誰が為に手を招く
「こんなに胡散臭い物が本当に願いを叶えてくれるの?」
窓からは既に傾いている日の光を受け、白く輝く海が見える。
そんな部室で俺と今、愚痴を漏らした彼女、唯川華凛は机の上に乗ったある物を二人して凝視していた。
唯川は俺の幼馴染み、まあ腐れ縁の関係だ。なかなかルックスが良く、かつ通りかかる男達が皆振り返るほどの巨乳の持ち主である。
しかしその反面、特といって実家が裕福でもないのにお嬢様気質で、我儘極まりない性格という女だ。彼女とお近付きになろうとして、心を粉々に砕かれた男は少なくない。
「アンタ、またインチキ商売に騙されたんじゃないんでしょうね?」
唯川は呆れたようにそう言った。
彼女の視線の先には、白い体に、力無く掲げられた丸まった左手、虚ろな瞳、丸っこい胴体、その前に堂々と構えられた「千万両」と書かれた小判。
所謂招き猫が机の上に置かれている。
「いや、ネットのある信頼できる情報筋から得た情報だから、今度こそホンモノの筈だ」
「そもそもネットの人間で信頼できる人って本当にいるの?」
俺の弁解に反論を唱えながら、唯川はツインテールに結ばれている髪束の片方を中指でくるくると巻いている。それが彼女の癖だ。
俺と唯川はオカルト研究会に所属している。
精力的に活動しているのは実質俺だけなので、成り行きで俺が部長になった。研究「会」なのに、何故肩書きが「部長」なのかは、オカルト研究会七不思議の一つである。
かく言う唯川はというと、毎日部室に来てはダラダラと暇を潰しているだけだ。
オカルト研究会は部員数5人、その内3人は幽霊部員という実にオカルトな部活だ。
彼ら3人の姿は三ヶ月もの間、部活はおろか校内ですら見かけたことは無い。
我が校では、部活を維持するには部員数が最低8人は必要となる。
しかし、新学年の入部シーズンはとっくの一ヶ月前に過ぎ去っているのに、今年の新入部員は0人。かなりのピンチだ。
そこで、最低限の部長の責任として、この由緒ある(かは分からないが)部活を維持するため、この『願いを叶える招き猫』を昨晩、両親が寝静まってから秘密裏に某社の配達員から受け取っていたのだ。
この招き猫を使って部員を増やすという願いを叶えるといった目論見だ。
招き猫は放課後部室に着いてから開封すると決めていたお陰で、新品のゲームを開く前のようなワクワク感を一日中味わう羽目になった。
きっと俺の体からは幸福的なオーラが滲み出ていて、周りの空気を十二分に満たしていたはずだ。
クラスメイトからの視線がいつもより痛々しかったのは、多分気のせいだろう。いや、普段も痛々しいのだが。
「可動式の左腕を下ろして、この招き猫の腕を招かせた者に幸福が訪れる……と言われているらしい」
「ますます胡散臭い」
ネットの紹介文通りに招き猫の説明をすると、唯川は露骨に眉をひそめた。
「そんなに不安を煽らないでくれよ。せっかく本当は働きたくないところを一念発起して、半年バイトで稼いだ金で購入したのに」
「そのエネルギー、部活の勧誘に使った方が効率良くない?」
ストレートに正論と飛ばしてきた。だが屈しない。
オカルトグッズとは男のロマンだ、少なくとも俺にとっては。
俺は効率よりもロマンの方を選んだ。
オカルト研究会部長として、そのプライドは譲ることは出来ない。
「まあ論より証拠、だな」
ネットの紹介文通り、招き猫の左腕をゆっくり引き下ろしていく。
招き猫の中で歯車が噛み合うような音がした。何となく緊張感が漂う。
最後まで腕が振り下ろされた途端、
「ニャア」
突然招き猫が鳴いた。驚きのあまり、ビクンと体が跳び上がる。
「そういうカラクリがあるなら先に言ってくれよ・・・」
唯川は俺の様子を見て笑っていた。そんな彼女にイラっとしつつも、驚きの所為で強く脈打っている心臓を宥める。
チキチキと硬質な音を鳴らしながら、招き猫の腕は自動で元の位置に戻っていった。
それから、俺達は呪いのビデオとセットで購入したブラウン菅テレビを見ながら、何かが起こる事を待った。
