美女と野獣
ある領主にとても美しい娘がいた。
その娘は幼い頃から、大きくなれば国を傾けるほどの美姫になるだろうと言われていた。
そのまっすぐでさらさらと零れる金の髪に、深い翡翠の瞳。艶やかな唇から漏れる鈴の音のような声に魅了される者も多いという。その可愛らしい領主の娘の名をフィルマという。
領主の元には噂を聞いた周囲から、フィルマへの婚約申し込みの書状が山と積み上げられていた。
彼女の誕生日パーティが一週間後に迫っていた。一週間後に、彼女はもう十六歳になる。もはや嫁いでもおかしくはない年頃だ。
そうして実際に、彼女の誕生日のパーティは、婚約申し込みパーティと言っても過言ではなかった。
名のある領主は競って贈り物を選び、その美しい娘の心を射止めようとしていた。
しかし、その娘にはある噂が立っていた。
彼女の美しさに目を付けた、森の中の野獣が彼女を無理矢理に手に入れようとしていると。
森の中には恐ろしい野獣が住んでいるのだそうだ。森の奥に居を構えたその凶悪な野獣は、近づく人間を大きな牙と爪で切り裂き、食いちぎってしまうのだという。
それを恐れた近くの村人は、決して森の奥に入ることはなかった。
けれども、領主の娘、フィルマはその悪魔の様な獣に脅されて、毎日その深い森の奥に呼び寄せられるのだという。
その獣は大変恐ろしく、若い娘や子供は、ただただひたすらに、獣が自分に注意を向けないように自分を喰らおうとしないように祈りつつ、もしも出会ってしまったとしたら物陰に隠れるしかないのだ。
そんな噂ゆえに、その不運な美しい娘を救おうと、あるいは野獣から救い出して英雄に、などを狙った男からの婚約申し込みは途絶えることはなかった。
実際に獣を倒そうと森に入った男もいた。
しかし、その男は二度と帰ってくることはなかったのだという。
その深い森の中を、ある娘が走っていた。近くの村娘である。
恐怖に怯えた瞳は、頻繁に後ろを振り返り、突出した木の根に転びそうになりながらも、必死で逃げていた。
彼女の後ろを追いかける男がいた。いや、男という以前に、人というのだろうか。
その恐ろしい顔を見たものは、老若男女構わずに、悲鳴をあげて逃げ出すであろう。森の獣の方がよっぽど優しいと思えるような顔立ちであった。鋭く苛烈な赤い瞳がとても恐ろしい。
刈り上げられた短く黒い髪も、その唇から見える鋭い犬歯も、がっしりした肉体も全て恐怖をそそる以外の何でもなかった。
「待て!!」
その口から轟音のような叫び声が発せられた。
前を走る娘は、その声に驚いて足がもつれ、地面に転がってしまった。
「あ……ああ……」
娘は恐怖の瞳でただただ、その獣を見つめるのみである。
獣はゆっくりと近寄ってきた。その右手には、斧が握られていた。しかもその斧の先に赤黒い物がこびりついていた。
殺される。
娘は思った。破裂しそうなほど心臓が激しく打っている。声が出ない。怖い。
「は……は……ぁ……」
小刻みに、荒く息を吐きながら、彼女は涙でにじんだ瞳でその獣を見た。
なぜこんな事になったのか。
混乱する思いで、娘は目の前の野獣を見つめた。
(ただ、森にキノコを取りに来ただけなのに。キノコ取りに夢中でついつい奥の森まで来てしまって。
いきなり野獣に声をかけられて、逃げてきて、森の中に、ああ、考えなどまとまらない。殺されるんだ。私は。
野獣が住み着いているのは知っていたけど、まさか私が殺されるなんて)
ただ怯え、固まる娘に野獣は声をかけた。
「おい、それを出せ」
その野獣が彼女の腕を掴む。すると、彼女の喉の奥から悲鳴が飛び出した。
「きゃあ! 嫌ぁ! 殺さないで!」
野獣は戸惑ったかのように、手を緩めた。
「お前、違う、キノコが」
「いやぁ! 放して、化け物、悪魔!!」
娘はがむしゃらに腕を振り回してその手を振り払った。その拍子に手の中にあったキノコがぽろりと落ちた。
野獣は落ちたキノコを拾うために娘の横で腰をかがめた。
「違う、このキノコは食うと」
そう言いかけた野獣の後頭部に激しい一撃が飛んできた。
ガツン!
