03
薄暗い王室内は視界に影響を及ぼさない程度にガス灯の明かりが灯され、城下の市民が一生かかっても手が出せぬような高級机に座りながらそこで大公は大きなため息を吐いた。
通常の執務は全て後回し。机の上に積み上げられた紙束は端に寄せられ、今大公の眼前には一枚の封筒とその中身のみ。
これが誰かの冗談か、悪い悪戯ならここまで頭を悩ませることもなかったのだが。地の七天ゴールドコーストからの文、それも王家の印章付きとなってはさすがにそのような楽観的な思考を巡らせる余裕はない。
まだ歴史の浅いこの国が、七天に気にかけられるほどの存在になったのだと言えば聞こえは良い。だが、大公が今まさに気にかけていた者に関わる事情となれば話は別だ。
文の内容は掻い摘んで言えば、地の精霊王がレイナード・ブレンナーに用がある、だからこっちに来させろ、というものだった。差出人はゴールドコーストの王。しかし用があるのは精霊王なのだという。
この世界を作り出したと言われる精霊王。その七人が王の一柱、地の精霊王が、だ。
正直言って、精霊王などという存在に関しては眉唾だ。何千何万もの時を生き続けてきたこの大陸で、彼らを語るのは伝承と七天教会のみ。その姿を見たと言う者は未だ現れていない。所詮神も精霊王も、誰かの世迷い言から生まれた偶像でしかないのだと。大半の人間は、都合のいい時にだけ信仰心を見せながらも心の何処かではそう思っているのだろう。現に、大公もかつてはそういう認識だったのだから。
そういう意味では、あの月影騎士団の生き残り、アナトリア・リーヴァとの出会いはまさに王の導きといっても過言ではない。精霊王と契約し不老不死を得た騎士達。彼女が生きている事実こそが、王の存在を示す確たる証拠となり得るのだから。
そして精霊王が存在するというのならば、星の海に座すという王たちすらをも凌駕する者達、彼らもまた存在するのではないかと。そう、思い至ったわけだ。
そうして志同じくする者、かつてヴァイス帝国の聖剣の一振りだった男、現宰相のシュナイデ・リッターを友として招き入れ、実験を繰り返した。数多の犠牲の元、星界の門は不完全ながらも開きかけ――それが始まりとなったのだ。
開きかけた門は閉じ、しかし星界の者がこの世界に落とした力の片鱗は計り知れず、不可思議な力を宿したまま今も城の地下で眠っている。アレと、月の力を宿した少女――レイナード・ブレンナーさえいれば、今度こそ完全に門を開き、星の海との交信を果たすことができるはずだ。だというのに。
「まさか精霊王に勘付かれた……ということか」
計画は信頼する者にしか明かしていない。だが厳重に秘匿されたそれも、世界を司る精霊王からすれば目の前に差し出されたかの如く全て見えているのだろうか。
しかし、であるならばわざわざレナを呼び出さずに直接ここで殺すなり捕らえるなりすればいい。彼の精霊王ならその程度造作もないだろう。あるいはまだレナを害するだけの理由がないのか、それとも彼女を取り入れようとしているのか。
「ふっ……」
ふと、大公は胸の内に生まれた疑問に失笑する。
仮に、レナと精霊王が刃を交えたならば、その時勝利するのはどちらだろうか。世界の外、星の海に存在する者達の力を宿したレナと、この世界を創り守護していると言われる者達。
しかしそれは危険な賭けでもある。いくら力を宿したところでレナは人間。今や彼女も不死性を得たとの知らせは聞いているが、それが精霊王が操ると言われる原初にして真なる魔法に耐えきれるかは定かではない。
だが同時に、この文を無碍にすることもまた出来ないのだ。内容はどうあれこれは正式に七天からもたらされた物。であるならば、従う他ない。
「仕方ないか……マリア」