言わずもがな、呪いのビデオも俺が自費で購入したオカルトグッズの一つだ。インチキだったが。
テレビからは「ロボットが地球の為に、人類に反旗を翻す」という内容の映画のコマーシャルが流れている。
「人類が消えることが、この星の幸せなのだ」とロボットが強く主張しているシーンが映し出されていた。
「もう招き猫の腕を下ろしてから、10分も経っているんだけど?」
唯川がコマーシャルからニュースに切り替わったテレビを眺めながら、やっぱりな、といった様子で俺に尋ねてきた。
半年間の努力が音を立てて崩壊する錯覚を感じ始めたその時、部室の扉をノックする音がした。
「すみませーん、オカルト研究会の部活ってここで合っているでしょうか?」
扉の向こうからは男女が入り混じった生徒達が現れた。その数、5人。
彼らは俺達2人に対して入部を希望するという旨を説明した。
彼らの入部する決意は固く決まっているようだった。
まさかこうも簡単に一気に廃部の危機を免れることになるとは流石に思わなかった。
俺は招き猫の方をチラッと見てから、過去最高のドヤ顔で唯川の方を見た。
馬鹿にしていただけあって、彼女は大層驚いているようだった。胸がすくような気分だ。
「よ、ようこそ、オカルト研究会へ!どうぞ中へ!」
ぎこちなく彼らに声を掛けながらも、部活の廃部を免れた安心感が胸を満たす。
その時、彼女のキリリとした目が、厭な光を帯びた。
「ねぇ、この招き猫ってどんな願いでも叶うのよね?」
「そりゃあ、魔法の招き猫だからな」
俺の先程説明した通り、この招き猫を利用すれば大金を手にする事も、常に怪しい雰囲気を放つ俺が、1日で非リア充サイドから脱してリア充サイドへ転ずるなんていうことも可能になるだろう。
しかし、それでは駄目なのだ。本当に危険が迫っている時に使わなくては、何でも招き猫に頼りっきりになってしまう。ダメ人間の完成だ。
そこの分別は付けなければならない。
「フフフ……」
一方、唯川は待ち受けている輝かしい未来を想像して、笑みを堪え切れないようだった。
ニタニタ口元に笑みを浮かべる唯川を見て、明らかに新入部員達が引いている。
「あっ、そういや用事を思い出したわ」
唯川はわざとらしくそう言うと、さり気なく招き猫を片手に取り、部室を立ち去ろうとした。
「新入部員達がいるのにどこへ行くんだ?それにお前はいつも大体暇人だろ?」
「煩いわね!用事は用事なの!」
唯川は強引に部室を出て行こうとする。
それを引き止める俺。
「お前、絶対招き猫使いたいだけだろ!?」
「どうしても叶えたい願いがあるのよ!一回くらい使わせてよ!」
新入部員達の前だというのに段々と口論がエスカレートしていく。ついでに彼女の企みもあっさりとばれた。
「うぃーす、久しぶり」
そんな中現れたのは、オカルト研究会の幽霊部員の一人、松崎だ。
彼の苗字しか覚えていないが、確かデリカシーの無い奴だったと記憶している。
こいつの姿を見るのは、彼がオカルト研究会に来なくなってから三ヶ月ぶりだ。まだ生きていたのか。
「いいところに来たわね!私はある用事があるから、新入部員達の対応は二人に任せたわよ!」
松崎の前では、あくまで「用事」と突き通した唯川は、そのまま部室を飛び出していった。
「押し付けるのはその胸だけにしておけよ」
「ついでに俺も用事を思い出したわ、頼んだ」
「えっ、ちょっ」
松崎の文句を聞く暇も無く、()を追う。
新入部員の対応は彼一人に任せよう幽霊部員にも、たまには部員らしく活動して貰わねばならないのだ。
彼女の招き猫乱用を防ぐため、俺は謎の正義感に燃えていた。
「これでアイツとの仲も……」
俺が見つけた頃には、唯川は校舎裏でしゃがみこんでにやけながらながら何やら呟いていた。
彼女の持つ招き猫は既に腕を招き終わり、拳を元の位置に戻そうとしている。
「さあ、招き猫を返してもらおうか」
そんな彼女の様子を気色悪く感じつつ、俺は唯川に声を掛けた。
唯川は慌てて立ち上がり、スカートのポケットに招き猫を仕舞い込んでから、不満げにこちらを睨みつけてきた。
