冬の闇に昭和の夢は弾ける
1
実家からは通えない辺りにある県内の大学に進学した後、最初の目論見どおりにダラダラ過ごして迎えた最初の冬のことだった。
前日の夜更かしで大幅に失った睡眠時間をぬくぬくとした朝寝で取り返そうとしていた僕は、煎餅布団の枕元に置いたスマホの着信音で目が覚めた。
そんなことで起き上がる僕ではない。
秋月雄偉。19歳。
自分で言うのも何だが、将来何をする気もないまま大学の4年間を過ごすと決め込んで開き直ったオタクだ。
キモオタと言いたい奴には言わせておけばいい。
そもそも、そこまで言ってくれるほど付き合いのある友人は心当たりすらない。
ましてや彼女なんか、どうせできはしないのだ。
やりたいことができる時間を有効に使わせてもらう。それだけだ。
だから夕べの夜更かしも、固く決めたポリシーを実行に移しただけにすぎない。
長いこと待ってようやく復刻された特撮SFロボットもののDVDボックスがようやく手に入り、僕は抱いて寝たい思いをぐっとこらえて封を切り、第1話から一気に見てやったのだ。
1971年の4月から半年間、26話にわたって放送されたのを、TV予告などの特典映像も入れて12時間半にもわたって見ていれば、昼夜も逆転しようというものだろう。
無視を決め込んで二度寝を楽しもうと布団に潜り込むと、再び着信音が鳴り響く。
一晩中、26回聞き続けたオープニングテーマだ。
驚かないぞ バンババン
誰も知らない バンババン
意地でも起きてやるものかと腹這いになり、枕を抱えて布団の中にうずくまるが、着信音はしつこく歌い続ける。
透明なんだぜ ギューン!
大巨人
じっとこらえていたが、とうとう我慢できずに跳ね起きた。
捕まえてみろ ババンバン
捕まえてみろ ダダンダン
挑発的なリフレインに怒っても仕方がない。
だが、夜更かしの後にまどろむ楽しみを冒されては……。
そもそも、僕にメールを送ってくる友人など、数が知れている。
どうせ真坂幸平だ。
県外の大学に行って、知り合った女の子と自撮りした写真を週末のたびに送ってくるヤサ男。
その手のメールだろうと思って、眠い目をこすりこすり開けてみる。
(久しぶり、元気?)
先週もメール送ってきただろと思ったが、その物言いに引っかかるものを感じた。
はっと目が覚めて、着信の時はスルーした名前を確かめた。
(サキ)
その瞬間、忘れていた3年前の出来事が脳裏に蘇った。
こんな冬の日々に起こった、あの不思議な事件。
そこで僕は選択を迫られた。
……さて、このメール。返信するや、せざるや。
2
あれは、地元の高校に入学した年のことだった。
2学期も終わりに近づいた、ある日の昼休みの終わり頃。
僕は意外な人物が意外な言葉を口にするのを聞いた。
教室の黒板側にある出入り口近くの席からでも、窓際で話し込む女子たちの会話は分かる。
彼女は、どういうきっかけからかはよくわからないが、ずいぶん古いネタを使った。
「かかわりのねえことでござんす」
それは、70年代の人気時代劇で、三度笠のヒーローが毎回のように口にする殺し文句だった。
凪原あきらには、似つかわしくない。
だから「なにそれ」と周りの女子から軽い突っ込みが入るネタだったのも無理はなかった。
そもそも彼女はクラスではかなり可愛いほうで、取り巻きも多い。
女子高校生としても、かなり小柄な身体は、長い黒髪とはかなりアンバランスだ。
ちょっと気になってはいたけれど、僕としてはそこまでだ。
入学して半年を越せば、クラス内あるいは同学年内の立ち位置というかキャラというか、それ相応の扱われ方や振る舞いが決まってくる。
つまり凪原は、僕とは違う世界に住む美少女だった。
少なくとも70年代時代劇ヒーローのセリフをネタに笑いを取るタイプじゃない。
だいたいヒーローといえば、「弱きを助け、強きを挫く」のが相場だが、このドラマはちょっと違った。
弱いものがいじめられている現場に出くわしても、助けない。
この一言を残して去っていくだけだ。
だが、残された者は、見守られていると信じて猛然と立ち上がり、窮地を脱するのだった。
それでも、巨大な暴力には敵わない。
個人の力ではどうすることもできなくなったときにこそ、この男は一陣の風と共にやってくる。
なぜ僕がこんな古い時代劇を知っているかというと、毎日のように再放送を見ていたからだ。
小学生の頃、帰りの会が終わっても道草食って遊ぶ相手はいなかった。
まっすぐ帰宅して、そのままテレビを見ていると、この番組が始まる。
終わるころにはも、町の広報無線で「焚き火」(作詞 巽聖歌 作曲 渡辺茂)が流れ、「暗くなるから子どもは帰れ」と促すメッセージが入るのだった。
だが、これは友達のいなかった僕だから知っているのだ。
どう考えても、彼女はそのタイプではない。
やがて昼休みの終わりを告げる午後の予鈴が鳴って、次の時間の教科担当がやってきた。
凪原は歌いながら席に戻る。
70年代グラムロックのリズムだった。
のちにビジュアル系バンドに引き継がれていった独特のリズムは、SF特撮ドラマのオープニングにも使われたことがある。
「へえ、凪原はグループサウンズ知ってるのか」
初老の教員だから、小学生ぐらいのときに聞いているはずだ。
「はい! 母がファンでしたので」
そう明るく答える笑い方も、当時のアイドルっぽく見えた。
つい見とれていると、ふわりと着席する凪原が一瞬だけ僕を見つめ返したような気がした。、
やがて授業が始まったが、先生は懐かしさが抑えきれなかったのか、当時のアイドルの話を初めてクラス全員をドン引きさせた。
3
その日の放課後になっても、僕は教室の黒板側にあるに残って凪原が取り巻き連中と何を話すのか気になっていた。
それとなく耳をそばだてていたが、彼女はもう70年代ネタを口にはしなかった。
5時間目にあれだけドン引きされたネタだから、控えるのは当然だろう。
そう思って帰ろうとすると、教室の出入り口の外から、真坂幸平が首だけ出して目くばせした。
カバンを持って、黒板から遠いほうの扉を開けて外に出る。
真坂は僕の前を通り過ぎて、昇降口へと向かう階段がある方へ廊下を曲がっていった。
追いつくことができたのは、校門を出たあたりだった。
「これ見ろよ」
真坂がカバンの中からごそごそ取り出したのは、一枚のリーフレットだった。
どう見てもパソコンで合成したのをプリントアウトしたとしか思えない荒い画像。
だが、それは明らかに70年代アニメ『商人戦隊ボルタック』のものだった。
「もう出来たのか?」
真坂は答えもしないで、マスクをつける。
こんな季節だから不自然ではないが、別に風邪をひいているわけでもインフルエンザ予防でもない。
行こう、とささやきながら、真坂は伊達眼鏡をかける。
そそくさと歩き出すのを追いながら、僕も同じようにマスクをかけ、タイプの違う伊達眼鏡をかけた。
やっと、見られる。
1977年に「マグネットシリーズ」第2弾として放送されたが、余りに主人公メカが格好悪いのでほとんど再放送されることもなく、忘れられてしまったアニメだ。
日本が安定成長に入った頃、地球の経済を裏で操ろうと目論む悪の商人ボルテウスが、秘密組織シャイロックを結成して繰り出す怪物ロボット。
それに立ち向かうのが、正義のビジネスマンたちによるスパイ組織「ボルタックシークレット」だ。
選び抜かれた個性的な5人の若き企業戦士たちが遠隔操作で操る合体ロボット「ボルタック」。
状況に合わせて木火土金水の五行になぞらえた5タイプのパーツがどう組み合わされるかが、毎回の目玉だったという。
「やっと来たか……」
つい口元が緩んでしまうが、マスクをしているから、呆けた顔が人に見られる心配はない。
グラウンドからは、マーチングバンド部が全国大会に向けて練習する曲が聞こえてくる。
それに背を向けて下校する帰宅部たちに紛れて足を速めると、それに勝る勢いで僕を追い抜いて行った女生徒がいた。
凪原あきらだった。
すさまじいフットワークで生徒たちの背中をすり抜けていく彼女を何とはなしに見送りながら、僕は一瞬だけ見えた彼女の耳元で髪が切り揃えられていたのを思い出した。
古典の授業で聞いたことがあるが、平安時代は「尼そぎ」と言ったらしい。
70年代のアイドルが使い始めたときは「昔のお姫様のようだ」ということで「姫カット」と呼ばれ、当時の少女マンガでロングヘアのヒロインはたいてい、この髪型だった。
さて、それから1時間もしないうちに、僕はマスクと伊達眼鏡を外した真坂と共に、4畳半のボロアパートにいた。
シミで薄汚れた壁紙には、太い筆に墨をたっぷり含ませて書いたと思われる、右から左へ「女人禁制」と横書きした長巻紙が貼ってある。
そう、ここは、男たちだけが集う秘密組織なのだ。
その名も「倶楽部七拾年」。
忘れられた1970年代の特撮やSFアニメを楽しむ、男だけの会である。
女ごときに理解できる世界ではない。
この会を知ったのは、つい先月、真坂が「お前、こういうの好きだろう」と持ってきたDVDがきっかけだった。
70年代後半に大ヒットを飛ばして社会現象にもなったロボットアニメである。
何を急にと思ったが、よく見れば一部地域では放送されないまま制作会社が倒産してず、DVD‐BOXにも収められていないTV版のエピソードだった。
事情を聞いてみると、放送当時や再放送時に録画されたVHSをDVDやブルーレイに起こして楽しむサークルがあるというのだ。
さっそくついて行ってみると、このボロアパートにはマスクと伊達眼鏡をした小柄な少年が古い特撮の巨大ロボットものを見ていた。
真坂が僕を紹介すると、その少年は妙に甲高い声で入会を承諾した。
必ずマスクと伊達眼鏡を着用するという奇妙な条件をつけて。
趣味を静かに楽しむために、会のメンバーが声をかけた仲間だけを見分けるためだということだった。
