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此の国の神語  作者: 八枝
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「退魔様」




 夜を一人の娘が駆ける。

 息を切らし、時折後ろを振り返りながら青い顔で、足をもつれさせもしながら必死に駆けてゆく。

 逃げているのだ。追われているのだ。

 酸素を求めて喘ぐ喉が痛い。助けを求める声は既にもう何度も上げた。

 周囲には明かりの点いた住宅が連なっているというのに、誰も窓を開けることすらしない。人だけが消えてしまったかのようだった。

 怪異である。もう必死に足を進めるだけがすべてである娘には、何も考える余裕はないが。

 追って来る何かは追いつかない替わりに引き離せもしない。ただ、荒い息が耳朶を打ち、恐怖を煽ってゆく。

 胸は狂ったように鼓動を刻み、目が霞む。見えなくなってゆく。まったくの闇にいるようだった。

 しかしその闇が回った。意識がどれほど危険を叫ぼうと、ついに肉体が過酷な運動に根を上げてしまったのだ。

 もんどりうって倒れ伏し、噎せ、激しい咳とともに胃液を吐いた。

 一度止まってしまった身体は動かない。頬が、手足が冷たかった。

 死ぬのだと思った。大学生になったばかりなのに、と不運を呪った。

 もう一度嘔吐しかけた、まさにそのときだった。

「そこまでだ!」

 底無しの洞穴から響いてくるような、それでいて大音声が響き渡った。

 喘ぎながら上げた顔、視線の先に巨大な影が映る。

 全高は2メートルほどにもなるだろう。全体的にずんぐりとした姿だ。鎧を着ているように見える。兜を被っているように思える。

 そして眼窩には、そもそも眼窩と呼ぶべきなのかすら怪しい穴には黄金の輝きが灯っている。

 それは巨大な武人埴輪だった。

 娘は歓喜の声を上げた。

退魔タイマ様!」

おう!」

 埴輪は応え、跳躍した。








 この一月で聞かれるようになった都市伝説が一つある。

 夜中、独りで歩いていると何ものかに追われる。ここで決して諦めてはならない。全力で逃げなければ捕まって食べられてしまう。しかし最後まで諦めずに走り続けたならば巨大な武人埴輪が助けに来てくれる。

 助けられた誰かが名を問うたところ『タイマ』と答えた。それ以来、退魔タイマ様と呼ばれることとなった。

「やっぱり退魔タイマ様は実在したんよ!」

「そらいいこった」

 正午を少し過ぎた時刻、暇を生協食堂で潰しながら、きらきらと目を輝かせて語るクラスメイトへと杏は気のない返事をした。

 三歳児並みの我儘とまで言われる杏ではあるが、あにはからんや友人はいるのである。大学に入ってから知り合った彼女はどうにも浮世離れしているというのか何かと夢見がちな性質で、怪奇の話を聞きつけては首を突っ込もうとする。

「もー、きょーちゃんはこういう話、いつもドライやなあ」

「そんなことよりあんたのアイス寄越しなさい」

 小さなテーブルで向かい合う二人の前にはそれぞれ幾つもの冷たいデザート類が並んでいる。そのうちの一つを宣言と同時に強奪、杏は自分の前へと持って来た。

「ぅあ!? ああ、まあ、ええよ」

 理不尽な展開にも挫けることなく彼女、三木本集みきもとつどいは困ったように笑ってみせた。

「けど、きょーちゃん、こういうこと詳しいわりに全然興味ないんよなあ」

 『きょーちゃん』なる呼び方は、初対面のときに杏の名を読み間違えたことに端を発する。訂正を受けても気にせず『きょーちゃん』と呼び続ける強引さは、伊達に杏の友人をやっていられるわけではないことを示している。

 だが同時に、べったりとした関係でもない。友人の枠には入るという程度の親しさであり、時折行動を共にすることはあっても積極的に誘いはしない。今向かい合っているのも偶然見かけて同席しただけなのだ。

 にもかかわらずアイスを強奪するのが杏である。

「別に楽しくないもの。涼しい部屋で漫画読んでる方がいいじゃない」

「うぅん……きょーちゃんはほんま、よう分からん人やなあ」

「何がよ?」

 きょとんとした顔すらすこぶるつきの美人だと集は思う。中性的な凛々しさの中に女性らしい甘やかさが匂う容姿容貌に敵う者など、およそこのキャンパスにあるまい。男には判らない程度、ではなく正真正銘の化粧なしで既にこれである。いや、さすがに肌の手入れくらいはしているのだろうけれども。