横目に椅子に腰掛け足を揺らし遊ばせている白髪の少女の機嫌を見定めながら、大公は影の従者の名を囁く。
「あいよ」
およそ敬服の欠片もない返答とともに、部屋の隅の暗がりから一人の巨漢――否、それと見紛う体躯の女が現れた。
その腕は丸太よりも太く、筋肉ばかりで隆起した体躯はもはや体そのものが凶器と言ってもいい。獰猛な獣を思わせる瞳孔は獲物を求めるようにぎらついて、静寂以外何もなかったこの空間に張りつめた空気を滲ませた。
「君と彼女達の間にあったことは知っている。その上で頼みたい。ゴールドコーストで彼女の身に起こる全てを見届け、そして彼女を守り、それを私に報告してくれ」
「ほお、アタシの相棒を殺したアイツを、アタシに守れと?」
「そうだ。ただし君の姿は出来るだけ晒すな。代わりに、助けるのは本当に死にかけた時だけで構わない」
猛獣の目で女は見据え、だが大公はそれに顔色一つ変えずに言い放つ。数秒の沈黙の後、女は大公に背を向けると大げさに両手を広げた。
「わかったよ。今はアンタに従うさ。この世界がぶっ壊れる様が見れるなら、アタシも文句は言わない」
「ああ、助かるよ。頼んだ」
それだけ言葉を交わして、巨躯の女は再び影へと消えていく。それを待っていたかのように、頬を膨らませたわざと音が出るように椅子を揺らしていた少女の不満がいよいよ溜まり溜まって爆発した。
「むぅー……私あの人嫌い」
椅子から飛び降り、胸を張って彼女の考え得る限り精一杯の怒りを表現した態度で少女は大公の傍らまでやって来ると、突然机を小さな手の平で叩いた。が、思ったよりも痛かったのか次の瞬間には目尻に涙を浮かべ顔をしかめてしまう。
「っ……私、お留守番飽きたよ! ねぇねぇ私もっと殺したい! なんでめいれーしてくれないの? もっともっと殺さなきゃ、たくさん目立たなきゃお父さんもお母さんもお姉ちゃんにも見つけてもらえないよ! 私早く会いたいの! ねぇってば!」
「ああ、分かっているさ。でも君は少しやり過ぎてしまうからね、間を置かないと駄目なんだ。エリザ……エリザベート、私のかわいいエリザよ。もうしばらく、あと少しだけ待ってはもらえないかな?」
「むう……」
白髪の少女は不満げに顔をしかめて、しかし幼すぎて威圧感の欠片もない表情はどこか愛らしくもある。だが、その内に纏った殺気はどんな兵士よりも鋭く、どんな犯罪者よりも狂気に満ちている。
頭に乗せられた手を受け入ながら、少女はしぶしぶ頭を振っては大公の願いを受け入れた。とはいえ、自制の効かぬ彼女にはあとしばらくが限界だろう。可憐な狂人の機嫌を損ねる前に、何かしら手を打っておく必要はありそうだ。
「さて……ひとまずの問題は彼女か。仕方がないが、私が出向いた方が良さそうではあるな。っふ……護衛は連れて行った方が賢明か」
内に孕んだ闇を隠す気もなく、大公はそう遠くない未来に見るであろう『彼女』の絶望に染まる様を脳裏に描き、一人薄暗い部屋で笑っていた。
今日の空模様は朝から芳しくない。午後からは雨粒が屋根を叩く音も一層激しくなり、さすがに教会へとやって来る信徒達の数も減る一方だ。
そんな鬱屈な日にレナは聖堂の長椅子に腰掛けながら、膝の上で喉を鳴らしているアティの髪を撫でていた。
「えへへ、やっぱりレナさんです。あったかくってふわふわしてて、でもさらさらでつやつやの」
「う、嬉しいけど微妙に分かりにくい感想ね」
指先はアティの白髪を堪能し、だがレナの意識は半ば反対側の長椅子に足を組んで座る金髪の少年へと注がれていた。
気まずそうに頬を掻き、しかしレナの視線が気になるのか時折碧眼を横に流しては視線を交え、その都度口を結んだり笑ったりと複雑怪奇な感情を内に宿しながら様子を見ているのはエドガー。食堂での一件以来レナの方から警戒してあまり近づこうとしていないのもあって、彼なりの配慮なのかあれ以降言葉を一切交えずに現在に至る。
