05
肌を伝う奇妙な感触に、ふと意識がまどろみの中から呼び戻される。
目を開ければ、雄々しく葉を伸ばした深緑の天井の隙間から、澄み切った青空がレオンを覗き込んでいた。
何時間眠っていたのだろうか、意識を失ったのが星空が天を覆い尽くしていた時だったはずなので、少なくとも数時間、あるいは体調のことを考えると数日という可能性もある。
と、そこで胸元でうごめく感触にようやくレオンはそこへ視線を落とし、色白の肌に黒い紐が一本。だが激しく暴れ狂うそれが百足だと理解するやいなや、レオンは叫びながら立ち上がって服を脱ぎ、腕に服を絡めてから百足を払い落とした。
「は、はぁ……森は苦手だな、やっぱり」
「なんだ、たかが虫ごときで。軟弱だな」
「大丈夫!? 噛まれてない?」
左右二方向から生じた、身を案じる友と呆れ混じりに嘆息する新たな仲間の声。
たかが虫といえど、毒を持ち、さらにあのなんとも生理的に嫌悪感を催させる姿をした小さな暗殺者が体を這っていたとなれば、大抵は男といえどレオンと同様の反応をするのではないだろうか。
などと心中で思いつつも、レオンは口を噤んで苦笑してから衣服に侵入者がいないことを確認してから着直した。
「さて、呑気な小僧も起きたことだし、準備はいいか?」
何の準備かと、問いかけてレオンは気づいた。そう、レオン達はここでじっとしているわけにはいかない。目指すはオスティア。そこで大公を討つことこそが、レオン達の目的。そしてミリアはレオンの志に共感――したわけではないが、彼女なりの目的あって、同行を提案してくれたのだ。
まだまだレオンの道は険しく、だが希望は潰えたわけではない。
「うん、僕は大丈夫。リーシャさんは平気?」
「私も。歩くだけなら問題ないわ」
その場でくるりと一回転してみせるリーシャを見る限り、怪我の具合も大分良くなったように見える。彼女の性格からやせ我慢の可能性も考えたが、血色の良い顔を見る限り今回ばかりはそれもなさそうだ。
「よし、では行くぞ。あまり日が暮れるとゴブリンの斥候やオークも騒ぎ出す。……その前に、少しだけ時間をもらうぞ」
言って、ミリアは墓標のように佇む二つの巨大な石板の片割れの前で片膝を付き、祈るように手を組んだ。
ミリアが言うには、この二つは覚醒者を沈めるために作られたものと、覚醒者との戦いで犠牲になった者達――すなわちミリアがかつて所属していた月影騎士団の団長含む五人の英雄の内、人々の希望を抱いて果てた三人の為の墓なのだという。
果たしてどんな思いでミリアはこの場所を八十年もの間守ってきたのだろうか。それをレオンが知る由はない。だがこうして祈る彼女の姿を見るだけで、かつての騎士団が、そしてそれを率いていた者がどれだけ信頼されていたのかなど、疑う余地もないだろう。
レオンはそこに至ることはできるのだろうか。否、その資格が自分にはあるのだろうか。破壊することでしか存在できぬ、覚醒者である自分に。
「さて、これも持っていった方が良いか。どんな結果になるにしろ、奴には必要だろう」
「それはなんです?」
胸中に渦巻く疑念を払拭するように、レオンは話題を切り替えミリアが手に取った墓標に捧げられていたペンダントを見つめた。
かつては誰かが身につけていたものだろうか、紐の部分は微かに色あせ、だが剣を象った黒曜石はまるで新品のように輝きを放っている。
「ああ、これはトーリャの『杖』だ。魔法使いには、杖が必要だろう?」
「杖?」
レオンの目には、これがペンダント以外の物には見えない。だが、もとより魔法の知識などレオンは無いに等しいのだ。お伽噺に出てくる魔法使いが持つような霊木や聖鉄で作られ華やかな装飾が施された仰々しい杖などは所詮物語の中にしか存在せず、こうした装飾具のように持ち運びのしやすい利便性を追求した道具こそが、彼女たち魔法使いにとっての『杖』という物なのかもしれない。
「ああ、奴の数少ない大切な物の一つだ。どう転ぶにせよ、奴に会うなら持っておいて損はないからな。これが結界の要だと言っていたが……まあ、こんな石塊二つに手をかける阿呆もそうはいないだろう」
そう言ってミリアは鼻を鳴らし、指で回していたペンダントを懐にしまい込む。
瞬間、生暖かい空気が英雄の墓標を駆け抜けていった。この空間を清めていた清涼な空気はそれだけで塗りつぶされ、これまでレオン達が歩いてきた森と変わらない、湿った暑さの気持ち悪い風がこの場を支配する。
「あ……」
「む、早速結界が壊れたか。さすが稀代の魔法使い様だ、魔法の効果がはっきりしてて分かりやすいな」
そうして笑うのは、八十年前の戦を終わらせた英雄の一人。赤銅と濃紺の双剣を携えた、魔眼の双剣士。
その隣では、神剣に選ばれし悲運の少女、リーシャがその身に合わぬ大剣を振るう。
