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旧 月光のサルヴァトーレ  作者: 天宮 悠
4章:惑わす者
103/106

01

 ふと木材の軋む音に、半ばまどろみに落ちかけていた意識が呼び戻される。

 反射で棚に立てかけた剣に手を伸ばすも、エドガーは自分が寝ている場所を思い出し、ほっと息を吐いてから気怠い体を起こしてベッドから立ち上がった。

 ここはオスティア首都シュテルン。それも七天教会の中。およそオスティアでここより安全な場所があるとすれば、オスティア城くらいなものだ。

 しかも、魔女でもなければ特異な力を持つわけでもないエドガーを一体誰が襲おうというのか。考えるまでもなく答えは明らかで、最近はギルドの手伝いで野営も多かったせいか馴染みかけた手癖の悪さに苦笑しつつ、エドガーはドアの向こう側にいる気配に向けて身構える。

 と、間もなく控えめに慎ましやかなノックが二回。しかし、やたらと手の込んだ高級感あふれる木彫りのドアはそれきり沈黙した。

 横目にエドガーは壁に掛けられた金時計の針が指した方向を見る。午前二時。

 アティは今頃寝ているだろうし、ルークも酒を浴びていれば今頃夢の中だ。とすれば魔女達のいずれかか。

「リザか? こんな時間に、なんか用か?」

 しかし、誰何の声に応える様子はない。エドガーは訝しげに眉をひそめつつも、ドアを開く。すると、

「おあ、お前か」

「…………」

 人気のない廊下には一人、親友の姿。

 窓から差し込む月明かりに薄く照らされた金髪。肩口にまで流れる艶やかな髪にいつもの黒いリボンはなく、ただエドガーの顔をずっと覗き込む蒼月の瞳だけが、夜闇の海のように揺れていた。

「どした? なんか俺に用か?」

 親友の姿をした『誰か』は頑なに沈黙を守る。その唇は決して言葉を紡ごうとはせず、また、瞳も多くは語らない。

 ――瞬間、絵画の世界から出てきたような完成された美貌を持つ少女はそこで突然微笑むと、僅かに体を伸ばして顔を近づける。

 それは口づけと言うには程遠く、僅かに触れ合う程度のもの。それもほんの一瞬だけで、少女は満足したように頷くと小気味よくステップを踏んで後ずさる。

「え、あ? お、おい! なんだよ!」

 狼狽しながらなんとか吐き出した声は妙に上ずって、それがよほど妙だったのか、少女は少し声を漏らして上品な笑顔を見せつけた。

 そこでようやく冷静さを取り戻しかけたエドガーの心中に、果たして今の彼女は誰なのかという疑問が生まれる。起きればエドガーのよく知る少女に戻るとエレイソンは言った。だが果たして、記憶にある親友はこんな夜更けに男の部屋へと押しかけ唇を奪うような娘だったか。ならば、まだ戻っていないだけ――否、あの粗暴でありながらどこか繊細な仲間思いの殺人狂がこんなことをするかといえば、それは天と地がひっくり返ったとしてもありえないことだ。

 ならば、もうエドガーが出せる答えは一つしかなかった。

「お前……桐枝、か?」

「…………」

 その問いにも、少女は答えない。じっとエドガーを見つめる瞳は肯定も否定もせずに一定の間隔で揺れ続け、その奥にはただ夜空に無数浮かぶ星の輝きが広がるだけ。吸い込まれしまいそうな色の双眸に目を奪われていると、少女はもう一度笑って唇の前に指を立てた。

 黙っていろ、あるいは秘密にしろ、ということか。それが指すのはこの行為そのものか、あるいは目の前の少女の内に控えるいずれかの者に対してか、仲間たちにということなのか。

 それを思索している内に、少女は踵を返して廊下の隅へと歩いて行く。

「待ってくれ! 桐枝、お前なら――」

 言いかけて、それに続く言葉が出ずにエドガーは口を開けたまま呆然と立ち尽くす。

 言いたいことはあるはずなのに、何を言っていいか分からない。だがもし、もし本当に彼女だとすれば、せめて一言だけでも彼女に何か言わねばならないと。だが、考えれば考えるほどに頭の中に霧がかかり、うまく言葉に表せない。

「……ばいばい」

「待て! 待ってくれ! お前は――」

 少しだけ寂しそうに、だが少女は笑顔を作って、最後に一言だけ呟く。

 いつの間にかエドガーの頬には涙が伝い、ぼやけつつある視界の先で、少女は闇の中へと消えていった。





 ぼんやりと宙を漂っているかのような浮遊感。まるで体が消え去り、意識だけがそこに取り残されてしまったかのような感覚。当然のように体を動かすことも出来きず、レナはただ視界に広がる景色を受け入れることしかできなかった。

