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浴室の彼女 後編

作者: なも

「墓参」


「多分、ここだな。」

僕は、ある寺の墓苑に来ていた。昨晩、彼女から聞いた住所、和泉町。そのあたり一帯に住む人たちの多くが、この寺の檀家になっていることは知っていた。確証はなかったが、僕はそれでもここに足を運ぶ気になった。彼女の墓を探したかったのだ。寺の墓苑は広大だった。小さな山のほぼ頂上から、裾野まで全てが墓石で埋め尽くされているような広い敷地だった。

「うわ、広ぇ…」

一瞬、立ち止まった足を、ぐっと無理やり押し出すように、僕は一番すそ野にある墓石から順に、家名を確認していった。京本家。ひとつひとつ確認しながら、徐々に山の上に上がっていく。

「あった」

京本家之墓。失礼して横の墓碑を確認する。瑞樹。瑞樹。ない。違うようだ。僕は土足で上がりこんだことを詫びるように、墓石に手を合わせ、次に進んだ。

全ての墓石を確認するのは、かなり時間のかかる作業だった。山の中腹になってもそれらしき墓石は見つからなかった。ここが檀家じゃないのかもしれない。そう思い始めた僕の足取りは徐々に重くなっていた。

もうはや三分の二ほども確認した頃だろうか、多くの林立する墓石から少し離れた感じで、大きな木の下にある墓地に足を踏み入れた。京本家之墓。見つけた、二つ目。僕は期待を込めて横の墓碑を見つめた。そこには4人の戒名が並んでいた。右から順に白いペンキの色が剥げ、読みにくくはあったが、左に行くにしたがってだんだんと白いペンキがはっきりとしてきた。その一番左の名前。まだまっ白なペンキの色が鮮やかなその戒名の下には、「瑞樹 二〇才」そう、はっきりと書かれていた。

僕は、寒気とも感動ともつかない鳥肌を立てて、その墓碑を食い入るように見つめていた。もう、時間は夕暮れ時に近づいていた。僕は、近くの仏具店で買った線香をありったけ取り出して、全てにライターで火をつけた。もうもうとあがる線香の煙にむせ返りながら、僕は全ての線香を束にして墓前に供えた。花なんて気の効いたものを持っていなかった僕は、ただひたすら線香だけを山のように供えて、手を合わせた。墓石も墓碑も、僕の大量の線香の煙の中にあった。線香の煙は、死者の魂を天上へと運び浄化すると聞いたことがある。僕は、彼女のざばりと垂れた乱れ髪を思い浮かべながら、せめてもう少し女の子らしくきれいな髪で天上へと迎えてあげてください。手を合わせながら、僕はそう祈っていた。


もしかすると、今日、墓参りをしたことで彼女が成仏して、出てこなくなるんじゃないかと僕は思った。それは何故かはわからないが、嬉しいと言う感情とは微妙に違った。それを一番に願うべきであるにもかかわらず、僕は何故か彼女にまた来て欲しいと思っていたのである。淋しい?僕は、どうにも孤独な人間だった。

帰って明るいうちに風呂に入り、つまらない弁当で食事を済ませた僕は、うなだれたままコタツに座り込んでいた。今日はもうこないかもしれないな。そうあって欲しいと願っているのか、そうあってほしくないと願っているのか、僕にはよくわからない。ただ、この奇妙な淋しさは、恐らく後者を望んでいるのだろう。どうやら僕は本当に取り殺されたいようだ。バカな考えはよせ。元の生活に戻れるんだから、と僕の正気が僕に囁いたその瞬間、


ちゃぽん


僕は多分待ちわびていた。正直なところそうだったのだ。彼女が来てくれることを待ちわびていたのだ。僕の正気は、呆れ顔で去っていった。しかし、僕は狂気ではない。これが「淋しさ」なのだと、彼女の水音を聞いて初めてはっきりとそう感じた。


彼女は、黄色のパジャマを着てそこに座っていた。いつものようにうずくまってはいたが、心なしかその体に奇妙な軽さを感じた。いつもはしっとりと湿り気を帯び、重たそうに引きずる体が、なぜか今日に限って少し軽い。油を差した人形のように、やや軽さをもって動いている。僕の差し出したコーヒーを、彼女は滑らかな動きで受け取り、一口、二口とすすった。コーヒーを受け取る時、僕はほんのりと線香の香りを感じた。自分に染み付いたものなのか、彼女から匂うものなのか、思わず僕は自分の服の匂いをかいだ。特に匂わない。やはりこれは彼女から匂ってくる。それが、僕が今日供えた線香の香りだと言うことに気付くまで、ほんの少し時間がかかった。

「そうだ、今日、お参りに行ったんだ。」

僕はポンと手をたたいた。彼女は小さく頭をゆすり、何か言葉を吐き出そうとしていた。


  あ  り  が  ・・・


ありがとう、そう言いたいんだと、僕にはすぐに分かった。僕は嬉しかった。彼女に感謝されたこと、彼女の体が少し軽そうに見えたこと、行ってよかったと、素直に思った。

「い、いいんです、気にしないで。そんなこと、気にしないでください。あ、線香、立てすぎちゃいました?いっぱいあった方がいいかなって、、、」

と、ぽりぽりと頭をかく僕の方を、少し頭を傾けて彼女が向いた気がした。いつもうなだれていたその頭が、少し上向きになった。ざばりと垂れた髪の隙間から、青白く薄い唇の影が見えた気がした。

それからの僕は上機嫌だった。初めて仏具店に行って戸惑ったこと、広い墓苑にビックリしたこと、あれも、これも、僕は彼女のためにどんどん話をした。淋しくなんかない。僕は淋しくなんかない。

それからもひとしきり自分のことや、ここ数日にあったことをまくしたて終わった頃、僕はだんだんと彼女のことが知りたくなってきた。これはいけないことなのかもしれない。でも、話せば話すほど、僕は彼女のことが知りたい。生きていた時はどんな人だったのか、何をしていたのか、どんな話をして、どんな生活を送っていたのか。そして、そして何故、死んでしまったのか。何故、ここに来るのか。僕は彼女にどうしてあげればいいのか。。。


「僕はね、多分淋しかったんだ。」

突然僕は、自分でもよくわからないこんな言葉を言った。

「淋しかったんだよ。だから、瑞樹さんがここで話を聞いてくれることって、本当は誰のためでもない、僕自身のためにやっていることなのかもしれないんだ。ごめんね。瑞樹さんをどうにかしてあげるために、こうやってパジャマを買ったり、話をしたりしているんだと、自分に言い聞かせようとしていたのかもしれないんだけど、でも多分違うんだ。僕は、僕自身の淋しさを紛らわそうとしていたのかもしれない。ごめんね。ごめんね。」

そこまで行った時、僕の目には何故か涙がじわりと滲んできた。情けなかった。自分でもやり場のないこの淋しさを、こんな形で紛らわせているのだとしたら、僕は最低なんじゃないかとさえ思えてきた。彼女のためだけを思うのであれば、成仏できるように祈祷することだってできた。他にもいろんな方法があったはずだ。それなのに僕は、僕の淋しさを紛らわすために、こんなことをしている。無性に彼女に申し訳なくて、僕は涙を滲ませていた。


わ  だ  じ  も   ・・・


   さ  み  じ  が  っ  だ  ・・・


僕ははっと顔を上げた。コーヒーのカップを両手で握り締めたまま、彼女は僕を見つめていた。正確には顔面を覆った乱れ髪で、彼女の顔のどのパーツも見えなかったけど、表情のカケラも見ては取れなかったけど、確かに僕にはわかった。彼女が僕を見つめていた。