娘の投げた籠が、彼の頭に当たったのだ。
さすがに目を白黒させて、頭を抑える野獣。しかしその隙に娘は悲鳴をあげて逃げ去ってしまった。
「お……」
野獣はそれを止めようと手をあげたが、しおしおと手を下げた。
どうせ「止まれ」と言って止まる者などいない。しかもこんな恐ろしい獣の様な男に止められて。
そうして、小さなたんこぶが出来た頭を撫でながら、悲しそうにその場にしゃがみ込んだのだった。
一方、娘はまたも全力疾走をしていた。怯えながら後ろを振り返りつつ、森の入り口まで駆けてきた。
入り口付近に何やら人影があり、娘は小さく悲鳴をあげて立ち止まった。
しかし、そこにいたのはまだ小さな娘であった。軽快な足取りで、森の奥へと入ってきたところであった。
ほっと、息を吐く村娘。しかし不安がこみ上げてきて、その少女に駈け寄ると話しかけた。
「ねえ、ちょっと! 危ないわよ!」
少女がきょとんと娘を見上げた。
可愛い。
娘は目の前の女の子の美しさに小さく息を呑んだ。金の髪の少女は、こぼれそうなほど大きな瞳を、まっすぐに娘に向けていた。
「どうなさったの?」
優しい微笑みと共に、問いかけられて娘はしどろもどろになって説明した。
「こ、この森の奥に恐ろしい獣がいるの! 先程まで追いかけられていたのよ! 悪いことは言わないから、はやく戻りなさい。あなたみたいな可愛い娘が、こんな所にいちゃいけないわ!」
少女はその娘の上から下まで見ると、小さく笑った。
「そのキノコは?」
「キノコ?」
変な事を言う少女だ。娘が首から提げた袋に入っているキノコを指して、首を傾げる少女に薄気味の悪いものを感じた。キノコって、さっきの野獣と同じ事を言っている。
「これは、今日の夕食にしようと……って、それがどうしたのよ」
天使のような可愛らしい少女は、微笑んだ。思わずどきりとする娘。
「あなた、馬鹿?」
しかし天使の口から出た言葉は娘を凍り付かせるのに十分だった。
「それ、エラワイタケっていう毒キノコじゃない。あら、いいのよ。存分にお食べになって? 私の野獣さんにどうせ酷いこと言ったんでしょう」
そう言って、彼女は艶やかに唇の端を上げる。
先程の野獣よりも、よっぽど肉食獣のような酷薄な笑みだった。
「私は野獣さんに会いに来たの。あなたみたいな物事の本質を見えない人と話す気などないわ。どきなさい」
その目の鋭さに、迫力に、へなへなと娘はしゃがみ込んだ。そんな娘には目もくれずに、少女は森の中を慣れた調子で駆けていった。
森の中では、男がしょんぼりと庭の手入れをしていた。
ああ、可愛い植物達。今日も大きくなあれ。
黄色いパルーニの花が咲いている。ああ、可愛いなぁ。
さきほどの悲しい出来事も、愛しい植物達を見ていたらどうでも良くなってきた。あとは、あれだ。この胸をえぐる少女さえ来なければ、今日も太陽にありがとうと言って仕事を終えられそうだ。
男は木こりだった。山の中の小屋で一人暮らしていた。小さいながらも食物のなる庭を手入れし、木を切って下まで運ぶことを仕事にしていた。
最近は近くの木や庭に、赤い果実が生えてきて、その駆除に一苦労だった。食べられないし、美味しそうでも毒を持っているし、切り倒しても生えてくるし、ざっくざっく切っていると、まるで人を殺したかのような赤いしぶきが飛ぶのだ。
(最悪だ。だから俺を見る人は全員逃げるんだ)
けっしてそれが自分の顔が激しく怖いせいだとは認めたくはない。そうだ、この赤い果実のせいだと責任転嫁してみる。虚しかった。
その赤い実を手でむしり取って、ぽいと下に捨てると、どこからか足音が聞こえた。軽快な、さくさくとした足音。
来た、悪魔だ!
男は左右を落ち着き無く見渡し、逃げ出そうと身構えた。すると森の入り口の方から、可愛らしい声が聞こえる。
「やっじゅうさーん」
留守ですよ、と答える代わりに足を忍ばせて彼は家の影に隠れた。すると少女はためらいもせずにずかずかと先程まで彼がいた場所に来る。
庭の端に立った少女は足を上げた。
「出てこないと、これ、踏むわよー」
その足元には、やっと花を咲かせたばかりの可愛いパルーニ。ああ、悪魔がいる。
「……ここだ」
小さく両手を上げて、男が出てくると、少女は花のように微笑んだ。嬉しそうだ。悪魔の笑みだ。
「野獣さんって、隠れんぼは下手ね。顔は怖いのに」
「……」
顔は関係ない。
「しかも、さっきまた女の人に逃げられたんでしょう? 折角野獣さんが食べちゃいけないキノコを教えてあげようとしたのに、酷い話ね。逃げられたのって何人目?」
「……」
なんで知っているんだ。放っといてくれ。
ざっくざっくと、少女は彼の胸の傷をえぐってくる。鬼だ。悪魔だ。
しかも、この娘の美貌が更に青年の悲しみをそそるのだ。
天使のような微笑みで、さわやかに急所をつく彼女の攻撃に、野獣と呼ばれた男は息も絶え絶えだった。
「な、何の用だ。フィルマ」
「あら、何の用だも何もないわ」
彼女は小さく頬を膨らませた。ああ、可愛い。そんな表情ですら憎らしい程に可愛い。
「来週に私の誕生日パーティがあるから、城に来てと言ったでしょう?」
「な、なんで来週のパーティに今日から行かねばならんのだ」
