02
空は灰色の雲に覆われ、降り注ぐ雨は一向に止む気配がない。
窓に張り付いた雨雫が下へ下へと滴り落ちるのを眺め始めてから、何分が経過しただろうか。
既に教会の門は開放され、今日も聖堂では精霊王の信徒達が真摯に祈りを捧げている。しかしレナが起きた時点ではまだ目当ての者達は全員夢の中のようで、神父に挨拶を済ませ朝食を作り置きしてからレナは二階へ上がり、こうして一人外を眺めていた。
暇を持て余すのも勿体無いことだが、何せすることがない。ライフルが健在ならばそれの整備でもやっていただろうが、安物の護身用拳銃ではそれをする気も起きない。かといって霊刀夜桜と呪杭アイゼルネは共に霊装化し手入れをする手間は必要ない物になっている。
もともと村に住んでいた頃は家に書物以外何もなかったせいか一人で暇をするのも慣れてはいるが、いかんせん最近は仲間たちの喧騒が日常と化していたせいもあり、静寂に浸るのも物足りなくなってしまった。
だからか、ふと無意識に聖堂の方から聞こえてきた聖歌を口ずさむ。教会の厄介になることなど今の今まで無かったはずなのに、初めから覚えていたかのようにレナは頭に浮かんでくる歌詞を一句たりとも違えず歌い続ける。
気づけば、聖堂からの音はとうに途絶えていた。だからかレナの歌声だけが廊下中に響き渡り、いつから聞いていたのかたった一人の観客は小さな拍手を歌手へと送る。
「そういやお前の歌を聞くのは初めてか。はは、なんかそうしてるとほんと、女神様って感じがするよな」
「はあ……茶化さないで」
無警戒で歌い続けたレナも悪いが、声もかけずにそれを最後まで聞いていた意地の悪い親友に少しだけ顔をしかめて応じる。知り合いとはいえ、いや、知り合いだからこそこういうのはどこか気恥ずかしい。レナは軽く唸ると何か話題を切り替えられないものかと視線を泳がせ、やがて顔をじっと見つめるエドガーに気づいて首を傾げた。
「エドガー?」
「……ははっ。お前だよな、やっぱ。ああ……おかえり、レナ」
「あ…………うん、ただいま」
長く時を経て盟友と再開を果たしたかのように顔を綻ばせるエドガーにどこか安堵して、レナは応える。
この体が別の者に操られていた時点で、既にレナの意識は覚醒していた。自分の体が自分以外の誰かによって動かされる奇妙な感覚に違和感を覚えつつも、しかしエドガーの奮闘を肩を並べてではなく観客席のような位置から眺められるのはどこか新鮮でもあった。ある意味これも貴重な体験だろう。
特に、レナの意識が体の内側にある時は記憶の共有化も普段より密なものとなり、目覚める前に見た夢の他にも、旧市街でのエドガーと彼女達のやり取りの一部始終すらレナは知ることが出来た。
だからこそ、自分が犯した過ちの重さにも気づくことが出来たのだ。あの日、争いを止めようとしたエドガーの努力を不意にして、彼女達を殺してしまった自分の罪を。
きっとそれを彼女達は許してくれるだろう。心の何処かで終焉を望んでいたのは、他ならぬ彼女達なのだから。
だがそれとエドガーの感情は別だ。事実としてレナは親友の心に傷を負わせた。それは決して許されることのない、レナの罪。
「レナ? どうかしたか?」
「……ううん、なんでもないわ」
普段通りを装ったつもりだがどこかで綻びが生じたのか、それとも親友の微細な変化にエドガー自身が違和感を覚えたのか。レナの言葉に裏があるのを悟ったらしいエドガーは神妙な面持ちでレナの両肩を掴み、覗き込むように顔を寄せた。
「本当に大丈夫か? もし気分が悪いとかそういうのなら言ってくれ」
「わ、わ……ち、ちが!? そういうのじゃない、から。だいじょぶ」
妙に上ずった声で、レナは珍しく頬を紅潮させてなんとかエドガーの視界から逃れようと顔を背ける。
こんな時だと言うのに、空気を読まずに共有化された記憶の一部がレナの思考を塗りつぶした。両肩に添えられたエドガーの手の平から感じる彼の体温に、彼と肌を重ねた少女の記憶が呼び起こされる。それはもう詳細が過ぎるほどに全ての行為がレナの脳裏に刻み込まれ、自分の理解を超えた生々しさの塊を見せつけられては頭も回らず、だが自分の身に起こった出来事のように五感が記憶に残る感覚を再現し始めて。
