02
むせ返るほどの潮の匂いと風を体中に浴び、アスピナ海と雲ひとつない空を隔てる水平線を一望できるヘルゲンの浜の端にレナは佇む。
既にいくつかの隊は任務を与えられ、今この浜に残っている新兵は将校が演説をしていた時の半数にも満たない。
そしてレナ達も、これから与えられた任務のために出陣せねばならないのだ。
第四分隊は分隊長のショウ・カザマ伍長以下八名で構成されている。そこに魔女を合わせて計十人だ。
実戦経験があるのは伍長だけ。あとは訓練途中で引っ張りだされてきた新兵のみ。レナもその内の一人だ。圧倒的に全体的な技量とその他諸々が不足しているが、幸い任務は先日撤退した帝国軍の小規模の補給基地から使えそうな物資を調達してこいという危険度の低いもの。
「さあみんな、装備はちゃんと持ったな? じゃあ出発だ」
カザマ伍長の掛け声とともに、隊は進軍をはじめる。
ぴりぴりと痛む頬をレナは指で拭うと、指先に僅かだが塩が付着した。まだここに来て二日も経っていないのにこれでは、村に帰る頃には漁師と見紛う姿に変貌しているのではないかとレナはひとり微かに笑い声を立てた。
そんなレナの隣に、またもや帽子の魔女が寄り添う。
「ねぇねぇ」
「なに? ていうか、さっきから私にしか話しかけてないよね君」
「同じ女の子ですしー。まあそれはさておき、もし戦闘になったら私から離れないでね」
「なんで? って、ああ、武器持ってないもんね。大丈夫、余裕があるうちは守って……」
「違う違う、それはまあ嬉しいんだけどさ。いざとなったら魔法で助けてあげるってこと」
ああ、とレナは納得した。そういえば魔女なのだこの少女は。どんな魔法を使うのかは分からないが、帽子の魔女が言うには各魔女につき使える魔法は一つという制限があるらしい。出力を絞ったり応用を効かせて別の効果を発揮させることも可能だが、原則魔法自体は一つだけ。炎を生み出す魔法なら、全てを溶かし焦がす大きな火球からマッチの火レベルまでの調整は出来るが、元となる魔法の自体は炎を生み出すというものになる。
「そうなった時はお願い。で、帽子ちゃんは何が使えるの?」
「んー残念ながら秘密なのですよ。パートナーになるか、そのいざって時に教えたげる」
「わからん魔法で援護されてもなぁ」
「はは、大丈夫よ。損はさせないって」
言いながら帽子の魔女はレナに腕を絡ませる。これではまるで恋人だ。同性ではあるが。
当然、そんなものを目の前で見せられて黙っていられるはずのない男がこの分隊にはいる事も忘れてはならない。
「お願いします俺にもしてくださいなんでもしますから!」
「えー? 男の子とはねぇ……」
「うるさいエドガー。伍長とでもすれば?」
「男じゃねーか! じゃあもうお前でもいいよ!」
「女なら誰でもいいんかい!」
そんな三人のやり取りの一部始終を見ていた他の仲間にも笑われ、気まずくなってレナは頬を掻きながら皆とは逆の方を向いて黙々と歩き続けることに集中。
「あんまり新兵達をからかわないでくれよ魔女さん。まあ、俺としちゃあ今にも死にそうな顔でぞろぞろと後ろを歩かれないだけましだけどね」
「ふっふーん。そうそう、ムードメーカーは大事だよねぇ」
今度はカザマ伍長の隣りに立って、自慢気に辛うじて服の上から膨らみが分かる程度の胸を張りながらふんぞり返る帽子の魔女。彼女は恐らく殆どが新兵で構成されたこの隊の士気の低下を危惧してこうした行動をとっているのだろうが、その矛先がレナに向いているのは釈然としない。
「だからって私を使わなくてもさ……」
「ふっふっふ、一番最初に私に顔を見せた不幸を呪うがいい」
この時ほどレナは我先にとテントに戻ったことを後悔したことはなかった。
目標の補給基地はヘルゲンの浜から南南東に進んだ森の横を通り抜けた先にある。
レーベン帝国とオスティア公国の間にはアガレスと呼ばれる共和国があり、中立国であるアガレスを巻き込む事態は避けたいのかレーベンはアガレスを迂回し上か下からしかオスティアに攻め入ってこない。
とはいえ大陸南部は森林が大半を占め、そこには危険な魔物や盗賊が巣食っているので大軍を動かすなら北から以外ありえない。
