付いた。
その様を観ながら兄のガラは心中微妙な心境である。
近衛騎士団員ガラ=イサオミの美人の妹と言う話はさりげなく、其れでいて広範囲に拡散している。
妹……じゃなくて弟へのセッティングを依頼する奴や手紙の取次ぎを頼む奴、果てに至っては夜這いをほのめかす内容の言動を吐く奴もいる始末である。
もちろん、セッティングに関しては丁重に断りを居れ、手紙は弟の負担にならぬようこっそりと返事を書き、夜這いをほのめかした奴は捨て置く。弟が内密に自力で処理してくれるからだ。
まあ、同僚で謎の殺人事件に巻き込まれた奴はいない。
もっとも男児として大切なものを物理的に砕かれたらしい哀れな騎士団員の話は時折耳に挟むが、精神的安定の為にそこんとこ全力でスルーである。
(にしても、なぁ……)
ガラは心の中でそっとため息を吐く。
なにが悲しゅうて弟への恋文の返事を自分が書かなければならないのか。
二十歳から八年間ずっと長年経験しているだけあって、ガラ=イサオミの求愛の断り方は既に神業の域であり、多くの恋文を見ているだけあって彼の書く恋文は後世の文豪達が参考にするほどであった。
今ですら恋文の代筆を頼まれており、一通につき幾らと金を取っているのでさりげなく馬鹿に出来ない副収入になっていたりする。
めちゃくちゃ盛大に話が逸れた。
今でこそ、健康な美女、……じゃなくて青年として立派に成長したユラ=イサオミであるが、生まれた当初は乳を含ませても吐き出し、鳴き声すらろくに挙げられない虚弱児であった。
医者もさじをなげ、親族もほとんどが見放す中で母親だけは何とかしたいと願い、人をやって高僧という高僧に話を聞いた。
で、そこで一人の占い師に『二十歳まで女として育てよ、ただし、女を止めればすぐさま死の運命が下るであろう』という託宣を受けたのである。
「兄さん、どうして其処で『ちょっと待ったお母さん』とか言ってくれなかったんだ」
「あの時お前が成長できるなんて誰も思わなかったからなぁ」
家族もユラが成長できるとは思わず、ならばせめてお腹を痛めて生んだ本人の思い通りにさせてやろうと考え、実際に試してみたら、何故だか無事に成長し始めたのである。
それから後に父親は他界し母親も病に倒れたのだが、その時の母親の遺言が『二十歳まで女として生きなさい』だったのである。それがただの占い師の言葉ならばガラもユラも気にせず男に戻っただろう。
だが、母親が遺言として残した言葉ではさすがに無視できない。二人の兄弟は律儀になんの効力がないとわかっていても秘密を守り続けていた。
「まったく、母上の遺言だから騎士団入りも出来ないし……。僕だって先帝陛下のような騎士になりたいって夢もあるのに……」
「お前じゃ、鉄姫隊に入隊も出来んしなぁ」
机の上に顎を乗せ、ぐだーと項垂れているユラにガラは顎をさすって呟く。
鉄姫隊。女性が剣で武名を得ようとしたら此処しかないと言われるドーベルト唯一の女性騎士団である。
現皇帝ディアヌスの第二皇女である、武勇で名高きアンゼリカ姫の直属騎士団であり女性のみで構成される騎士団。
確かに唯一女性が入れる狭き門ではあるが、「実は男」という秘密を持つユラでは例え入隊できたとしてもばれたら打ち首獄門だ。
人生の全てをかけるほどギャンブラーでもないユラは結局兄に養ってもらうという、独立心も一人で生き抜く気概も十分備えた誇り高き男児としてはあまりにも悔しい思いを胸に、女性として生きていかなければならないのである。
だから、ユラ=イサオミが目指す人生の目的とは、二十歳になると同時に男性へと戻り、同時に騎士団に入隊し、騎士として名を上げ武名を高めるという実にオトコノコ的発想なものであった。
その日に備え、超絶の強さを誇る物好きな爺さんに教えを請い、兄に戦術戦略などの本を頼み込んで譲ってもらい、あと適当に自炊して二十歳の誕生日を一日千秋の思いで待ち焦がれていたのである。
イサオミの兄弟は多少アレな秘密を抱えて生活してはいるものの、根っこの部分は実に健全で真面目で熱心であり、このまま行けばまず間違いなく名高き騎士として大なり小なり功を挙げて名を残したであろう。
まあ、無論平穏なままの生活を書いても物語にならないから色々と巻き込まれる事になるのだが。