「あ、わわわ――い、行く! 私行くから! 朝食、出来てる! 冷めない、内に、たたべて」
「お? おおいレナ!? レナ! どうし――」
顔は熱く、だが体は悪寒と鳥肌に襲われ、レナは肉食の獣に出くわした兎のように素早くその場から逃げ出した。
「へぇ~? だぁーからレナはあんなところからアンタのこと見てんのね。そー、ふーん、へぇ~?」
半目で咎めるような視線を送るリザの背後、それよりさらに三本分後ろに下がった柱の影に隠れながらエドガーを見据えるレナの視線が痛い。
それをなんとか気にしないように視界の端に追いやりつつ、エドガーは両手を広げ降参だと言わんばかりに嘆息した。
レナが珍しく挙動不審になったのが不安で、食堂についてから隅に隠れるようにしてエドガーを待っていた彼女に声をかけたものの、桐枝とのことはみんなには言わないだの趣味は人それぞれだのわけの分からないことばかり呟いてばかりで話にならなかった。だが朝食を取り冴え始めた頭がついに彼女の断片的な言葉から答えを導き、おそらくレナがあの旧市街での晩の出来事を何かの拍子に見てしまったのだと結論付けた。
だが答えが分かったところでエドガーにはどうしようもない。気にするなと言ったところでもはや無理だろうし、そもそもこうしてリザ達魔女勢が話に割り込んできた時点で火に油を注ぐ事態になるのは明白だった。
「私らが必死こいてアンタ探してた時にアンタらはそんなことしてたのねぇ? ふーん」
「返す言葉もねぇ……すまん」
肩を落として縮こまるエドガー。この先どんな詰問で責められるものかと不安が過ぎったが、意外にもリザはそこで急に力を抜いて小さく笑うとエドガーの頭を乱暴に撫ではじめた。
「まー殆ど女所帯みたいなもんだしあなたくらいの歳の子なら色々困るのは仕方ないわよね。いやむしろ私が配慮しておくべきだった、ごめん。……にしても、さすがにとっ捕まってすぐに敵さんとやるっつーのもどうなのキミ」
「あれはその……誘われたというかなんというか」
「お? ここにいないからって女のせいにするのはお姉さん感心しないぞ」
「あ、ソレハジジツデス」
柱の陰から半分だけ顔を出したレナが、何故か片言の話し方でエドガーを援護した。しかし相変わらず敵視するような疑うような視線で見つめてくるのに変わりはない。
「なぜそこでフォローを入れた……というか頼むからもうこの話はやめてくれ俺が恥ずかしい」
責められるだけの理由はあるにしろ、さすがに女衆の前でこの手の話はある意味拷問だ。それに、今となってはこれもあまりいい思い出とも言えない。何しろ抱いた相手はもうこの世に――居るかいないかで言えば居るのだろうが、それでも死んでしまったことに変わりはないのだから。
だが逃れたい一心で絞り出した言葉も、しかしこの手の話題に興味津々な年頃の魔女達にはちょうどいいネタでしかなかったようである。
意味深に口の端を吊り上げて、何か良からぬ事を考えていそうなユーがじろじろとエドガーを見つめ、ついに口を開く。
「で? どうだったの? 良かった?」
「言ってる意味がワカリマセン」
「なぁにとぼけてんのよぉ。別にいいじゃない、感想くらい」
「ほらほら、もう公開処刑された囚人みたいなもんなんだし追い打ちかけないの。ふふん、あんまり突っつくとアンタの方がアレな子っぽく見えるわよ?」
「へぁ!? そ、そういうんじゃなくて私は別にた、ただ気になったというかアレよアレ! あー……あーなんか急に運動したくなった! 散歩してくる!」
ベレー帽で顔を隠し、ユーは聖堂の奥へと逃げ去った。ユーの扱いがよく分かっている。この手腕はさすがリザという他ない。
これでこの騒動にも一息つくかと胸を撫で下ろしたところで、忘れかけていた視線が再び突き刺さり、睨み合う猫のように二人は硬直する。