「君も、瑞樹さんも、淋しかったんだね…。淋しかったんだね…。ありがとう。ありがとうね、瑞樹さん。」

僕は涙で潤んだ目をこすりながら、背もたれにもたれかかった。そしてくすりと笑って言った。

「淋しいもん同士、ってのもイイよね。これでいいのかもしれないね。」

彼女は、小さく小さく頷いた。


それからしばらくの沈黙の後、僕は彼女に踏み込んでみることを決意した。もうここまで心情を吐露したのだ。僕は彼女がそれを認めてくれるような、根拠のない確信と勇気を持っていた。

「ねぇ、瑞樹さん。聞いてもいいかな。もちろん嫌だったら答えなくてもいいんだよ。ただどうか、僕の前から突然消えないで欲しい。こんな質問、しちゃいけないんだってわかってる。答えたくないかもしれない。今はそれならそれでいいから、答えなくていいから、突然消えるのだけはカンベンして欲しい。今の僕には、それは淋しすぎる。」

彼女は、すこし間を置いて、ゆっくりと頷いた。僕は勇気を振り絞って問いかけた。

「瑞樹さん、何故、死んでしまったの?」

彼女の頭がゆっくりとうなだれるのがわかった。彼女を傷つけたかもしれない、僕は後悔でいっぱいになっていた。

「ごめん、やっぱり聞いてはいけなかった。ぼくが無神経すぎた。ごめん、本当にごめんなさい。」

ただ、消えないでと僕は祈りながら謝った。うなだれて動かなくなった彼女を見つめながら、僕は自分を殴りたおしてやりたい気分になっていた。僕はさらに謝罪の言葉を語りかけようとした。その時、


つ   ら   が   っ   だ


低い、低い声で、彼女がつぶやいた。暗い、暗い影をまとって地の底から沸いて出るような、血の滲んだ叫びに僕は聞こえた。僕は息苦しくなって、思わず叫んだ。

「いいんだ!もう、いいんだ!ごめん、ごめんよ!苦しいことを思い出させてしまった。僕が悪い。ごめんよ!もういいんだ!」

僕は、何かが乗り移ったかのように涙をぽろぽろとこぼしながら叫んだ。僕は彼女を傷つけてしまった。苦しませてしまった。何度叫んでも飽き足らなかった。ごめんよ!ごめんよ!そうやって自分の膝を掴んで涙する僕に、彼女は首を横に振って言った。


い  い  の  ・・・


い   じ   め   ら   れ    で   だ   の   ・・・


「いじめ…?」

この言葉が僕の胸に突き刺さった。彼女は、瑞樹さんは、いじめを苦にして自殺したのだ。彼女をそこまで追い込んだものに、僕は無性に腹が立ってきた。何故!何故、こんなことが許されるのか。この世から消え去っていきたくなるほどに、それはどれほどにまで苛烈だったのかと、思えば思うほど無性に涙が出てきた。

「瑞樹さん、ごめんね。つらいこと言わせて、ごめんね。つらかったね。淋しかったね。どんなにか苦しかったことだろ。どんなにか悲しかったことだろ。僕も、高校の頃、いじめられてた。あの孤独を僕はもう二度と体験したくない。だからわかる。どんなにか孤独だったことだろ。瑞樹さん、つらかったね。ごめんよ、思い出させて。ごめんよ、悲しませて。」

僕は悔しかった。何もできない自分が。無用な悲しみを掘り起こしてしまった愚かな自分が。彼女は心の中で封印してきたに違いない。誰にもその悲しみを伝えることなく、生との決別をもってその封印を施したまま、旅立って行ったに違いない。何の助けもできない僕が、その心の傷口に無遠慮に入り込んでしまったことが、悔しくて仕方なかった。ただぽろぽろと涙をこぼし、自分の太ももを殴りながら、僕は彼女に謝り続けた。


い  い  の  ・・・


も  う  い  い  の  ・・・


彼女は、低い声でそう繰り返していた。

「ごめんよ、でも、でも消えないで。どうかまだここにいて。僕は君にひどいことをしてしまったけど、でも、もしも!もしもほんの少しでも、瑞樹さんの淋しさに僕が力になれることがあったら、僕がいることで、なにか少しでも瑞樹さんの心の役に立てることがあるのなら、それが自惚れだとしても、何かしたい。そう思ってはいけないかい?痛みの全てを分かってあげることはできないかもしれないけど、何かできることはないかい?それを探すことしか僕にはできない!」

僕はそう叫んで、思わず彼女に手を伸ばしていた。テーブルに置いたコーヒーカップに添えられた彼女の右手を僕は思わず掴み、握り締めていた。

冷たかった。それは凍えるほどに冷たかった。

彼女は、その瞬間、びくりと体を震わせ手を引いた。左手首の鮮血が宙に舞った。その両手を胸の辺りにわなわなと近づけた直後、


ばしゃっ!


水飛沫と共に、彼女の姿は一瞬にして消えてなくなっていた。僕は心から悔やんだ。何故、あそこで手を握ってしまったのだろう。怯える彼女に、それは最も衝撃的な行動であったはずなのに、僕は何と言うことをしてしまったのだろう!

残されたびしょ濡れのパジャマとコーヒーの跡を、僕はただ呆然と見つめ続けていた。



「孤独」


その翌日から、彼女は現れなくなった。四日、五日経っても、現れることはなかった。僕は、心の底から悔いていた。ほんの少し、気持ちが通ったような気がした矢先、僕は全てをぶち壊しにしてしまった。パジャマとバスタオルを洗濯し、いつもの場所に置いておく。ハブラシも立ててある。しかし、使った形跡はない。彼女が去った後、僕はもう何をどうしたらいいのかわからなくなっていた。孤独だ。幽霊でもいい、もう一度現れて欲しい。淋しい。僕の淋しさは、日を追うごとに増していき、食事も満足に喉を通らなくなってきていた。

数日後、久しぶりにキャンパスに顔を出した。ここのところずっとちゃんと講義を受けていない。研究室にも顔を出していない。僕はふらふらと頼りない足取りで、キャンパス内をうろついていた。会いたい友達なんかいない。もちろん、「久しぶり」なんて声をかけてくれる知り合いもいない。僕は一体なんで?ここに孤独を確認しに来たのか?それでも部屋にいるのは苦しかった。少しでも気分を紛らわすために立ち寄ったキャンパスで、くしくも僕はさらなる孤独を思い知らされたわけだ。

学食の飯を食う。無味乾燥だ。肉が肉に感じない。まるで泥のカタマリだ。ぼそぼそと味のない紙でも食っているような気分で、レタスとキャベツを押し込んだ。今にも吐きそうだった。半分程度も食べることが出来ず、僕は学食を後にした。いつまでもここにいたって何も変わらない。より多くの孤独を感じるだけだ。


「国分!国分じゃないか!」

突然、後ろから声がした。僕はのろのろと振り返ってその声の主を探した。それは研究室の田代助教授だった。僕が唯一会話したことのある先生。別段親しいいわけではない。ただ、人数の少ない僕の研究室だから、顔と名前くらいは覚えてくれていただけだ。

「国分、最近まったく見ないじゃないか。どうしたんだ?それに、オイ、どうしたんだ、えらいやつれちまって!」

そういいながら田代先生は、僕の方にぽんと手を置いた。その手がびくりと反応した。さわれば分かるほどに僕の肩の肉はやつれ落ちてしまっていたのである。田代先生は、怪訝な顔をしながら僕を覗き込んだ。

