01
オスティア領、南東に位置するヘルゲンの浜は、夏も間近なためか心地良いと言うには少々暑すぎる風が吹き込んできた。
もう少し北に行けば、隣国のアガレス共和国との貿易が栄えるオスティア東部には珍しく大きな都市もあるので、毎年夏になると観光やその他諸々の事情でオスティアに訪れる者達がここで休憩を取り水浴びするのも珍しくはない。
とはいえ、今年はそれを断念せざるを得ない者が多そうだ。その理由が稀に起こる魚類系の魔物の大量発生ならいいが、国同士の戦争ともなれば事情は変わるだろう。もっとも、この戦争が三日で終わってしまうなら話は別なのだが。
「レイナード! レイナード・ブレンナー!」
名所と知られる白い砂が一面に敷かれた浜辺には不相応なオスティア軍の茶色いテントがいくつも張り巡らされ、戦闘服に身を包み銃を抱えながら軍人達がせわしなくうごめいている。
そんな中、各小隊に別けられ整列した新兵達。その右端に陣を取る第六小隊第四分隊。一昨日まで彼らの訓練を受け持っていた教官が、怒声を張り上げていた。
「レナッ!」
いくら名を呼んでも一向に気づく気配のないからと、教官はその者が嫌っている名を大声で叫んだ。
目論みは成功したようで、不機嫌そうに目にかかりかけている薄金色の前髪をかきあげながら、レイナード・ブレンナー二等兵は緊張感の欠片もない様子で振り返る。
「その呼び方やめてくださいよ。前にも言いましたよね? 村で飼ってた犬と……」
「だったらすぐに返事をしろ新兵! ぼうっとしてるんじゃない! 初陣でそんなことでは一歩踏み出しただけで死ぬぞ!」
「はいはい、申し訳ありませんでした教官殿」
逆撫でするような態度だが、これが彼女なのだと教官は肩を震わせながらも怒りはそこまでで収まった。いつもの訓練中ならあと三十分は個室で兵の何たるかを聞かされ、終わる頃にはそれを何も見ずに言えるようになるくらいにはなるものだが、さすがに今はそれどころではないらしい。
「あんま挑発するとあとが怖いぜレナ?」
横で一部始終を見ていたスポーツ刈りの金髪――名はエドガー・ワイズマン。彼が、ライフルのストックで思い切り殴打してやろうかと思うほどニヤけた顔を向けてきた。自然と彼の腕がレナの肩に置かれたのがたまらなく不快で、雑に払いのけてからエドガーを見据える。
「うるさい、童貞のくせに」
「それ関係ないよね!?」
「そこ! うるさいぞ新兵!」
エドガーとのやり取りに、新兵隊の先頭でライフルが詰められた木箱を使って作った簡素な壇に立つ将校らしき人物が指差ししながらマイク片手に怒鳴り散らす。
さすがにこれ以上はあとが怖いとレナは口を閉ざし、人差し指を唇の前で立ててエドガーに静かにしろと合図を送る。
考えていることは同じらしく、エドガーは頷きながら黙ってくれた。
「えー……では、突然の実戦で皆困惑していることだろう。だが事は深刻なのだ。前線はベテランに任せているとはいえ、各所での帝国の侵攻を抑えるのに人手が足りない。ここ数日は特に帝国の攻撃も激しくなってきた。そこで急な話になるが、君達新人にも戦闘に加わってもらうことになったのだ。だが安心してほしい、君達を最前線に向かわせるような愚かな行為はしない。そこは熟練した兵が担うべき役割だ。君達には後方の支援や簡単な偵察の任務に従事してもらうことになる。君達の役目は小さなものかもしれん。だがそれが皆の、そしてこの国の民の助けになるのだ。そしてなによりも――」
それから二十分位将校の演説が続き、皆がだらけ始めた頃にようやく満足したのか敬礼をすると、まるで機械のように新兵達がそれに習い返礼する。こうも動きを揃えられると誰か一人がしてないだけですごく目立つので、レナも当然のように敬礼を返した。
実戦、実戦なのだ。ほんのひと月前までは、周りを山で囲まれた超がつくほど田舎の小さな村で狩りをしながら暮らしていたレナ。それが今はどうだ、軍人みたいな格好をして軍用のライフルを手に握る。そう、もうレナは紛うことなき軍人なのだ。どこぞの名前すらも忘れ去られるほどの田舎に住む少女ではない。
