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BBW旧二章最終話・カッコいい、ということ。

 学院の敷地の片隅に、混沌の輪が広がっていた。

 輪の塊を作る生徒たちの間の空気はなんともギスギスしており、ちらちらと周囲の目を互いにうかがい合い監視しあう様はまさしく疑心暗鬼、いつ暴動に発展するとも知れない危険な空気である。

 誰の目を通してみても、それは尋常の状況ではない。こんな世紀末な光景、そうそう起こるようなものでないのは、どこであろうとも一緒だ。

 その学院という舞台にふさわしくない状況の中、特に激しく動いているものが二人いた。

 片や、新品の学院指定ローブを着、大きな魔法使い帽子をかぶった旅人風の男。片や、灰色の狼の耳と尻尾を体から生やした、旅人よりも少しばかり若そうな風貌の少年。

 喧嘩――ではない。

 喧嘩というにはそれはあまりにも、一方的だった。

 拳に魔法で作り上げた爪をまとい襲い掛かる人狼の少年と、攻撃をひたすらかわす人間の旅人。

 旅人は、魔法使いと名乗るにはやけに巧妙な体捌きをもって紙一重のところで攻撃をさばき続けているが、避けきれず爪によって刻まれた切り傷に、拳や蹴りを受けて滲んだあざや打撲痕が全身あちこちにあった。

 息は荒く、肩を激しく上下させている。傍目にも痛々しい姿だ。


「ま、魔法が使えないだけで……ッ」


 小さい声で吐き捨てる。

 イグニースにとって一番の頼みの綱である魔法は、何故か魔力が切れているため使えない。今日は全く魔法を使っていなかったのだから、消耗があるわけないのに。いつ自分の魔力が消えたのか、さっぱりわからない。

 今の魔力残量だと使えて精々、一番消費魔力の少ない跳躍魔法が一、二回分。もっともっと回避に専念し続けて、魔力の回復を待てばもう数回分は回復するかもしれない。攻撃魔法ならそこまで待っても、必殺の倍増化した閃光の矢どころか、ようやく最下級のもの(アローマジック)を一回放てる程度だろう。


 ――こんなはずじゃ、なかったのに。


 目の付近をこするようにして繰り出された手刀を回した腕で受け、イグニースはどうしようもないもどかしさに歯噛みした。

 こんなはずではなかった。今対峙しているのは、魔力さえ十分にあれば問題なく倒せるくらいの腕前の相手だ。自信満々に仲裁を買って出たのは、自分と相手の実力の差を認識していたからこそ。万全の状態でさえあれば、はっきり言ってこの少年、格下の相手なのだ。

 少し目を離せばすぐにでも見失ってしまいそうなほどの速度は確かに脅威だろう。だが、それだけである。詠唱の短縮があれば、そのくらいの相手なら軽く先手を取れるし、受けている攻撃だって、確かに重くはあるが、盾の魔法を使えば全部受けきれる程度。

 なのに魔法が使えないだけで、格下の相手にこんなにも苦戦している。どころか、師の動きに憧れて体術の練習もしていなければ、既に沈んでいたかもしれない。ギャップ効果だのなんだのといって、いざという時こそカッコつける心積もりであったのに、この現実はどうだ。

 そんな弱い自分がふがいなく、このくらいのトラブルでうろたえている自分が情けなく、その所為で今

自分がこの輪の状態を沈めるどころか更に悪化させかねないという事実に苛立ち、この状況を打破できていない自分がもどかしかった。

 強くなったと思っていたのに。メッキがはがれれば自分はこんなものなのだろうか。

 これでは、颯爽と現れてピンチを助けてくれるカッコいい魔法使いなんて、師匠のような魔法使いを目指すだなんて、とてもではないが言えたものではないじゃないか。

 最低の、醜態だ――あまりにも、カッコ悪い。

 焦りが体を突き動かす。

 さっさと沈めるなりしないと、本当に、この喧嘩を起爆剤にしていよいよ大事へと発展しかねない。早く、早く目の前の敵を押さえ込まねば。周囲を刺激するのを止めねば。

 いっそかばおうとしている少年を差し出そうとも、話し合いになんとか持っていこうとも考えず、はやる頭はただただ体を動かすことのみを是とする。

 いっそう素早く繰り出される拳の嵐の中、身を縮めて耐え切り、足を前後に大きく広げて構えた。敵が突き出した拳の外側に体をねじ込み、体を沈めて一気に重心を前方へ運ぶ。後は前に出した足を軸にして体を回せば、