だからこそ、レナ達が進むこの道はある意味敵兵との遭遇率に関してはかなり低い事は保証されている。
森を突っ切ることにはなるが、分隊規模なら立ち並ぶ樹木にペースを乱されることもない。
なによりも、森はレナにとって数少ない落ち着ける場所でもある。それが一番重要なのだ。
「今なんか聞こえたぜ隊長!?」
エドガーが声を上げた。女のようにレナの肩に掴まって来たので、手で払うと泣きそうな顔で何か懇願するように指先でレナの袖を摘んだ。邪魔だとレナは叫びかけるが、森で騒ぎ立てると碌なことがないのは熟知しているので心の中に止めておくことにした。
「狼か……もしかしたらオークくらいの魔物はいるかもしれないな」
「んや、猪ですね。ほら、そこに蹄の跡があるでしょ? まだ新しいのが二頭分」
「え? ……ああ! ここか。驚いた、レイナードよく見つけられたな」
これくらいは村に居た時は当然のように行っていたことなのだ。逆に言えばそれだけカザマ伍長達と違い自分が田舎育ちなのだと実感できて辛いものがある。
「一応こいつらの進行方向は避けましょう。鉢合わせて音を立てたら厄介です」
「ああ、そうだな。助言助かるよ、俺もジャングルは初めてでね」
森で音を立てれば、それは数百、酷ければ一キロ以上先にも伝わってしまう。何がいるともしれない森でそんな愚かな行為をするのは誰もが望んでいないのだから。
とはいえ中量級の装備をした人間が八人もぞろぞろと歩けば、ある程度は仕方がない。レナだけならこの装備でも極力静かに移動できるが、それはレナだけがやっても意味のないことだ。
「猟師が罠を仕掛けてあるかも。みんなも一応足元に注意してください」
レナが言うと、揃って隊の皆の視線が足元に集中した。しまったと頭を抱えるが、不用心よりはましなのだろうか。猟師なら立て札か何かで罠の警告を示しているのでまだいいが、盗賊やオークなどの人型の魔物の場合はそうもいかない。人を狙っている者達は、わざわざ人に危険を知らせることはしない。
「っと、あれですか?」
前方の注意が疎かになった隊の皆の代わりに目の役を変わろうと思った矢先、レナの視界の先、三百メートルほどの場所に開けた空間を発見する。
ちょうどここは木も生い茂り視界が悪くなっているし、海岸から吹き込んでくる潮風は魔物が嫌う。基地を隠すのには絶好の場所だ。
「レイナードは目がいいな……正直助かるよ、ほんと」
「いえ、でもまあ戦闘になったら足手まといなんで、そんときはよろしくです伍長」
「はは、わかったよ」
双眼鏡をポーチから取り出し、カザマ伍長は手に持った資料と交互にそれを見やり頷く。ここで間違いないようだ。
「何なら一応偵察してきましょうか? 私一人なら……」
「いや、もう帝国兵は撤退したと報告にあったし、もし何かあったら危険だからみんなで行こう。レイナードだけが無理する必要はないさ」
そう、元々物資を調達するだけの簡単な任務だ。少しでも自分に任を課して、ぐるぐると頭の中で巡る嫌な考えを忘れていたいからと無理をしようとしていたのだろうか。レナは頬を掻きながら自分に落ち着けと言い聞かせてから、皆の後を追う。
カザマ伍長が言うとおり、補給基地のゲートに人は居ない。というより、基地全体に誰もいないのか気配がない。
しんと静まり返り、聞こえるのは木々にとまった小鳥のさえずりと、錆びついて立て付けが悪くなった鉄の扉が軋む音くらいだ。恐らく潮風を浴びて劣化が早いのだろう。とはいえ急遽作られた基地にしては痛みすぎな感じはする。どれだけ防錆処理がされているかは定かでないが、まるで数年とは言わずとも数カ月前には既に作られていたような風貌だ。
「じゃあ、とりあえず二人一組になって使えそうな物資がないか探してみよう。武器弾薬庫、食料庫、なんでもいいから探してみてくれ。十分後にまたここに集合だ」
「あ……」
レナが動く間もなく、隊の連中は手早く相方を見つけ出しその場を去っていく。気の利くカザマ伍長は予めあぶれそうな子に目をつけていたらしく、その子と一緒にいくようだ。
こうして、残ったのは魔女二人とエドガー、そしてレナである。