そんな恰好をした連中が頻繁に出入りすると目立つので、鑑賞者は常に2人と決まっている。
筋肉隆々の無口男「ヨウイチ」。
背格好の似た小太りの男「ケイ」。
そして、リーダー格らしい、甲高い声の少年「サキ」。
SNSのグループなどはなく、集会とメンバーの組み合わせの連絡は、いつもメールで来る。
そして今日の集会は、僕と真坂の番だということだ。
暗い電灯の下で、ブラウン管につないだ安物の中国製DVDデッキ。
あまりに安物過ぎてリージョンコードもコピーガードも関係ないというある意味スグレモノだ。
さらにブラウン管では、液晶ではあり得ない鮮明な色合いになる。
そんな最高の条件下で、僕は待ちに待った『商人戦隊ボルタック』を堪能することができた。
小さな画面の中では、「木」を司る青い髪の美青年リーダーがアップで叫ぶ。
「カモン! ウッドボルタック!」
木製の巨大パーツが飛んできて合体する。
その回のボスキャラ、巨大電磁石を操る悪のロボットと戦うための秘策だ。
じゃあ、背骨や肋骨のようなメインフレームは何で出来ているのかという話になるが、そこは突っ込んではいけないところである。
電磁石が効かないので、悪のロボットはどこからともなく巨大なチェーンソーを取り出して攻撃してくる。
ボルタックのパーツは木製だからすぐに切られてしまう……と思いきや、これが知恵者のリーダーが張った罠だった。
粉砕されたパーツの破片が、霧のように宙を舞う。
それが悪のロボットを包み込んだとき、火を操る主人公の熱血少年が叫んだ。
「カモン! ファイアボルタック」
飛んで来た真っ赤なオプションが、次から次へとメインフレームに装着される。
「バーニングアームズ・スパークショック!」
生半可な声優がやったら額に浮いた血管が切れて血を噴くんじゃないかと思うような絶叫が、主人公の口からほとばしる。
今では全面禁止の透過光バリバリの閃光と共に、悪のロボットが粉塵爆発に呑まれた。
次回予告が入ってエンディングテーマが流れと、今回は出てこなかったメカが操縦者と共に次々に現れる。
巨大ドリルで地を潜る「アースボルタック」。「土」を司るガキんちょが、チームのボス面してふんぞり返っている。
巨大な剣や斧で近接戦闘をする「メタルボルタック」。「金」を司るセクシーなお姉さんが色っぽいポーズで微笑んでいる。
水中を高速移動できる「ウォーターボルタック」。「水」を司るスキンヘッドのクールなおっさんが作務衣姿で座禅を組んでいる。
「じゃあ、俺はこれで」
真坂の声が聞こえて、すっかり夢中になっていた僕は悪の組織シャイロックとの戦いから現実に引き戻された。
25分ものを1本見終わると、会は終了なのだ。
ああ、と返事をする間もなく、さっきまで一緒になって70年代アニメを見ていた同好の士は、再びマスクをつけて伊達眼鏡をかけた。
真坂とは、今年の4月に同じクラスになってからの付き合いだ。
正直、僕は趣味の違う相手とはそれほど深くかかわりたくはない。
しかも、背が低くて小太りで、動作も鈍いことは自覚している。
たぶん、クラスではキモオタのレッテルを貼られているだろうが、そんなことは別に構わない。
言いたい奴には言わせておけばいいし、別に人に好かれたくもない。
僕には、僕の趣味があればいいのだ。
一方で、真坂は背も高く、鼻筋もすっと通っていて、二重瞼の目はぱっちりと明るい。
当然、女子にはモテたが気取る風は全くなく、男子に対して適度に冗談も言えば下ネタも絶妙のタイミングで入れてくる。
つまりは、どこに出してもいい顔ができる奴だ。
普通に考えれば、僕と真坂の間には越えがたい溝があるはずなのに、春の遠足のグループ分けでお互い仕方なく言葉を交わしてから、妙にウマが合った。
僕の前では、真坂は余計なことは一切しゃべらない。
別に無理に話したい事などないから僕も黙っているのだが、どうやら真坂はそれが楽なようだった。
人前では、いつも笑っているのだが、僕の前では眉一つ動かさないこともある。
嫌われまいとしてキャラをつくっているんだということが、最近ようやく分かってきた。
意外なのは、僕と同じ趣味を持っていたことだった。
しかも、モテるのに彼女はいない。
真坂が言うには、凪原なんかは男子同士が「抜け駆けなし」の紳士協定みたいなものを結んでいるということだった。
ということは、女子も真坂をめぐってけん制しあっているということなのだろうと僕は思っていた。
まあ、オタクのレッテルを貼られて長い僕には関係ないが。
そもそも、時間の流れは僕だけ違う。
年賀状シーズンに、冬コミの原稿を書いている人たちのように。
そんな人たちとも、僕は関係ない。
なぜなら、70年代のSFは、どんどん消えていく。
探そうとしても、せいぜい動画サイトで違法アップロードされた海賊版ぐらいしか見当たらない。
だから、この「倶楽部七拾年」は僕にとって他人との唯一の接点といえなくもない。
僕もこの会の奇妙なルールに則り、再びマスクをつけて伊達眼鏡をかける。
「先に出るから」
そういうことになっている。
なぜなら、新入りの僕は部屋の鍵を預けてもらえないからだ。
「俺、バイトだからこっちへ」
真坂がバイトで忙しいことは、「倶楽部七拾年」に入ってから知った。
水臭いとは思わない。
プライバシーに余り触れなくて済むのは、僕としても気が楽だ。
午後五時前だというのに、もうすっかり暗くなっている。
蛍光灯の切れかかった、古い鉄製の階段を下りる。
これが「倶楽部七拾年」集会日の放課後スケジュールだった。
自宅は学校を挟んでアパートとは反対の方角にあるので、僕はもと来た道を帰らなくてはならない。
別に苦にはならなかった。
むしろ、気持ちは舞い上がっている。
それはきっと、道草食って触れた70年代のおかげだったろう。
地味で野暮ったいけど、心のどこかにぽっかりと穴が開いたようにすがすがしい70年代の。
学校までの道筋では、コンビニや書店、スーパーが立ち並ぶ明るい住宅街で凪原あきらとすれ違うこともあった。
もちろん、僕など完全無視だ。
受験意識の高い生徒のために放課後は特別講習が組まれているから、それに出ていたのかもしれない。
その日は、確か出がけに校門を出ていくのを見たはずだったが、やはり凪原とすれ違った。
ずいぶん急いで飛び出していったようだが、何があったのだろうか。
少し気になったが、考えるのはやめた。
僕には関係ないことだったからだ。
4
その頃、僕が血眼になって探していた70年代SF特撮があった。
幻のロボットアクション『透明ロボットクックロビン』。
スポンサーの倒産で放送が打ち切りになったが、少数の根強いファンが世代を通じて残っている。
昔は早朝や夕方に再放送していたものらしいが、現在は制作会社も解散しており、フィルムも散逸してしまってなかなか復刻できないのが実情だ。
80年代に再放送をVHSで録画していたファンが動画サイトに断片的なエピソードを細々とアップしているので、何とかだいたいの話をつかめる程度だ。
真坂にも「倶楽部七拾年」で見られないかと聞いてはいるが、まだ色よい返事はなかった。
ネット上で販売情報を漁り、マイナーな会社が商品化しているかもしれないのでレンタル店のチェックも欠かさない。
もちろん、レンタル店のチェーンにも経営方針というものがあるので、作品の傾向を見極めなければならない。
さらに、店舗によっては置いてある作品の傾向が全く違うのだ。
ときどき、クラスの生徒を見かけることもあるが、そんなシロウトどもに、この違いは理解できるものではない。
もっとも、ものの分かる玄人もいるようで、この半月ほどは、マイナーな作品のはずなのに巻が不自然に抜けているシリーズがあちこちの棚にあった。
さて、集会のあった次の日も、僕はその店に足を運んだ。
店の中をぐるりと歩いてみたが、もちろん、『透明ロボットクックロビン』はそうそう商品化されるものではない。
仕方なく、行きがけの駄賃に別のDVDを探すと、やはり抜けている巻があった。
ないと思うと余計に見たくなるもので、僕は返却直後の巻が無造作に並べてある棚を漁ることにした。
傍目から見ると実にいやらしい光景であるが、ムキになっている本人はそれに気が付かないものである。
徹底的に調べ上げてもなお見つからないので、仕方なく帰ろうと思っていると、生地の厚いスラックスをはいたダウンジャケット姿の小柄な少女がカウンターに立ったのが目に入った。
長い黒髪にお姫様カット。
凪原あきらだった。
僕は思わずレンタル品の並んだ棚の陰に逃げ込んで、様子をうかがった。
彼女だってDVDくらい借りるだろうが、この店というのは意外だった。
基本的に、最新のものは絶対に置かない(置けないのかもしれないが)変わった店なのだ。
何を借りたのか気になったが、そんなことは普通、客も店員も口にしないものだ。
なぜなら、それがAVの場合だってある。客にとっては死活問題となるプライバシーだ。
ところが凪原は、わざわざ作品名を口にして返したのだった。
僕が探している、巻の抜けた特撮SFの名前を。
凪原はDVDを返すと、カウンターから立ち去った。
棚の後ろで縮こまって彼女をやりすごしながら、僕は考えた。
……さて、店員に声をかけるや、かけざるや。
戻ってきたDVDを店員がすぐに出してくれればいいのだが、それは必ずしも期待できない。
だからといって、いつまでも待っているのはバカバカしかった。
それならば、直接店員に声をかければいいのだが、そこまでやるのは何だか図々しいようで、気が引けた。
たかがDVDくらいのことでくよくよ悩んでいると、「よっ!」と僕の肩を叩く者があった。
真坂くらいしかやらないことだったが、声は女性のものだった。
ふいと横を見れば、凪原である。
どうして?
なんで僕なんかに?