 ただ、恐ろしいまでに自己中心的なことを除いてさえ変な人だとも思う。

「例えば……きょーちゃん、イケメン好きや言うてたやん?」

「その言い方、杏さんは安っぽくて嫌い」

「ああ、うん、どういう言い方やったかな……とにかくかっこええ男の子好きや言うてたやんか」

「それがどうかしたの?」

 アイスを頬張る合間に、やはり興味の見えない表情で杏は続きを促す。

 そんな姿さえも、黙っていれば凛と咲く花である。気後れする者が多いとはいえ、近づく男も稀にはある。

「昨日、木野村君、こっぴどく振ってへんかった?」

 木野村きのむらなにがしは容姿端麗で知られた男だ。別段大仰に感動して見せるほどではないが、クラスメイトの中では群を抜いている。

 その告白――――とまではいかないまでもあからさまなアプローチに対し、杏は興味もなさげに切って捨てたのである。

「なんかめんどくさくて」

「きょーちゃん、かっこええんが好きなんよな?」

「そうね」

「木野村君、顔はええよな?」

「まあね」

「興味ないん?」

「ない」

「ワケ分かれへん」

 ゆるゆると集はかぶりを振る。実際には大して気にしないのか、あるいはあの程度では基準に達しないのか。どちらにせよ、杏にとっては目の前のアイスの方が余程価値があるのだろうことは確かだった。

「いや、それは置いといて、退魔タイマ様よ」

 話を本題へと戻す。

「うちも退魔タイマ様にうてみたい!」

 叫びが食堂に木霊した。

 大学は既に夏休みに入っている。しかし来なくていいとなると無意味に顔を出したくなるものであったり、あるいは単純に部活に出たりしてか人は多い。何事かとこちらを振り向く者もいくらかあったが、タイマの響きに最近流行っている件のオカルトか、と覚って興味を無くす。

「あんた、怪物に追われたいの?」

 呆れたような半眼で、向かいの杏は鼻を鳴らした。

「あの埴輪なんかより、この一月でそんなに沢山の子が襲われてることの方がよっぽど重要だと思うんだけど」

「言うても、お巡りさんの反応とか微妙っぽいやん」

 警察にしてみれば頭が痛いところだろう。証言という証言が、怪物に追われたが埴輪が助けてくれた、である。示し合わせて一芝居打っているのではないかと疑いたくもなる。

 それでも嘘と決めつけることまではできず、一帯に警官の姿がよく見られるようにはなっている。

 しかし好奇心に背を押された集が彼らの複雑な心中を推し量るわけもなく。

退魔タイマ様にうて、怪物の正体も暴く! きょーちゃん協力して!」

 そのとき杏の浮かべた表情はまさに、何だこのめんどくさい生き物は、と言いたげだったが集も杏にだけは言われたくないだろう。

 そして杏はアイスを平らげると姿勢よく立ち上がった。

「いいけどさ。それがあんたの意思なら」

 この食堂は先払いだ。食べ終わったなら食器を片付け、ごみを捨てて出て行くだけでいい。

 さすがにそこまで人任せにはせず無駄に鮮やかな手並みで始末をつけて背を向けた杏を、集は慌てて追った。

 まさかあっさりと承諾されてしまうとは夢にも思っていなかったため呆気にとられていたのだ。

 屋外に出ると日差しが強い。薄桃色の大輪が、くるりと一回りしながら肌を焼く光を遮った。

 最近集もよく見る傘である。お気に入りなのか、雨が降っていようが晴れていようが杏はそれを持ち歩いている。色以外は男物の雨傘と見えるのだが、日傘としても使えなくはあるまい。

「きょーちゃん、ちょお待って」

「愚図愚図しないの。付いて来なさい」

 こちらを振り向いた瞳が鋭い。傲慢なまでの、いつもの輝き。

「ええっ!?」

 予想外の展開になって来た。

 集の予定としては、まずは被害者を特定して話を聞いて、と自分が中核になってことを進めるはずだった。それが無理に誘ったはずの杏に指図されては困惑もしようというものだ。

