02
暗く、どこまでも深い森の中。時折聞こえる獣とも魔物ともとれる不気味な呻き声を聴き、肩を震わせながらレオン・ラウリートは限界をとうに超えた体で走り続けていた。
国に帰れば、きっと何があったと聞かれるだろう。だがそれはレオンこそが聞きたいくらいだ。
ただわかるのは、自分の体の中に、突然何かが生まれたこと。それは圧倒的なまでの暴力で敵を鏖殺し、全てを血と肉の海へと変えていった。あの基地でも、そしてここに到るまでに蹂躙してきた魔物たちも。
しかしそれはレオンの意思ではない。だが抵抗はできず、敵が現れてはレオンはその姿を人ならざるものへと変え屠り続けてきた。
でなければ、こんな先月訓練を終えてやっと戦場に立つことを許された新兵がこれだけの死体を重ねることなど不可能。現に、もしこの力がなければレオンは同じく捕虜になった同胞たちと運命を共にし、わざわざあんな辺ぴな場所の訳もわからないあのオスティア軍の基地に連れてこられたまま、敵兵に頭を撃ち抜かれ人知れず死んでいたはずなのだから。
「くそっ……僕は……僕は」
樹木に背を預け、レオンは拳を大樹の幹に叩きつけた。
――なぜ自分が。
こうなってしまってはしかたないと諦められるほどレオンの心は広くはない。こんな殺戮者になるくらいなら、いっそあそこで死んでいたほうがまだましだった。そう思えるほどに、この力の異常性だけはレオン自身理解していた。
自然と流れる涙に歯を食いしばり、自害すら出来ぬこの体に恨みをぶつける。
「くそ! なんで! なんで僕なんだ! こんな! こんなッ! ……う、うぅ」
体から力が抜けていき、木を背にしたままずるずると地面に座り込む。瞬間、ずきりと肩口の裂傷が痛みを訴えた。そう、この傷こそ殺戮者となった自分を見事撃退した一人の少女が与えた傷。レオンがこうなってからは唯一、まともに戦って生き延びた存在。
「そ、そうだ……あの子なら」
自分を殺してくれるかもしれない。そう思い立ち震える足に鞭打って立ち上がると、レオンは踵を返して来た道を戻ることにした――その時。
「見ぃつけた。随分ズタボロね、大丈夫?」
少女の声。顔だけを振り返らせ、レオンは声の主を確認する。
その先にいたのは、二人の少女。帝国にある何処かの学校の制服だっただろうか、それを着ているが――黒のパンストに手袋、タートルネックのインナーと、せいぜい肌色の部分は顔くらいの徹底して露出を控えた黒髪の少女。彼女の金色の瞳には生気――光がこもっていないようにも見受けられるが、それに反して優しさを感じさせる柔和な微笑みが、この少女の暖かさを肯定していた。
ついでもう一方の少女。彼女は黒髪の少女に反して快活そうな印象を受ける。半袖のシャツを前開きにしてホットパンツという動きやすそうな服装だが森の中でそれはどうなのだと突っ込みたくなる。年頃の少女らしく容姿には気を使っているのか腰ほどに流れる紺色の髪を頭の左側で結い、肌を整えている様子もうかがえる。元々の容貌が優れているのもあって、化粧はせずとも十分に美人だと言えるだろう。
声の調子からして声をかけてきたのは快活そうな少女のほうだろうか。だが、その少女が手に握るものに視線を落とした途端、レオンの表情がこわばる。
――それは、見る者全てを竦ませるであろう強大な両刃剣。他を圧倒する巨大な鉄塊も同然の代物は、少女の細腕では振るうことは疎か持ち上げることさえも不可能。ゆえ、それはこの少女――否、少女達が普通ではないということを物語っていた。
だが、それは同時に現在のレオンにも言えること。だから――
「く、来るな! 来ちゃ駄目だ!」
レオンは叫ぶ。それは懇願に近い心からの叫び。まだ二十にも至らぬ少女たちさえも手にかけるなど、レオンには出来ない。だがそれを成すのはレオンに生まれた殺戮の力。しかし紛れもなくこの体この心はレオンのものだ。だからこそ、全てが済んだあとで我に返り、その瞳に映る世界に絶望するのはいつもレオン自身。
しかし、レオンが後ずさるたびに剣を持った少女が一歩前に出て近づく。その距離は埋まらない。むしろ縮まっている。
「駄目だ! 来たら……来たら僕は」
「知ってるって。大丈夫だからこわがらないで」
差し出される細い腕。この白い肌を血で真っ赤に染め上げなければと、レオンの中の何かが蠢き出す。ゆっくりと、少しずつソレはレオンの心を塗りつぶし――