もうDVDなんかどうでもよくなって店の外へ駆け出すと、凪原が追ってきた。
肩をぐっとつかんで引き寄せられる。
「逃げなくてもいいじゃない、秋月君」
女子に名前を呼ばれたのも初めてだ。
じたばたしたが、意外に力が強い。
手を強引に引きはがすわけにもいかないので、観念した。
かといって、何を話していいのか分からない。
そのまま棒立ちになるしかなかった。
凪原は構わず、話し続ける。
「こういうの好きなんだ。なんていうか……SF?」
ちょっと迷った。
はいと答えればオタクと思われる。
まあ、本当のことなんだけど。
違うと答えたって、話は続きもしなければ、オチもつかない。
左右の足へ微妙にバランスをふらつかせながら、僕はもじもじとその場に立ちすくんだ。
そんな僕をじっと見つめていた凪原は、やがて「またね」と言い残して歩き出した。
小さな声で、どこかで聞いた歌を口ずさみながら。
グラムロックのリズムに乗せた、70年代当時としては特撮はおろか、歌謡曲としても斬新だった曲。
それは、僕が探し求めていた『透明ロボットクックロビン』のオープニングテーマだった。
驚かないぞ バンババン
誰も知らない バンババン
透明なんだぜ ギューン!
大巨人
銀河ボウガン 無敵
真のパワーも 無敵
俺の行く先 この調子
捕まえてみろ ババン
捕まえてみろ ダダン
だけど俺を探さないでくれ
5
そのすぐ翌日の放課後、凪原あきらは校門を出ようとする僕を待ち構えていたかのように追いすがってきた。
真坂がバイトに行ってしまうのを見送った直後のことだ。
「倶楽部七拾年」の集会がない限り、僕はまず行きつけのDVD店に直行するのが日課だったが、予想外の同行者ができたのには面食らった。
そもそも、女子と一緒に帰った経験がない。
中学まではずっと一人だったし、高校に入ってからもせいぜい真坂と「倶楽部七拾年」の集会に行くくらいだ。
だが、逃げる理由もなかった。
子どもの頃から女子と関わることのなかった僕から見ても、凪原は魅力的だった。
これが教室の中だったら、きっと大事件になっていただろう。
そのくらい、凪原と僕は月とスッポンと提灯に釣り鐘というか、とにかく次元的に不釣り合いだった。
ただし、下校中の帰宅部の群れの中では、そう目立つことでもない。
問題は、僕のリアクションだった。
生まれて始めて女子から接近されて、どうしたらいいのか分からない。
何の用かという一言さえ、口からは出てこなかった。
チェックのマフラーを口元まで寄せた凪原の顔をまっすぐに見られなくて、つい目をそらす。
その隙に、僕は制服の袖口をぐいと掴まれた。
「今日は行かないの?」
ようやくのことで「え」とだけ言葉を返すことができた。
凪原はマフラーの奥からくいと顎を上げてわざとらしく笑った。
「あるといいね」
そのまま僕の腕を引いて歩き出す。
おっとっと、と普段では口にしないような声に自分でも驚きながら、僕は思わぬ道連れと、行きつけのDVD店へと向かうことになった。
昨日、凪原が返して僕が借り損なったDVDは、まだそこにあった。
「よかったね」
実をいうと、もうどうでもよかった。
昨日も急に話しかけてきた凪原が一晩中気になって、棚にかけていた巻のことなど意識の彼方に吹っ飛んでしまっていた。
だが、敢えてそう言われると、手に取らないわけにはいかなくなる。
仕方なくカウンターへ向かうと、凪原もついてきた。
この店でしか使えない、薄っぺらいプラスチックのカードを出して手続きを終えると、すぐ後ろに立っていた凪原が数本のDVDをカウンターに出した。
バーコードを当てる店員の手元をなんとなく見ていると、透明のパッケージに入ったディスクの表面に、見慣れたロゴがあるのに気づいた。
1枚、2枚……。
返却された数枚のディスクはすべて、70年代に製作されたSFアニメや特撮のものだった。
ありがとうございました、の声を背にして、凪原は呆然と立ち尽くす僕のすぐ横を通り過ぎながら、流し目で「意外?」と笑ってみせた。
信じられないことだけど、別世界に住んでいると思っていた凪原が僕の世界へと入り込んできたのだ。
電気代を節約するためか、3~4年前から照明の暗くなった店内が、元のように明るくなったような気がしていた。
そのまま、その手の作品が並んでいる棚へと歩いていく後ろ姿を、僕は大きく深呼吸してから追いかけた。
マフラーをしたままの冬服姿は、すぐに見つかった。
僕はちょっと足を止めて、一歩ずつ距離を詰める。
どの程度まで近づいていいのか、わからなかった。
僕に気づいた凪原は、棚にあるアニメの一つを指さした。
「これ、知ってる?」
もちろん、70年代アニメや特撮で、僕の知らないことなどない。
場所が場所なので大きな声は出せなかったが、それまで人に話すことなどなかったトリビアが一気に口を突いて出た。
「これはね……」
今では大御所となっている某監督が、最初にチーフディレクターを務めた作品だった。
といっても、4話で降ろされてしまったが。
自伝によれば、若気の至りでスポンサーと大喧嘩したらしい。
「スポンサーってさ、キャラクター商品が売れてなんぼだからね。特にオモチャとかプラモのメーカーなんか……」
合金やプラスチックの金型づくりには、莫大な額の先行投資を行う。
放送が始まってからすぐに発売が始まるから、番組がヒットするかどうかなんて分からない。
つまり、大きなギャンブルなのだ。
だから人員や経費といった物理的制約と、撮影や収録といった時間的制約との折り合いがつかなければ、番組改変期を待つことなく、打ち切りで消えていくこともしばしばあった。
そんな話は、普通に考えたら女の子にはかなりどうでもいい裏話のはずなのだが、凪原はこくこくと頷きながら聞いている。
僕は調子に乗って悪態交じりに話し続けた。
「当然、主人公メカの合体や変形シーンとか必殺技とか、決めポーズなんかにめちゃくちゃうるさく注文がつくんだ」
そのくせ、スポンサーなんてものは視聴者からのクレームには臆病である。
今ならSNSの書き込みが一瞬で炎上するから何がまずいかはすぐわかるが、そんなものはないアナログ時代には、制作サイドが企画段階で大向こうの反応を忖度しなければならない。
この作品でも、主人公の操る精神感応が「オカルトブームに乗せられている、子どもの教育上よくない」との批判を浴びるということで、メカアクションを得意とする監督が代わりにやってきたという。
「皮肉な話でね……」
降ろされた監督が同じコンセプトで80年代にヒットを飛ばしたのを話そうとしたところで、凪原は僕の話を遮った。
「それ知ってる! 念力とか、透視とか、スプーン曲げるとかイギリスのビッグベン止めるとか……」
そんなので一世を風靡した人もいたらしいが、そこまではよく知らない。
だが、凪原は詳しかった。
僕が話を軌道修正する間もなく話し続ける。
「ああいうの、大掛かりに見えてつまんないトリックだったんだよね」
彼女によれば、「日本中にある止まった腕時計を、公開放送での念力で一斉に動かす」というのがあったらしい。
実際に、スタジオには「動いた」という電話が何十本も寄せられたという。
種を明かせば単純なことだった。
「考えてもみてよ、止まった腕時計が、日本中にどのくらいあると思う?」
当時の人口は1億2000万人くらいだったというから、きっと何千万個とあったはずだ。
そのうちの10個や20個が偶然動き出したからって、どうということはない。
動き出した時計についても、ちゃんと説明がつく。
「公開放送があったのは冬。腕時計の機械油が固まっちゃうこともあるんだ」
テレビを見ながら炬燵のなかでじっと握りしめていれば、油が溶けて動き出す時計もあり得るということだ。
そこで、凪原は急に息を呑んで口を閉ざした。
マフラーに半分埋まった顔で、表情が強張っている。
相手が興味を持たないことを話しすぎたと思ったのだろう。
それは僕も同じだ。
しどろもどろになりながらも、彼女が知っていそうな70年代ネタを次々に挙げて話をつなぐしかなかった。
「そうそう、グラムロックとかスピードとかサイケデリックとか……」
凪原は、再びマフラーから口元をのぞかせて曖昧に笑った。
行こうかと促すと、ためらいがちにコクンと頷く。
結局、店を出るまに彼女が知っていそうな話題は尽きて、僕は自分の話を始めてしまった。
「70年代のSFってさ、妙にこだわってるようで、どっか雑なんだよ」
さっきのアニメにしたってそうだ。
主人公はメカに乗り込むのに、毎回崖からバイクで飛び出す。
「いったい何台バイク潰してんだって話」
オチをつけてみると、凪原はマフラーの奥でくつくつ笑った。
6
そんな日がしばらく続いて、僕はちょっといい気になっていた。
案外イケるんじゃないか、などと思い始めたのだ。
それまでは、女子からは問題外の存在だと思っていたし、僕も別に女子とかかわりたいとは思っていなかった。
だが、信じられないことだけど、別世界に住んでいると思っていた凪原が僕の世界へと入り込んできたのだ。
最初のうちはどう声をかけていいか分からず、凪原が話しかけてくるのを待っていた。
そのうち、僕は自分から彼女を趣味の場所に誘うようになっていた。
凪原も興味津々といった様子で応じてくれた。
それまで通り、「倶楽部七拾年」との付き合いは続いていた。
僕は必要に応じて、かなり気軽に断ることができるようになっていた。
70年代SF特撮と、現代の美少女。
僕は幸福の絶頂にいた。
ところが、集会が予定されたある日のこと。
放課後の教室へ、真坂が『透明ロボットクックロビン』入手の情報を告げに来た。
ついに、来た。
多次元世界を渡り歩いてきた主人公が、守る義理もない「地球」の人々のため、宇宙の彼方から封印を解いてやってくる邪神の手先に立ち向かうSF特撮。
空間転移と光学迷彩で姿を消すことのできる巨大ロボットの描写が独特なのだ。
主人公視点のカメラワークで描かれる戦闘シーンや、亜空間から見た世界の精巧なミニチュアを、魚眼レンズで撮る手法は、今でも真似ようとしてしくじるクリエイターが多い。
思わずガッツポーズを取った僕に、「なになになに」と凪原が近寄ってくる。