「……むう」
「…………」
口を尖らせ無言で見据える親友はどこか滑稽で、こんな姿を見るのはもう二度とないかもしれないことを考えるともう少しだけ記憶に焼き付けておきたくもある。が、このままでは埒が明かない。さてどうしたものかとエドガーが思案していると、
「はは、レナもこれじゃ駄目っぽいわね。エイラ、ちょっとレナをお願いできる」
「はい、どこまでできるか分かりませんけど……」
なるほど一番無害なエイラをあてがうのはいい選択だ。と、エドガーが感心している間にエイラはレナを連れて二階へと上がって行く。
やっと静けさを取り戻した食堂には、これでエドガーとリザ、そして終始無言で事を見守っていたルークだけになった。
「騒がしいわねぇ。まあそれが私らの良いところでもあるんでしょうけど。ふふ……でも良かった。あの子、レナってなんだかちょっと普通の人とずれてるっていうか、色々無頓着な所あるからさ。アンタが我慢できないさせてくれ! なんて言った日にゃあ迷わずいいよって答えるような子だと思ってたからお姉さん一安心だわ」
「アイツは……アイツなら言いかねんな確かに」
否定しかけたところで、果たして親友の頼みにレナが拒絶を示すだろうかと考えてから、或いはもしかしたらと、エドガーは納得した。親しい者に対して絶対の信頼をおく彼女ならば、有り得ない話ではない。
「大人ぶっててもそのへんはやっぱり子供なのかもね。……あんまりあの子に負担かけちゃ駄目よ? どうしても駄目な時はリザお姉さんに相談すること。応じられる範囲で相手したげるからさ」
「……大丈夫だ。そこまで見境なくなるほど切羽詰まってねぇ」
「ふふ、無理するなよ? 少年」
赤子を扱うように優しく、包み込むような温かさをもった手がエドガーの頭に触れる。気恥ずかしくなってエドガーが視線を逸らすと、満足気に笑ってからリザはその場を後にした。
どうしてこう、周りに集まる女は癖の強い者達ばかりなのかとエドガーが顔をしかめていると、奥で口を閉ざし様子を見守っていたルークがリザと入れ替わるようにしてエドガーの対面に座る。
「ん……何だよおっさん、今日はやけに大人しいな」
「たりめぇだろ。死んだ女の話を持ち出されてる奴の傷を引っ掻き回せるかよ」
「なんだ……おっさんなりに気ぃ使ってくれたのか。ありがとよ」
「ったく、どいつもこいつも見合わねぇことばっかしやがって。嬢達もおめぇさんもよ」
エドガーはともかく、レナは確かにそうだろう。十八の少女が背負う荷としては重すぎるほどの物を彼女は抱えている。それを休まず今の今まで背負い続けているのだから、むしろエドガーとしてはなんとか彼女の荷の一つでも肩代わりしてやりたいくらいだ。
「今更生きる世界を変えろとは言わねぇ。だが、もう少しお前らは楽することも覚えろよ。走ってばかりじゃいつかはバテちまう。そんな余裕はねぇと思うかもしれんが、案外歩いてる内に見えて来るもんもあるさ。たまには景色を楽しむくらいの余裕がある方が、走るのも楽しくなるだろ」
「おっさん……」
「っへ、らしくねぇな。ちと酒のんでくらぁ。……ああ、それとリザのねーちゃんにあんま心配かけんなよ。あれで女連中の年長として色々気負ってやがるんだ、無理をさせりゃあ真っ先にバテんのはあのねーちゃんだぜ。……ほどほどにな?」
「だからしねぇってば。……まあ、でもあんたの言葉は気に留めとくさ」
「そうしてくれ。じゃあな……ああそうだ、アティに昨日間違って酒飲ましちまってなあ、まだ起きてこねーみてーだしちょいと様子見てやってくれ」
「だから見かけなかったのか。てかおっさんさすがにアティには――って、行っちまったか」
遠くから手を振って部屋を出ていくルークの後ろ姿は、どこかいつもより大きく見えて。それが大人なのだろうかとエドガーは背中を見送りつつ、階段の踊り場から感じた突き刺さる視線と犬の尻尾のように揺れる金髪に気づくと、ついに耐えきれず声を出して笑ってしまった。