「とったッ」


 腕を突き出したためにがら空きになったわき腹が、拳の射程圏内に入った。拳を腰だめに構え、あとは放てばいい。その状態で、唐突にイグニースの視界がふさがる。


「何をだよ」


 もふもふしたものが顔面にへばりついたのだ。それが尻尾であると旅人が確認するよりも早く、振り向いた人狼の少年の回し蹴りが顔面を薙いだ。

 首の骨と筋肉が小さくきしむ音を立て、頬骨と歯が横に無理やり押し出される感触。痛いと言う前に、顔面に感じる激しい違和感と若干のめまいが自分の脳を揺さぶる。


「……ッ!?」


 ぐらりと体が傾いだ。力が入らない。明滅する視界の中、人狼がイグニースの状態もおかまいなしにさらに拳を振りかぶるのが見える。


「コレに懲りたら、空気読まねえのはやめるこった――ッ!」


 避けきれない。

 だが、その攻撃が放たれることはなかった。

 目の前の空間を、黒鉄(くろがね)の装甲が流星のごとく裂いていったのだ。


「んだ、こりゃ……ッ」


 側面のとがった部分を前にして降り注ぐ星は、うっとうしそうに、舌打ちを交えて距離をとって回避される。こちらは追撃には出ない。空いた距離をさえぎって、そのまま三、四枚ほどの装甲版がイグニースの周りを、守るように公転しはじめた。


「マリネッ、何を――」


 ここを取り巻く輪の内側でありつつも、彼らからも離れた地点でこの暴動もどきの発端である少年を守っているはずの装甲。いつ本当に誰かが殴りかかってくるともわからない群集から身を守るためのものであり、重厚な装甲を誇るゴーレムの存在は、それ自体が周囲に対する威嚇でもある。