 そこは綿のような雪が降り積もる世界。周りの風景に見覚えなど欠片もなく、壁に囲まれその奥に見える家屋からどこぞの家の敷地内だということだけは分かる。

 砂利の敷き詰められた庭には氷の張った大きな池。白雪による自然の化粧を施された樹木は南大陸で見られるものではない。家の屋根は確か瓦と言っただろうか、板状にした粘土を焼いて固めた物を無数に敷き詰める独特の――そう、東国の家に見られるらしいものだ。らしいというのは、レナはこれを本と母である白夜の話からでしか知ることができなかったからである。いかに母の出身といえど、行くこともなければ大して興味もない国の文化まで詳細に知る程の心の余裕はレナにはないのだから。

 そのまま無心で視界に入り込む景色を堪能していると、二つ連なる平屋、その一方から女の声が聞こえた。

 足元で雪の潰れる音を響かせながら声に応じるようにレナの視界は反転し、すると口から白煙を吐息と一緒に吐き出しながら近づく小さな影。

 背丈はレナより頭一つ分ほど小さいか。東国独特の鮮やかな和装に身を包むのは、名も知らぬ白髪の少女。肩を撫でるように切りそろえられた髪は左目だけを隠すように不自然に片側だけを伸ばし、せっかくの端正な顔立ちを隠している。纏う雰囲気といいどこか良質な血筋の生まれを伺わせる姿だが、和装に覆われた体躯は鍛えられた武人のそれで、隠された二本の小刀が彼女がただの少女でないことを示していた。

 ふとレナは記憶を辿る。そう、この少女と似た者をレナは知っている。

 もはや忘れることなど出来はしない。レナと彼女の繋がりは薄くとも、月の力は呪いのように二人を鎖で繋ぎ合わせ魂という檻の中に閉じ込めた。

 なるほどと、レナはそこでようやく気づく。見に覚えのない景色。しかしやけに現実感のある世界。すなわちこれはレナでない他の誰かの記憶。

「本当にここを出て行く気なんですね、姉さんは」

「……いけずやなぁ、分かっとったならわざわざ送りに来なくてもええのに」

 咎めるように少女は目を鋭く尖らせる。だが、レナの方から発せられたどこか気の抜けた声はそれに物怖じず、不機嫌な子供をあやす母のように笑った。

「誰も見送りに来たわけではありません! 何を考えているんですか! 分家の方に続いて本家の血筋である姉さんまで家を抜けたら、それこそ御三家の方々に面目が……」

「そやけどうちはもうただの人斬り。今のうちが退魔の剣を名乗るのもなぁ」

「いつも姉さんはそうやって勝手ばかり……先日のことだって私に何か相談してくれてもよかったじゃないですか!」

 姉の飄々(ひょうひょう)とした態度に眉を吊り上げて、妹は憤慨する。しかし、その根底にあるのは決して怒りのみではないのだと、傍から見ているレナもそれだけは理解できた。

 これはおそらく、白刃を振るった東国の剣士である少女の過去。その記憶の一部。既に彼女達の知識と経験はレナへと継がれている。しかし今まで彼女達の記憶、歩んだ人生までは完全に把握しきれなかった。だが今レナの意識は体の内側にあり、ゆえに居着いた彼女達の記憶、その立ち入れぬ領域までをも共有することができるようになった、というところだろうか。

「そうはゆうてもやっぱうちお姉ちゃんやからなぁ。でもまあほら、うちより夜雲のが色々上手やろ? それに分家の人もおるから心配は……」

「っ……本当に、出て行くおつもりなんですね」

「それは、なぁ……しゃあないというかなんというか」

 続く言葉はなく、しばらく無言の時が流れる。一枚の絵のように静止した二人、だがそれは突然の剣戟によって終わりを告げた。

 二刀振るわれた小刀の斬撃。だが殺意もなければ覇気もない一撃は軽すぎて、桜色の刃一振りでそれは完全に防がれる。

「なら……出ていくというのなら、私を倒してからにしてください。私が当主だと言うのなら、私の前で勝手は許しません」

「ん、ええよ。じゃあうちが勝ったら夜桜は貰ってくね」

「え? ちょ、ちょっと待って下さい! それは当主の証で……」

 初めて狼狽える妹に、夜の桜の色を放つ刃を向ける少女は小さく笑う。

「どうせ夜雲はこれ(夜桜)腰に下げとくだけとちゃうん? 刀は抜いてこそ刀。斬らない刀に価値はない。せやろ?」

「姉さん……」

 その時見せた一瞬の狂気。それはレナも知っている。ここまで見ておいてこの後どうなったのかを知りたくないといえば嘘になる。だが、他人の記憶を覗く行為など、本来許されるべきものではない。