「あ、まずいか。トーリャ、任せた」
「はい、任されました。リーシャさん」
相変わらず光のない瞳とは相反して優しげな笑顔を作り、黒髪の少女は一歩前に出るとレオンに手をかざした。それをへし折らんと、レオンの手は自らの意思に反して動き少女の細腕を掴みとる。が、それでもなお少女は笑みを崩すことはない。これから何が起こるのか彼女たちは知らないのだろうか。いや、知っていてなおも危険はないと、まるでそうレオンに言いかけるかのように少女は空いた方の手を顔の前へとやり、人差し指を立てて片目を閉じる。静かにそのままでいて、とでも言いたいのか。
呆然とするレオンを他所に、少女は掴まれた腕の袖をまくり上げ、初めてその肌を晒した。
「――なっ!?」
レオンは驚愕した。視界に移るそれは、明らかに常識から逸脱した異常性を孕んだモノ。
少女の腕にはその曇りのない白磁の肌を埋め尽くすほどに、紋章かあるいは文字なのか、レオンの理解が及ばぬ得体の知らない何かが刻まれていた。こんなことをするのは、怪しい宗教団体か異常者くらいしか思いつかない。だが、レオンが憤慨するより先にそれは起こる。
「我、刻印の担い手アナトリア・リーヴァが命ず――第五刻印解放。天に坐す白の女神よ、その力を今ここに――白の軛よ」
何が起こったのか、レオンは分からなかった。いや、理解が及ばなかったといったほうが正しいだろうか。呆然と少女を見上げるレオンの体を突然地上から突き出てきた輝く白い帯のようなものが両手足に絡みつき、次の瞬間にはまったく動けないまでに締め付けられていた。
拘束されているのは間違いないのだが、手首と太股の辺りに光の帯が巻き付いているだけ。これが単なる布ならレオンの力でも容易に引き裂けたことだろう。が、この光の帯はレオンがいくら力を込めても、その指先ひとつすらをも動かすことが叶わない。目に見えている以上の拘束力を受けているのが、自分でも感じられた。まるで、誰かがここを絶対に動くなと語りかけ、自分はそれに従わなければいけないと義務付けられているかのような――そんな妙な感覚だった。
そして少女は、慈悲深き微笑みをレオンに向けたまま、さらなる祝詞を口にする。
「並びに第三四刻印解放――汝が内に秘めしもの、その全てを暴き、そして晒そう。受け入れよ深淵の魔手を。其の心はすべからく、闇より深き処の主へと捧げるべし」
「――あッ……っぐ!?」
一瞬、誰かが直接心臓を握り、潰されるかのような痛みがレオンを襲った。しかしそれも瞬きする間程度のこと。すぐに痛みは引き、レオンの内側から這い上がってきていたモノは完全に消え失せてしまったかと錯覚するほどに大人しくなっていた。奇妙な静寂が、逆にレオンの不安を煽るのは言うまでもないが。
「はい、これで少しはましになるんじゃないでしょうか? まともな拘束魔法ではない上に神格級のものに対して有効な魔法というものでもありませんから、どれほど効果があるかは微妙なところですけれど」
「え、あ……ま、まほ……え?」
しどろもどろになりながら、レオンは左右に揺れ動く落ち着きのない瞳を動かす。黒髪の少女はその仕草に笑い声を立て、取り乱すレオンの髪に優しく触れた。それはまるで、泣く子供をあやす母親のように。
その場で尻餅をつきながら、レオンはただ呆然と少女を見上げていた。その小さな体に反して、この少女の存在は圧倒的だった。ただそれは同時に儚く、まるで重しのようにも感じる。それはまるで、呪いのような――
「済んだかな? では行こう、新たな追手が森の先に来ているようだ」
「うわぁ!?」
突然の上空からの奇襲に、レオンが声を上げる。
陽光のように金色の閃光を放ちながら現れたのは、薄金色の髪をした女性。その身に有り余る巨躯の猟銃を抱えているが、そう在るべくして生まれてきたように、その銃と彼女は一心同体と言っても差し支えないほどに違和感なくそこに存在していた。彼女の切れ長で獲物を射抜くような冷たい瞳が、ゆっくりとその焦点をレオンへと合わせる。
「その様子だと随分と大変な目にあったようだね。まあだがこれからは仲間がいる、一人よりは安心できるだろうさ。……立てるかね?」
「えっと……はい」
差し出された手を握る。そこにはレオンの予想通り熟練した射手のそれが確かに感じられたが、それと同時にしっかりとした女性らしい感触があったことにレオンは頬を僅かに赤く染めてしまう。