「おいおい、どうしたんだ…。その顔、睡眠不足か?まるで何かに取り憑かれちまってるような顔だぞ。」

僕は返事をするのもけだるかったが、無言で済ますわけにもいかない。

「ええ、そうなんです。憑かれてるんですよ。」

田代先生はその僕の返事にぎょっとしたようになってあとずさった。どう扱っていいものか、思案に暮れている、そんな顔をしながら田代先生は言った。

「ま、まぁ、よくわからんが、無理もほどほどにしておけよ。たまには研究室にも顔を出してな。」

そういい残して、気味の悪いものでも見たかのように田代先生は足早に去っていった。

ひとしきり孤独を噛み締めた後、僕はキャンパスを後にした。またあの部屋に帰る。孤独の待つあの部屋に。そうだ、またあの本を探そう。まだ行っていない本屋があったはずだ。少し遠いが、かまわない。別段、遅くなってこまることもない。僕は自転車置き場の愛車のキーロックをはずし、ガチャリと乗り出した。ふらふらと、時に蛇行しながら、僕は知る限りの本屋を片っ端からまわった。少し遠くても、気にせず回った。うろうろとあてどなく彷徨うような姿は、まるで宿無しの野良犬のようだった。

途中、立ち寄ったうどん屋で、味気ないかけうどんを一杯、注文し、それも半分くらい残して立ち去った。一番遠くにある本屋まで回りきった頃には、完全に夜の闇が覆いつくし、自転車のライトだけが僕の進む先を照らす航海灯になっていた。結局、目当ての本は最後まで見つけることが出来なかった。僕は実はそんなことはなんとはなしに分かっていた。多分見つからないだろうと知っていた。ただ、また孤独の待つあの部屋に帰りたくなかっただけのことだった。

それからおよそ一時間半もかけた夜十時ごろ、僕は孤独の部屋に帰ってきた。肩を落とし、ギィと重い鉄扉を開ける。真っ暗な玄関に、申し訳程度の明かりをつけた。ベッドの部屋に薄い明かりだけが差し込み、その奥の孤独をより強調した。僕は玄関で立ち止まったまま、少しの間動かなかった。靴を脱ぐのも億劫だ。立ち尽くして大きく息をはいた僕は、それでもそのままにしているわけにもいかず、ぼそぼそと奥の部屋へと進んだ。パチンとリビングの照明をつけた僕の目に、いきなり飛び込んできた黄色。

彼女が、瑞樹さんが、そこに座り込んでいた。いつもよりさらに小さく丸まるように膝を抱え、頭をうなだれて、ざばりと垂れた髪を膝の上にまで覆いかぶせ、座椅子に座っていた。僕が帰ってきたことに気付きもしないように、身じろぎ一つしなかった。僕はあまりの衝撃に、少しの間声が出なかった。

「・・・み、瑞樹さん?」

彼女の頭が少しだけカクリと動いた。ゆっくりと首をかしげるように、右に傾いた。「いてはいけなかったかしら」とでも言いたげな、僕にはそんな愛嬌のある首の傾げ方に見えた。

「瑞樹さん、来て、来てくれたんですね!えと、、、あの、、、こないだは、本当にごめんなさい!急に、急に手を掴んだりして、ごめんなさい!僕はなんて失礼なヤツなんだと、あれからずっと後悔してました。もう来ないかと思ってました。でも来てくれたんですね。よかった。ありがとう。本当にごめんなさい!」

僕は膝をついて頭を下げた。幽霊が部屋にいることが、なんでこんなに無性に嬉しいんだろう?僕の正気は首をかしげていたに違いない。それでも僕は嬉しかった。それまでの鬱屈した暗い孤独から、今、解放された。


僕はいつものようにコーヒーを二ついれ、テーブルに運んだ。一つを瑞樹さんに差し出しながら言った。

「ホントに、もう来ないかと思ってた。怒ってるかと思って。怒ってない?僕を許してくれるかな。」

僕は心配そうにコーヒーを置いた手を引っ込めた。彼女は、ゆっくりとコーヒーに手を伸ばし、一口すすった後、小さく頷いた。僕は安堵した。と同時に、思わず口走っていた。

「じゃあ、何で今まで来てくれなかったの?僕は淋しかった。淋しくてしょうがなかった。成仏したのならそれもいいかなとか、どこか違う浴室に出ているんだろうかとか、いろいろ考えたんだ。何で・・・」とそこまで言った時、僕の口調が彼女を責めるようにだんだんと荒くなってきていることに、はっと気付いた。

「・・・いや、ごめん。ごめんね。僕が悪かったんだ。瑞樹さんは悪くない。謝るのは僕の方なんだ。ごめん。」

そのあと、しばらく沈黙が続いた。怒っているのか、呆れているのか、と僕は少し心配になったが、どうもそうでもないようだ。良くはわからないが、ほんのり嬉しそうな空気が流れてくるような気がしていた。僕も、彼女も、今、何故か安心しているのだ。理由はわからない。でも、僕にはそう感じられた。


沈黙を破るように、僕はいつものように話しかけた。

「今日さ、また本を探して随分遠くの書店まで足を延ばしたんだ。けど、やっぱりなかったよ。マイナーな本だからね。ないよなって、思ってはいたんだけど、やっぱりなかったよ。おかげで太ももはぱんぱんさ。運動不足だよね。」

そうやって他愛もない話を始めると、僕はまた止まらなくなってきた。ここ十日間であったこと、考えたこと、淋しかったこと、孤独だったこと、ご飯が美味しくなかったこと、彼女を傷つけないように、少し面白おかしく脚色して、僕はしゃべり続けた。今までの孤独の鬱憤を晴らすように。彼女は黙ってそれを聞いていた。無視ではない。時々小さくかしげる首が、僕の話を聞いてくれていると言う実感をもたらした。僕は嬉しかった。

僕が自分の二杯目のコーヒーを入れたとき、彼女のカップにはまだ半分以上のコーヒーが残っていた。僕は、何気なく聞いた。

「瑞樹さん、コーヒーばかりでごめんね。他に何か好きな飲物とか、ないのかな。今、うちには何もないけど、、、もし好きなものがあるなら買っとくからさ。教えてよ。」

彼女は、ゆっくりとぎこちなく首をかしげた。何か考えているようでもあり、答えがわからないようでもあり、僕は少しじれったくなって聞いた。

「えと、、、例えば、紅茶とか。レモンティー、ミルクティー、ジャスミンティー、シナモンティー、アップルティーなんてのもあったかな。」

彼女は無言だった。どうもこのあたりにはヒットしないようだ。

「あと、何があるんだろう。コーヒー、紅茶、ちょっと年寄りくさいけど、日本茶。あとは、、、ココア。」

彼女の頭がぴくんと動いた。

「ココア、ココアが好きなんだ。そうだね?」

彼女はゆっくりと頷いた。なにか恥ずかしそうな空気を発しながら。

「わかった。じゃ、買っとくよ。だからさ、明日も来てよ。ね、いいでしょ?」


僕は、来店の確約を取り付けた喫茶店のマスターのような気分で、近くのスーパーにいた。真っすぐに飲料のコーナーに向かう。

「ココア、ココア。」

心なしかうきうきと弾むようにつぶやきながら、棚をあさった。いろんなメーカーのココアがあったが、僕はできればこれにしようと決めていたココアがあった。普通のスーパーにはないかもな。そう思いながら、棚を順にくまなく眺めた。やっぱりそれはなかった。モリサカ、メイシ、国内の有名メーカーのものだけが大量においてある。