 ふと、そんなレナの気持ちを汲んだのか、あるいはそこが節目であったのか、景色は次第に白く塗りつぶされていく。

 雪積もる静かな庭は霞のように掻き消えて、白い霧が晴れる頃には別の大地が姿を見せた。

 一見するとさきほどと変わらぬように見えて、だが視界に映った空を覆うほど切り立った氷壁の存在が、ここが東国ではない他の国だということを知らしめる。

 左右を氷の壁に囲まれた世界。北方には、渓谷の底に築かれた国がある言われている。おそらくはここがそうなのだろう。

 しかしレナがいる場所は国の中でも外れに位置するのか、背にした大きな屋敷以外に建物は見当たらない。

 ――だからか、先程から視界に映る男共、身なりからしておそらく賊の類が皆一様に気味の悪い笑みを浮かべながら、こちらをずっと見つめてくる。

 そこで突然、誰かが叫んだ。だがそれはこの記憶の主ではない。声は賊共の傍から聞こえ、だがそれに答えることなくふとレナの視線が下がる。そこで思わず、息を呑んだ。

 右手に握ったナイフは血に塗れ、震える左手は鮮血で染められ指先から血の雫が滴り落ちる。そして氷の床に横たわるのは、顔の皮を剥がれ時折体を跳ねるように動かす女性。

 およそ職人の技からかけ離れたその所業は生きたままに行われ、粗悪なナイフと雑な作業はきっとただ死ぬよりも辛い苦痛を女性に与えたことだろう。筋肉が露出した顔は苦痛に歪み、痛みから逃れようと氷を何度も引っ掻いた爪は全て指から剥がれ落ち、氷の張った無色の地面というキャンバスにはもがき苦しみのたうち回った彼女の凄惨な様子を物語るように血でアートが描かれていた。

 ついに記憶の主たる少女の慟哭が周囲に響き渡った時、賊共は待ちわびた至高の瞬間に歓喜する。

 反吐が出るような、この世の地獄。少女の肉親に及ぶまでそれは続き、気づけばもう、辺りには賊と少女しか残っていなかった。

 家族の死体。それが自分の親と重なりレナは目を背けかけ、しかし意識が少女と同調している今ではそれすらも叶わない。

 それからしばらく、少女の泣きじゃくる声だけが極寒の大地に響き渡った。これが、気丈に振る舞う気高くも残虐な暗殺者の真の姿。ただの偶然が重なり悪鬼に仕立て上げられた、悲しき少女の歪んでしまった人生の発端。

 しかしそこで記憶は途絶え、世界は暗転する。すなわちこれで終わり。覚醒が近いということか。

 だがそんなレナの予想は虚しく崩れ去り、またも見知らぬ世界がレナの意識を支配する。

 それは太陽のような輝きを以って青い月が夜空を照らす晩。淡く光る青白い炎が村を焼く中、崩れ落ちた教会、その残骸の山にレナはいた。

 果たしてこれは誰の記憶か。それを考えるより早く、目の前の瓦礫が崩れ、一人の神父がよろめきながらレナ――の意識が同調した『誰か』の手を取った。

 その背には折れた木材が突き刺さり、胸まで貫通している。左足は膝から先が瓦礫で潰され、右肩から先に生えているはずのものは千切れて無くなっていた。瀕死の体で、なおも神父は力強く手を握る。決して離すまいと。

 そうして流す涙はきっと、この『誰か』に向けられたもののはずで。

「私を愚かだと笑うかね?」

「…………」

「だが、それでも私はお前を救いたかったのだ。星海の、得体のしれぬ者達の力に縋ってでも、私は一人の男としてお前と共に……」

 最後まで言葉を綴ることなく、神父はそこで事切れる。どうやら『誰か』の記憶もそこまでで、おそらくそこでこの記憶の主も果てたのだろう。

 一体これは誰の記憶か、そしてなぜレナがこれを見ることが出来たのか。それを知る由もない。どうやらそれについて考えている時間もないらしく、徐々に終りが近づいていることを直感で理解した。

 闇に飲まれる意識の最後に、レナは月の蒼き輝きを見る。だけれど、今はどこかそれが遠くに感じて。月に見放されたような、或いは自分から離れてしまっているかのような不思議な感覚を覚え、そこでレナの意識は完全に途切れた。





 窓を打つ雨の音に、レナは夢から醒めて体を起こした。

 自分の体が自分の物でないような、妙な違和感が手足に残る。おそらくあの粗暴な少女が無理にレナの体を動かしたからだろうが、とりあえず支障がないのを確かめると、起き上がってテーブルに置いた眼鏡をかける。

 瞬間、白と黒の世界に色が戻り、レナはそれに安堵して支度を始めた。

 服を着替え、護身用の銃とナイフもとりあえず携帯する。ふと手に巻かれた包帯が目に入り、恐る恐る血の滲んだ布を取り払うと、傷一つ無い白の柔肌が顔を見せる。あの傷からして完全に治るにはあと数週間はかかるはず。つまり治癒力は元通り、ということだ。

「雨、か……」

 ガラス窓を打ち鳴らす雨はより一層激しくなるばかり。今夜は嵐になるだろうか。あまり雨が好きではないレナにとっては、今日は嫌な一日になりそうな予感しかしない。

 だがそれも、仲間が、友が一緒なら少しはましになるだろう。今のレナは一人ではないのだから。

 そう、とりわけあの金髪の少年は特に。きっと彼は、レナが拒絶しても側から離れてはくれないだろう。あのどこか頼りないように見えて、実際少しばかり力不足は否めないが――とても努力家で仲間思いの親友だけは。

 だからとりあえず、彼のために今は早く支度を済ませ、顔くらいは見せてやらなければ。

 そう思い立って、レナはドアを開けた。仲間の元へと急ぐために。

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