「あら、だってうちの城の者が、野獣さんの顔を見て悲鳴をあげない程度には慣れて欲しいんだもの」
ざくっ。
青年は半泣きだった。心の傷が痛い。しかし少女は追求を緩めなかった。
「できれば半月ほど前に来て欲しかったのだけど、いろいろと頑張っていたら遅くなっちゃったの。だから早くしないと、城に入ったとたん狩られちゃうかもしれないわ。それもちょっと楽しいけど」
「……楽しくない」
フィルマ、この領主の娘は、自分の誕生日パーティに青年を出席させる気なのか。恐ろしくて彼は身震いした。
彼の名前はヴォルフという。れっきとした人間だ。
しかしその名を知る者はほとんどいないし、その名前を呼んでくれる者もめったにいない。
なぜなら彼の顔はとても恐ろしく、野獣とも悪魔とも人外の呼び名がまかり通っているからだ。その恐ろしい顔に、屈強な体つき、回りを漂う雰囲気ですら彼の恐怖を増長させる者でしかなかったのだ。
それ故に、彼は森の中でひっそりと、人と関わらぬように過ごしていたというのに……。
目の前で無邪気に笑っている少女は領主の娘で、数年前ヴォルフが危ないところを救って以来、彼の元にしょっちゅう遊びに来るのだ。おかげでくちさがない人々に、あらぬ噂を立てられている。
見た目は怖い、とてつもなく怖いヴォルフは、実はとても心優しい。誠実であり、幼い者や弱い者を守りたいという確固たる気持ちを持っている。しかしその幼い者や弱い者が、ヴォルフを見ると泣くのだ。これでは守りようがない。
ところがこの領主の娘は、ヴォルフの事を気に入ってしまい、今度の誕生日パーティにまで出席させようとしている。本気か、というより正気か、と聞きたい。
「だって、知らない領主の息子とか、中年の男性とかがいっぱいいらっしゃるのよ? 私怖くって」
白々しくそう言う少女に、優しい青年は「嘘をつけ」とは言えなかった。
怖いのはこっちである。恐ろしい顔のヴォルフを見ても、泣かない逃げない数少ないこの少女は、性根が怖い。怖いというか、人が嫌がること、人が痛がることを好んでしたがる傾向がある。つまりサディストなのである。
そうして最近のその犠牲者はもっぱらヴォルフだったりする。
「俺に、何をしろというのだ?」
「あら、簡単よ」
彼女はにっこり微笑んだ。
「パーティが始まったら、初めに私と一曲踊ってくれればいいの。それだけでいいのよ」
「しかし」
「ね、お願い。初めに知らない人と踊って、足とか踏んでしまったら恥ずかしいの。初めに、しかも一曲だけよ」
「……」
フィルマにしては珍しく、真剣な瞳で見つめてきた。よっぽど重要なことなのだろうか。
確かに、いきなり他の者と踊るよりは慣れた男と踊った方が、足を踏む可能性が低くなる。しかもヴォルフならば、決して足を踏んだことを咎めなどしないだろう。
そしてまた、この娘の願いを断ることなど出来ないヴォルフの性格をよく承知していた。
「……一曲、だけだな」
パーティなど当然ながら出たこともない。しかも、領主の娘と踊るなど、緊張するに違いない。けれど彼女がめずらしく真面目に言っている願いを退けることなど出来なかった。
ぱっと顔を輝かせるフィルマ。
「ありがとう! 嬉しい! 大好きよ野獣さん!」
そう言って嬉しそうに抱き付いてくる。ヴォルフはちょっと困った。少女を引き剥がして、目をそらす。
「しかし、その、野獣さんというのはそろそろやめてくれないか」
「あら、野獣さんは野獣さんよ。可愛いじゃない」
もちろんその呼び名がヴォルフを傷つけることなど百も承知で彼女は笑った。ああ、悲しいほど可愛い。
「じゃあ、さっそく今すぐ行きましょう! パーティまで日がないもの。ダンスの猛練習をしなくては、野獣さんに私の足が踏まれちゃう」
「……気をつけるよ」
実は数年前からいきなりこの娘がダンスの練習をさせてきていたので、少しならば踊れる。しかし、今回要求されているレベルは結構高いようだ。
庭や木の世話はちゃんと頼んでおくから早く行きましょう、と森の入り口を指さすフィルマに、野獣は苦笑してついていく。実際良くもまあ一人でこんな森の奥に入るものだ。危険じゃないか。
そう指摘すると彼女は笑った。
「あら、ちゃんと護衛はついているわよ。あまり役に立たないけど、剣の腕ならしっかりしている護衛が」
そう言うと、森の影から手を振る人が見えた。フィルマの護衛隊長のケイロである。彼もフィルマに振り回されている一人だ。否、喜んで振り回されている数少ない人間である。
その頬に赤い手形が付いていた。
「……また、殴ったのか?」
「ええ。今回の件に全面協力させる引き替えにね?」
聞くと、彼女はそう言った。寄ってこようとするケイロを手を振って追い払った。
「あっちに行ってて。邪魔だから」
「はい、お嬢様。了解しました」
娘の冷たい言葉に、彼はうっとりと言葉を返す。その目はキラキラと輝いていた。
(ああ、いつ見てもアレな人だ。フィルマの傍にいるのを喜べる人などそうはいまい)
ヴォルフが引きつった顔で姿を消すケイロ隊長を見ていると、先導するように前を歩いていたフィルマが小さく声をあげた。
「痛っ」
見ると、その足に何か棘がささったようだ。顔をしかめている。