「やっぱり、ないか」

僕は、少し足を伸ばしていつもの大型ショッピングモールの食品売り場にいってみた。品揃えはずっと多いはずだ。多分ある。風を切り、息せき切って僕は自転車をこいだ。



彼女は今日はピンク。来てくれるのを心待ちにしていた。いつものようにずるずると座椅子に座り膝を抱えた彼女に、僕は、恋人に誕生日プレゼントを渡す前のような面持ちでにやけていた。

「いらっしゃい。よかった、来てくれて。これで来てくれなかったら、どうしようかと思っていたよ。」

と軽口を叩きながら僕はいそいそと立ち上がった。

「ちょっと、待っててね。すぐだから。」

僕はキッチンに向かい、お湯ではなく雪平鍋に牛乳を沸かし始めた。今日、やっと探し当てたお目当ての戦利品を開封する。二つのカップに三杯ずつ、少し多目がいい。ぶくぶくと沸いた牛乳を注ぎ、手早くかき混ぜる。我ながら上出来だ。

僕は二つのカップと、その戦利品を手にテーブルに戻った。

「どうぞ。リクエストのココア。どう?見てよ。コレ、Hershey'sのココアなんだ。これ絶対に美味しいから、特に牛乳で入れると凄くまろやかで美味しいんだ。飲んでみてよ。ココア好きなら絶対にうなるって。かっこよく言っちゃうと、ホットチョコレート、ってヤツ?」

僕は自慢げにカップを差し出して、Hershey'sのパッケージを見せた。彼女は、ゆっくりとカップを引き寄せ、両手で包むようにカップを口の辺りに近づけた。左手首からまたどろりと鮮血が滴った。僕は、その反応を見るために、覗き込むようにして彼女の方を見た。彼女はそれに気付いたのか、少し顔を背けるようにして、一口、すすった。


お  い  じ  い  ・・・


よしっ、と僕は笑顔になった。そして自分のカップを手に取り、ずずっとその白茶色の泡が立つココアをすすった。美味い。やっぱり正解だった。僕の「美味い」と彼女の「おいしい」、二つ揃って僕の精一杯のもてなしは完成だ。僕は心躍る気持ちで、またあれこれと、他愛もない話をしゃべり始めた。


それから彼女はいつもココアだった。コーヒーは半分しか飲まなかったが、ココアはいつも全部飲んで帰っていった。彼女が消えた後には、いつも湿った座椅子とびしょ濡れのパジャマ、そしてカップ一杯分のココアの染み。それを洗って干す、それが僕の日課になっていた。今日はとてもいい天気だ。柔軟材もたっぷり入れた。パジャマも、バスタオルも、ふかふかに仕上がることだろう。



「ベッド」


彼女の訪問を待ちわびる日々は、続いた。最初に彼女が浴室に訪れた晩秋からもう二ヵ月近くが経とうとしていた。僕は正月、実家に帰ることもせず、部屋にいた。彼女を待つためだ。毎日彼女は現れたが、大晦日の晩だけは現れなかった。僕は、待ちわびながら一人淋しく紅白歌合戦を見た。除夜の鐘が鳴り終わっても彼女は現れず、あきらめてベッドにもぐりこんだ。

それでも元日の夜には、彼女は現れた。昨晩来なかったことを、僕は咎めなかった。だって、彼女にも実家があるだろう?そっちに帰ったのかもしれない。僕は、まるで普通の女の子と接しているかのように、そう考えて納得した。

「あけましておめでとう」

これほど、幽霊に対して不似合いな言葉もないような気がしたが、それでも僕は彼女を普通の女の子として扱ってあげたかった。僕は、一人用の質素なおせち料理を注文し、テーブルに並べた。日本酒も少しだけ買ってきた。なるべく、ちゃんとお正月の雰囲気を出したかった。彼女は、いつものようにずりずりと滑り込むように座り込んで膝を抱えた。

「えと、、、そういや食べ物って、食べれるんだっけ?…」

彼女は少し間を置いて、首を左右にゆっくり振った。

「そ、そりゃそうか。そうだよね。ごめん、こんなものを準備して。僕だけが食べることになっちゃうね。ごめん。」

いつものように「いいの」と彼女は首を振って、じっと座っていた。

「じゃ、じゃあ、お酒は?二十歳だからもう大丈夫だよね?飲めたり、、、する?日本酒なんだけど、おとそだからちょっとだけ、飲もうかと思って…」

彼女は、じっと黙っていたが、少し考えた後、ゆっくりと右手を前に伸ばした。

「そう、飲んでみる?じゃ、温めてくるね。」

そういって僕は、ほんの二合ばかり入ったカップの日本酒をお湯で温めにキッチンに立ち上がった。お猪口なんて気の効いたものはないけど、小さな背の低いワイングラスがあった。これで代用しよう。熱くなりすぎない程度に温めた日本酒と、グラスを二つ持って、ぼくはテーブルに戻った。

「じゃ、これ。ちょっとだから。試してみても、、、大丈夫かな。どうぞ。」

僕は無粋なカップ酒を、小さなワイングラスに少しだけ注いだ。本当にこんなことをしていいのか、何だか僕の感覚は麻痺してしまっていた。コレじゃ、普通の人みたいじゃないか。いや、それでいいんだ。その方がいいんだ。

「えと、、、じゃ、あけましておめでとう。」

僕は自分のグラスを、テーブルに置かれた彼女のグラスにチン、と軽く当ててそのグラスを一気に空けた。

「ぷはぁ~!たまには日本酒も効くなぁ~!」

僕は大げさにおめでたい雰囲気を出した。彼女は、まだグラスに手を伸ばさない。少し間をおいて、恐る恐る右手をあげてグラスを持った。僕は、見ていないふりをしながら、カップのお酒をもう一杯自分のグラスに注いだ。彼女は、ゆっくりとそれを口元に運び、小さく傾けた。ほんの雀の一口のように少しだけ。それでも、むせたり咳き込んだりといったことはなかった。おかしいことに、彼女は、そのあと二口目を一気に口の中に流し込むように大きくグラスを傾けたのである。

「あはは、瑞樹さん、結構いい飲みっぷりじゃん。でも、大丈夫?本当に?」

僕は少し心配になって彼女の顔を、正確には髪に覆われた、その正に髪で見えない向こう側を想像しつつ、覗き込んだ。彼女は、


あ  あ  あ   ・・・


と呻きとも、ため息ともつかない幽鬼のような声を吐きながらグラスをゆっくりとテーブルに近づけた。そのままテーブルに置くものと思った僕は、自分のグラスを手にしようとしてぎょっとした。彼女が、僕にグラスを差し出しているのである。どういうことだ?もっと欲しいってことなのか?僕はなんだか可笑しくて笑いそうになった。そんな僕を見てか、彼女は申し訳なさそうに、そして少し気恥ずかしそうにグラスを引っ込め、テーブルに置こうとした。

「ま、待って。大丈夫。瑞樹さんが大丈夫なのなら、いいんだ。遠慮しなくたっていいんだよ。どうぞ。さあ、どうぞ。」

僕はカップ酒を彼女の前に突き出した。彼女は、心なしか嬉しそうに、またグラスを手にした。


僕たちは二人でちょうど二合のお酒を飲みきった。僕が7割、彼女が3割くらいだったろうか。アルコールもいけるんだ。少し酔いの回った不思議な感覚で、僕は彼女を見ていた。彼女の外見には全く変化はなかった。ただ、ほんの少し左手首の出血が多くなったように感じられた。