「嫌よ!まだまだ叶えたい願い事が沢山あるのに!」
どんだけ欲張りなんだと心の中でツッコミながら、俺が彼女との距離を詰めると、唯川もその分後退りして距離を開く。
暫く双方動き出さない膠着状態が続いたが、唯川は一気に後ろを向いて走り出した。
「ちょ、待てよ!」
某アイドルのような事を言って、彼女をすぐに俺は追いかけた。我儘な唯川に招き猫を好き放題使われたら世界のバランスが崩壊しそうな気がする。
唯川は巨乳のくせに足が速い。胸が上下左右に暴れるが、それを気にも留めずに駆け続ける。
運動が不得意とはいえ、俺は腐っても男だ。それでも、彼女との距離がなかなか縮まらなかった。
決して俺の足が遅い訳ではない、決して。
唯川は遂に校門から抜け出していった。自分の願い事の為なら校舎外でも何処までも走り抜くつもりらしい。
久々の運動に脇腹がキリキリと痛むのを感じながら、俺は唯川の後ろを追った。
暫くは距離を詰める事が出来なかったが、やがて少しずつ彼女のペースが落ちてきた。激しい呼吸音が此方からでも聞こえてくる。体力切れだ。
俺はこれを待っていた。一気にスパートをかけるつもりで脇腹の痛みを無視して強く地面を蹴り続ける。さらに彼女との差が縮まる。
彼女は俺がスピードを上げたのを察したのか、スピードを元の状態にまで戻した。
そしてスカートのポケットから招き猫を取り出した後、その左腕を素早く振り下ろさせた。
微かに猫の鳴き声が聞こえる。
唯川が横断歩道を渡り始めた瞬間に青信号が点滅する。
全力で走るが、間に合わない。
俺が交差点に着く頃には既に信号は赤くなり、先頭の車が動き始めていた。招き猫の力、恐るべしである。
横断歩道の向こう側から俺に向かってあっかんべえをした後、意気揚々と真っ直ぐ走っていく彼女の背中を、俺はただ呆然と見つめ続けていた。
空が一面オレンジに染まっている。学校には戻らず、俺はフラフラと彼女が通ったであろう足取りを脇腹をさすりながら彷徨っていた。
俺はただ憂さ晴らしに海を見に行こうと思った。ついでに唯川がいたら儲け物といった軽い気持ちで海へと向かった。
赤レンガで舗装された洒落ている道をひたすら歩き続けると、空と同様なオレンジ色に光る海が見えてきた。
ここら辺はデートスポットとして有名なのだが、珍しく今日は一組のカップルもいない。
疲れ果てた俺は鉄製のベンチに深く腰掛けた。
ふと横を見ると、3つ隣のベンチで唯川が眠りこけている。
その神経の図太さに呆れを通り越して感心する。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女の前に立とうとしたが、その前に唯川は突然跳び起きた。
俺と距離を置き、こちらを鋭く睨んでくる。
「アンタ、まだ諦めていなかったワケ!?」
「招き猫は俺の物だよ。取り返すのを諦める方が可笑しいだろ?」
ジリジリと近づくと彼女もこちらを向いたまま下がっていくが、やがて海への落下を防止する為の柵にぶつかった。
柵の後ろは地平線まで望む大海原である。ようやく彼女を追い詰めることが出来た。
「オラッ!返せオラッ!」
唯川と取っ組み合いになる。華奢な腕なのにも関わらず、彼女の力は思いの外強かった。
これ以上のチャンスは無いと、キャラが振れようとお構いなしに、大声を張り上げ力を込める。
「嫌よ!絶対に嫌!」
彼女も力んで顔を赤くしながらも、俺に奪われまいとに躍起になっている。
招き猫を巡って二人で揉み合いになっていると、スカートのポケットから招き猫が滑り落ち、柵の隙間を通り越し、海の方へ転がっていく。
それを俺は死ぬ物狂いで柵を乗り越え、招き猫を掴んだ。
招き猫を手にした喜びも束の間、今度は自分の体が大きくバランスを崩し、海へと落下としている事に気がつく。
予め言っておくが、俺はカナヅチだ。身長以下の水深しかないプールでも溺れかけたことがある。
スローモーションで水面に向かっていく体が急に止まる。
彼女が柵越しに必死の形相で俺の靴を掴んで引き留めてくれていた。