いつもドレスやパンプスなどの軽装で森の中にくるので心配していたのだが、作業服と長靴の組み合わせを勧めたら、笑顔で激怒された過去があるため何も言えなかった。
ヴォルフは彼女に向かって手を広げた。
「ほら」
そう言うと彼女はこっちを見上げた。きょとんとしている。
構わずにヴォルフがフィルマを抱き上げると、彼女は狼狽した声を出した。
「ちょ、ちょっと野獣さん!」
「足を怪我したんだろう。運んでやるよ。何、軽いもんだ」
彼の両腕の中にすっぽりと横抱きにされた少女が収まった。
重量のある木をしょっちゅう運んでいるヴォルフにとって、フィルマなど風船の様な軽さだった。しかし彼女は真っ赤になって怒ると頭を殴ってきた。
それが丁度先程の後頭部のこぶにあたり、思わず娘を取り落としかけるヴォルフ。
その隙に腕から降りて、ぴょこんと立ち上がると、彼女は唇を尖らせた。
「ちょっと、抱き上げないでほしいわ。もう子供じゃないのよ。もうすぐ結婚だって出来るんだから! 立派なレディなのよ」
レディという言葉につい吹き出しそうになったヴォルフは、自重した。
背伸びしたい年頃なのだろう。
「すまん」
その可愛らしい姿に目を細めながらも、小さく頭を下げた。
木の向こうで、我慢できなかったらしきケイロ隊長が吹き出して、フィルマに殴られ恍惚とした表情を浮かべていたのは見なかったことにした。
「ぎゃーーー!!」
「化け物! けっ、警備兵!!」
「助けて食べられるーーー!!」
フィルマに導かれ、城に入った第一声がこれだった。悲しい。
ヴォルフは、先程城門の所で斬り殺されるところだった。フィルマと一緒にいなければ、絶対に追い出されているに違いなかった。まあ、フィルマがいなかったら領主の城になど来るはずもないのだが。
そのフィルマは隣でそ知らぬ顔だ。斬り殺されそうになった場合は止めてくれるが、そうでない場合、例えば悲鳴をあげて逃げまどう侍女達には何のフォローもしてくれない。間違いなく困っているヴォルフを面白がって見ている。
「……ええと」
誤解を解こうと口を開いたヴォルフ。しかしその口から鋭い犬歯が覗いたのに恐怖を覚えた侍女達は大悲鳴をあげて逃げ出した。こけつまろびつ、全力疾走である。
ああ、悲しい。
ヴォルフは人気のなくなった入り口に、小さくため息をついた。数年前にフィルマと知り合ったときに一度来たことがあった、その時も全く同じ反応だった。いつになったら慣れてくれるのだろう。
いや、この顔に慣れる人などいるのだろうか。
獣に食われる本能的な恐怖は拭えまい。そう思うと、何だか人生を悲観したくなってくる。
隣のフィルマが、口を開いた。
「野獣さん」
「……慰めなんかいらん」
そうは言うも、ちらりと隣を見ると、彼女はこちらを見上げて天使のような微笑みを見せた。そうして、棒読みで言った。
「きゃー、食べられるぅ」
笑いながらそう言って逃げ出すフィルマをちょっとだけ本気でどつきたいと思った野獣だった。
その日の昼は城内を恐怖の混乱に陥れたヴォルフだったが、夜も近くなるとさすがに悲鳴をあげて逃げ出す者も少なくなった。フィルマが彼を招待したと知って、皆、おそるおそる遠巻きに見ている。
夕食は大広間で食事を、という誘いがあったのだが、彼は丁重にそれを断った。
何しろ、彼が近寄るだけで侍女が震えるのだ。給仕をさせるのは忍びないし、フィルマの父である領主に会っても大丈夫かどうか計りかねたのだ。もし自分を呼んだことで彼女が怒られたりするのならば可哀想だ。
すると、フィルマが彼に割り当てられた部屋にやってきた。
心配そうな、悲しそうな顔だった。
「野獣さん、夕食を一緒に食べてくれないの?」
「いや、しかし領主殿はどう言っているんだ?」
「ああ、なんだ、そんな事を気にしていたのね」
彼女は、ぱあっと雲が晴れるように笑った。
「大丈夫よ、お父様は身体も神経も太いから。ねえ、お願い。一緒に食事を食べましょう?」
なぜかは知らないが、とても一緒に食事をしたそうな娘に押されて、彼は頷いた。
(フィルマもなんだかんだ言っても子供だな。やっぱり人数が多い方が嬉しいんだろうな)
そう思いつつ彼が大広間に向かうと、そこにいた領主らしき男性は、実際に神経が太そうな太った中年だった。
彼は髭を弄びつつ、ヴォルフの恐ろしい顔に恐れることなく笑いかけた。
「おおお、君がヴォルフ君かね、わはははは! まあ座りたまえ!!」
「……失礼します」
「まあ、話は聞いているよ、がはははは! 確かに怖い顔だな! まさに野獣だな!」
「……」
ヴォルフは静かにショックを受けた。神経太いというか、神経あるのかというか。
この娘にしてこの父ありなのだろうか。そうは思ったが、根が謙虚で失礼なことは言えないヴォルフだったため、突っ込むことはなかった。
夕食は楽しかった。フィルマはとても上機嫌で、領主はとても物知りだったからだ。
だがしかし、フィルマの上機嫌は恐ろしかった。
(……これは、何かある)
ある程度彼女に慣れたヴォルフの勘が告げていた。
その謎が解けるのは、夕食の終わり頃だった。出てきた食べ物に、彼は目を剥いた。
「パルーニの花の詰め物でございます」
スープを吹くかと思った。これは、見るからに、これは愛しのパルーニではないか。確かに食用だが、いつのまに!?