「大丈夫?」

彼女は、ゆっくりと頷いた。

「なんだか少し気分が良くなってきちゃったな。こんな淋しくない正月は初めてだ。瑞樹さんのおかげだよ。瑞樹さんがいると淋しくない。ありがとう。」

酔いも少し手伝ってか、僕は少し大胆に感謝の言葉を述べた。

彼女は少し「フフフ」と笑った気がした。



僕は、三たび、例の寝具売り場にいた。パジャマをもう一枚買うためだ。もう怖気づいていない。堂々と女物のコーナーに入り、吊られたパジャマを一枚一枚めくった。今回は少し趣の違うものが欲しかった。順にパジャマをめくり、その次に前回は手を伸ばさなかったネグリジェのコーナーに進んだ。少し大人びた雰囲気のある、レースのついた色とりどりのネグリジェがたくさんかかっていた。僕はその中から、ピンク色で、でも派手じゃない、もちろん透けてなんかいない上品な一枚を選んだ。それは今まで着ていたパジャマよりも少しオトナを感じさせるデザインではあったが、決して下品ではなかった。僕はこれに決めた。颯爽とそれを持ちレジに向かう。また同じ店員だったが、僕はもう慣れっこだった。同じようなやりとりをした後、僕は少し自慢げにその場を立ち去った。

部屋に帰った僕は、すぐに浴室に向かった。黄色とピンクのパジャマは綺麗にたたんで置いてある。僕はそれをどけて、さっき買ったばかりのネグリジェの値札をはずし、丁寧にたたみなおした後、それだけを浴室において、周りの品々を整えた後、黄色とピンクのパジャマを箪笥に片付けた。僕は、明るいうちに風呂に入りながら、なんだか少し意地悪小僧にでもなったかのようにほくそ笑んだ。くすつ。

その晩、いつものように彼女は現れた。


 ちゃぽん


水音が何回か繰り返された後、ざーと大きな音がして、ギシギシと浴室を移動する音がする。音が止んだ。奇妙な沈黙の時間。彼女は出てこない。沈黙は続く。いなくなったのかと思うくらい長い沈黙が続いた後、


 がた  がた  がた


彼女は浴室から出てきたようだ。しかしそこから動く気配がない。ぼくはじっと待っていた。振り向きたかったが、そこはじっと我慢した。あきらめたように彼女は、ぺちゃっと音を立てながら僕の横に近づいてきた。彼女は僕の横に立ったまま、また動かなくなってしまった。僕は、たまらず、くすつと笑いながら、

「どう?新しいパジャマ。似合うと思うんだけどな。」

彼女は少しギクシャクとした感じで座椅子に近づき、まるで拗ねた子どものようにどすんと勢いよく座り込んだ。恥ずかしそうに膝を抱えて丸まっている。濡れた乱れ髪がざばりと膝に覆いかぶさる。僕は、ちょっと取り繕うように言った。

「ごめん、嫌だったかな。僕は凄く似合うと思うんだけど。可愛いんじゃないかな、それ。…ダメ、かな…」

彼女は、小さく小刻みに首を「ううん」という風に横に振って、それでもとても恥ずかしそうにさらに強く膝を抱えて丸くなってしまった。

「ごめん、ちょっと意地悪をしちゃったかな。でも瑞樹さんももう二十歳の女の子なんだから、ネグリジェとかでもいいかなと思って。大丈夫。似合ってるよ。悪くない、いや、すごくいいと思う、うん。大丈夫。」

そう言って僕は彼女をなだめるように頷いた。


彼女がくすつと笑った気がした。



次の日はちゃんと普通のパジャマに戻しておいた。もちろん洗濯が乾いていないというのが理由ではあるけど、ちょっとヘンないたずらをしてしまった自分も少し反省していた。でも、間違いなく彼女は怒ってはいなかった。僕にはそれがわかるようになっていた。僕は、今日、もう一つ違う意味で勇気を出してみようと思っている。淋しい僕の生活は、突然現れた見るもおぞましい幽霊の出現で大きく変化した。幽霊のおかげで淋しくなくなるなんて、誰が想像できただろう。他では絶対にできない経験だ。僕はむしろ誇らしげに、女性用のネグリジェを洗濯していた。僕のパジャマと一緒にぐるんぐるんと回る洗濯物を見ていると、不思議な気持ちに捕らわれた。幽霊との同居、ありえないその状況は、それでも僕の気持ちをやわらかくほぐし始めていた。ほぐれ、もつれる僕のパジャマと彼女のネグリジェ、僕はそれを見ながら大きく息を吸い込んで、はぁーっと明るく吐き出した。


その晩、彼女はいつものように水音を響かせて現れた。その音を聞いた僕は、コタツから立ち上がり、僕のベッドに腰をかけた。左に少しスペースを空けて。彼女はいつものように出てきた。元のパジャマに戻っていることに安心したのか、少し早めに出てきた彼女は、ぺちゃっと音を立てて一歩踏み出した。が、そこでいつものコタツに僕の背中がないことに気付いたのだろう。部屋にいないのかと思ったかもしれない。少し立ち止まった後、彼女はまたぺちゃっと歩みを進めた。廊下から出てコタツの前に来た時、僕は声をかけた。

「やあ、いらっしゃい。」

彼女は、ぴくっとなって立ち止まった。ゆっくり軋むようにカクカクと首を曲げてベッドにいる僕の方を見た。何故そこにいるの、と問いたげな仕草だった。僕は勇気を出して声をかけた。

「瑞樹さん、どう?こっちにこない?」

僕はベッドの少し空けた左側を軽くぽんぽんと叩いた。彼女はじっとそこに立っていた。僕は横に座ってくれることに賭けてみたのだ。躊躇しているのか、悩んでいるのか、嫌がっているのか、僕には分からなかったが、怒っているようには見えなかった。彼女は少し首をかしげた後、またゆっくりと歩を進め、いつもの座椅子にずるずると座り込むようにしながら、すうと消えていった。僕は、頭を抱えた。しまったなぁ、余計なことをした。後悔の念が頭をぐるぐると回った。


翌日の晩、僕は素直にコタツに座っていた。いつものように彼女は現れたが、時間はいつもより二時間も遅かった。がた、と浴室を出た後の彼女は、不思議と何かを考え込むように立ち尽くしていた。コタツに僕の背中を見つけて、何か戸惑っているかのようであった。しばらくの間、そうやって立ち尽くした後、彼女は僕の後ろにやってきた。そしていつもなら僕の左側を通過して座椅子に座り込む、はずなのだが今日は何故か僕の真後ろに立ち止まった。またそうやって少しの時間がたった後、彼女はおもむろにベッドの方に近づいていった。ベッドの前に立ち止まった彼女は、昨日僕がぽんぽんと叩いた空白の場所をじっと食い入るように見つめていた。そこに何かを求めるように、少し自分を悔やむように、じっとそこを見つめたあと、彼女はゆっくりと振り返り、再び僕の後ろを通り過ぎて、いつもの座椅子にずりずりと座り込んで膝を抱えた。何故だか少し寂しそうに見えた。

僕はいつものように温かいココアを作り、彼女に差し出した後、他愛もない話をまた繰り返し、繰り返し話していた。その間、彼女は何故か少し哀しそうな空気を滲ませていた。


彼女はもしかして、ベッドに座りたかったのではないか?そんな不遜な想像がぼくの頭を駆け巡っていた。洗濯物のごうごうと鳴く音をBGMに、僕はベッドに座り込んでいた。最初にベッドに誘った時は、彼女は驚いたに違いない。驚きを隠せず、彼女は消えてしまった。そして次の日、遅くに現れた彼女は、何かを決意していたのではないか?ベッドに呼ぶ僕に、応えようとしていたのではないか?彼女は彼女なりに勇気を出して、決意し現れたはずだ。そしてコタツにいる僕を見て、その想いが砕かれたことを悟ったのではないか。僕は、ずっとそんな自分勝手な妄想を繰り広げながら、ベッドにもぐりこんでいた。ベッドの空白をじっと見ていた彼女の寂しそうな後ろ姿が焼きついて離れない。彼女がどう考えていたかはわからない。ただ、僕はやっぱり僕の思うように、勇気を出してみるしかない、そんな気にようやくなれた頃、陽は既に暮れかかって、斜めの光を僕の部屋に差し込ませていた。