実はね、と答えそうになったところで、凪原の陰になった真坂が、口に指を当てて首を振った。
そうなのだ。
最大のタブー、「女人禁制」。
それじゃ、と逃げ出す真坂をキッと睨んだ凪原が、満面の笑顔で僕に向き直った。
「また一緒にバルビュス行かない?」
一瞬、言葉に詰まった。
とっさに聞き返す。
「補習は?」
ふふん、と胸を張って見せる。
小柄な体で。
結構、出るとこ出てる感じがした。
慌てて視線をそらした僕の耳に、自信たっぷりにきっぱりと言い切る声が聞こえた。
「さぼる」
進学補習をさぼるのは、大きな目標なんかハナっからない僕にもまずいこということは分かっていた。
だから、そこまで言われてしまうと僕もある程度は決断を迫られる。
……行くや、行かざるや。
凪原の目を見ないで、僕は答えた。
「ごめん、今日は」
集会のパートナーは、 筋肉隆々の無口男「ヨウイチ」だった。
もともと目つきが悪い上に、畳の上に胡坐をかき、逞しい身体を乗り出してアニメだの特撮だのをじっと見つめる姿には、独特の凄みがある。
しかも頑固だ。
約束の時間を1分でも過ぎたら、アパートのカギを締めて帰ってしまう。
だが、たとえそうでも、凪原の誘いを断ってまで『透明ロボットクックロビン』が見たかったわけではない。
わざわざ補習をさぼってまで誘ってもらうのは、気が引けたのだ。
予想外の答えだったのだろう、急に低く凄みのあるものになった声が返ってきた。
「どこへ行くの?」
何てカンが鋭いんだろう。
怪しまれてはいけないと、僕は努めて冷静に凪原へ向き直った。
顔は笑っているが、目は笑っていない。
「帰るんだよ」
声が裏返っていた。自分でも、あからさまに怪しいと分かる。
凪原が小首をかしげて聞いた。
「どうして帰らなくちゃいけないの?」
めいっぱい明るく問いかける声には、むしろ荒れ狂う怒りが感じられた。
僕はとっさに答えた。
「アニメの再放送録画しに」
言ってしまってから、しまったと思った。
これはハードディスクがなかった80年代の言い訳だ。
当時のアニメファンは、CMカットのため、再放送の時間に合わせて学校や職場からすっ飛んで帰宅したのだ。
「いつの時代よ」
案の定、凪原はすぐにと突っ込んできた。
大学の志望ランクが高いだけはある。
僕は必死でつじつまを合わせた。
「CS有料放送撮ってるハードがすぐいっぱいになるんだ」
自分でも、なんだそれはと思う。
凪原もそこを突いてくるかと身構えていたが、見事に肩透かしを食らった。
「コピー何回?」
それとこれとどういう関係があるんだろう。
ここは考えどころだ。
もし間違えれば、後ろめたい思いをすることになる。
僕はピンチに陥ったブルース・ウィリスのように、頭の中で繰り返した。
どうするどうするどうする雄偉、考えろ考えろ考えろ……。
「1回」
シンプルイズベスト。
複数回あると答えたら、1回ぐらいどうこうと反撃されるおそれがある。
だが、それが罠だった。
「それ私に回して」
にやりと、勝ち誇ったように片頬を吊り上げた凪原。
何回と答えようが、結果は同じだったのだ。
ないものを、渡せるわけがない。
僕自身に嘘を認めさせるためのトリックだったのだ。
仕方がない。
「じゃあ、明日ってことで」
言い切ると、凪原は諦めのため息一つついて苦笑した。
背中を向けて、自分の席に戻りながら手を振ってみせる。
かくして彼女は補習に拘束され、僕は解放されたわけだ。
かけがえのない録画のストック1回分を消費する口惜しさを噛みしめながら、僕は小走りに教室を出た。
時計を見ると、意外に時間が経っている。
凪原が補習に出ることを決めた以上、成し遂げるべきはたった一つ。
探し求めた『透明ロボットクックロビン』を観ることだ。
急がないと、「ヨウイチ」はアパートの鍵を閉めて帰ってしまう。
そのアパートは、学校から30分ほど歩いたところにある。
目印は、住宅街をしばらく歩くと見えてくる、小さな古ぼけた定食屋だ。
僕は一度も入ったことはないが、微妙に傾いだ瓦屋根の下に薄汚れたショーウィンドウめいたものがあって、そこに丼が5つ6つ並んでいる。
ときどき、割烹着姿のお婆さんが店の前を掃除していたりもする。
その向かいには文房具屋とコインランドリー、閉鎖された自動車修理工場がある。
さらに生垣のある古い平屋の角を曲がると、くすんだ色のブロック塀が続いている。
それが途切れたところで、庭というほどのこともない雑草だらけの空間を抜けると、表面がぼろぼろにささくれだった扉がある。
すぐ隣の、錆びついた鉄製の非常階段を登った二階の一番端、北向きの部屋。
そこが、「倶楽部七拾年」だった。
慌ててドアノブを回したが、時すでに遅し。鍵がかかっていた。
僕は、その日二度目の選択を迫られることとなったわけである。
……事実を伝えるや、伝えざるや。
結局、僕は「ヨウイチ」にメールで謝った。
事情を伝えると、部屋でどれほど待たされたかも分からないのに、寛大な許しの返信があった。
そして翌日、僕は幸平から「よろしく」と部屋のカギを渡されることとなったわけである。
7
次の集会の日は一週間ほど後だった。
それまで僕は、毎日のように凪原と一緒にDVD店を巡ったり、「バルビュス」で珍しいコミックを捜し歩いたりしていた。
集会が分かったのはすぐ前日、例のDVD店の前だ。
届いたメールをこそこそ見る羽目になったが、なぜか咎められることはなかった。
凪原はいつものようにマフラーで口元をすっぽりと覆って、手を振りながら背中を見せて駆け去っていったのである。
僕はその晩ずっと、集会に出るための言い訳を考えてろくろく眠ることもできなかった。
だが、当日の帰りに気が付いてみると、もう凪原の姿はどこにも見当たらなかったのだった。
念のため、30分ほど待ってみたが、いつもの誘いはかからなかった。
ここぞとばかりに学校を飛び出す。
今日のメールの指示はいつもと違って、近所のコンビニが待ち合わせ場所になっていた。
内容は次の通り。
「塾をさぼって通っているのを姉に気づかれた。まかなければいけないので、DVDを先に渡す。指定した時間に洗面所で待て」
おかしいと思ったが、DVDがないことには集会所に行っても仕方がない。
指定されたコンビニに行って、トイレを借りる。
しかし。
時間ジャストだったはずなのに、5分待っても、10分待っても、誰も来なかった。
トイレがノックされて、来たと思って出てみれば、別人。
先に行ってしまったのかと、集会所に行ったが、そこには僕しかいなかった。
変だと思ったが、やっと渡してもらった部屋の鍵を開けるときには、なんだか一回り大きな人間になったような気がして、胸が高鳴った。
到着してから、1時間ほど経った。
暗くなったので、あのボンヤリした蛍光灯が点いている
そろそろ帰ろうかと思っていると、立て付けの悪い扉が音を立ててきしんだ。
待ってましたとばかりにパートナーの姿を見れば、やはりそこには僕とよく似た小太りの男がいた。
見るからにオタクの、「ケイ」。
背が低くて、顔が微妙に膨れていて、足が短くて腰が低くて妙に重心が安定している。
学校は違うが、制服はよく似ている。
集会の規則通りにマスクと眼鏡を着けたその姿は、たぶん、僕と見分けがつかないだろう。
はっきり言って、正面から見たくない。
これが生身の自分だと思い知らされるからだ。
ただ、僕がこいつと違うことがたった一つだけある。
凪原あきら。
彼女だけは、受け入れてくれている。
だから僕は、自信たっぷりに言った。
「どうしたんだ? 何かあった?」
遅刻は咎めない。
まあ、勝者の余裕ってやつだ。
だが、変装を取ってその顔は、ただでさえ不細工なのが、僕よりも遥かに醜く歪んでいた。
顔をくしゃくしゃにして睨みつける表情は、怒っているとも泣いているともつかなかった。
寒さのせいか、べそをかいているせいか、鼻を何度かすすり上げた「ケイ」は、やっと一言だけつぶやいた。
「なんでお前のために……」
それは逆恨みだ、と思った。
何があったか知らないが、コンビニのトイレとボロアパートで、暗くなるまで待たされたのは僕のほうだ。
だが、そこは追及しないのが男の度量というものだ。
凪原と喧嘩したことはないが、もしあってもこのくらい寛容になれる自信はあった。
「まあ、上がれよ。DVDは?」
「ない」
言うなり、色あせた畳の上に足を踏み入れた「ケイ」は、その場であぐらをかいた。
何で、と聞くしかなかった。
答えは、しばらく返ってこなかった。
いつ開くかとじっと見ていた口元には、よく見ると青あざがある。
口元だけではない。
目のあたりにも、頬にもあった。
やがて、「ケイ」は謎めいた言葉を口にした。
「お前、ここを抜けろ」
「え?」
あまりに唐突で、なんと答えていいか分からなかった。
さらに、訳のわからない話が続く。
「俺たちは、もう関わらないほうがいい。俺はお前もあいつらも知らなかったことにするし、お前も俺たちを知らなかったことにしろ」
そう言うなり、畳の上に大粒の涙がいくつもこぼれてシミを作った。
何かたいへんなことがあったことは察しが付くが、事情も分からないのに「はい」とは言えない。
僕は彼女持ちの偉そうな態度を改めた。
不細工なオタク同士という立場で、なるべく丁寧な言葉づかいで尋ねる。
「あの、さ、よくわかんないんで、その……もっと落ち着いて。何? どうした? もし、差し支えなかったら……」
「サキの指図だよ」
吐き捨てるような口調で、声の甲高い少年の名前が出てきた。
「俺には姉貴なんかいない。お前にそう言えってメールが来たんだ。本当は、尾行されてたのはお前」
尾行される心当たりなんかない。
僕は一人っ子で、オタク行為は、両親も完全にサジを投げている。
だが、そこで出てきたのは、思いがけない人物だった。
「コンビニが指示されて、お前を待たせて、マフラー着けた身体のちっちゃい女子が制服で入ってきたら、まけって言われてたんだ」
凪原のことだ。
でも、どうして?
「お前に指定した時間に立ち読みしてたら、言われた通りの女子が入ってきた」
そこで分からないことがあった。凪原が僕を尾行しているとして、コンビニの外で待ち伏せていたら?