この出会いが偶然でないならば、きっとレオン達の進む先にはまだ希望があるはずだ。今はそれが、天の導きだと信じて――
微かに香る潮の匂い。深緑の壁の向こうに耳をすませば、奥からは涼やかな水の音が聞こえた。
海が近い。それは当面の目的地として考えていたオスティア南東部、ヘルゲンの浜が近づいてきたことを意味する。
すなわちそれは同時に敵地に足を踏み入れたことと同義であり、ゆえにここから先は一切の気の緩みも許されない。
だからか、レオンは眼前に広がった懐かしい景色にも動じることなく、ただあの時の記憶だけが蘇り、こみ上げてくるものを無理やり呑み込んで深く息を吐いた。
血の臭いはしない。死体もない。だがここは紛れもなくあの場所である。薄れていた意識の中で、だがはっきりとあの時の有様だけはレオンの記憶に刻み込まれていた。
ここでレオンは初めて覚醒者としての力を振るい、オスティアの兵達を蹂躙した。その大半がレオンと年の変わらない少年少女だったことから、おそらくは殆どが新兵だったのだろう。練度の低い兵が前線ではなくこのような僻地に向かわされることなど、何ら珍しいことではないのだから。
「こんな所に基地か? レーベンがこんなところから攻めてくるわけもなし、他の国に攻めるにも味方に物資を運ぶにも場所が悪い、妙だな」
「そういや、何の目的で建てられたんでしょうね。ここ、僕がオスティア兵に殺されそうになって初めて覚醒者の力が目覚めた場所なんです」
ほう、と呟いてから、ミリアはレオンの先を歩き基地へと侵入する。堂々と正面から立ち入ろうとするミリアにレオンは肝を冷やしたが、この時間から歩哨も見当たらず、それどころか人気がないところを見るにミリアは無人だと判断したのだろう。
「誰もいない……みたいだね。あれ? レオンこの紋章レーベンのだよ。本当にオスティアの基地なのここ?」
「うん、僕と何人かがオスティア兵に捕まって、ここに運ばれたんだ。一応事前に基地の場所は僕みたいな新兵にだって知らされてるけど、帝国はこんな場所に基地を作っていないはずだよ。というか、ここに作れるなら首都にだって攻め込めるだろうし」
「それもそっか。じゃあ一体何の施設なんだろうね」
リーシャと二人で首を傾げていると、奥へ奥へと進んで姿を消していたミリアが数枚、焼け焦げた紙の切れ端を手に握りながら戻ってくる。
「リーシャ、オスティアが流布した帝国の根も葉もない噂、その中に人体実験の類の内容のものはあるか?」
「え? あ、う、うん。前に新聞でレーベン帝国の人体実験施設をオスティア軍が発見したって記事が問題になったことが……写真付きだったからみんな信じちゃったみたいで」
「ほう、当たりか。周到なものだな、わざわざ帝国の施設に見立てた場所を用意し、帝国兵の死体まで用意して己の業を擦り付けるか」
なるほど、とレオンは頷く。ここから遠くはないとはいえ僻地の、しかも新兵ばかりを集めた野営地を襲撃し、そこで捕らえたレオン達帝国兵をわざわざ手間を掛け運び、ここで殺そうとしたオスティアの真意。すなわちそれこそが――
「処理したつもりだろうが詰めが甘かったな。この紙を見ろ、薬品や実験結果に関わる文字が見て取れる。上手く隠したつもりのようだが魔力の残滓が残っていてな、すぐ分かったよ。この基地の地下に実験設備があった。ご丁寧にオスティアの紋章が描かれた大層な設備がな」
吐き捨てるように言うと、ミリアは握った紙切れをもう用はないと投げ捨てた。その時見せた彼女の顔は、初めて会ったあの時と同じ、憎き敵を前にした者のようで。
「命を賭して守った地も変わり果てたものだな。なぁ、お前はどう思う――」
果たして、その問いは誰に向けられたものだろうか。空を見上げ、ミリアは呟く。
時代の流れとともに世界は移り行く。良くも悪くも、それは当然のことだ。しかし、ある時代において何らかの変化を与えた者が、願った想いを踏みにじられる形で世界に変革が訪れたと知ったならば、その時彼らは何を思うだろうか。きっと、今のミリアがそうなのだろう。
「まあいいさ、ちょうどいいねぐらだ。今日はここで休もう。先を見てきたがな、この先の浜に兵が展開している。ヘルゲンの浜は迂回せねばならんな」
ヘルゲンの浜を通り南下し、オスティア首都シュテルンから風の七天ミストラルまでを結ぶ街道を北に進めば、首都までは容易に進行できると踏んでいたが、どうにも物事はそううまく運んでくれるわけではないらしい。
首都まで繋がる街道となれば軍の監視も厳しいものとなるだろう。それは分かっていたが、多少なりとも獣道から外れまともな地面を踏み歩けると淡い気持ちを抱いていたレオンからすれば、それは期待を裏切られたも同然で。
深い溜め息の後に見上げた空だけは、これまでの旅で一番に蒼く輝いていた。
暗がりの中、部屋の中央で薄い輝きを放つランプの光を囲みレオン達は食事を取っていた。