僕はもう一度勇気を出してみることにした。いつもの時間、彼女の水音がする時間。僕は早々にベッドに腰掛け、シーツを綺麗に直していた。左には少し大きめの空白を開け、少し離れてでも座れるように空間を空けた。彼女が、がた、と浴室を出る音がした。彼女はまたそこで少しの間立ちすくんでいた。近づく音がしない。僕にとって十分過ぎるほどの長い沈黙の後、ようやく彼女が一歩踏み出した音が聞こえた。彼女が近づいてくる。廊下から姿を現した、やや猫背の彼女は、またそこで立ち止まり、ゆっくりとベッドにいる僕のほうに首を向けた。もう、そこにいることが分かっているかのように。僕は、もう一度勇気を振り絞って声をかけた。

「瑞樹さん、こないだはごめんよ。急でビックリしたよね。ごめん。でも、僕は瑞樹さんと近づきたかったんだ。できれば、できればでいい。もし、嫌じゃなかったら、ここに来て一緒に座ってくれないかな。無理ならいいんだ。嫌ならいい。無理しなくったっていい。僕の自分勝手だって、よくわかってる。だから、瑞樹さんがそれに無理をして付き合う必要はないよ。ただ、できれば、隣で話をしたいって、ただそう思っただけなんだ。ごめん。勝手なことばかり言って。」

彼女は、うつむいた首だけをこちらに向けた不自然な格好で、じっとそこに立っていた。僕はじっと待った。僕の大きな呼吸が何度か繰り返され、心臓が少し早くなってきた頃、彼女はぺちゃっと足を踏み出した。それは座椅子の方ではない、僕のいるベッドに向かっていた。僕の心臓は急に早鐘を打ち始めた。本当に来た。僕の隣に座ろうとしている。僕は狼狽をぐっと抑えるように、太ももの上の握りこぶしを強く握り締めた。彼女はゆっくりとベッドに近づき、僕の斜め前にうなだれた首をゆらゆらと左右に揺らしながら立っていた。ゆっくりと、ゆっくりと、体を半回転させるようにして彼女はベッドに背を向けた。途中、ポタポタと左手首から血が滴った。ぎしぎしと軋む音が聞こえるように彼女はゆっくりと中腰になり、ベッドに体を預けた。僕の左側が少し沈む。彼女が座ったことを、その傾きの中で実感した僕の心臓は、もう飛び出てしまいそうなくらい早く打ち鳴らされていた。

僕の左腕と、彼女の右腕の間は十数センチ。僕は、ひんやりとした空気が左の二の腕あたりを通り過ぎていくような気がした。ざばりと垂れた濡れた乱れ髪が、いつもより近くにあった。髪は横にも垂れていて、その隙間からは顔は全く見えなかった。ただ、小刻みに震える右手だけが、彼女の緊張を表していた。

「あ、ありがとう。ありがとう。座ってくれてありがとう。座ってくれたんだね。ゆ、勇気、いったよね。ごめんね、無理言って。でも僕は嬉しいよ。瑞樹さんがこんなに近くにいてくれる。淋しくなんかない。怖くなんかない。だから、ありがとう。」

彼女は無言で、しかし確実に少しだけ小さくうなずいた。僕は大きく深呼吸をして、心臓のスピードを落とすよう心がけた。僕が誘ったんだ。僕がうろたえていちゃダメだ。心の中で自分にビンタを食らわせて、また一つ大きな深呼吸をした。三度目の深呼吸で、僕の緊張はすぅと薄らいでいった。そうするとまた言葉を発することが出来る。会話をすることが出来る。もっと落ち着け、落ち着け。そうだ、ブレイクだ。

「ココア、飲むよね。今、入れるね。」

僕は、彼女を刺激しないようにゆっくりと立ち上がって、キッチンでいつものココアを準備した。キッチンからみたベッドの彼女はいつも見る右側からの彼女ではなく、左側からの彼女だった。頭は大きくうなだれ、髪がざばりと垂れているので顔の表情はあいかわらず見て取れない。ただ、左袖の赤い染みがより鮮明に見えた。彼女はそれを隠したいのに違いない。そう思った僕は、彼女を見つめるのをやめた。

いつものココアを持って、彼女の前に立った。テーブルに置けないからカップはずっと持っておかなくてはいけない。熱すぎない程度にいつもより少しぬるめに温めた牛乳でココアを作った。僕はカップを彼女に差し出した。彼女はそうっと手を伸ばし、それを受け取った。僕は、しっかりと彼女がカップを持ったことを確認して、ゆっくりと自分の場所に戻り、腰掛けた。ほんの心持ち彼女に近づくように、ほんの、ほんの心持ち左にずれながら。彼女との距離は数センチに縮まった。僕は、ココアを少し多めにごくっと飲むと、はぁと大きく息をついた。そして、できるだけいつものように、やわらかく、明るく声を出した。

「あぁ、よかったあ。瑞樹さんが座ってくれて。こないだビックリさせちゃったんで、もう無理かと思ってたよ。僕のために無理をさせました。ごめんなさい。」

僕はペコリと頭を下げた。それからは、またいつものように他愛もない話を、できるだけコミカルに話したと思うが、何を話したか当の僕は全く覚えていなかった。


「話す相手がいるっていいよね。淋しくない。僕には瑞樹さんという相手がいる。こんなに嬉しいことはないよ。前にも言ったけど、僕は高校時代、随分といじめられてきた。ほら、この左腕の丸いヤケド跡、そうそう、根性焼きってヤツ?よくやられたもんでね、いやだったなあ。あの高校生活。もう思い出したくもないよ。それからかな、僕は人が怖くなった。正確に言うと人を信じるのが怖くなった。だから大学に入った今も、こうやって友達の一人もいない。情けないヤツさ。逃げて、逃げて、逃げて生きているんだ。」

ここまで話して、僕はまたはっとタブーに触れてしまったのではないかと、彼女の方を振り返った。彼女は小刻みに震えていた。

「消えないで!ごめん、また僕が悪かった。気遣いってモンがたりないよね、僕は!ダメだ!ダメだ!」

そう言って僕は自分の頬に張り手をした。

「ごめん。つらかったね。でも、今は大丈夫。何も起こりゃしない。瑞樹さんをいじめる人なんて、ここにはいない。僕がいる。大丈夫。震えないで。」

僕は、そっと左手をずらして、彼女の横に置いた。そして、ゆっくりと、ゆっくりと、かぶせるように彼女の右手の甲に、僕の左手のひらを軽く重ねた。彼女は、ほんの少しぴくりとしたが、それ以上の反応はなかった。僕は軽く重ねた手のひらに少しだけ力をいれ、彼女の右手をやわらかく握った。冷たかった。氷のように冷たい手だった。

「僕がいる。大丈夫。」

僕は繰り返して、彼女の手を温めるようにやわらかく握り続けた。

彼女のパジャマの上に、ぽたりとひとしずくの水が落ちた、それは濡れた髪から滴った水滴なのか、それとも彼女の心があふれたものなのか、僕には分からなかった。ただ、彼女は握った僕の手を振り払うことはしなかった。