尋ねてみると、「ケイ」は土下座ついて謝った。
「そこんとこは謝る。来なかったら、コンビニの外を確かめてから、念のために集会所と反対方向に行くことになってた」
もともとすっぽかされる予定だったわけだ。
因みに、その方向は昔の遊郭があった辺りだ。
高校生がうろついたら補導されるおそれもある。
なるほど、凪原は絶対に近づかないだろう。
だが、そんな僕の想像と「サキ」たちの読みは外れていた。
「入れ違いにコンビニを出たら、ついてきたんだよ。それも、10mくらいの等間隔で」
その間隔はどうやって測ったのか、聞くのはやめた。
遠からず近からず、といった意味だろう。
大体、問題はそっちじゃない。
僕にそっくりの姿を見つけて尾行しながら、凪原は声もかけなかったのだ。
いったい、何のために?
そこで、聞いてみた。
「どの辺までついてきたんだ」
「それは……ほら、あれだ。昔の……」
急に口ごもって、しどろもどろに話を続けようとしながら、「ケイ」がようやく答えたのが、遊郭跡というNGワードだった。
早い話が、風俗街である。
これには僕もさすがに、焦って食ってかかった。
「おまえなあ!」
「仕方ないだろ!」
つかみかかりそうになった僕だが、オタクなりに真剣なまなざしで見つめ返されて頭を冷やした。
言い分を聞けば、凪原の追跡を振り払うための努力は尽くしたらしい。
その思い切った行動には、難癖の余地はなかった。
「レンタル屋のアダルト系にまで入ったんだぞ。制服着て」
「一発で追い出されたんじゃないか?」
「あの子じゃなくて、俺がな……」
普通の女子ならそこで引くだろうし、そうでなくても、店員とひと悶着起こせば、関わり合うのを避けて逃げると踏んだのだった。
「そこまでして……」
たかが70年代の特撮やアニメを見るためだけに危険を冒すオタクがいるとは。
僕が言葉に詰まると、「ケイ」が穏やかな口調で引き取った。
「いいんだよ、あんな所のレンタル屋、二度と行かないから」
それで、と僕はおずおず続きを聞いた。
意外に骨のあったオタク少年は、咳払い一つするや、低く唸ってから話し始めた。。
「店の外に出たらもう、人、人、人でさあ」
いわゆる帰宅ラッシュだ。遊郭の方角には駅があり、いつも今頃、その辺りは道行く人でごった返す。
凪原をまくには絶好の環境だ。
ところが、ことはそう簡単には運ばなかったらしい。
「右行ったり左行ったり、10人くらい追い抜いてさ、もういいかなと思って振り向くと、何人か間に挟んで向こうにいるんだよ、絶対」
探偵やっても務まるんじゃないだろうか。
「下手に横道入ると余計に見つかるからさ、とにかく人に紛れて走るしかなかったんだ」
絶対、不審者に見えたと思う。
何かやらかして逃げてるみたいな。
警官なんかに職務質問されたら完全にアウトだったろう。
僕にとっても。
よう、と肩なんか叩かれて、知り合い面して顔見られて、後で「なんでマスクして眼鏡かけて帰るの?」なんて聞かれた日には……。
「仕方ないから、思い切って入ったんだ。ほら……あの……」
話が元に戻ってきた。
遊郭跡だ。
つまり風俗街。
レンタル屋のAVコーナーと違って、つまみ出す店員はいない。
いるのは、ヤバいビデオとかヤバいオモチャとか売る店の呼び込みとか、ヤバい薬の売人とか。
女子相手なら、薬にヤバい撮影がセットでついてくる。
とにかく関わったら人生が終わる類の連中だ。
凪原もバカではない。
自分の将来を考えたら足を踏み入れたりはしないだろう。
普通に考えたら。
「それで?」
僕は先を聞いた。
凪原がそこで帰ったなら問題なし。
帰らなかったとしても、不謹慎な話だが、それはそれで正直嬉しかった。
そこまでして追ってきてくれるのだから。
事態は、嬉しくも僕が心配した方だった。
「走って通り抜けようと思ったんだけど、途中で引き返したんだ。振り向いたら、誰もいなかったから」
それは帰ったってことじゃないんだろうか。
いや、あるいは……。
そこで起こっていたのは、さらに心配していた事態だった。
「悲鳴が聞こえたんで駆けつけたら、あの子がデカいのに囲まれててさ」
凪原に比べたらたいていの男はデカい!
僕や「ケイ」の背が低いのだ。
ちょっと太ってて。
「まだ5時台なのに、あいつら酔ってる感じだった。なんかチャラチャラつけて破れた服着てる感じの」
そんなところに、女子が制服着て行ったら、商売していると思われても仕方がない!
凪原は頭よくてあの性格だから、いやらしい言葉でからかわれても冷たくあしらったのだ、たぶん。
それが男たちの怒りか、あるいは欲望に火をつけたのだろう。
「なんてところに逃げ込んだんだよ!」
さっきまでは涙ぐましささえ感じた努力も、ことココに至っては許しがたい落ち度にしか思えなかった。
玄関に転げ落とすくらいの勢いで掴みかかったが、「ケイ」は物凄い勢いで抵抗した。
逆に僕が突き飛ばされて、畳の上に転がされたくらいだ。
立ち上がって僕を見下ろしている顔は、暗い電球の下でも分かるくらい紅潮していた。
目の周りや頬の青痣が、くっきりと見えた。
あ、と思ったときには、靴を履く「ケイ」の後姿しか見えなかった。
「俺、ここ辞めるわ」
言葉をかける間もなく、ドアが乱暴に閉じられた。
そして次の朝。
学校の門に着いたら、凪原が待っていた。
僕を見かけるなり、「ちょっと」と囁いて僕の腕を掴んだ。
登校する生徒が向かう中央玄関から外れた、校舎の陰まで引きずって行かれた。
マフラーに半分埋まった顔をうつむけて、聞き取りにくい声で「ありがと」とつぶやく。
事情はだいたい察していたが、とぼけて「何のこと?」と聞いてみた。
顔を上げた凪原の目元が笑っていた。
「優しいんだね。怪我はない?」
「あのくらい、なんとも」
怪我なんかあるわけがない。
凪原を守って男たちと大喧嘩したのは、僕と同じオタクの「ケイ」なのだ。
違うところは、たった一つ。
そんな思いをしてまで、僕は70年代アニメや特撮を鑑賞する仲間たちを守れるだろうか?
昨日、そこに思い至らなかった僕が、そこまでさせる「倶楽部七拾年」が見限られたとしても、それは仕方のないことだった。
さて、そこで問題も一つ。
僕に感謝して微笑んでいる凪原。
……真実を告げるや、告げざるや。
8
放課後、真坂が教室にやってきて、出入り口の引き戸を閉じてもたれかかった。
そばにある自分の席で椅子に座ったまま、それとなく辺りをうかがってみたが、凪原の姿はなかった。
そこで、小声で聞いてみた。
「ケイ、辞めたのか?」
目をそらして、ああ、とだけ答えた真坂の歯切れは悪かった。
「どうするんだ?」
これで倶楽部がなくなっても仕方がないとは思ったが、寂しかった。
特に、『透明ロボットクックロビン』が見られないのは。
どうもしないよ、と真坂は鼻にかかった声で答えた。
そういえば、このところ、集会には来ていない。
昨日「ケイ」から聞いたような危険な思いをしなければならないところに関わっていたのは心配だった。
「お前が辞めるんなら……」
どうしても、自分から辞めるとは言えなかった。
その言葉を継ぐかのように、真坂が僕の目の前に、セロテープで止められた紙袋を置いた。
「これは?」
中を見ようとしたところで、扉が閉まった。
その向こうから、次の集会を告げる声が聞こえる。
「今日、いつもの時間に」
パートナーは「サキ」。
そう聞こえたところで、紙袋の中身も見ずに立ち上がる。
扉を開けたが、そこにはもう真坂の姿はなかった。
仕方なく、紙袋を開いてみて息を呑んだ。
そこには、半透明のプラスチックケースに収められた、いつも集会で使う記録用DVDがあった。
その白いプリント面には、丸まっちい文字がサインペンで書き込まれている。
『透明ロボットクックロビン』と。
マスクに伊達眼鏡といういつものスタイルで校門を出ると、しばらく歩いてから、同じ格好で野球帽の小柄なジャージ姿が脇の路地から現れた。
たぶん「サキ」だと思って、知らん顔して先へ行った。
後ろを振り返ってみると、少し離れたあたりをついてくる。
別に、待つ気はなかった。
少しでも早く『透明ロボットクックロビン』を見たかったし、それが叶ったら、ここを離れようと思っていた。
したがって、「サキ」に対しても別に思い入れはなかった。
僕たち、というか、ジャージ姿の小柄な少年に後をつけられている僕は、いつもの路地を同じように曲がって、薄汚れた例のアパートにたどりついた。
錆びついた階段を上っていくと、下から鉄の板を踏みしめる足音が、微かに、ためらいがちに聞こえてくる。
最近、一緒にはDVDを見ていない。
こんな感じの奴だったろうかと、ふと思った。
冬の日は沈むのが早い。
すっかり暗くなった、外に面した廊下を歩きながらちらと後ろを見ると、「サキ」は非常階段を上った辺りでじっと佇んでいる。
「早く来いよ」
立ち止まって声をかけてみたが、返事はない。
放っておいて、端にある部屋に向かった。
ドアノブに鍵を差し込んでガチャガチャやっていると、「サキ」は小走りにやってくる。
部屋に入ろうとして振り向くと、そこには薄暗がりの中に立つ、見覚えのある姿があった。
確かに、マスクと伊達眼鏡は「倶楽部七拾年」の規則が定めるスタイルだ。
だが、いかに野球帽とジャージ姿とはいえ、間近で見て気づかないはずがない。
凪原あきら。
可憐で聡明な、70年代文化をこよなく愛する……少女。
僕はとっさにドアを閉めた。
女人禁制。
壁にもちゃんと張り紙がしてある。
女ごときには理解できない、忘れられた1970年代の特撮やSFアニメ。
それを楽しむ男だけの会を守るための絶対ルールだった。
でも……待てよ?
僕は『透明ロボットクックロビン』を見たら辞めるつもりじゃなかったのか?