半泣きの野獣を、心配そうに領主が見た。
「どうした、ヴォルフ君」
「……い、いえ」
(……ああ、目の前で悪戯が成功した子供の笑顔を浮かべるこの娘を、誰かどついてくれ。俺は出来ないが)
しかし、ずっと一緒に帰ったフィルマにパルーニをむしる暇があったとは思えなかった。
はっと、ヴォルフは壁際に立つケイロ隊長を見る。彼はえへらっと、笑った。
「はい、僕です!」
「……」
気力がめいっぱい削がれていく中、ヴォルフはギリギリと歯を食いしばって声を漏らした。
「……ケイロ隊長。殴っても良いか?」
「はい! 出来るだけ痛くしてください!!」
「……」
やっぱりやめようと思ったヴォルフだった。
「野獣さん、怒った?」
夕食後、ヴォルフの隣に並んで部屋まで戻るときに、その可愛らしい顔で上目遣いにフィルマが言った。
ヴォルフは苦笑した。
「いいや、怒ってないよ」
「そう」
心なしか彼女は残念そうだ。いや実際に残念なんだろう。
しかしパニーニは食用であり、いずれヴォルフの家の食卓に並んだはずだ。もちろん自分で料理してやりたかった気はあるし衝撃は受けたが、怒るほどではなかった。
以前鳥を飼っていたことはあるが、それには手を出さないフィルマだったので、やっていい悪戯といけない悪戯は弁えている。そんなところが彼がフィルマを嫌いになれない理由でもあった。
「明日からは、私はあまり会えないけど、ダンスの練習頑張ってね」
「何で会えないんだ?」
「誕生日の用意がいろいろあるのよ」
「……そうか」
何を企んでいるのか知らないが、含み笑いをしているその笑顔は、とても嬉しそうだ。まさしくキラキラと輝いている。
「約束よ」
彼女が小指を出してきた。戸惑い、立ち止まるヴォルフ。
彼女も立ち止まると、その小指をヴォルフのそれに絡めた。
「何があっても、私と最初に踊ってね」
「……ああ」
「どんな美女が野獣さんを誘っていても、私が怒っていてもよ」
「ああ」
「嘘付いたら針千本飲ますからね」
「……それは嫌だな」
彼女は強引に指切りすると、にこっと笑った。
「だめ、もう約束しちゃったもの」
このような表情であれば年相応に見えるのに、とその幼い表情に微笑んだヴォルフ。
彼女は「約束だからね!」と叫んで、自分の部屋へと駆けていった。
その後ろ姿を見つめて、ヴォルフも自分に割り当てられた部屋へと戻った。
右の小指が、何だか照れくさいようなむずがゆいような、そんな夜だった。
誕生日の準備は着々と進んだ。ヴォルフも、一曲だけ、初めに流れる音楽だけは完璧に踊れるようになった。
しかし誰もヴォルフとダンスの練習の相手をしてくれず、泣く泣くケイロ隊長と踊ったりもしたがそれもまた笑い話だ。
数日経つと、やっと彼を見て怯えて泣く侍女が減ってきたように思える。
そして、あの日以来フィルマに会う機会がなかった。何故かは知らないが、絶対何かを企んでいるのだろう。何をする気か。
今度はパニーニの花で飾りでも作るのだろうか。いや、でも同じ事は二度はしない娘だ。こんどはまた別の企みを練っているに違いない。
とにかく、それは誕生日の日には明らかになるだろう。そう思ってヴォルフはダンスの練習をしながら、その日を待った。
――そして。
運命の、誕生日がやってきた。
「レイモンド領、ゾニス伯爵です」
「その息子のアドニーでございます」
その日は朝から続々と客が来訪してきた。ある程度以上に身分の高い者ばかりで、正直気が引けた。
「でも一曲だけフィルマと踊ったら帰れば良いのだし」
そう自分自身に言い聞かせて、ヴォルフは窓の下を見ながら緊張を抑えていた。
「……あの、失礼します……」
震える声で、侍女が部屋に入ってきた。彼が振り返ると、びくりと体を震わせた。
さすがに今だ恐怖は拭えないらしい。ヴォルフは苦笑する。
その苦笑がさらに恐怖をそそったらしく、彼女はドアの向こう側に隠れた。
「きゃっ」
「……」
いつもの反応である。毎朝侍女たちは誰がヴォルフを起こすかジャンケンまでしているらしい。負けると、大抵泣きながら起こしに来る。申し訳ないので起こされる前に起きているが、起きていると起きているで、また怯えて悲鳴をあげるのだ。どうしろと。
そんな訳で普通の反応ながらも、やっぱり切ないヴォルフだった。
「どうした?」
「ああああの、あの」
びくびくと震えながら、彼女は領主の娘からの伝言を伝えた。
「先に会場へ行っていて欲しいそうです。パーティが始まったらお嬢様も行かれるそうで……」
「え?」
彼は怪訝そうに顔をしかめた。先にって言われても困るのだが、先にパーティに行って何をしていればいいのだろう。
しかしそれを聞こうと思ったときには、しかめた彼の表情に怯えた侍女は既に逃げ去っていた。
ああ、無情。
仕方なく、ヴォルフは正装に着替える。黒を基調としたシンプルなデザインのその服は、ヴォルフによく似合っていた。良く似合ってはいたのだが……より彼を恐ろしく見せていた。
野獣と言うよりは、吸血鬼か悪魔のようだ。
彼は小さなため息をつく。
「さあて、一週間もかけて企んだんだ。一体何をやらかすんだ、あの娘は」
人を驚かすこと、嫌がらすこと、絶望させることに対する彼女の才能は恐ろしい。好きこそものの上手なれ、というが、そんな事に巧みになってどうするんだ、とヴォルフは言いたい。