それから、僕と彼女の定位置はコタツの座椅子から、ベッドへと移った。何度か座るうちに、彼女も自然とそこに座るようになった。手が触れることも時々あった。そんな時は、あまりにも冷たい彼女の手を、無性に温めたくなる僕だった。僕が淋しくなると、時々彼女の手を握った。彼女が淋しそうにすると、時々彼女の手を握った。僕は自然と彼女に触れることが出来るようになり、といってもまだ右手だけだけど、時には会話も弾んだ。もちろん、僕の一方的なおしゃべりではあるのだけど。それでも彼女の反応は、日に日に目に見えてはっきりと分かるようになってきていた。前よりもずっと早いタイミングで反応も返ってくるようになっていた。以前は動かすたびにコキコキと音がするような軋んだ動きだったけど、今は随分と滑らかに動くようになったような気がする。ひいき目といえばそうなのかもしれないが、僕はそれで十分満足だった。ある日などは、彼女の手の上に僕の手を重ねて話をしている時、僕は思わずいつも通う本屋の店員さんが綺麗でね、と話してしまった。その途端、彼女は僕の手を振り払って、ぺし、と僕の手を打ったのだ。まるで、拗ねてでもいるかのように、うつむいた頭を向こう側に向けてしまった。その仕草があまりにも可愛らしく、心の中に奇妙な愛おしさが沸いてくる感覚を、僕はぐっと抑えた。


そう、もしかすると、

もしかすると僕は、


彼女に、恋をしてしまっているのかもしれなかった。



「恋」



一度、その思いに取り付かれてしまうと、もうどうにも離れなくなってしまう。恋とはそういうものだ。見た目、どうしようもなく不気味な彼女。ざばりと垂れた濡れた乱れ髪、誰が見ても逃げ出しそうな出で立ち、奇妙に違和感を感じる動き、青白い肌、地の底から湧き出るような声、どれをとってもホラー映画でしかない彼女が、今の僕にとってはかけがえのない存在なのだ。今、彼女を失いたくない。消えてしまって欲しくない。成仏?させてあげればいいのはわかってる。でも、今はいやだ。もうあんな淋しいのはいやだ。

そうなると、自然と湧き出てくる想い。彼女は僕をどう思っているのか?恋をしたら必ず生まれる感情。相手の気持ちを確かめたい。僕と一緒に淋しさを共有してくれると信じたい。僕は彼女の気持ちを知りたくて仕方なくなっていた。迷いはあった。伝えてしまった後の、あの苦々しい空気。

中学の時、一度だけ好きになった子に「好きなんだ」と伝えた時のあの重苦しい空気は今でも忘れられない。「えっ、あなたが私を?」と言わんばかりの、あのいたたまれない空気。「あ、そう」とだけその子は答えて、すいと僕の横をすり抜けていった。小さな声で「やめてよね」そうつぶやきながら、足早に去っていった。僕はその時の情けない気持ちを思い出して、迷いに迷っていた。僕には苦い思い出が多すぎる。全てがそのネガティヴなパターンに飲み込まれていく。言えない。絶対に言えない。でも苦しい。自分の気持ちが分かってしまった以上、これはもう放っては置けない重大事になってしまったのだ。彼女に伝えたい。伝えられない。頭の中を同じ言葉がぐるぐると回り、飛び乱れ、意識の壁にぶち当たって粉々に砕ける。その破片から新たに同じ言葉が生まれ、またそこら中を飛び跳ね回る。僕は大きく息を吐いて頭を思い切り掻き毟った。恋は、生まれてしまった以上、叶えるか、強制的に消去する(もしくはさせる)かの二択しかない。自然と消滅するのを待つには、時間がかかりすぎる。僕は、このうずきを抱えたまま、また今日も普通に彼女と会うことが、苦痛に感じ始めていた。伝えたい。伝えたい。伝えたい。


伝えよう


いいじゃないか、好きなら好きで。好きと言う言葉は最高じゃないか。何を臆することがある。伝えてしまえ。突然に僕は、その神経が数本プツンと切れてしまったように、力いっぱい立ち上がった。そう決断してしまってからは、奇妙な勇気と奮起が僕を支配し始めていた。抱えては置けない。今夜、伝えよう。僕は、そう心に決めた。


運命の晩はなかなかやってこなかった。普通なら簡単に過ぎていく時間が、今日に限ってやたらとのろい。まだこんな時間かと思うたびに、やっぱりやめようか、いや言おうか、この葛藤を何十回となく繰り返して、また時計を見る。よし言おう!そうして、時間がたつのをじっと待ちながら、再び同じ葛藤を繰り返す。僕が頭を掻き毟って耐え切れず、

「うわぁぁぁぁ!」

と叫んだ瞬間、目の前に彼女が立っていた。表情は見えないが、とても驚いたようにそこに立ち尽くし、僕の方をじっと見ていた。あまりに考えがぐるぐると回りすぎて、彼女が現れた兆候や音を、完全に聞き逃していたようだ。彼女はどうしていいかわからないようだった。呆然と立ち尽くしたまま、うつむいた頭をこっちに向けて立っている。

「ご、ごめん。き、気付かなかった。そんなに驚かないで、な、なんでもないから、さ。」

そう取り繕って僕はベッドに座る。彼女は少し安心したように、ゆっくりと僕の左側に腰をかけた。僕は胸に手を当てて丸くまわすように胸をさすった。落ち着け。落ち着け。そう、心の中で唱えながら、さすり続けた。彼女はうつむいたまま、かすかにこちらに顔を向けていたが、しばらくすると、ふと何かを悟ったように正面に向き直った。僕は大きく深呼吸をして、胸をどんと叩いた。そして胸のTシャツを一度ぐしゃっと鷲掴みにして、また大きく息を吐いた。そのあと、ふむ!と小さく息を吐いて、僕は彼女のほうに向き直った。

「えと、、、み、瑞樹さん。実は、、、」

どくどくどくっと心臓が一瞬にしてMAXスピードまで駆け上がった。そのあとは、あうあう、とあごを動かすだけで、僕は何もしゃべれなかった。もう一度胸を掻き毟る。はぁと大きく息を吐く。ごくりとつばを飲む。また大きく息を吐く。

「え、、、じ、実は、、、僕、僕は、、、」

彼女がゆっくりとこちらに顔を向けた。ほんの少しだが、肩を動かし体全体を斜めに僕のほうに向けた気がした。僕の心臓は、もうあと数分も持ちそうにない。アドレナリンが急激に噴出し、目の前がくらくらしてきた。今にも気を失ってしまいそうな状態で、僕はだらだらと冷や汗をかいていた。脇の下をつつーと冷たい汗が流れる。僕は、ぐっと握りこぶしに力を入れた。手に汗を握るとは正にこの状態だ。ごくりとつばを飲み、次の言葉を搾り出そうともがいている僕は、まるで滑稽だった。

「あ、、、」

と言ったきり、詰まってしまった僕。


その時だ。彼女の右腕が静かに動いた。ゆっくりと、なめらかに、静かに、その手は僕の方に近づき、握り締めた僕の左拳の上に、そっと置かれたのである。熱く汗をかいた僕の左手を冷やすかのように、彼女の冷たい右手が重なった。そして彼女は、優しく僕の左拳を包むように覆いかぶせた。

僕はその冷たさに、一気に喉のつかえが通り過ぎ、硬くなっていた体が急にほぐれた感覚になった。今しかない!