狩りで銃を使うことはあったが、今度その銃口を向けるのは鹿ではなく人間。そう思うだけで胸の奥がむかついてくる。
「さてさて、実戦だぜレナよぉ。おれぁ絶対英雄になってやんぜ」
「あ、そう。じゃあ頑張って戦場で名を挙げて。エドが戦ってる間、私はどっかで寝てるから」
「全部俺任せかよ!?」
「男の子でしょう?」
「あー、そういや一応お前も女だったな。おう」
エドガーの悪態につい胸に肘鉄を食らわせてから、レナは踵を返して背を向ける。
「茂みに隠れて鹿の尻追っかけるのが性に合ってるのよ、私はね」
それだけ言って、レナはエドガーに背を向けつつ手を振りながら隊列から外れると分隊のテントに向かった。これ以上この場に留まればエドガーのに何を言われるかわかったものではない。それならまだ壊れたラジオが流すノイズを聞いていたほうが耳に優しいというものだ。
「さて……ん?」
「お? やほ」
「お、おう?」
誰も居ないと思ったテント内には、二人の少女がいた。それに驚きつつも、レナは平成を装いつつ自分のテリトリーである簡易ベッドに腰を下ろすと、横にライフルを置いて一息つくことにした。
とはいえ、どうあがこうと視線に入ってくる少女達を見て見ぬふりできるほどレナも他者への関心がないわけではない。
一見すると普通の少女だ、軍人ではない。紺のベレーを被った深い栗色の髪をした子と、この時期に紺のマフラーを首に巻いた淡い赤色の瞳の子。どちらも歳はレナと同じくらいだろうから、十八かそこらだろう。
帽子の子は積極的な性格なようで、目が合う度にレナに手を振ってくれる。それにぎこちなく手を胸の高さまで上げて返すと、にっこり笑ってくれた。
が、以前正体はわからないままだ。教官の子供か、あるいはあのエドガー“童貞”ワイズマンが金に物を言わせて呼びつけた者なのだろうか。それにしてはマフラーの子は男に慣れているようには見えない。そういうキャラを演じているだけなのかもしれないが。
「あれ? レイナード、もう戻っていたのか」
「あー……はい。まずかったですか?」
「いや、いいさ。お偉いさんの話は退屈で疲れるもんな」
隣のベッドに腰を下ろすのは、この第四分隊の分隊長にしてエースのショウ・カザマ伍長。東方特有の――とも最近は言い切れないが、綺麗な黒髪をしていて顔もまあ整っているいわゆるイケメンというやつだ。人柄もよく人望も厚い。この分隊がカザマ伍長を引き当てられたのは幸運という他無い。なにしろ、カザマ伍長は数日とはいえ前線に出ていた正真正銘の兵士なのだから。他の隊の隊長を務めているような、机に座って紙を相手にペンで戦ってきただけの士官候補の連中とはわけが違う。
「あの……一ついいですか?」
「ん? なんだ?」
ちょうどカザマ伍長がきてくれたのだ、この人ならもしかして。そう思い、レナは視線を先程から気になっているあの二人に向けて口を開く。
「あの子達は?」
「え!? 知らなかったのか?」
「うぇ!? 知らないで私らのことスルーしてたの!?」
何故かレナの言葉に帽子の女の子まで驚いて、その場の空気が固まった。どうやら変なのは彼女達ではなくレナの方だったらしい。
「えーっと、戦術教本の五十六ページ……覚えてるか? 魔女の魔法のこと」
「あー……なんかありましたね。すいません、自分魔法とは無縁だと思って」
先ほど怒鳴り散らしてた教官も座学で言っていた気がする。魔女と連携を取るのはお前たちにはまだ先の話だと。
いや、しかしそれはこの戦場に呼び出されるより前の話だ。平穏な続いているならレナはまだ新兵訓練所で――そんなことをしていることもなく故郷の村で鹿狩と農作に明け暮れていたことだろう。
ちょうどベッドの下に一応持ってきていた教本がある。レナは屈んでそれをバッグから取り出すと、ページをめくりカザマ伍長が言った五十六ページを開く。
「魔女……魔法を使える人間」
「そう。通常、魔物や霊体が体内で生成する魔力がなければ魔法は使えない。それを人為的にできるようにしたのがそこにいる魔女さん達だ」