そこでやっと気づいたのが、ちゃんと人間らしい思考をレオンはできるようになっていたことだ。今までは内側から溢れ出ようとする強い力を必死に抑えこむのに精一杯だったのに、今では女性三人に囲まれてそれなりに歳相応の反応ができていることにレオンは喜びを隠せない。それが表情に出てしまい、結果あの両刃剣の少女から痛いくらい懐疑的な視線を受けることとなるのだった。
「ちょっと、なぁに鼻の下のばしてんのよ」
「まあ仕方ないですよねぇ。私はこの通り露出度皆無ですし、その点リーシャちゃんは健康的な美脚で非常によろしいのですがいかんせんお胸が残念で……となれば、この中では一番大人で尚且つ気品溢れる魅力を持ったエルザさんの手を取って赤くなるのも無理はないかと」
「ちょっとどこが残念だってぇ!?」
「はは、私はそんな風に見えるかね」
仲睦まじく笑い合う少女たちに、レオンは一瞬ここが魑魅魍魎が跋扈する森ではなく帝都に帰ってきたのではないかと錯覚してしまう。ちょうど軍の訓練所から見える学校に通う生徒たちがこんな感じだった。レオンも徴兵さえされていなければ、その輪の中に入っていたのだと思うと少し悲しくなる。
「さてさて、追手もいるようですし歩きながらまずは自己紹介でもしましょうか? まず私から。私はアナトリア・リーヴァと申します。なんか目に光なくね? こいつ死んだ魚の眼をしてやがる……とか言われがちですがこの通り息してますし心臓も動いてるので生きてます。大丈夫です。ぶい。ああ、名前は呼びにくいので親しみを込めてトーリャとお呼びくださいな」
露出の少ない服装に、流れる漆黒の黒髪。一見するとありがちな几帳面かつ大人しそうな印象を受ける少女だが、ドヤ顔でピースしてくるくらいにはぱっと見た感じの外見の割に感情表現が豊かな子のようだ。
「そしてお隣にいるのはリーシャ・プロッティちゃん。すごく大きい剣を持っていますが、まあ見て分かる通りの脳筋キャラ的な。悪く言ってしまえば筋力に全振りして胸の強化を怠ったといいますか……」
「あんたひん剥くわよ!」
「それは困りますぅ。この服装が私のアイデンティティーみたいなものですしー。でもほら、リーシャちゃんはお腹とか太股とかこう……健康美的な?」
「なんでそういう考えしかできないのよあんたは!」
片側で結った紺色の髪が揺れる。リーシャは頬を膨らませトーリャの口を両端から広げると、やっと観念したようにトーリャが目尻に涙を浮かべながら降参の旗を上げた。
その光景を見て微笑むのは、薄金色の長い髪を風になびかせる巨砲を抱いた女性。この少女たちよりいくらかは歳上なのだろうが、そう離れているわけでもないだろう。戯れる妹を見守る姉のように、冷たく、それでいて優しげな瞳は二人の少女へと向けられていた。
「そうだね、私も一応は名乗っておこうか。エルザ・ローレンスだ。私は残念ながら雇われの身でね、森を抜けるまでの間だがよろしく頼むよ」
「こちらこそ。それと……ええと、僕はレオン。レオン・ラウリート。トーリャさんたちもよろしく。と、ありがとうございます……で、いいのかな?」
感謝でいいのだろうかと言葉に詰まりレオンが頭を掻いていると、三者三様の笑い声が返ってくる。おかしなことでも言ったのかと目を丸くすると、言葉より先にトーリャの手がレオンの前に伸びてきた。
「はい、こちらこそレオンさん。でもそんなに畏まらなくても結構ですよ。これから先、私とリーシャちゃんはしばらく一緒なんですから」
レオンは理解する。きっとトーリャ達の役割とはそういうことだ。でなければ、この殺戮者へと変貌するレオンの力に抵抗できる能力を持った少女たちが都合良く現れるはずもない。
恐らくこの力が発言したことを帝国は知っていて、彼女たちは無事レオンを回収することにあるのだと。
「ま、そういう任務だし。あんたのことは私が守ってあげるわよ」
「安心してください。私たちはあなたを狂戦士にはさせない。だから今はそう……まずは帝国に戻りましょう?」
帰った先で待ち受けているものはなんだろうか。人体実験。それとも戦争に利用されるか。
どの道行くあてのないレオンに選択肢はない。ただ、唯一レオンが安らぎを感じられるのは、この少女達の言葉には黒い物が何一つとして混じっていないと、何の根拠もないがそう言い切れるような気がした。ただそれだけで――