 しかしすぐに、さもありなんと思った。如月杏が人の背に大人しく従うわけがない。

 姿勢よく杏は行く。しかも速い。少し足を緩めると薄桃色の傘が遠くなる。未踏の荒野であろうとも踏みしめ道としてしまいそうな後姿に集は駆け出した。

 アスファルトが靴底に熱い。もちろん裸足で砂浜に踏み入るように火傷を負いそうなものではないが。

 サッカー部がボールを奪い合うフィールドを左手に望み、続いて体育館の横も通り過ぎて、果たしてどこへ向かおうというのか。

 角を曲がったところで左右に樹の植えられた道へと入り、頭上に差し伸べられた緑が光と熱をやわらかく遮った。

 このまま進めば大学の外に出てしまう。それでも杏の足は緩まない。

「なー、きょーちゃん?」

 さすがに声をかけずにいられなかった。

 杏は振り向きもせずに返事だけ寄越した。

「目的地はまだ先だけど、とりあえずこいつを拾っていくわ」

 こいつ、との言に何のことなのか惑う暇こそあれ、答えは別の声で示された。

「えらい遅かったなあ」

 門のすぐ傍に見知った姿。180センチメートルほどの背丈に気の抜ける顔で青年が独り立っている。洒落気など微塵もない、一山幾らと思しき白いシャツに黒いズボンはところどころ汗にか濡れ、この暑さであるから仕方がないとは言え些か清潔感にも欠ける。しかも太っては見えないのになぜか腹だけ出ているものだから魅力度はさらに半減、逆に印象に残る。

 同じ学部の同じ学科、要はクラスメイトの一人だ。姓が新開しんかいであったのは覚えているのだが。

「まだ一時過ぎじゃない。杏さん、今日はとてもお早い」

「なんかもう慣れてもたわ」

 いけしゃあしゃあと言ってのける杏に怒るでもなく、青年は続けてこちらへと目を向けた。

「……と、確か三木本さんか」

 集はその声をまだ覚えてはいなかったが、容姿からは想像しがたく涼やかに低い美声で、なんとなく癪に障った。しかしそんな理不尽な感情を露わにするほど馬鹿ではない。

「新開君やったっけ」

新開鉄朗しんかいてつろう

 やはりいい声だが、杏へ向けたものよりもどこか冷ややかに響いた。

 それで思い出した。この新開鉄朗はあまり目立つ方ではない。騒がないし、大きな話し声を立てたりもしない。だから声に慣れていなかった。

 距離を測りかねている集を横目に鉄朗の方は再び、困ったような顔で杏に尋ねた。

「で、三木本さん連れて来たんは事件にでもうたんかい?」

「まだよ」

「まだ?」

「首を突っ込んで埴輪に会いたいって言うから連れて来たの」

「んなことで連れて来んなよ」

 鉄朗が口元を歪める。

 しかしそれ以上に穏やかならざる心地だったのは集である。

 二人の会話が意味するところが分からぬほど鈍くはない。

「……え、なに? もしかして……」

 よく考えてみたならば不思議はないのだ。杏はこういった怪奇めいた事象に妙に詳しい。まさにそこへ期待して誘ったわけだ。しかし怪奇が実在するのであれば、詳しいだけでそちらに関わりがないなど、むしろその方が不自然だろう。

「きょーちゃんと新開君、霊能者とかそういうん?」

 浮き立つ思いで尋ねれば、ふたりともが殊のほか気の乗らない表情を返した。

「なんか安っぽくて杏さんの趣味じゃない」

「なんや僕とは根本的にちゃうわな」

 それぞれ別々の否定である。そして違うと言われても、では何であるのかが分からない。

 杏はそれだけだった。この件でじゃれるつもりもないのか、すたすたと容赦なく歩み去ろうとしている。

 一方、鉄朗は酷く面倒そうに溜息をついた。

「来ん方がええで。三木本さんが見よる夢や多分、何もないから(なんもないけん)な。詰まらん結果と碌でもない現実があるだけやて」

 木漏れ日揺れる光と影の中、その声が奇妙に大きく集の耳に響く。気遣いはない。本当に、ただ面倒ごとを減らそうとしているだけなのだろう。

 そう言われてしまうと集の天邪鬼が目覚めてきた。

「新開君には聞いてへんもん。うちはきょーちゃんにくっ付いて来たんやからな」

左様さよか」

 ぽん、と鉄朗が腹を叩いた。響く、良い音がした。






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