 だというのに、それの主である彼女がこちらを指さして魔法陣を展開し、旋回する鎧のパーツに命令を送っているのが見えた。


「何って、イグニースさんこそ何やってるんですかぁっ、魔法使えないのにぃ!」

「こいつが攻撃して来るんだ、しょうがないだろ!」

「だったら、こっち来て素直に守りに徹すればいいですよねぇ?」

「それは、だが断るッ! 何だかカッコ悪い!」

「今、そんなこと言ってる場合ですかぁ!?」


 マリネの声を無視して、イグニースはもう一度立ち上がる。

 焦燥に駆られて視野狭窄に陥った旅人は、己のその行動が、さらに周囲の火薬庫を刺激すると気づいていない。

 ただ、頭の中には言葉と己の信念だったものが渦巻いていた。

 自分は強いのだと。カッコよくあるのだと。学院長(あにでし)に忠告されるまでもないのだと。こんな騒動の種、簡単に押さえ込んで、のんびりスマートに教師を待って――


「……先に言っておきますね、ごめんなさい。ゴッちん、ロケットパンチ」


 自分を守るべく取り巻く衛星を突っ切って、再び人狼の少年へと飛び掛ろうとしたイグニースの後頭部に、ゴインと鈍い音を立てて拳が突撃した。

 あべしだかひでぶだか、変な悲鳴を残して危うく膝から崩れ落ちかけた彼を、浮遊する腕とそれを取り巻く装甲が抱きかかえる。

 そのあんまりといえばあんまりな出来事に、互いをけん制しあっていた周囲が、一瞬どよめく。


「おい、何やってるんだよッ!?」


 マリネの隣から、数少ない味方撃沈に対する文句だろう、もはや悲鳴じみた涙声が上がった。今の攻撃で、おまけに大事な装甲の防御が減ってしまっているのだ。

 彼女自身もそれはわかっているのか、スムーズな動きで手元に引き寄せられていくイグニースを、人狼の少年が彼を運ぶ鉄腕を掴んで止める。


「確かにその通りだぜ。目の前で漫才だなんざ余裕だな。てェか、おちょくってんのか? ……隣のそいつを寄越せ。こいつ共々、徹底的に殴ってなんなきゃ気ィすまねえ」


 隣の少年の顔から、さっと血の気が引いた。

 見捨てやしないかと不安になったのだろうか、マリネと人狼を交互に見て、近くにあった装甲にすがりつく。

 両方の視線を受けて、彼女はしかし何も言わない。

 周囲の声以外には、気絶まではしなかったのか、イグニースの今にも吐きそうなうめき声が弱弱しく響くのみだ。


「この人、は……」


 時間をかけ、身の守りが、だんだん少女のほうへと寄ってゆく。

 と、装甲の薄れた鎧に隠れる少女を、影が覆った。

 後ろから、先ほどまでは周囲と視線でのけん制のし合いをしていた生徒の一人が、耐え切れなくなったのだろう。激情に身を任せ、装甲の隙間を縫って少年へと掴みかかった。

 くすぶっていた火種がついに燃えうつった――

 もうどうでもいいから、さっさとこいつをぶん殴ろうぜといわんばかりの、熱のこもった視線だ。

 村八分にしてやると、私刑(リンチ)にでもかけてやろうと、そんな暗い怒りを篭めた手だ。


「――『トルネード』!」


 その動きに視線が集中した瞬間。人狼の少年がそれに気を取られた隙に、その場に合った全てのゴッちんのパーツが急旋回を始めた。入学試験の時ほどのパーツ数と大きさはなく規模も小さいが、直撃すれば人を昏倒させるのに十分足る威力の嵐が巻き起こる。


「うお……ッ」


 飛来する鉄片を受けて、周囲を取り囲む輪に穴が開いた。誰かに当たったとか地面を軽く削ったとかで悲鳴が上がり、囲いが崩れる。

 人狼の少年にしても、手元でいきなり急加速したゴッちんの腕に対応しきれず被弾。続けて、それまでイグニースを支えるのに回していたパーツが全て、同様の勢いで加速した。今度は魔法をまとった拳ではじくが、捕らえていたイグニースたちもまた、手放してしまう。


「脱出! 二人とも、離しちゃ駄目ですよぉっ」

「ひぃっ! ふ、不安定不安定すぎる、足場が! う、腕が痛い強く引っ張るな!」

「うう……っ」


 鳴り響く高音と混乱の斉唱の中で、その指揮者である小人のみが自由に動けた。旅人と庇護すべき少年の手を引っつかんでゴッちんを下半身だけオートでくみ上げると、他の装甲はすべて攻撃に回したまま、それに乗って走り出した。

 マリネは小さいが、ドヴェルグの子は先祖代々の職業柄なのか力持ちの種族だし、乗っているのも小型とはいえ、鋼鉄の戦闘用ゴーレムなのだ。その腕力と馬力を持ってすれば、人を二人引っ張って逃走することはたやすい。


「の、野郎ッ、待てやッ!」

「いやですよ~、こんなところにこれ以上いられませぇん!」


 囲いを抜ける最中、その背後から人狼の少年の怒鳴り声が聞こえたが、振り返りもせず、足を緩めることもしない。

 というか、この流れで止まるのはどう考えても自殺行為と言えよう。

 誰が待つかとばかりに、その場に残してきた装甲たちに、さらに激しく回るよう命令を送る。生徒たちが怪我しないよう、だとかそんな気遣いなど最初から地平の彼方だ。

 かなり奇跡的な状況の運びであるが、逃げられるペース。追いつかれないように、見つからないようにという心算なのだろうか、広い学院の敷地を滅茶苦茶に走り回っていく。少しばかり離れたところにある、校舎沿いの道を走ってゆく。そのまま続けていけば、ほぼ確実に逃げ切れるだろう。


()ってえ……ッ。は、離してくれ、戻らなきゃッ」


 実際、普通にいけばそのはずであったのだが。

 いた。自殺志願者が一人いた。


「うわあッ、あ、あんた、ほんと何やってんだよ!? 助けてくれるんじゃないのかよッ」

「ああもう、この人……。わ、わ、待ってくださぁい、暴れないでぇっ!?」


 ロケットパンチのダメージから立ち直ったらしいイグニースが、手足をばたつかせた。

 力はあっても手自体が小さい彼女では、暴れられればすぐに姿勢が崩れるし、押さえ込めなくなる。マリネがいくら抵抗しても、彼がゴッちんの足から振り落とされるのは、時間の問題だ。ついでにその結果、足を滑らせ頭から地面に激突したのは、ある種当然ともいえることであろう。

