引っ越し
お別れのときです。
大変、お世話になりました。
私たちは今日、ここを出ます。
もう二度と、帰ってくることはありません。
感謝します。この十数年、安心して生活することができました。
春夏秋冬、暑い日も寒い日も、雨の日も雪の日も、嵐の日だって、ここがなければ生きてはいけませんでした。
どんなに辛いことがあった日も、必ず帰ってくることができる場所がありました。
居場所がありました。
本当に、お世話になりました。
もうぼろぼろになってしまいましたが、昔、落書きしてしまった壁紙がそのままでしたね。
ちょうど、戸棚の右横の目立たないはしっこに、“うんさ”と書いてありますね。
結局、このまま残していくかたちになってしまいますが、本当に申し訳ありませんでした。
残していくといえば、トイレの淡いクリーム色の扉。その外側にも。
小さい頃に、なぜついてしまったのか、私の手形がうっすらと。
よく覚えてはいないのですが、どうやら母を捜している途中でつけてしまったそうで。
何でも泣きながら捜し回っていたそうな。
でも、なぜついたのでしょう? しかも片手だけ。不思議ですね。
そうそう、ここの天井はちょっと低くて、父が私を高い高いしたときに、勢いあまって、天井に頭をぶつけてしまったんだとか。
覚えてはいないのですがね。
ぶつけたといえば、この机も。
私は身長の伸びがあまり良くはなかったので、父母は心配していましたが、ある日、私がいつものように、この机の下をくぐって通り抜けようとしたとき、がつんと頭頂部が当たりました。
はい。これは覚えていますよ、何となく。
いつもは頭をかがめなくても通れたのが、ぶつかったのです。
泣きました。
それを見ていた父母は、私に駆け寄ってきて、頭をさすりながら、喜んでいました。
いや、良い思い出ですよ。
ここを離れる日が来るなんて、なかなか実感がわきませんが、もうこれでお別れです。
ありがとうございました。
ありがとうございました。
私はきっと、ここを一生忘れることはありません。
築三十年、おんぼろマンション。
今日私たちは、ここを出ます。
そして、また新しい思い出が築かれていくのです。
※同人誌『うさぎの短編集』にも収録されています。
詳細は活動報告を読んでください。