珍しい必死な彼女の顔に、状況に似合わず吹き出しそうになる。
が、哀しきかな、靴がぬるりと脱げ、俺は橙赤色の水面に落ちていった。
ただでさえカナヅチなのに、制服が邪魔で、もがけばもがくほど身体にまとわりつく。
俺はどうすることもできずにゆっくりと沈んでいく。
肺を満たしていた空気も尽き、酸素を求める信号が脳で苦しさに変わる。
初夏の海はまだ冷たく、急速に体の熱が奪われていくのを感じた。
呼吸ができない苦しさに悶えながらも、右手が招き猫を強く掴んでいたことに気が付いた。
こんなに早く再びピンチが訪れるとは思わなかった。このひょうきんな顔をした猫に俺の命を託すしかない事を悟り、招き猫の腕を勢いよく引き下ろす。
ただ助かる事だけを祈っていたその時、何かに支えられて、沈んでいた体が再び浮力を戻して海面に向かっていく。
いや、何かが俺を押し上げている。
それは黒くて、大きい物だという事しか分からなかった。
理由も分からぬまま、海上に俺は浮上した。海水を吐き出すため、大きく咳き込む。
俺は情けなくへたり込んでいる足元を見てぎょっとした。フジツボだらけだったからだ。尻にも刺さっていて痛い。
巨大な黒い物は俺を乗せたまま何処かへ進んでいく。
後ろを振り返ると、特徴的な巨大な尾びれが水面と水中をゆったり上下しているのが見えた。
そう、俺が乗っているのはクジラだった。
招き猫の力、クジラに乗っているという非現実的な現状、それに寒さも合わさり、俺は激しく身震いした。
クジラは何と、浜の近くの(そのクジラにとっては)浅いところまで俺を乗せた後、海の底へと深く沈んでいった。
身長より少し深い程度の水深だったが、それでも俺は溺れかけた。
それから、唯川が制服のまま海に入ることも躊躇わず、俺の所まで泳いで来て浜辺まで運んでくれた。彼女は泳ぎが得意だった。
「全く、アンタのせいで服がビショビショじゃない。世話かけるんだから」
砂に倒れ込んでぐったりとする俺に唯川は憎まれ口を叩いた。
水に濡れて、少し頬も紅潮している。そんな彼女を柄にも無く俺は可愛いな、と思ってしまった。
「あの、ごめんなさい……私の我儘の所為でこんな目に遭わせちゃって……」
「お前の所為じゃないよ。俺が無理やり招き猫を奪おうとして、結局自分が海に落ちたんだ。自業自得だ」
急にシュンとして、唯川は俺に謝ってきた。
死に掛けたとはいえ、彼女に対する怒りなどは全く無かった。
唯川には珍しく、かなり反省している様だし、自分の口から出た言葉も本心だった。
「あの……『お前』じゃなくて、名前で呼んでくれると嬉しいっていうか……」
思考が凍りつく。
聞き間違いではない。
モジモジしながら彼女は小さい声で確かにそう言った。
その顔は夕焼けよりも紅く染まっている。
「えっーと……華凛?」
「も、もう一回!」
「これ以上はもう言えんわ!」
恥ずかしさで正に顔から火が出そうだった。
俺は気付いたのだ。
幼馴染みである彼女を、女性として気になり始めたという事に。
甘酸っぱい沈黙が二人を包む。
「あっ、そういえば招き猫は?」
気恥ずかしさを振り切ろうと、唯川は適当な話題を振っただろう。
しかし、俺は思い出してしまった。クジラに押し上げられた時に招き猫を手放したという事に。
今頃は深く深く海に沈んでいる最中だろう。
いかにも申し訳なさそうな風を装って、俺は口を開いた。
「あー、今頃は海の底だわ」
「え!?」
唯川は顔を一旦青ざめた後、再び赤くした。
見るからにカンカンに怒っているようだった。
「こんのっ、バカ!!」
彼女の様々な感情を込めた叫びが、夕空一面に鳴り響いた。
招き猫は静かに深い海の底へ沈んでいく。
その瞳のような光の届かない漆黒の海の底に辿り着くと、誰が触れるでもなく水を掻くようにゆっくりと左手を招いた。
「ニャア」
海の奥底で猫の鳴き声が誰にも聞こえる事無く、微かに響いた。
この星にとっての幸せを招こうと、招き猫はその力を行使する。
一体、どういった事がこの星にとっての幸せなのかは、神のみぞ知るところである。