 殴ったときよりもずっと鈍い音が周辺に響き渡った。それきり、イグニースの動きもぱたりとやむ。


「……死んだ?」

「そ、そんな。この人、極度の『まぞひすと』さんなんですよぉ? 死んでも死なない系ですのに、まさかそんな、こんなところでぇ……命って儚いですぅ」


 ゴッちんレッグの上で、二人してしばし、黙祷。


「勝手に殺すなッ!?」


 手を使わずに、腹筋と背筋の動きだけで跳ね上がるという器用な力技で旅人が跳ね起きた。

 ビクっと肩を跳ねさせる二人を一瞥し、息を荒げてツッコミを入れると、おぼつかない足取りでゴッちんが踏破してきた道を引き返そうとする。なるほど、一度動きがとまったのも、体力を消耗している所為なのかもしれない。

 だが、それでも行かなければ。旅人の頭がそう叫んだ。


「……まだ行くんですかぁ?」

「当たり前だッ、このまま逃げるなんて、カッコ悪いにもほどがある……!」

「……むしろ今のイグニースさんが一番カッコ悪いですよぅ」


 行かなければ。

 しかし、後ろから聞こえたその言葉に、ぴたりと、イグニースの動きが止まった。


「……なんだって?」

「わからないなら何度でも言いましょうか。イグニースさん、カッコ悪いです。カッコ悪すぎます。バカじゃないんですか、まぞひすとが花開きすぎたんじゃないんですか。あんなの、自殺と変わりませんよ。あの人の勢い見てたでしょう? 周りの人の視線を見たでしょう? 亜人なんて言われたんです、それはもう、勢いで殺しかねないくらいに怒るってものです。あのままじゃ、イグニースさんだって一緒に怒りを向けられて殺されてたかもしれないんですよ?」

「い、言うに事欠いて……ッ。自殺? 殺される? カッコ悪い……? 誰が! 誰があんなのに、あんなことで! どうにかなるわけないだろッ!」

「実際、手も足も出てなかったじゃないですかぁ! それとも何ですか、あそこで物語みたいにピンチになったら覚醒する予定でもあったんですか? それとも都合のいい逆転の秘策でもあって全部円満に解決できるんですかぁ? だったら引き止めてごめんなさぁい、どうぞどうぞご都合主義的にピンチになって見事解決してくださいねぇ!」


 目元が少し潤んでいて、眉尻を下げてつむがれた言葉に、旅人はあろうことか拳を握って近寄る。

 発言の中に含まれていた言葉を受けて、ひそかに隣の少年がばつの悪そうな顔をしていたが、今の二人にはそれは目に入っていなかった。ただ、今にも掴みかかりかねない剣幕でイグニースが叫び返して、泣きそうな顔でマリネも応える。

 ゴッちんという台のおかげで、視線の高さはほぼ同じだ。互いに、真正面でにらみ合った。


「お、おい、今はそれより、さっさと逃げなきゃ……」

『うるさい!!』

「ぴいっ!? ごめんなさい!」


 何故か、外野に怒鳴るときだけは息の合った二人である。


「マリネ、取り消してくれ。俺はあんなやつに負ける気は毛頭無い。こんな騒動でどうにかなりもしないし、カッコ悪くなる気もない」

「いやです、取り消せません。カッコいい時のイグニースさんと比べて、今のあなた、本当にカッコ悪いです」


 いよいよもって強情な彼女の胸倉を、思わずといった様子で旅人は掴んだ。何をやっているんだ、と心の片隅のほうから声がかかるが、無視する。こんなことをやっている場合かとさらに別の方から叱られるが、それも、聞かぬ振りだ。

 苛々する。目の前の少女の言葉のすべてが、自分の神経を逆なでする。

 握った拳に熱を感じた。振り上げる。振りぬきたい。わからずやに、わからせてやりたい。

 が、それより先に行く前に、その動きが、何かの呪縛にでもかかったように止まった。


「……私を助けてくれたとき、イグニースさんは最終的に逃げてるだけでしたけど、それでもとてもカッコいい人でした。まるで御伽噺に出てくる、正義の魔法使いみたいでした。日常でのあなたは、考えがあってそういう生き方をしてるだけですけど、今のイグニースさんはなんだか違います。ほんとのほんとに、カッコ悪いです。一体どうしたんですか。ひどく焦ってるみたいです。らしくないです……イグニースさん、怖い、です……」


 それ以上の彼女の言葉を聞き流そうとしていた旅人の耳が、小さな滴のたれる音を捉えていたのだ。


「……あっ」


 自分が胸倉を掴んでいる少女が泣いていた。

 そしてイグニースは、目の前の少女を、自分が泣かせたこの女の子を、激情に身を任せて殴りかかろうとしている自分に気づいた。


「あ……あ、あっ」


 それを自覚した瞬間、彼の体に震えが走る。頭の中を、全部吹っ飛ばされたような衝撃だった。


 ――俺は何をやっているんだ?