長い旅路の中尽きかけていた食料。ミリアも加わったことで今後の食料調達面での問題も考慮しなければならないと思い始めた矢先に、この基地の中で軍用食を見つけたのは行幸だった。
しかも、偽装のためか保管されていた食料は全てレオンが慣れ親しんだレーベン帝国軍のもの。オスティア軍の軍用食は美味いと評判で興味はあったのだが、やはり食べ慣れたものにはそれなりの愛着が湧くというものだ。
ただ、愛着はあっても質素なことに変わりはなく、各種ビタミンやら体に良さげなものを詰め込んだだけのやたらとパサついたバーは乾いた喉に優しくない。
「あ……どこかで水調達できればよかったんだけどな」
「はは、少し西に進めばいくらでも水があるぞ」
「塩水は要らないです」
茶化すミリアに肩を落とし、レオンは日々軽くなっていく水筒に落胆しつつ、一口だけ喉に流し込んで乾いた口内を潤した。
「してお前達、このまま進めば回り道しようと数日でシュテルンまで辿り着くわけだが。これだけの数で城に攻め込む気か?」
「一応あてはないわけではないんですけど……ミリアさんはオスティア城への抜け道とか知らないんですか? 後は、その矢で城を射抜くとか」
「知らん。というかいきなり人頼みか。あの城も八十年前そのままということもなかろう、改装されていれば大公がどこにいるかも分からんし、何より前にトーリャが張った魔法障壁がまだ健在なら外部から魔力の通った攻撃であの城は傷つかんはずだ。本人が経年劣化するものではないと言っていたから、アイツが解除していない限り魔法で攻め入るのは無理だな」
確かオスティアの城はかなり巨大だと言われていたはずだ。それを完全に防御できる魔法を行使できるとは、さすがトーリャと言ったところか。いや、そもそも元来魔法使いとはそういうものなのだろうか。近年生まれた魔女という存在。彼女達もまた魔法を使うが、トーリャほどの力を行使できる者がいるという話は聞いたことが無い。
神代の神々、そして精霊達や魔物が用いたとされる魔法。それを人の身で発現できるように研究、解明する魔法の学院がこの大陸の何処かに存在すると、リーシャが言っていた。魔法使いと呼ばれる者達はそこで学び、生まれる。だが人が魔法を御すことは禁忌とされ、ゆえに魔法使いは秘匿者の集団となり、学院は限られた資格ある者にしか道を開かぬという。だから、魔女が生まれるまでは、人は魔法を使えない。それが世の常識だった。
リーシャは幼い頃に学院の魔法使いに一時期世話になり、そこで魔法使いの話を、そして初歩の魔法を教えて貰ったという。彼女が魔法に拙いながらも詳しいのはそのせいだろう。
「正面突破……は無理だろうし、城内に侵入するにしても、僕らじゃ大公のところまでたどり着けるかどうか」
「……あっ!」
その時、リーシャが手を打った。何か閃いたようだが、次の瞬間その答えに自信を無くしたのか眉を寄せ顔を伏せる。
「リーシャさん?」
「あ、ええと……エルザさん、もう一度会えないかなって」
「何だその教会の連中が好んで付けそうな名前は! 教会か!? 教会絡みか!? いかんぞ、やめろ、教会の偽善者共だけは! あいつらの一言一句を耳に入れるだけでも剣を抜きたくなる!」
意外にも、そこで声を荒げ反論したのはミリアだ。よほど七天教会との間に何か軋轢が生まれるような事柄があったのだろうが、今それを聞いては余計にミリアの気を逆撫でしてしまうだろうと、レオンは口を閉ざす。
だが確かに、エルザという名は光の精霊王が生み出した神であり、歴史に語られる最高位の神の一人、知恵の女神エルザから取られたものだろうと推察できる。
一時の間だがレオン達を導いてくれたあの女性は、傭兵というわりには高潔であり所作の節々から育ちの良さが見て取れた。何故泥臭く血と火薬の臭いがまとわりつく傭兵の道を選んだかまでをレオン達が知ることはできなかったが、教会の生まれだと言われても妙に納得できるだけの人物ではあると、今にして考えればそうも思えた。
「えっと、教会に所属してる人ではないと思いますよ。エルザさんは傭兵で、僕らが安全に森を抜けれるように帝国が雇ってくれたんです。確かにあの人がいれば……って言っても、今どこにいるかわからないんですけどね」
エルザがいれば、魔物との戦いでリーシャが傷つくこともなかっただろう。仮に怪我をしたとしても、それを癒やすだけの知識を彼女ならば持ち合わせていたはずだ。今になって、エルザと別れたことがどれだけレオン達にとっての損失となったのかを痛感する。
「なんだ、分からんのか。期待させおって。何もかも怠っているというか、未熟だなお前達は」
「返す言葉もないです、本当に」
そうしてついたレオンの今日一番のため息は、窓から吹き込んだ夜風に流されて消えていった。