ちら、と視線を女の子の方へ向けると、また帽子の――魔女らしい子が手を振ってくれた。とおもいきや、立ち上がってレナの方へ向かってくる。
「ほいほい、読書は終わり。教科書読むより見て聞くのが千倍早いってね。まあ実戦になったら見せたげる」
さっとレナの手から帽子の魔女が教本を取り上げると、逆の手を差し出してくる。レナはその手から順に視線を伝わせ、腰、腹部、そして胸から顔へと目を這わせた。どうでもいいが少し胸は貧相な子のようだ。
「ん……よろし、く?」
「なんで疑問形? はは、まぁいいや。よろしくね。正式に配属されるまで名前は明かさないって決まりだから好きなように呼んで。あの子もね」
軽く首を傾けて、帽子の魔女が相方に目配せした。が、あっちのマフラーの子はレナと目が合うだけで体ごとそっぽを向かれてしまった。
少し傷つきつつ、レナは帽子の魔女の小さな手を握り返す。すると、程よい温もりと肌の柔らかさが返ってくる。少なくとも魔女だからレナ達とは全く違うというわけではないらしい。
「でもなんで魔女がここに?」
「パートナーを決めるためさ。基本魔女はパートナーを一人決めて付き添うことになる。彼女達も君らと同じ新人、まだ相方がいない。本当なら前線の兵士の方に送ってやるべきなんだろうけど、生憎激しいところはほんと戦闘が激しいから連れ回して歩くのは危険だってさ。普通新兵に魔女がつくなんてことはないから、ラッキーだな」
「どうせ二人のどっちかは伍長の相棒さんになるんでしょう? じゃあ私は望み薄ってわけだ」
そう言ってカザマ伍長とレナは互いに顔を見合わせて笑い合うと、突然テントの入口が突風を受けたかのようにまくれ上がり一人の男の影が砲弾のように勢い良く転がり込んできた。
「分隊長今の話マジっすか!?」
ああ、とレナは肩を落とす。あの短い金髪のいかにもちゃらそうなのはエドガーだ。
あまりの勢いに気圧されながら、カザマ伍長は首をぎこちなく縦に振って首肯する。どうでもいいが、マフラーの子は今の登場の仕方でものすごく驚いているし、現に今もびくびくと肩を震わせているので少なくともあっちの子がエドガーにつくことはないだろうな、とレナは内心で申し訳程度に彼を憐れむことにした。
「ねぇねぇ、どう俺と? そこの田舎女よか俺のほうが数億倍いいぜ?」
「あ、童貞がなんか言ってる」
「うっせ! てめーもどうせ似たようなもんだろうが!」
「えー私には帰りを待ってくれる人がいるしー。カイルのシチューが恋しいなー」
「彼氏持ちか! くそが!」
体をベッドの上で左右に揺らしながらわざとらしく言ってやると、エドガーは地団駄を踏んで床の整備をひとしきりしてくれたあと、いくつかレナに捨て台詞を吐きながらテントから出て行った。
なおレナに恋人と呼べる存在はいないが、カイル『おじさん』のシチューが美味いのは本当のことだ。
「面白いね、君」
当然のように隣に腰を下ろす帽子の魔女に少し戸惑いつつ、ついレナは視線を彼女から外しながら答える。
「いや……ううん、本当はあんまり冗談を言う方じゃないんだ。なんだろうな……やっぱ戦闘、になるかもしれないから、私もちょっと堪えてるのかも」
「新兵ならだれだってそうだ。気にする必要はないさ。なんて、数日前まで同じようなもんだった俺が言うことでもないけどね」
「なら……いいんですけどね」
それでも不安はある。今までは動物だから、自らの生活のため。そう言い聞かせて狩りでは幾つもの命を奪ってきた。だが今度は違う。自分と同じ人間を相手にすることになるのだ。当然、自分の同じように家族がいて、友人がいて、レナで言えばカザマ伍長や教官、ついでにエドガーのような仲間がいるのだろう。そんな者の命を断つ行為が自分にできるのか。このヘルゲンに来てからはいつも、頭の隅の方には必ずその問いが巡っていた。
それは、魔女とカザマ伍長の励ましがあっても拭いきれない問題。
そうして、そんな不安を抱えていても時間は進む。レナ達第四分隊に任務が与えられるのは、それから僅か二時間後の事だった。