 自分の所為で、小さな体を震わせて泣く女の子を。しかも、自分のことを心配してくれた子を。自分の、みみっちい焦りなんかのために。


 ――俺は何をやっているんだ?


 振り上げた拳を、唐突に重く感じた。軽く、自分が信じられない。

 颯爽と現れて人を助けられるような、御伽噺の魔法使いみたいになりたいとか言っていたのに。実際にやっていることは、魔力切れの状態で無謀な喧嘩に手を出して、負けてるくせに対峙してる相手を格下だと侮り、挙句、自分についてきた女の子を殴ること。


 ――最低じゃないか。あまりにもカッコ悪い。


 拳が下がり、胸倉を掴んでいたのも解ける。手を上げる気力もない。


「……マリネ――」


 ごめん。そう謝ろうとしたのと同じタイミングで、大声があがった。


「おい、後ろ、後ろ見ろ! あ、あいつが来たぁ!」


 少年が、叫びながらゴッちんレッグから飛び降りる。

 言葉につられて後ろを見ると同時に、イグニースの脳天を今度は物理的な衝撃が走った。


「見、つ、け、た、ぜえッ! この屑野郎共ッ! しかも手前(テメエ)に付き合わせた女泣かしてるだァ? やっぱこの帽子野郎から先ににぶっ殺すか……!?」

「おい、おいいっ、助けて、助けろよッ!?」


 足の感覚が消えた。

 さっきまでいなかったはずの人狼と、さっきまで一緒にいたはずの少年の声が遠くに聞こえる。

 ゴッちんの装甲にやられたのか体がいやにボロボロであったが、それでも健在の様子である。

 視界が前へと流れてゆき、地面が近くなる。倒れている。倒れようとしている。頭に上った血が抜けたのか、思考とは正反対に、やけに視界が明瞭で、周囲の動きがスローだ。

 少年たちの声よりも少し近くで、少女が自分を呼ぶ声がした。マリネの声だ。自分か泣かせてしまった女の子の声だ。謝ろうとしたけど、まだ謝れていない。謝らなくては。謝らなくてはいけないのに。

 地面を蹴る音が、邪魔をする。倒れようとするのすら許さないというのか、人狼の少年が、爆発的な踏み込みで一気に近づいて、自分の胸倉を掴んだのだ。

 何かを言っているが、イグニースにとってそれはどうでもよかった。それよりも、謝らなくちゃ。


 そのためには――こいつが、邪魔だ。


 旅人の心に、またしても苛立ちが沸き起こった。


「謝らせてくれ」

「あ? 何言ってんだこいつ。頭打ってイカれたか?」

「イグニースさん……だ、大丈夫です、か?」


 近くから人狼の声。遠くから少女の声。彼女の元に行かなくちゃと、頭の中の片隅から声がかかった。

 その通りだと、イグニースは自分の心から発せられた声に、頷いた。


「あの子に謝りたいんだ。だから、お前は邪魔だ。どいてくれ」

「……は?」

「――どけ」


 旅人は、ただただ無心に拳を振るう。

 腰の捻りも、下半身の踏ん張りも、全身の連動もまるでない、乗った体重はゼロに等しい、腕をすばやく動かしただけの軽い拳だ。

 虚を突かれた人狼の頬にそれは確かに命中したのだが、彼はびくともしていない。

 けれど、旅人にはそんなものはどうでもいい。


「〝跳躍の魔法(ハイジャンプ)〟」


 旅人の拳から、魔法陣が生まれた。

 現在の魔力は、少し逃げ回ったことで、跳躍数回分にまで回復している。それでもなお攻撃魔法は放てないが――


「う、おォオッ、お、お、おッ!?」


 殴りつけた少年の声が、どんどんと遠くへ、吹っ飛んでいった。顔面を基点に、無理やり後方へ〝跳躍〟させられた結果だった。

 〝跳躍〟は人間を軽く数メートル上空へ吹っ飛ばせる魔法だ。飛ぶときの射出点の角度によって吹っ飛ぶ方向も任意に変えられる。そして、殴りつけるのと同時に相手に向けて使えば、攻撃を放った方向に無理やり吹っ飛ばす強制ノックバック魔法と化す。