「あー……」
「あややー」
他人事のように帽子の魔女がわざとらしく困ったような顔を作る。エドガーといえば、レナが視線を合わせただけでお前とは絶対に行かないと言わんばかりに睨みを利かされたところだ。
「はは、じゃあそれぞれ魔女さん達は二人のどっちかについてくれるかな?」
カザマ伍長のそれはマフラーの魔女への死刑宣告同然だった。絶句していやいやとエドガーを見ながら首を振るマフラーの魔女の気など欠片も留めず、あの童貞は興奮した様子で魔女と一緒になれることに嬉々とした表情を浮かべていた。
レナはといえば、おおよそどういう組み合わせになるか予想出来ていたので、平静を保ったままマフラーの魔女に憐れむような視線を向ける。
「んじゃあ、一緒に行こ?」
「そこは譲ってやるとかしないの」
「いやよ、襲われそう。第一あの子は君が相手でもあんな感じだと思うよ。男嫌いじゃなくて単なる人見知りだし」
片手を顔の前に持ってきてごめんね、と帽子の魔女が謝るが、見えていないのかマフラーの魔女は放心して固まったままエドガーに引きずられていった。さすがにこんな場所で妙なことをするほど腐った奴ではないだろう。そう思いたい。
「さて、じゃあレイナード。魔女ちゃんを頼んだ」
「了解……」
「よっろしくぅ」
気落ちするレナの隣で、帽子の魔女が跳びはねる。元気そうで何よりだ。
ともあれそれを嘆いている暇はなく、レナ達も動き出す。この周辺はカザマ伍長が調べているので、レナは建物の中を調査することにした。
「電気は……つくみたいね」
耳障りな錆びた鉄の音を立てドアを開くと、窓一つ無いせいか暗黒に包まれた空間がレナたちを歓迎した。壁伝いに手を這わせ、レナはなんとか設置されたスイッチを手探りで探しだすと、それを押す。どうやら電気は生きているようだ。発電機か何かがあるのかもしれない。
「うーん、補給基地……だっけ?」
「伍長はそう言ってた。けど……」
帽子の魔女とレナは、顔を見合わせると互いに首を傾げる。目の前には、無機質な鉄の床と木の机が並ぶ質素な空間。机と床の上には何かの資料なのか紙が散乱しており、よほど慌てて出て行ったのだということを伺わせる。
レナは屈みこむと、床に落ちた一枚の紙を拾い上げそこに書かれている字面に目を通した。
「んん? 薬物……調合……分かんないな」
「ちょっと貸して」
言われてレナが帽子の魔女に資料を手渡す。と、字を追うように魔女が目を下へ下へと移していき、それに伴ない顔が険しいものへと変わる。
「どうかした?」
「これ、魔女用の薬のリストだね。私らが魔法使えるようになるために使うやつ。でもなんで帝国が?」
「魔女の実験でもどこかでしてるんじゃないの?」
「いやおかしいよそれ。だって、魔女はお隣のアガレス共和国だけが研究していいって事に……なんだっけ、国際条約? でなってるんだもん。そのアガレスが魔女をレーベン帝国やオスティア公国にあげてるってだけで、アガレス以外がそういうことするのは……」
レナは顎に手を当てながら思案する。もしかしたら思わぬ発見。と同時に、なにかまずいものに片足を突っ込んでしまったような、無意識に背筋に寒気のようなものを感じた。
「とにかくこれは伍長に後で報告。もっと奥に行ってみよう」
レナの額から汗が伝う。意図せず緊張しているのか、レナはそれを袖で拭うとスリングで吊っていただけのライフルを構えた。
「何かいたの?」
「う、ううん。違うけど……なんかこうしてないと不安で」
ぎこちない動作で教官に教わった方法で室内の安全を確認しながら、レナは奥へ奥へと進んでいく。
すると、一番奥に他とは違い洒落た金の装飾のついたドアが立ちふさがる。それを開けると、指揮官か何かの部屋だったのか他より少しだけ小綺麗な空間が広がっていた。
床には血のように暗い赤色の絨毯が敷かれ、天井に届きそうなほど大きく高い本棚が壁に並んでいた。中央の机には最初から持ち主が居なかったかのように小奇麗に整っており、汚れ一つなくその場に佇んでいる。
それ以外に変わったところはない。一歩、また一歩とレナが絨毯の上で歩を進めると、途中でブーツ越しに妙な違和感が足裏に伝わってきた。