だが、それとこれとは別問題だという気がした。
いかに危険なことをしていたとしても、同じ世界を信じる仲間を裏切る気にはなれなかった。
ドアが凄まじい勢いで叩かれる。
僕は内側から鍵をかけ、ドアノブをしっかり握りしめた。
叩かれようが揺すられようが、開けるわけにはいかない。
だけど、ここで開けなければ、僕は完全に嫌われてしまう。
凪原とレンタル屋で出会ってからの日々が記憶に蘇った。
……入れるや、入れざるや。
そこで、無言で扉をたたき続けていた凪原の手が止まった。
やっと諦めてくれたかと安堵していると、突然、扉の向こうで金切り声が上がった。
凪原が悲鳴を上げたのだ。
このアパートにだって、人は住んでいる。
不審に思われたり、警察沙汰になったりしたら、この会は消滅するだろう。
いくら抜けるつもりだといっても、潰れてもいいとは思っていなかった。
僕は慌ててドアを開け、凪原の手を掴んで中に引き入れた。
野球帽がドアの近くに落ちると、その中に隠されていた、お姫様カットの長い髪がぼんやりと赤い裸電球の光の中でこぼれ落ちた。
僕がドアを閉めると、凪原は一言、「電気は?」と聞いた。
まるで、明かりをつけて当然、と非難しているかに聞こえたので、慌てて畳の上に上がって、裸電球から下がっている紐を引いた。
うすぼんやりした光に、ブラウン管テレビと中国製再生機しかない部屋の中が浮かび上がる。
凪原は靴を脱いで上がり込み、部屋の中をうろうろして何か探している様子だった。
やがて、険しい表情で僕を睨んで尋ねた。
「秋月君だけ?」
え、と聞き返すと、いらだたしげに言い直した。
「他には誰も来ないのね?」
とっさに、うん、と嘘をついた。
他のメンバーを巻き込みたくはなかったのだ。
凪原は、ふーん、と言ったきり、黙りこくった。
やがて、何事もなかったかのようにドアに向かって歩き出すなり、言った。
「それじゃ」
「え?」
聞き返したわけではなかった。
今までとあまりにも違う態度に、唖然としたのだ。
凪原は面倒くさそうに聞いた。
「何か用?」
「だって」
言葉が続かなかった。
いつもだったら。
いつもだったら、レンタル屋や、「バルビュス」に行って、それから、「また明日」と……。
だが、凪原は思い出したように言っただけだった。
「ああ、今日はいいの」
「どうして?」
納得がいかなかった。
どうして今日は、いつもと違うのか知りたかった。
だが、冷ややかに返ってきたのは、どこかで聞いたような答えだった。
「アニメの再放送録画しに」
きっと何か怒っているのだろう。
そうとしか思えず、とりあえず謝った。
「ごめん」
ため息一つ、凪原は早く帰りたいと言わんばかりのしかめ面で、吐き捨てるように言った。
「別に謝ってほしいわけじゃないから」
「でも、許してない」
僕は食い下がったが、凪原はもう僕とは目を合わせなかった。
「許すことなんか何もない」
「じゃあ、何を怒ってるの?」
知りたかった。
これが分からなければ、凪原の怒りは収められない。
なんとしてでも、今までの日々を取り戻したかった。
凪原はしばらく考えていたようだったが、やがて僕に向き直り、穏やかに言った。
「怒ってなんかいないわ、あなたには」
最後の「あなたには」が妙に強調されていた。
今までにはない、不快感や敵意を感じたが、僕は震える声を必死で抑えながら尋ねた。
「じゃあ、何に怒ってるの?」
「言わなくちゃいけない? あなたには関係ない」
凪原との間に、深い溝ができたのを感じた。
溝というより、地割れに近い。
もう、どんなことをしても向こう側に行けない気がした。
だが、僕はその彼方に向かって声を振り絞った。
「あるよ」
必死の叫びに、凪原もさすがにギクリときたようだった。
息を詰めて、聞き返してくる。
「何?」
「これ、見に来たんだろ」
僕はしゃがみこんで、カバンを漁った。
紙包みを取り出して、いったんはがしても粘着力の残っていたセロハンテープを再びはがす。
「え?」
怪訝そうな凪原に、プラスチックのパッケージをつきつける。
それは、真坂から渡された『透明ロボットクックロビン』だった。
凪原に何があったのかは分からない。
だが、僕とおなじ感性があることを信じたかった。
それがお互いに確かめ合えれば、元通りになれると思いたかった。
「一緒に見ようよ。だから来たんじゃないのか?」
「見るわよ! 見るから!」
まるでやけくそのように、凪原は片膝ずつ畳の上に据えながら座り込んだ。
決して明るいとは言えない部屋の中で、僕は再生機の中にDVDを入れ、『透明ロボットクックロビン』のオープニング画面をブラウン管に映し出した。
それは、幻の回『クスルフ・ポウンの島』だった。
なぜ「幻」かというと、その日に限って各地で大きな政治スキャンダルが相次いで特番が組まれ、そうした大事件と縁のない周辺諸地域の小さな放送局でだけしか流されなかった回だからだ。
そうした僻地ではビデオ録画などしているファンはほとんどおらず、現在に至るまで動画サイトでアップロードされることもなかったのだ。
さて、そのエピソードはというと。
主人公は、別の銀河から別次元を通ってやってきた天涯孤独の風来坊。
地球の人々とは縁もゆかりもない。
ましてや恩も義理もなく、危機に陥っても助けてやる必要がない。
だが、邪神の力を借りて世界征服を企む悪の科学者ハマーンスタインが無力な人々を力ずくで支配しようとするとき、主人公の怒りは頂点に達する。
彼は空間転移と光学迷彩で姿を消すことのできる巨大ロボット『クックロビン』に乗り込み、迫りくるサイボーグやロボット軍団に立ち向かうのだ。
この回の舞台は、遠い昔に邪神の力を与えられた人々が、その恐ろしさに気づいて隠れ住んだ絶海の孤島。
島を支配下に置こうと狙うハマーンスタインと、それを阻止しようとする主人公の葛藤が描かれる。
南国の海を背にした主人公が、まばゆい太陽の下で金属の肌をしたサイボーグ戦闘員を迎え撃つ様は、とてもロボットものとは思えない。
やがて、戦いの場は悪の秘密基地へと移るが、ワックスで光る床と縦線の入った木製の壁、ペンキ塗りの引き戸はどう考えても体育館にしか見えない。
追い詰められたハマーンスタインは基地の中から巨大なタコに似た巨人を出現させる。
これこそ、島の人々が受け継いだ邪神の力を解き放って出現させた超古代兵器「クスルフ・ポウン」だった。
破壊される基地の中から脱出する主人公を救出すべく、「クックロビン」が発進する。
その出動プロセスときたら!
発進基地に勤務する何十名ものオペレーターが延々と命令を復唱し、横たわる鉄の巨人がクレーンで吊り上げられる。
その胴体がドック内にロックボルトで固定されると、海水が怒涛のように流れ込んでくる。
巨大ロボットは、上昇してきた発進台に乗せられ、クレーンとロックボルトから解放される。
やがて、射出台が斜めにせりあがってくると発進台も傾く。
オペレーターが正確な射角を維持すると、「角度よし!」「発射準備よし!」がどこまでも復唱される。
主人公が命がけの脱出を図っている間に、視聴者には巨大ロボットの維持管理と運用には膨大な数のスタッフと莫大な予算が必要であることが示されるわけである。
さて、海中から発進した「クックロビン」は、海岸で主人公を拾い上げる。
このシーンでは、巨人と小人の対照が、合成とわかっていても鮮やかに描かれる。
乗り込んだ主人公はつぶやく。
「インビジブル」
巨大ロボットの姿は消えるが、物理的になくなるわけではない。
空間を曲げて光を屈折させ、実体の周りを通過させるのだ。
魚眼レンズで捉えられた主人公の視界に、ロボットが叩く相手のタコ頭がある。
だが、カメラの視点からは怪物の巨体だけが吹っ飛んでいるように見える。
怪物「クスルフ・ポウン」は、ギリギリと軋む鉄の歯車のような声で呻く。
「私は音を見、光を聞くのだ!」
インビジブルが見破られたのである。
距離を取った「クスルフ・ポウン」は、身体のあちこちからしゅるしゅると触手を伸ばして「クックロビン」を捕えようとする。
だが、主人公はまたもやつぶやく。
「ディスプレイス」
ロボットの巨体を捉えたかに見えた触手は空を切り、お互いに絡みあう。
空間の狭間に滑りこんだため、触手のある次元からは物理的になくなったのだ。
だが、一方では攻撃もできない。
戦うためには、時空を超える武器が必要となる。
「銀河ボウガン!」
主人公の叫びと共に、巨大ロボットの手の中にクロスボウが現れる。
ネットの動画によれば、これでとどめを刺すのが毎回のパターンらしいのだが……。
怪物「クスルフ・ポウン」は、同じ次元に滑り込んできた。
巨大ロボット「クックロビン」に、四方八方から無数の触手が迫る。
勝ち目がない!