 常人であればそれだけで、激しく地面にたたきつけられて気絶しかねない攻撃であったのだが。さすがというべきか、彼は吹っ飛ばされながらも姿勢を整え、地面にうまく着地する。


「やりやがったな、いい度胸だ――」


 四肢を土につけ、威嚇する狼の姿勢で睨みつける。

 ぴんぴんしていた。参った、これではマリネに謝りにいけない。また言っている最中にでも殴られそうである。

 睨み返すだけの余裕はない。変わりにイグニースは口を動かした。

 ぐん、と体が前方へ押し出され、人狼の少年へと急加速する。そして彼がやったように、自分も空中で姿勢を変える。ぐるんと一度反転して、足を前に。跳躍からのとび蹴りだ。


「あたるかそんなもん」


 横っ飛びされ、旅人の体が先ほどまで的のあった場所を素通りしてゆく。地面とほぼ平行の跳躍の着地に、ふらつく足元が耐え切れず、何度もバウンドし、転がってさらに前方へ、マリネからさらに距離が空いた。


「〝跳躍の魔法(ハイジャンプ)ッ〟」


 三度目の跳躍は、まるで見当違いの方向への移動だった。

 本来ならば進むべきであった、校舎沿いの道を跳んでゆく。先ほどよりも高く遠く、着地に失敗して、また派手に地面を転げる。それでも、旅人はまだ動いた。もう一度〝跳躍〟を行って、さらに道を進んでい行く。転げ落ちて、立ち上がる。


「逃がすか!」


 その背後から、殺気が一直線に飛び出す。

 転がった先めがけて、同じく跳躍の魔法を使ったのか、一気に加速して人狼が突撃してきたのだ。

 右の拳に、魔力の爪をまとっている。

 空中で体を弓のように引きしぼり、拳は腰の位置に構え、体は半身。跳躍の威力で放たれた高速の一撃。くらえば、いやに頑丈な学院指定のローブがあろうとも、十二分に人を殺しうるであろう一撃だろう。

 焦点の定まらない目つきで、それと同時にイグニースは周囲を見る。

 寮へと行く途中の道。そして、校舎の近くの道。そこは、見覚えのある道だった。

 マリネは気づいていなかったのだろうが、滅茶苦茶に走り回っているうちに、偶然近くにまでいけたのだろう。或いは、かつて通った道に似ていたから、少しでも情報のあるそこに逃げようと考えたのか。

 そこは――学院の医務室を臨める場所だった。医務室から寮へ行く途中にある道だった。

 妙にスローでクリアな視界が、外側から見る、正解の窓を見つける。

 灰色狼の殺撃が、数十センチの手前まで踏破していた。

 ゆるゆると迫る拳を、ふらつく旅人の体は、しかし脱力して姿勢を崩し、紙一重でかわす。

 がくん、と膝が崩れて、彼の体が後ろへ倒れようとしていた。

 その、足を正面に投げ出して倒れた体が……イグニースの足が、カウンターの要領で人狼の腹部にもぐりこんだ。


「ぶち抜け」


 形容しがたい音声がのどを震わし、魔法陣が足にともる。残った魔力のすべてを注ぎ込んで、〝跳躍〟の魔法が放たれる。

 そして、最後にもう一つ。


「――医務室の皆さあああああん! 窓から怪我した生徒一名入りまーす!!」

「えっ」


 残った力のすべてを注ぎ込んだ、全身全霊の叫び声だった。

 人狼の少年は、その声に対する間抜けな反応を残して、己の体を窓に向かって吹っ飛ばしてゆく。行き着く先にある窓が、ガラリと音を立てて開け放たれる。

 彼は詳しくはしらないが、確か、医務室を学生が占拠していて、怪我人とあらば離そうとしない。そこは、そんな状態だったはずだ。決して、そう、怪我人は、己のために、決して。

 イグニースとは違って連続跳躍などできるはずもない彼は、そうしてぎらついた視線の渦中へとすっぽり飛び込んでいった。

 人狼の少年が突っ込んだのだろう、ゴトゴトと音が響いて、ついで異様な気配が部屋から放たれた。絶対に今のあそこには行きたくないと、見ていて思わせられる空気だ。

 ……そして数秒の後に、声が。


「んなッ――な、何だよお前ら!? え、治療? いや絶対違うだろ! 目が! 目が飢えてる! 飢えた獰猛な野獣じゃねェか! オイ馬鹿待てやめろ、オ、オ、俺の傍に近寄るなァァ――ッ!」