「どしたの?」
「いや、なんか……手伝ってくれる?」
何度か違和感のある場所を踏んで確かめてから、レナは帽子の魔女と一緒に絨毯をまくり上げる。あったのは、一枚の鉄製の扉。
「わお、ビンゴっぽい? てかこれ、なんかやばげな空気ビンビンに出てるけど……どうする?」
どうする、とは恐らく伍長に報告するかどうかということだ。さすがにこれより先はレナと魔女だけではいささか不安がある。
「そうだね、一度伍長に――」
そこまで言った時だった。まるでレナ達を待っていたとでも言わんばかりのタイミングで、それは起こった。
それは何かの波動。実際に目で見えたわけではないが、確かに感じた。器を満たした水に一石を投じた時のように、力を持った波動はある一点から生じ、この基地全体に広がった。
頭で理解しているわけではない。だがレナは波動を起こした何かが足元にあると確信めいた何かを感じていた。
「今の分かった!?」
帽子の魔女がレナを揺さぶる。それに首肯して答えると、レナは迷うことなく扉を開け放つ。
扉の向こうは、暗い地下へと続く階段。レナはちょうどポーチに入れていた棒形のライトを手に取り、それの明かりを頼りに地下へと降りていく。
「どこまで続いてるんだろ……でも、なんていうか、なんかある。なにか感じる」
「開けてびっくり魔物でした。は、やばいよ」
「そういうんじゃない……と、思う。魔女の勘を信じて」
そうして階段を降り続けること数分。またも鉄の扉に道を塞がれる。どうやらここが終着点のようだ。後ろで帽子の魔女がごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。
「行くよ……っと」
「どうかした?」
「ううん、なんでもない」
扉の横、そこに小さく描かれていたものにレナの視線は一度釘付けになる。それは、帝国の基地にあってはならないものだったから。
(オスティアの国旗? なんで帝国の基地に……)
その疑問に応えるものが、この扉の奥には存在しているのだろうか。レナは一度扉に触れると躊躇するように動きを止めるが、次の瞬間には扉を迷うことなく開けていた。
まず最初に襲ってきたのは、突然の光。急に明るくなったことに目がくらみ、反射的に腕で視線を遮りながら目が光になれるのを待つ。もし敵が向こう側にいたら、レナ達はこれで死んでいただろう。だがこうして命があるということは、少なくともレナ達を襲うような意思を持った存在はいないということである。
徐々にだが慣れてきた目を開きながら、レナは部屋の中へと踏み出した。つま先に硬いものが当たり、蹴飛ばして大きな音が響いたがそれに驚いたのは背後の魔女だけのようだった。
「痛……」
「んん、なにここ」
その景観を見て真っ先に出てきた言葉は、何かの研究所。それを裏付けるように、周りにはそれっぽい器具や資料が並び中央には人が倒れている。そう――少女が一人倒れている。それを理解するのに、レナは数秒の間を要してしまった。
「誰か倒れてる!」
「うおお!? 急に叫ばないでよ」
レナは少女の元へと駆け寄る。
とりあえず服くらいは、あれを着せた者はそんな風にでも考えていたのか少女は質素な白いワンピースを見につけていた。そしてそのワンピース以上に白く、真冬のオスティア平原を思わせるほど雪のように輝きを放つ純白の髪。上体を起こしてやると、思った以上に軽い。体躯からしてレナよりすこしばかり幼いのは確かだが、それでも明らかにこの年頃の子の体重の適性値を満たしていないのはレナでも分かる。なにせ、レナが持っているライフルより少し重い程度なのだから。
「い、生きてる?」
「たぶん……息はしてるみたい」
恐る恐る少女の顔を覗き込む帽子の魔女が物騒なことを言う。一応胸は上下しているし、肌からは温もりが感じられるので生きてはいるはずだ。
「どうしようか。とりあえず地上に――」
そう言いかけた時だった。
響いたのは銃声。それは遠く、地上から生じたもの。
レナの不安を掻き立てるのは、それが訓練でよく聞いた自分達の銃から発せられた銃声ではないということ。
それが示すのは――