だが、主人公はつぶやいた。
「残念だったな、ここには、音も光もない」
触手の群れは、何もない場所で絡み合う。
「どこだ、どこだあ!」
主人公は冷笑する。
「ここだ……俺は、ここで生まれ、いずれここに消えるのだ」
次元の狭間を抜け、元の地平に降り立つ「クックロビン」。
やおら振り向いて、次元の彼方の怪物を狙ってクロスボウを放つ。
音もなく消滅する怪物「クスルフ・ポウン」。
哀しいまでに冷たい青空の下で佇む巨大ロボットの雄姿を称えるがごとく、エンディングテーマが流れる。
どこかでお前が 待っているなら
俺はここでも 生きていけるさ
見ていなくても 構いはしない
俺はお前を 信じているから……。
「もういい?」
歌が終わる前に、幻の異色作品の余韻は少女の不機嫌な声でかき乱された。
え、という間に凪原は立ち上がり、ジャージの背中を見せてドアに向かった。
履きかけた靴のつま先をとんとんやりながら、ドアノブに手をかける。
「それじゃ」
野球帽を拾って、お姫様カットの長い髪を隠しもせずにかぶる。
僕が何か言うのを避けるかのように一言だけ言い残して、凪原は後ろ手にドアを閉めた。
しばし呆然としていた僕だったが、状況は少しずつ呑み込めてきた。
マスクと伊達眼鏡で男装して尾行してきたのは、凪原だったのだ。
理由は分からない。
だが、「倶楽部七拾年」メンバー共通の服装があることに気づいたのは、「ケイ」に尾行を巻かれたからだ。
あれだけ殴られたはずなのに、怪我一つないのを聡明な凪原が不審に思わないわけがない。
たぶん、僕と「ケイ」が入れ替わったのも察しがついたのだろう。
じゃあ、なぜ、そこまでして僕の行く先を知りたかったのだろうか。
そこまで考えたとき、ドアがバタンと音を立てた。
マスクと伊達眼鏡をした小柄な影が、そこにあった。
凪原が帰ってきてくれたのかと思ったが、ジャージ姿ではない。
どこかの高校の詰襟だった。
聞き覚えのある、甲高い声が「ユウイ」と呼んだ。
これが、本物の「サキ」だ。
入って日が浅いのでよくは知らないが、この会のリーダー格らしい。
どう見ても僕より力が弱そうな相手だったが、下手に出ないではいられなかった。
「あ、まだ僕は……」
DVD見てません、と言おうと思っていた。
最低限、凪原がいたことは隠さなければならなかったからだ。
だが、頭が真っ白になりそうなところで精一杯の機転を利かせたウソは、徒労に終わった。
甲高い声が、不愛想に僕を問い詰める。
「女を入れたな」
答えに困っていると、一言だけ最後通告があった。
「処分は、追ってメールで」
再び閉められようとするドアに駆け寄り、力任せにつかんだ。
これは事故だ。誤解だ。
どっちみち辞めるつもりだったが、こんな結末はまずいと心が叫んでいた。
僕は仲間を裏切ったわけではない。
そう言いたいだけだったのだが、「サキ」はドアノブにしがみつくようにして、僕を部屋に閉じ込めようとする。
やがて、力尽きたのは「サキ」のほうだった。
僕の開けたドアに弾き飛ばされるようにして、「サキ」は廊下に転がった。
しまったと思って駆け寄ったところで、裸電球のじんわりした光が照らしだされた華奢な影がもじもじと立ち上がった。
僕が差し伸べた手を無視して逃げ出そうとするのを、腕を掴んで止める。
意外に、感触が柔らかかった。
イヤ、という悲鳴に、思わず手を放す。
駆け出したのにはっと気づいて後ろから抱き留めると、声も立てずにひたすら暴れた。
アパートの人たちに聞かれたくないのだろうと思いながらも、とにかく落ち着かせようと力を込める。
ここを辞めるにしても、話だけでも聞いてもらわなければならない。
だが、その時だった。
もがく体に引き剥がされては抑え込む手が、なんの弾みか詰襟の服の隙間に滑り込んだ。
さっきの腕とは違う、独特の、初めての感触があった。
……何か、大きくはないが、確かにそこにあるという、不思議な膨らみ。
叫び声をこらえるかのような呻き声と共に、「サキ」の体が強張った。
身体にぞっとするものが走って、僕も慌てて手を放した。
胸のあたりを抱え込んだ「サキ」が、ものすごい形相で僕を睨んでいる。
思わず「ごめん」という言葉だけが口をついて出たとき、詰襟の少年は小さな影となって、暗い外廊下を駆け出していた。
『焚き火』の歌が広報無線で流れる中、非常階段が高らかに鳴るのを遠く聞きながら、僕は掌に残った暖かい感触を反芻していた。
9
それっきり、凪原が僕を放課後に誘うことはなかった。
日中でさえ、彼女が僕に声をかけることはなかったのである。。
僕が近づこうとしても、女子の誰かが必ず楯になって、凪原の姿を隠してしまうのだった。
さて、僕の心配事はもう一つあった。
この「倶楽部七拾年」会則のことだ。
凪原を部屋に入れてしまった以上、「女人禁制」を破った僕は除名を宣告されても仕方がない。
だが、処分を告げるメールは幾日経ってもやってこなかった。
ここで僕は、決断を迫られた。
……こちらから連絡するや、せざるや。
僕は思い切って「サキ」にメールを返信し、部屋で待つと告げた。
指定した時間になっても誰ひとりやってこなかったが、それは覚悟していたことだった。
僕は、部屋の鍵を畳の上に置いて待つことにした。
事故とはいえ、犯してしまったことには違いない自分の過ちを告げ、『透明ロボットクックロビン』のDVDを返した上で、自ら身を引くつもりだったのだ。
やがて、あらかじめ点けてあった裸電球の明かりがじんわりと部屋の中を満たし始めた頃、部屋のドアが乱暴に開かれた。
その態度からして、「サキ」ではなく、たぶん筋肉隆々の無口男「ヨウイチ」だろうと思ってそちらを見れば、見覚えのないダウンジャケット姿の男が部屋を見まわしていた。
紙をワックスで立て、短く刈った側頭部には裸電球のほの赤い光にも目立つ模様が、さらに白く刈り取られている。
見ただけでヤンキーと分かる男は、ガムをくちゃくちゃやりながら聞いてきた。
「ナバケイってのいるか」
「何ですか、それ」
怒らせないようになるべく下手に出ておずおずと尋ねたが、ヤンキーは答えもしないで上がり込んできた。
「入るぞ」
「ちょっと待ってください」
新しい「倶楽部七拾年」のメンバーだろうか? 伊達眼鏡もマスクもないが。
そんな考えが頭をよぎったが、それは別の質問で打ち消された。
「ここで何してんだ」
ビデオ見てます、としか答えようがなかった。
だが、再生機は動いていない。
テレビもついていなかった。
辞めようというときに、そんな気にはなれなかったのだ、
だが、ヤンキーはそんなところには突っ込まず、「何の」という抑揚のない、社交辞令的な質問をしただけだった。
クックロビン、と答えておいたが、それはマイナーな作品であるという以前に、興味のない者には何の意味もない答えだった。
ヤンキーは「知らねえや」の一言だけ残して、挨拶もしないで部屋を出て行った。
その時だ。
何だオマエ、という声と共に、誰かが倒れる音がした。
声には聞き覚えがあった。
図体のでかい「ヨウイチ」だ。
何があったのかと、ドアを少し開けて外を覗いてみると、マスクをかけた老け顔の男が、廊下に転がったままの姿勢でさっきのヤンキーに胸倉を掴まれていた。
伊達眼鏡が廊下に転がっている。
背格好からして、間違いなく「ヨウイチ」だ。
恐怖に見開かれた目は、僕を見つけたようだった。
とっさに飛び出して、大声を上げる。
何を言っていいか分からず、「誰か、誰か」とか叫べなかったが、それでも二つ三つのドアを開かせるだけの効果はあったようだ。
きょろきょろと辺りを見渡すヤンキーが手を放した隙に、「ヨウイチ」は走って逃げだした。
ヤンキーも、その後を追っていく。
アパートの人々の視線が注がれているのに気づいてた僕は、二人の男が去った後の非常階段を慌てて駆け降りた。
カバンの中の『透明ロボット クックロビン』をどうしたらいいのか、そんなことを考えている余裕はなかった。
10
次の日。
凪原は登校しなかった。
どうしたのかと思っていると、今度は幸平が補導されたらしいという噂を耳にした。
放課後になってすぐ、こっそり電源を入れていた(校則では禁止されている)スマホに幸平からのメールが入った。
学校近くの公園に来てほしいとのことだった。
急いで行ってみると、そこにはクリーニングから下したばかりのような制服を着た幸平が、疲れた顔でベンチに腰掛けていた。
よお、と苦笑いしながら手を上げて挨拶する幸平に駆け寄って事情を聞いてみた。
立ち上がって直立し、すまん、と頭を下げてから語り始めたのは、こういうことだった。
真坂が巻き込まれていたのは、DVDやCDの海賊版を手掛けていた大きな組織の末端だった。
「倶楽部七拾年」は、そのカモフラージュだったというわけだ。
そこにいたメンバーは、真坂も含めて全て高校生だった。
リーダーは、あの「サキ」。
本名は久志野沙希といって、割と金と人脈に恵まれた家の娘だということだった。
この何不自由なく暮らしている娘が退屈しのぎに手を出した火遊びが、この組織だった。
まず、沙希が用心棒にと引き入れたのが、「ヨウイチ」である。
本名は笠間洋一。
何でも、中学生の頃は柔道をやっていたのだが、足を痛めたために高校柔道をあきらめなければならなくなり、不貞腐れてそこらの盛り場をうろついていたところで沙希に声をかけられたらしい。
オタクの「ケイ」は那波敬といって、やっぱりオタクだった。
アニメショップなんかに足しげく出入りしていたので、海賊版を裁く売り子にしようとしたらしいのだが、あの性格とルックスだから(人のことはいえないが)役に立たなかった。
結局、あのアパートの一室で画像のコピーやらなんやらをする羽目になったのだった。
そこで沙希が目を付けたのが幸平だ。
校内の女生徒からの情報で、売り子に使えそうだと踏んだ沙希は、「バルビュス」に通っては顔を売り、機会を見て幸平に「告白」という形で接近した。
真坂は断った。
僕も話を聞いて初めて知ったのだが、真坂には彼女がいたのだ。
だが、沙希もそんなことは計算ずくだった。
断られたら断られたでしつこく迫り、とうとう密会にこぎつけた。
そこを敬に盗撮させ、売り子にならないと校内にばらまくと脅迫したのだ。
真坂は折れた。
下校時に、あのアパートで海賊版を受け取っては盛り場をうろつき、ネットで買い手を募る毎日で、プライベートはなくなった。
その上、海賊版を売りぬかないと自分で買わなければならなくなる。
資金稼ぎのため、真坂のアルバイトは増えた。
不審に思ったのは彼女である。
休日に会う時間さえなくなったことで、浮気を疑われたのだ。
うしろめたいのと巻き込みたくないので、本当のことは言えない。
とうとう尾行までされるに至って、下校時に通う海賊版作成の現場までつきとめられるのは時間の問題となった。
そこで、人脈と脅迫でメンバーの人間関係を調べ上げた沙希が思いついたのが、「倶楽部七拾年」のトリックである。
つまり、僕という友人がいる真坂に、白羽の矢が立ったのだった。
そこまで聞いても、腹は立たなかった。
彼女と僕を天秤にかければ、どっちが重いか。
女はどうだか知らないが、男の身としてはやむを得ないことだ。
「それで?」
僕が先を聞くと、真坂は口ごもった。
「で、分かっちゃったんだよ、結局」
「どうして?」
訳が分からない。僕を使って架空のサークルをでっち上げ、そこへ通うふりをする。
彼女の注意をそらしたうえで、作業を別の場所で行う。
女人禁制のルールを作っておけば、僕がそこへ女子を……え?