 人狼の少年の悲鳴が響く。勝利の凱歌にしては、雰囲気もなにもあったものではないが。それを聞いて、イグニースはいよいよその場に倒れこんだ。

 頭が、意識がぐわんぐわんと揺れていて、正直立っているのも限界だった。

 遠くから、自分が泣かせてしまった少女の呼ぶ声がする。

 謝らなくちゃ。それに、まだ逃げなくちゃいけない。そう思って立ち上がろうとしたが体は動かず、意識もだんだんと遠のいてゆき――



 イグニースが次に気がついたとき、視界には、今朝にも見た天井が写っていた。


「……あれ?」


 自分を包む、申し訳程度の柔らかさを含んだベッドとシーツ。周囲を見渡せば、買ったばかりのタンスにそれを彩る飾り布。部屋の中央には小さな丸テーブルとそれを囲む三つの椅子、それらに座る、見知った三人がいる。

 アステリアとマリネ、それに学院長ことノックス=フルマリー。机を囲んで、仲良く茶を飲んでいた。

 もしここに昨日親しくなった先輩のイアシスがいれば、イグニースがこの街にきて交友をもった全員がそろい踏みしていることになるのだが。

 上半身を起こすと、こちらを向いていたマリネが「あっ」と声を上げる。

 彼女に反応して残る二人からも視線が集中して、とりあえず彼は、状況がわからなかったので一声出してみた。


「……おはよう? いい朝、だね?」


 その瞬間、何故かアステリアが深々とため息をついた。


「え、何その反応」

「今は夕方じゃからの」

「学院長、そうではありません」


 自信満々にもっともであるという顔で放ったノックスのツッコミに、ため息がもう一段重なる。言葉は敬語になっているが、ノリがイグニースに対するそれとかなり似ている。流石に物理的ツッコミはしないのだろうが。


「い、イグニースさぁぁ~ん」


 それを見てやはり、こは何事ぞ、と首をかしげる旅人に、次は目に涙を浮かべた幼女が飛び込んだ。


「おっとと、どうしたんだよ、マリネ……って、()ってえ!? 体が! なんか体がやばい!?」

「あ、あわわわっ、ご、ごめんなさい、つい!」


 どしん、と飛び掛った子を両腕を広げて迎え入れ――た瞬間、彼の全身、頭からつま先までを、鋭も鈍も含んだ様々な激痛が一気に走る。すぐに離れてもらって、痛みそのものからはすぐ解放されたが、何でこんなに体が痛いのだろうと、一瞬だけ疑問に思ったところで、記憶が途切れる前にあった出来事が脳裏をよぎった。

 そうだ、気絶してしまったが、さっきまで起こっていた騒動は。人狼の少年はなんとか退けたが、本命の暴動もどきがまだ残っていし、かばっていた人間の少年がここにはいない。


「あのさ、さっきの騒動は、どうなったんだ!? それに、学院長が何でここに!?」


 気持ちがはやって、体を乗り出す。また激痛が走った。ひい、とあの少年のように情けない悲鳴がのどの奥からこぼれた。


「どうどう、落ち着けイグニース君。君が言っているのは、あの亜人云々が引き金になったやつと思うが、あれなら、たまたま会ったアステリア君に呼ばれたワシが、じきじきに沈静させてやった。解決じゃよ」

「ゥウ……。え、でも、冷静に考えるとアレ、かなり取り返しがつかない状況になってた気が……」

「かか、君も食堂で見たじゃろう? 精神操作はワシの得意魔法の一つでのお。人狼の少年も含めあの場にいた全員から、かるーく、忘れさせてやったわい。……まあ、あの禁句を言ってしまった馬鹿な生徒は、戒めとして記憶をごまかしはせんかったし、いくら意識を摩り替えたところで、暫くの間、周囲の彼に対する敵意は多少残っちまうじゃろうが」