しかも、今日のパーティ。聞く所によると、彼女の婚約者を決める類のパーティらしい。そんなものにヴォルフが出席して良いのか。場違いではないのだろうか。
そうは思うのだが、彼女自身の望みではあるし、最初の一曲だけという制限があるので、仕方なく彼は会場に向かうのであった。
ああ、しかし。
(――彼女は、フィルマは、一体誰と婚約するのだろうか)
そんなくだらないことが、少しだけ気になった。
パーティ会場に向かう最中に、ケイロ隊長に出会った。
「あー、こんにちは、ヴォルフさん。今日も怖い顔ですねー」
どいつもこいつも。
一瞬殴ろうかと拳を固めたヴォルフであったが、相手が期待に顔を輝かせたのですっと拳を緩めた。
危ない危ない。乗ってたまるか。
残念そうな顔をしながら、ケイロ隊長は彼の隣に立って一緒に歩き出した。
「会場までご案内しますねー」
「……ありがたい」
先程からすれ違う人達がぎょっとして彼を見ている。彼らは一見何気ない振りをしているがヴォルフが少しでもリアクションを取ったら、ダッシュで逃げる気満々であることはすぐに分かる。何よりもその額の膨大な汗が痛々しい。
「ケイロ隊長と一緒ならば、入る前に叩き出される事はないだろう」
「あ。大丈夫ですよ。入ってからも、パーティが始まるまではいますから」
「何故?」
「何故って、ヴォルフさーん」
彼は呆れた顔をした。
「だって、会場に入っても何かのきっかけでパニック起こったりしたら困るじゃないですかー。そばに警備兵がいれば、何かの余興かな、と思えるでしょう」
「……」
珍獣扱いか。悲しそうな顔をするヴォルフに、知って知らずかケイロ隊長は追い打ちをかけた。
「それに、会場にいても誰も話しかけてくれませんよー。そしたら、パーティが始まるまで暇でしょう」
「……ありがとう」
一応気を使ってくれているのかと、お礼を言うヴォルフに、ケイロ隊長はへらへら手を振った。
「いいえ、これ、お嬢様の指図ですから。そうでもしないと帰らないとも限らないからずっと傍にいろとのご命令ですー」
「……」
たしかに、叩き出されたら諦めて帰るだろう。
しかし。
そこまでして、何故ヴォルフをパーティに出したいのだろうか。まさか本気で珍獣ショーでもする気か。友達やめるぞ。
会場が近づく中、彼の胸の中にむくむくと不安が立ち上ってきた。
ざわっ。
ざわざわざわっ。
早くも会場は異様な雰囲気に包まれた。
――お母様ー、なぁに、あれ。狼さん?
――シッ! 指さしちゃいけません!
無邪気な娘を引きずっていく母親。ああ、彼女はきっと正しいのだろう。
ヴォルフは会場の隅の柱に寄りかかって、苦虫を噛みつぶした顔をしていた。それが更に周囲の恐怖をそそることは言うまでもなかった。彼の周囲には円形に空白が出来ていた。
いわゆるバリアとでも言うべきか。不可視の境界線に阻まれて、それ以上近づく者はケイロ隊長以外はいなかった。
(……帰りたい)
正直にヴォルフはそう思った。そうだ。このような視線が、人の目が怖いから山の中に隠匿したのに、なぜこんな所にいるのだろうか。
(ああ、やはり帰りたい。でも勝手に帰ると、約束した手前フィルマが怒るだろうし)
たそがれる黒い衣装の、とっても怖い顔の青年。その隣の脳天気そうな警備兵。
しかしやはり警備兵がいるおかげで、周囲の人間は何とか落ち着いていられるようだった。フィルマの読みは正しい。
「あー、皆さん注目してらっしゃいますねー」
「……そうだな」
脳天気なケイロ隊長は、へらへら笑っている。
「いつ始まって、いつ踊れるんだ?」
「うーん、もうすぐだと思いますよー」
早く帰りたいと思いながらヴォルフがケイロとそんな話をしていると、なんと、勇気のある若者が、ヴォルフに話しかけてきた。
「おい、そこのお前」
ざっと、周囲に緊張が走った。何するんだお前。折角猛獣が大人しくしてるのに、刺激するな阿呆!!
周囲の偽らざる本音の視線に晒されながらも、青年は言い放った。ちなみにその足は震えていた。
「お前、森の中の野獣か!?」
「……」
見ず知らずの人にまで、野獣呼ばわりされてちょっと凹んだが、それを表に出さずにヴォルフは寄りかかった柱から体を起こした。
ざざざざっ!
とたんに彼の周囲のバリアが広がった。そこはかとない哀しさを胸に秘めて、彼は頷いた。
「そうだと言ったら?」
「フィルマ嬢から手を引け!」
周囲の人間が更に一歩引いた。さようなら勇気ある若者。中には十字を切るものもいた。
ヴォルフは苦笑した。
「どういう意味だ」
「お前が、フィルマ嬢に懸想していることは知っている!」
「……」
ここは突っ込むところなのだろうか。一瞬迷うヴォルフに青年は重ねて言った。
「いいか、彼女は美しい! 女神や天使のように美しい! 今日、ここにいる男は全て彼女の婚約者候補だ!」
「……ケイロ隊長、君も婚約者候補なのか?」
素朴な疑問だったのだが、隊長はブンブン首を振って、若者は怒った。
「いえいえ、まっさかー。僕はたまにお嬢様に罵られるだけで十分満足してますから、婚約者なんてそんなそんな」
「お前は阿呆か! 警備兵ごときが領主の娘と釣り合うか!」
そんなことを言うならば木こりのヴォルフも釣り合うはずがないのだが。
勇気ある若者は髪の毛をかき上げた。しかし足は震えている。
「俺は、アドニーという! レイモンド領の領主の一人息子だ」