僕に女子がくっついてくるわけがない。
なんでそんなサークルを?
僕が混乱しているのも構わず、真坂は話を続けた。
「で、あの日、敬がボロボロになってやってきて、辞めると言い出した」
え、それって?
「敬と喧嘩したっていうヤンキーがアパート探しに来て、よせばいいのに律儀に様子を見に行った洋一と殴り合いやって捕まって……」
ってことは、彼女って!
「それがもとで、海賊版密売組織が芋づる式に検挙されたってわけさ」
そこまで聞いてはっとした。
真坂はどうなるんだ?
それを聞いてみると、幸平は口元を歪めて皮肉っぽく笑った。
「俺は被害者だぜ?」
どうやら、お咎めなしということらしい。
利用されて、金まで巻き上げられていたのだから、前科までついては救われない。
だが、学校ではいつも誰からも注目されている美少年も、このときばかりは実に情けなく見えた。
とにかく、真坂が無事と分かって安心したところで、さっきの疑問が頭をもたげてきた。
直視したくない事実だが、答えは一つしかない。
「幸平!」
つい最近までは僕に向けられていた声が、本来の相手を呼んだ。
うつむいていた真坂幸平くんが、顔を上げて立ち上がった。
僕は顔を背けた。
小柄な少女がやってくるのは、見なくてもなんとなく分かった。
僕がその顔を見たのは、高らかな平手打ちの音を聞いたときである。
頬を抑えた真坂を、凪原が睨み上げていた。
「警察署から出てくるの見たよ」
「ここに来いって言ったのに……」
「捕まったって聞いたから」
淡々と話してはいるが、かえって怒りの凄まじさが肌につたわってきた。
不謹慎ではあるが、もしかしたらという期待が生まれなかったと言えばウソになる。
凪原が真坂に愛想をつかして、僕に……。
期待通り、非難は更に続いた。
「あの女誰? 後から出てきたの。いい車が迎えにきちゃってさ。なんか、黒塗りの、いかにもって感じの。感じ悪い」
「ごめん」
縮こまる真坂を、胸の前で腕組みした少女は追及する。
「謝ってって言ってんじゃないの」
「……沙希。久志野沙希」
「どういう関係?」
「別に、隠してたとかそういうんじゃなくて」
「つまり、フタマタ」
凪原は一言でまとめる。
「ごめん」
真坂の無駄な詫び言は完全に無視して、尋問は続いた。
「事情が知りたいの」
真坂はちょっと生唾を呑み込んで、言葉を選び選び答える。
「ちょっとかわいい子がいて」
「ちょっかい出したの」
注意深く省略された言葉を、凪原は辛辣に補う。
真坂はすかさず弁解した。
「彼女いるからって」
そんなことでごまかされる凪原ではない。
「でも興味あったのね」
「断れなくって」
慌てて訂正する真坂に、同じ追及の言葉が畳みかけられる。
「ちょっとは興味あったんでしょ」
「いつから知ってた?」
言い訳は無駄だと悟ったのか、真坂は開き直りとも取れる先手を取った。
一瞬、凪原の言葉が止まった。
代わりに、満面の笑顔が浮かぶ。
「堂々と嘘つける人じゃないもの、あなたって」
そのとき、僕は全ての期待が泡となって弾けたのを知った。
真坂は、照れくさそうに口を尖らせてボソボソと答えた。
「ごめん、心配かけたくなくて」
「パシリにされたのね。いくらぐらい?」
深い溜息を伴う質問に、真坂は強がってみせた。
「お金なんて全然」
嘘つけ!
さっきは泣きべそかいてたくせに。
「自分でいくら分買ったかって聞いてるの」
口調はきついが、その詰問には愛があった。
悔しかったが、それは掛値なしに感じられた。
真坂は目をそらして答える。
「5万円くらい」
「それで済んでよかったわ」
パチンコで大損した旦那の詫びを聞いた奥さんの反応とはこんなものだろうかと思った。
だが、それでさえも真坂には大きな失点らしかった。
慌てて説明を加える。
「ばらしたら、君を」
「甲斐性なし」
そういう凪原の顔は笑っている。
もちろん、真坂だって相手が怒っているとは思っていない。
言葉に、本来の余裕が戻ってくる。
「だから、70年代SF同好会を立ち上げたんだ」
「人を巻き込んで?」
ようやく、凪原は僕のほうを見た。
だが、そのまなざしは「その他大勢」を見るものでしかない。
要は、僕は当て馬どころか、裏の畑で鳴くポチにすぎなかったのだ。
真坂と出かける僕に気づいて、手がかりを探っていただけなのである。
それにしても、なんと手間暇のかかることをやったのだろう。
僕の趣味を調べ上げ、70年代ネタを教室で振りまく。
行きそうなレンタル屋の見当をつけて、何店かでそれらしいDVDを借りておく。
「バルビュス」に連れて行ったのは、「ごまかしても無駄」ということを真坂に示すデモンストレーションだったのだ。
誘いを断ったのは、彼女にとって待ちに待ったチャンスだったというわけだ。
「ケイ」に巻かれ、風俗街で男たちに絡まれたたきは、さすがにしまったと思ったことだろう。
案外、次の日にお礼を言ったのは本音だったかもしれない。
「ケイ」こそいい面の皮だったわけだ。
唯一の誤算は、僕と真坂がいつも一緒にいると考えたことだ。
あんな薄気味の悪い部屋で、僕なんかと二人きりでわけのわからない特撮を延々と見せられてはたまったものではなかっただろう。
だが、今、凪原が僕を見るまなざしには、怒りも嫌悪もなかった。
あるのは、一山いくらの人間に対する憐みだった。
これに対して、真坂は本当に済まなそうに言った。
「あいつを傷つけるつもりはなかったんだ」
「いつまでも続けられるわけないでしょう」
その物言いは、だらしない息子を叱る母親のものとも感じられた。
これに対しては、真坂が力説する。
それは、利用してしまった僕のためでもあったろう。
「最初は手を貸してもくれたんだ。でも、一人がボコボコにされて」
「自業自得」
ある意味では加害者であるにもかかわらず、凪原は僕からも目をそらしてそっぽを向いた。
その様子に、しばしぽかんとしていた真坂は、話の脈絡がおかしいのに気づいたようだった。
「何で知ってるの?」
「どうでもいいでしょ」
その言葉の響きは、真坂がフォローしている僕に嫉妬しているとも、また自分のせいで「ケイ」が殴られたことを恥じているとも取れた。
それをごまかしたいのか、凪原は逆襲に転じた。
「どうしてやめなかったの」
「逃げられなかったんだよ」
言い訳がましかったが、真坂の立場だったら、僕も同じことをしたかもしれない。
だが、それは女には決して分からないことだ。
凪原は、真坂に対して思いっきり後ろを向いたまま、ぷっと膨れて見せる。
「つきあいきれない」
だが、そこは真坂、笑顔でフォローする。
「来てくれてありがとう」
明らかに社交辞令なのだが、凪原は笑顔で向き直って、真坂のみぞおち辺りを軽く突いた。
けほっとむせる真坂をたしなめる。
「心配したんだからね」
行こう、と恋人の手を取って歩き出した凪原は、ちらと僕を見たが、無言で目をそらした。
代わりに真坂が、空いた片手で僕を拝む。
二人を見送りながら、僕は思った。
……選択の余地なし。
どこからか、『焚き火』の歌が聞こえてくる。
歌のとおりに、冷たい北風が僕の耳元を吹き抜けていく。
心の中にも、北風が吹く。
残ったのは、手元のレアな70年代SFだけだ。
『透明ロボットクックロビン』
僕はオープニングテーマを口ずさみながら、いつの間にかすっかり暗くなっていた公園を後にした。
驚かないぞ バンババン
誰も知らない バンババン
透明なんだぜ ギューン!
大巨人
銀河ボウガン 無敵
真のパワーも 無敵
俺の行く先 この調子
捕まえてみろ ババン
捕まえてみろ ダダン
だけど俺を探さないでくれ
11
それからしばらく、僕は真坂と顔を合わせることはなかった。
別に避けていたわけではない。
ただし放課後には、ムキになってレンタル屋通いをした。
もちろん、凪原が再び来ることはない、あの店にも。
彼女の姿を教室で見るのは辛かったが、それもせいぜい2ヶ月程度のことだった。
僕の方を見もしない、見てもピントはこっちにはない。
その度に感じる胸の疼きも次第に収まり、いつの間にか、春休みになってしまった。
真坂には、「バルビュス」に行ってみたところで会った。
僕はもうまったく気にしていなかったが、久々に会った親友はバツが悪そうだった。
よっぽど、顔を合わせづらかったらしい。
バイトが終わってからコンビニのテーブルで食事をしたが、そこで「倶楽部七拾年」のメンバーがどうなったかを無理やり聞かされた。
真坂としては、そうしないと気が収まらなかったらしい。
あの後、真坂には法的処分はなかったものの、長い自宅謹慎が待っていた。
授業に出られない上に要出席日数が削られたため、進級も危なかったらしい。
洋一は退学して通信制の学校に行ったということだった。
敬は心を入れ替えて、進学塾に通っていると聞かされた。
沙希は……退学したあと、どうなったかは分からないようだった。
親の金脈人脈でどうにかしたようだったが、僕にはどうでもいいことだった。
そんなわけでやがて2年間が過ぎ、僕たちはそれぞれの道へと進んだ。
真坂は県外の大学に進学した。
凪原はさすがに才媛らしく、海外に留学した。
僕はそのままオタクを続けるために、ぎりぎり親の目の届かない辺りにある県内の大学を選んだわけだが、さて。
2年ぶりに着いた、久志野沙希からのメール。
掌に蘇る、あの大きくはないが「ある」とはっきりわかるあの感触。
制服姿の小柄な少女の姿が目に浮かぶ。
その影は、ずっと忘れていた凪原あきらの笑顔を思い出させた。
そこで僕は、冬の朝に布団の中でぬくぬくとすくみ込んだまま考えこむ。
……さて、このメール。返すや、返さざるや。
(完)