「はあ……」


 あの騒動を、呪文の一つでスッパリ解決。なんともまあ、でたらめで素敵な話である。性格はアレだが、流石は賢者とも称えられる大魔法使いであるということなのだろう。


「それと、ここにまで来てることに関しては、ついでの治療じゃよ。今は痛むがじきに治るじゃろ。泣いてる子供に頼まれたら流石に断れんし、途中アレじゃったが、舵取りはなんとかこなしたことに対するボーナスってとこかの――ま、そんなとこじゃ」


 と、そこまで言ってノックスは立ち上がる。いつから持っていたのか、手に持っていたイグニースの帽子をベッドのふちに引っ掛けて、タンスの影に、先日にも見せた魔法でもぐりこんだ。


「おお、それと一応言っておくが、今回の騒動に関しては他言無用じゃよ? 言っても無駄に面倒なことが起こるだけじゃし、無意味に人の心を逆撫でするだけじゃろうて。誰にとっても、何の益にもならん」

「あ、うん、了解……」

「よろしい」


 イグニースが頷いたのを見るや、彼の全身が影の中に沈んで消える。後には、その言葉が残した感慨以外に何もない。

 とりあえず、何事もなくことが終わったのを理解して、あまり実感はわかないながらもベッドに倒れこむ。


「あっ、大丈夫ですか?」

「いや、問題ないよ。ちょっと痛むけど、大丈夫大丈夫」


 それを不調か何かと勘違いしたのか、うるんだ目をひっさげて近寄るマリネを、いい子いい子とあやすように撫でた。ぐずってはいるが、ギリギリで泣いてはいない様子。ついでに惚れた様子もない。師匠ならばここでポッと頬を染めさせでもするところだったのだが。

 数歩分の距離を置いて、娘でも眺めるような視線を送るアステリアと目が合った。何故か、緩んでいた目つきが鋭くなる。母親から叱られようとしている息子のような気持ちだった。

 視線の圧力から目をそらしてマリネのいい子いい子に集中。そして、気絶する前に言いたかったことを、頭の中に浮かべた。まだ自分は、彼女に謝れてない。


「あのさ、マリネ? 今日は、ごめん。さっきはほんと、軽率だったよ、俺。最低でカッコ悪かった。泣かせて、掴みかかったりもして、本当にごめん」

「ほんとですよぅ、カッコ悪かった、です。最低です」

「……ご、ごめんなさい」


 ずびー。ベッドのシーツで鼻をかまれた。

 彼女にしたことに対する当然の報復と思って流す。こんなことで目くじらをたてるのはカッコよくないし、自分のしたことに対して、それで済むとも思わない。もう一度謝ろうとして、次は手を握られた。

 ……まさか、手で鼻をかまれるのだろうか。

 流石にそれは勘弁願いたいと思いつつ彼女を見ると、自分の手は鼻元には寄せられず、ただただ手を握って、彼女は上目にこちらを見た。


「――だから~、次はカッコいいとこ見せなきゃ、駄目なんですからねぇ……?」


 ぎゅっと、自分の手を握る指の感触が心地よかった。

 自然と彼は頷いて、顔に笑みを作る。


「……うん、頑張る。俺、次は君を泣かせない、カッコいい魔法使いになるよ」


 イグニースの浮かべた力のこもった笑みに、マリネもうっすらと浮かべた笑みで返した。

 かすかに、さわやかな空気が二人の間をそよいでいく。

 ――と、しかしそんな空気がいつまで続くわけもなく、そんな二人を、赤くぎらつく瞳を携えた影が覆ったのは、その直後のことであった。

 不穏な空気を感じたサワヤカな空気がマリネと一緒に自分のもとから逃げていくのを、彼は確かに見た。


「いいところで悪いんだけど、イグニース? マリネを泣かせたっての、詳しく。あと、私がいない間、無茶苦茶したそうじゃない? それについても、ね」

「……あの、それ……今じゃなきゃ、だめ?」


 イグニース、後に述す。

 あれは、悪鬼の目つきであったと。


「駄目よ。鉄は熱いうちに打てって言うじゃない。それに前々から、貴方とは一度話し合うべきだと思ってたの、よッ!」

「いや待って、ほんと待って! 拳ふりかぶらないで! ごめんなさいごめんなさい! だから……オ、オ、俺の傍に近寄るなァァ――ッ!」


 王立リリエント魔法学院の一角にある学生寮の一室から、なんとも元気な悲鳴が上がった。

 それだけならば気にするものは特にいない、この学院のスタンダードな光景である。

 今日もまた、新たなる一日が過ぎてゆく――

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