彼はびっとヴォルフを指さした。もちろん足は震えている。
「俺は、必ずフィルマ嬢を救い出す。彼女だって嫌々お前に従っているに過ぎないことは、すぐに分かる! こんなところまで出てくるなど、図々しい! パーティが終わったら彼女の婚約者として、俺はお前を倒すからな! 首を洗って待っていろ!」
「……」
嫌々は、こっちだ。そう言おうとも思ったが、反論するより先に、アドニーは勝手に去っていってしまった。転ばなくて良かったですねぇとケイロ隊長が呟いた。
「……」
やれやれ、と思った。
まだ子供。彼女には振り回されてはいるものの、彼女に特別な感情を持つわけがないではないか。子供なのだもの。
婚約者とか、そんなありえない。
フィルマの我が儘に、付き合わされるのもいつものことだが、図々しいと言われると確かにその通りだ。あくまでも彼と彼女は、そんな関係ではないのだ。
(一曲踊ったら、帰ろう)
しかし、あの単細胞っぽい男が婚約者になったら、ちょっと可哀想だな。
そう思って、ヴォルフが隣のケイロ隊長に話しかけようとすると、彼はそっと囁いてきた。
「そろそろ始まります。僕はこれで失礼しますね」
「お、おい」
「もう大丈夫です。ほら、旦那様がいらっしゃいますし」
そう低く囁くと、彼はその場を去った。取り残されて居心地悪そうに、ヴォルフは腕を組んでその場に立っていた。
すると、華やかな音楽と共に、二階の入り口から、領主が入ってきた。
一斉に礼をする周辺貴族。ヴォルフもそれに倣う。
会場の高いところから、悠々と皆を見下ろして、領主の視線が一端ヴォルフの所で止まった。そして興味深そうな、挑むような視線で見下ろしてくる。
「?」
不審に思って眉を上げると、領主は視線を外して、手にワイングラスを持った。周囲の侍従が会場の人の手にグラスを差し出している。おそるおそるの表情でヴォルフの元にも来たので、彼はそれを手に取った。
「今日は、忙しい中我が愛娘、フィルマ・トイヤネークの十六歳の誕生日パーティに来てくれたことを感謝する」
そうして少しグラスを捧げるようにする。
「我が愛娘は、幸い愛らしく育ち、もはや嫁ぐに十分な年になった」
ざわつく周辺貴族。頬を紅潮させる男もいた。
「そこで、本日、婚約者の選別については娘より既に通達した通りである。諸君に幸あらん事を願い、また、我が娘の成長を祝い――――乾杯!」
「乾杯!」
周囲がそれに同調して、叫ぶ。チャラン、カチャンとそれぞれグラスを重ね合わせた音が響き、そうして流れるように談笑する広間の者たち。
ヴォルフも一人で小さく杯を掲げ、乾杯した。
何にだろうか。
フィルマの成長に? それとも婚約に。
誰と婚約するか、は既に決めているようだ。誰だろう。どちらにしても、きっとめでたいことだろう。
そう心で思い、彼は一息でワインを飲み尽くした。
赤い液体は、喉を潤して、その奥を熱くした。
ヴォルフの周囲のバリアが、段々小さくなってきた。触っても噛みつかないと思ったのだろうか。
噛みつくなら、先程アドニー青年に噛みついていただろう。そう思ってか、恐る恐る話しかけてくる者もいた。
なんとなく、その者達と話しつつ、このパーティの主役はまだかと待っていると、急に会場が静かになった。
しん、と静寂が漂った。
そんな中、少しずつ階段の上の方の扉が開いた。フィルマだ。
凄く待ったぞ。そう言おうとして、彼は階段の上を見上げた。
そしてぽかんとした。
――カツン。
銀の輝く靴が、足音を立てる。
侍女が、フィルマの後ろをゆっくりと歩いてくる。その前の少女、いや、もう娘と言うべきか。彼女は金の美しい髪を、一筋の乱れもなく編み込み、銀の台座に翡翠の宝石を付けた髪飾りでとめていた。うっすらと化粧の施された顔は、頬はほんのり上気し、唇は艶やかに輝いていた。首元には、小さな宝石のいくつかついた宝石が輝き、その胸元を鮮やかに引き立てていた。
そしてその全身を包むドレスは鮮やかな赤。胸元は小さめに開いて、体にフィットしたデザインである。裾が斜めにカットされたそのドレスは斬新なデザインではあれど、彼女の美しさを引き立て、より娘を魅力的に見せた。
言うまでもなく、誰もが見とれた。
誰もが思った。彼女は主役だった。
それはヴォルフも例外ではなかった。
ゆっくりと階段を下りてくるフィルマの足音だけが、その場に響く。
彼女は唇の端をすこしあげた。そうして、ゆっくりと招待客を眺めた。
その目が、ヴォルフを見たときに止まる。
ゆっくりと。
ゆっくりと彼女は微笑んだ。
その時、ヴォルフは自分が負けたことを悟った。
(――ああ、やられた! 彼女が狙っていたのは、これか、畜生。お察しの通り、やられたさ)
一週間も会わないでひたすらに自分を磨いていたのだろうか。一週間前のフィルマは、まだからかう余地もあったし、子供だと思うことも出来たが。
さすがに、これは。
もはや言うまでもなく、子供ではないと思い知らされた。
その美しさに、固唾をのんで見守るしかなかった。
衝撃に言葉もないヴォルフを満足そうに見返して、勝者は凛とした声を響かせた。
「本日は、私の誕生日パーティにいらしてくださってありがとうございます」
そうして階段の下で、足を止めた。
「皆様には感謝の言葉もありません。どうか楽しんでいただけることを、心から願っております」
その唇からでる言葉に、誰もが聞き惚れた。静謐な空気が彼女を中心に広がっていく。