レナはといえば、エイラのおかげでだいぶ気が解れたとはいえ、未だ脳裏にちらつく桐枝の記憶がどうしてもエドガーに声を掛けるという一線を越えさせまいと邪魔をしている始末。
レナとて無駄に十何年という時間を過ごしているわけではない。それがどんなものであるかは知識として知っていたし、単に子を宿す為の行為というだけでなく、快楽をのみを求めその過程でレナの想像もつかないような事を行うのは重々承知していた部分でもある。加えれば、あの年頃の男子ならばある程度女性にそういうものを求めるのも理解はしていた。だからレナは、もしエドガーがそれを我慢して苦しむくらいならちょうど異性で尚且つ親友の自分が、と。そう、かつては考えていた。
だからこれは、こうして十八の少女として振る舞っている仮初の自分ではなく、もっと本質的なもの。すなわち心の中でずっと時が止まったまま動き出すことのない、ただただ弱いだけの五歳の少女が反応しているだけなのだろう。
こんな時、これが全く意思の異なる二つの人格が存在する心の病のようなものならどれほど良かっただろうか。あれなら少なくとも、今こうしてレナである自分がここまで苦しむ事はなかったかもしれない。
しかし、レナのそれは全く異なるものなのだ。そういう意味では、エレイソンが言った大人ぶった子供という例えは言い得て妙、いや、事実的を射ていると言っていい。弱いだけでは生き残れない。だからどうしてもあの時の、たった五歳の少女は強くあらねばならなかった。そうして強い自分を演じ続けた結果、いつしか心に潜めた幼い自分を置き去りにして、貼り付けた仮面だけが剥がれることなくこうして成長してしまうことになったのだから。
「本当に……自分で言うのもなんだけど面倒ね」
嘆息して俯くと、不思議そうにレナを見上げるアティと目が合った。宝石のような赤と青の瞳、いつ見てもそれはこの世の物とは思えぬほど可憐で、だが得体の知れない神秘性がどこか不安を煽る。
「レナさん?」
「ううん、なんでもないわ。アティは可愛いわね」
「……?」
首を傾げる彼女の髪が一房地面に落ちかけて、レナはそれを掬い取って手触りを楽しむ。この時間が永遠に続けばいいのに。そんな風にさえ、思ってしまう。
だからか――その来訪はある意味必然だったのかもしれない。
「失礼するよ」
「ッ……」
「珍しく悪天だな、こんな日に尋ねるのも無粋だが……事がいささか厄介でね。まあとりあえず、そのナイフは仕舞ってくれると助かるよ。騎士達が落ち着かない」
些細な幸せを壊した男。その横で控える甲冑の騎士達は、長椅子の背もたれに隠すようにしてレナが握ったナイフに、腰に携えた剣の柄を取る。しかしこの数だ、今レナが癇癪を起こしたところで仲間に危険が及ぶだけだろう。些細な反抗心を捨ててナイフを鞘に戻し、だが研ぎ澄まされた刃のような視線で大公を見据えながらレナはアティを横にやって立ち上がる。これにはさすがに些事で気まずいなどと言っていられないらしく、エドガーも自然とレナの隣で肩を並べるようにして大公と対峙した。
「そう警戒しないでくれたまえ……と言っても無理な話か。そうだな、私は先に君達に謝っておく必要がある。手違いがあったとはいえ、君の願いを無碍にしたことは――」
「私じゃない、エドガーに謝って」
なるほど用があるなら使いを寄越せば済む話にわざわざ大公が顔を見せた理由は、桐枝達の一件での謝罪のためらしい。何の『手違い』があったかはさておき、あの凄惨な結末を演じたのには大公も絡んでいることだろう。
「そうか、そうだったな。エドガー……ワイズマン君だったか、此度は本当にすまないことをした」