「先達の通り、このパーティは私の婚約者の発表も兼ねています。すべてはこの後、皆様にお伝えできると思いますわ」
そう言って、彼女が微笑んだとたん、魔法が切れたかのように、周囲の貴族が段々と拍手をしていって、最終的に割れるような拍手が巻き起こった。
「フィルマ様、万歳!」
「まるで女神のような美しさだ!」
一斉に彼女の周囲に集まる男達。その男達を笑って対応する、フィルマ。
誰もが彼女の美しさに、魂を抜かれた。いまや誰もが、本気で彼女を口説こうと、次から次へとかかっていった。
一方、衝撃からやっとさめたヴォルフは、眉を寄せて、下唇を噛んでいた。
「……反則だ」
あれは、反則だ。そうだろう。
今までも、これからも、彼と彼女の関係は、顔の怖い被害者と、それをいたぶるサドのお嬢様以外の何者でもないはずであって。
(――ああ、くそっ、なんだあの姿は)
今更ながら、思い知らされたのだ。
もう、子供ではないと。
くしゃくしゃと自分の髪の毛をかきむしり、彼はいっそ逃げ出そうかと思った。
これ以上、彼女が子供ではないのだと思い知らされるのは怖かった。
しかし扉に目を向けた彼に、入り口を封鎖したケイロ隊長はにっこり笑顔で手を振った。
「……」
退路も断つとは、さすがフィルマ。ぬかりない。
観念して、ヴォルフは時が経つのをじっと待った。
(ダンス。そうだ、ダンスさえ踊れば多分解放される)
ダンスを踊って、逃げるんだ。早く。
そう思って、ただひたすらに忍の一文字で我慢していると、両脇の音楽隊が聞き慣れた音楽を流し出した。ダンスの合図だ。
この音楽の後に、ダンスが始まる。
ぱっと、顔を上げてフィルマを探した。彼女は当然の如く、周囲を男に囲まれて、ダンスに誘われているようだった。
笑顔で、しかしきっぱりと断っているその娘に、諦めきれない様子の男達が群がっている。
ワイングラスを置いて、フィルマの元に行こうとすると、その手を何者かにがっしりと掴まれた。
「?」
アドニー青年だった。
「……俺はお前とダンスを踊る気はないぞ」
やんわりヴォルフが断ると、彼は顔を真っ赤にして怒った。
「違うわ! 阿呆か! 何処に行く!?」
そう鋭く聞いてくる。ヴォルフは戸惑った。
「……フィルマに、ダンスを申し込みに」
「無駄だ! どうせ断られる!」
彼は憎々しげに言い放った。ヴォルフは困ったように問いかけた。
「そう言うお前は、申し込まないのか?」
「もう申し込んだ! そして断られた!」
「……」
ある意味、潔い。
「じゃあ、俺が申し込んでも別に良かろう。その後申し込め。きっと承諾して貰えるぞ」
彼女との約束は、「フィルマと最初に踊る」だ。その後ならば、多分彼女も好きにするだろう。
「それは意味がないだろうが! 彼女が貴様のダンスを受けるはずはないが、念のためだ! 俺と一緒にここにいろ! あるいは振られろ!」
「……」
ヴォルフは呆れて口を開けた。
「別に一番にこだわる必要がないだろうが」
すると、アドニー青年は、面食らった顔をした。懐疑的な声で、聞いてくる。
「何を言ってるんだ。貴様、何も知らないのか?」
「何がだ?」
「……」
呆れた、と言わんばかりの表情である。
ふと、フィルマの方を見ると、群がる男達をかき分けて、こちらに移動してくるところだった。
ああ、踊ってやらねば。
そう思ってヴォルフがアドニー青年の手を振りほどくと、彼は歯ぎしりするような声で言った。
「本当に、お前知らないのか!?」
「知らん」
「……彼女と、最初に踊った人間が! 彼女が婚約者にと望む人間だ!!」
「……!?」
唖然とした。
驚いた。
そして、呆然としたまま、彼女の方を向くと、彼女はこちらに向かっているところであった。ヴォルフと目が合うと、やはり嬉しそうに、勝ち誇ったように微笑んだ。
(――ああ、参った。
参った参った。俺の負けだ。勘弁してくれ。
ああ、完敗だ。いつものように完敗だよ)
苦々しい笑いが、段々と緩んできた。全くもって本当に、怒ってもいられない。
そうして、彼女が彼の傍までやってくると、ヴォルフはその恐ろしい顔に微笑を浮かべて、本日の主役に向かって手を差し出した。
周囲の貴族は驚きで、固まっている。
この男は何をする気だろう。――――まさか。
そんな息を呑む周囲を尻目に、ヴォルフは言った。
「……踊って頂けますか?」
彼女は、天使のような微笑みを返した。
「――――喜んで」
緩やかな音楽と共に、ダンスが始まった。
本日の主役を独占するのは、野獣のような恐ろしい男である。
「……フィルマ、これは捨て身の嫌がらせか?」
そう聞いたら、間違えた振りをして、足を踏まれたので、きっと本気なのだろう。
やれやれ。
そうは思っても、目の前の輝かしいほど美しい娘の姿を見ると、頬が緩んでしまう。
「まったく、やれやれだよ」
「あら、私と婚約するのは嫌だった?」
彼女は微笑んだ。勝者の笑みは、いつ見ても敗者からは苦々しいものだ。
「いいや、光栄だよ」
「でしょう!」
とても嬉しそうに微笑むフィルマ。もう一度、ため息をついて、彼は覚悟を決めた。
「もう一曲、踊るか?」
「足を踏まないでね」
「心がける」
美女と、野獣。このカップルは後にそう呼ばれるようになる。
そうして、いつまでも幸せに……幸せに?
とにかく楽しく暮らすことになるのであった。