「え、あっと……その」
オスティアの最高権力者。それが今自分の目の前で頭を下げているという事実にエドガーは困惑し、その拙い反応が気に障ったのか、後ろに控える騎士が剣を抜いた。
「貴様! 陛下にその態度は――ッ!?」
「私の仲間に剣を向けないで」
冷たく、苛立ちを込めた口調でレナは言い放つ。同時に、抜き放たれたナイフの刃が一閃。刃の背で騎士の手首を払い、弾かれた剣が聖堂の石畳を滑る。
とりあえず大事にしないためにも刃の背中側で叩くだけに留めたが、これが両刃なら容赦なく騎士の手首を切り落としていた。どんな理由であれ、殺気を以て仲間に武器を向けるのは許さない。
そんな意志を込めたレナの視線に、後続の騎士達は抜きかけた剣を鞘へと戻した。剣を弾かれた騎士は何か言いたげだったが、大公に手で制されレナを睨むと隊列に戻る。
「戸惑うのも無理はないだろう。しかし私は一国を担う者とはいえ地位に溺れ、驕り、傲慢を振りまいて民を踏み躙る悪鬼になったつもりはないよ。今は一人の、同じ人として君に謝らせて欲しい」
そう言って、もう一度大公はエドガーに深く頭を下げる。それで、どうにかなるものではないのだけれど。
だからレナは決して大公を許しはしない。仲間を傷つけた人間を、レナは許さない。
「俺はその、大公……陛下、わざわざ俺のために謝らなくても、その」
「あまり自分を卑下するな。今やブレンナー君だけではないのだ。彼女を含め君達全員が、現オスティアにおける最高戦力といっても過言ではない。どうかそのことだけは、心に留めておいてくれ」
それからしばし時を置いて、折を見計らった大公は話題を切り替え懐から一通の手紙を取り出した。
「これを君に。文にも書いてあるが、地の七天からの物だ。印章も本物、この文は間違いなくゴールドコーストの王家からのものだよ」
レナは睨みつけるような表情を崩さぬまま大公から手紙を受け取る。張り詰めた空気が場を支配する中、騎士達の動きに意識を向けつつレナは手紙に書かれた文章に視線を走らせた。
そして、その内容に目を丸くして驚愕する。
「……誰かの嘘、ではないんですね?」
「ああ、紛れもない本物だ。それはこちらでも確認している」
馬鹿げている。そう一蹴することも出来たが、大公の様子からしてこれは紛れもない本物だ。
だがそれならばなおのこと解せない。一体なぜ、地の精霊王。すなわちこの世界を司るとされる七人の王の内一人が、レナに会いたいなどと――
「さすがに七天からとなっては無碍にするわけにもいかない。だからこれは」
「命令……ですか」
「ああ、すまない。だができるだけのことはしよう。シュテルン工業区の南端、そこにギルドの冒険者や猟兵相手に古い仕掛け武器を扱っている工房がある。君達は見たところあまり銃を使っていないようだし、魔物と戦うことも多いと聞く。高価な銃を送るよりいいと思ってね、話は付けてあるから代金の方は心配しなくても大丈夫だ」
「まるで戦いの準備をしろ、そう言ってるみたいですね」
「……っふ、用心に越したことはないだろう? ああそれと、これは飛空艇のチケットだ。さすがにゴールドコーストまでは馬車を使っても数日は……む? どうかしたかね?」
「い、え……わかり、ました」
飛空艇、その単語にレナは背筋に冷や汗が流れるのを感じて、震える手を悟られぬように大公からチケットを奪い取る。
だが大公の方はそれで何か察したらしく、薄く笑ってから背後に控える騎士達に道を開けさせた。
「次は……もう少し晴れやかな気分で相見えたいものだな」
去る大公の背中を、レナは無言で見据える。眼鏡のレンズから解放された瞳に映る白黒二色の世界、しかし大公だけは、何の色を放つことはなかった。