「み、瑞樹さん、僕、僕は、実は、君に、瑞樹さんに、恋をしてしまったようなんです!」

言い終わった後、心臓は口からそのまま飛び出てしまうのではないかと思った。はあはあと荒い息をし、だらだらと冷や汗をかく僕は、はたから見たらなんとみっともない男だったろう。情けない男に見えただろう。それでも僕は伝えた。言い切った。大きく息を吐いた僕は、そのまま続けた。

「ごめん、ビックリしたと思うけど、、、僕の、僕の正直な気持ちなんだ。消えないで!消えないでよね。僕は、伝えたかっただけなんだ。だから瑞樹さんの気持ちがどうこうとか、無理に聞こうとは思わないから。僕は何も変わらないから。大丈夫。だから、消えないで。変わらすにここにいて。」

僕は、堰を切ったようにまくしたてた。

僕の左手に右手を乗せたまま、彼女は黙って聞いていた。そのまま、右手を元に戻すだろうと僕は思っていた。が、そこに答えはあった。彼女の右手が、僕の左手を強く、強く握り締めたのである。彼女の右手も、僕の左手も震えていた。でも、そこには確かに証があった。僕の想いは伝わった。その確信があった。そして、彼女の想いも、うすぼんやりとだけど、僕に伝わってきた。握り締めた手が離されることなく、ずっとそこで強く握られている時間の分だけ、そのうすぼんやりとした想いは、僕の中でだんだんと確証に近いものに変わっていった。


まだ寒さの厳しい中、時折差す太陽の光が、春の温かみをかすかに帯びてきた頃、僕は上機嫌でパジャマを干していた。あれから瑞樹は、毎日僕のもとに現れた。ベッドに腰掛けて、ココアを飲んで、話をして、時々手を握る、ただそれだけの毎日だったが、僕にはもうそれだけで十分満足だった。洗濯も毎日の作業だったし、天気のいい日には布団も干さなくちゃいけなかった、所々に落ちた血のシミも、手洗いでなんとかした。僕は講義にも少しずつ戻るようになり、なんだか少しだけ慌しいけど、それでも奇妙に充実感のある幸せな日々だった。

瑞樹は相変わらず何もしゃべらなかったが、時々握る手の強さや、カクンとかしげる首の感じで、僕は彼女の気持ちが少しずつ分かるようになってきていた。時に手は嬉しそうに笑い、時に首は不思議そうに傾げられた。取り憑かれてやせ細ったはずの僕の体も、すこしずつ元に戻り始めた。別に取り憑かれたわけじゃない。瑞樹は取り殺したりしない。僕の安心と、瑞樹の安心がかさなって、今、ふわりふわりと空を漂っているような気分だ。幽霊ですよ、だから?それがなにか?

毎日洗濯するバスタオルとパジャマも、何だか少しよれてきた。これじゃあかわいそうだよな、そう思った僕は、なけなしのお金をはたいて、また新しいパジャマを買った。少し爽やかに、今度は薄いブルーのパジャマにした。瑞樹はそれがことのほか気にいったようで、パジャマの袖をつまみ、何度も、何度も、じっと眺めていた。

浴室とリビングの間だけの恋。僕らの間には、この短い距離とわずかな時間が全てだった。必ず帰らなくてはいけない、けれど必ず会える。僕たちはそれでよかった。今はそれで十分だった。



「顔」


陽射しがだんだんと温かくなってきた。もうまもなく春がやってくる。とは言っても朝晩はまだまだ冷え込む。日が暮れると、しんしんと寒さが沁みる。僕たちの恋は、それでも何も変わらなかった。毎日の密会も、洗濯も、何も。ただ、僕には一つの小さな欲望が芽生え始めていた。瑞樹は変わらずやってくる。ざばりと顔を覆った乱れ髪も、いつものままだった。いつもうつむいていた顔は、最近少し上がるようになってきた。瑞樹の手が笑っている時、うつむいた顔は、ほんの少しだけ、その角度を取り戻す。時折見せるその状態を、僕はいつも見ていた。くっと顔が上がった瞬間のわずかな髪の隙間に、青白く薄い唇を見た時は、何故か瑞樹の秘密の部分を少し垣間見たような気がして、心が揺れた。しかし、それ以上を見ることはできなかった。僕は、瑞樹のその瞳を思い出していた。いつか、ほんの少しぎょろりとのぞいた目。白く濁って焦点を失ったような目。その時は、それは恐怖の一端でしかなかったが、今の僕は違う。唇が青白くたっていい。目が白く死んでいたっていい。ほんの少し垣間見えたその秘密に、僕は不思議な魅力を感じていた。そんなことを繰り返すうちに、僕の中に芽生えた欲望。


瑞樹の顔が見たい。


許されないことは分かっている。瑞樹がそれを嫌がるだろうことも想像がつく。だってそうだろう。普通の女の子が、白く濁った目を見て欲しいと思うか。ありえない。それを十分承知しながら、僕はそれでも瑞樹の顔を見ることを望んでいた。ただ見たいからじゃない、見たその顔を、僕が愛することによって瑞樹が救われるような気がしたのだ。誰にも見せたくない、瑞樹の哀しい部分。それを僕が受け入れることで、瑞樹の救いになる、そんな想いが僕にはあった。それは僕の単なるエゴだったのかもしれない。そんなことは、何度自問自答したって分かりきっていることだった。それでも、僕は瑞樹を愛したい。その全てを愛したい。僕の心は、切なく揺れ動き、また自問自答を繰り返すのだった。


「瑞樹、あのね、、、」

僕は瑞樹に話しかけた。瑞樹はカクンと首をかしげるようにこっちを向いた。僕は、もごもごと言葉をくぐもらせて、

「いや、なんでもない。」

そういって、瑞樹から顔を背け、テレビの方を向いた。触れていた瑞樹の手が、淋しそうにわずかに動いた。それが僕にはたまらなく哀しかった。

しばらくテレビを眺めた後、僕はくるりと瑞樹の方に向き直った。驚いた瑞樹は、手をビクリと震わせてうつむいた。

「瑞樹、その、実はお願いがあるんだ。聞いてもらってもいいかな。このお願いで瑞樹が傷つくかもしれない。嫌かもしれない。でも、僕は瑞樹を傷つけるために、言うんじゃないってことだけはわかって欲しい。僕は瑞樹が好きだ。だからもっと好きになるために、もっと瑞樹と僕が近くなるために、したいお願いなんだ。」

瑞樹は、何のことかわからないといった風に、カクンと首をかしげて僕を見た。

「僕のお願いはね、いいかい、あまり動揺しないで聞いて欲しいんだ。そして、聞いた瞬間に消えるのだけはカンベンして欲しい。お願いだ。いいね。」

しばらく沈黙が流れた後、瑞樹はゆっくりと頷いた。僕はすうと息を吸って、じっと瑞樹ののあたりを見て言った。


「瑞樹の、顔を見せて欲しいんだ。」


瑞樹は、一瞬何を言われたのかわからないと言うように、首を少しゆらりとひねった。その後、大きくうつむいて、小さく首を左右に振った。少し考えて、また小さく首を左右に振った。

「わかってる。嫌だと思う。瑞樹は自分の顔を醜いと思っているんだよね。それを僕に見せることなんてできないと思ってる。そうだろう?でも、だからこそ僕は見たいんだ。瑞樹のその素顔を。もう一回言うけど、僕は瑞樹が好きだ。それは顔形や、見た目でどうこうなるもんじゃないんだ。僕はそれを証明したい。瑞樹は、幽霊だって、どんな顔だって、瑞樹なんだ。僕がそれを見て、それでも瑞樹が好きと言えたなら、僕たちはもっと近くになれる。もっと淋しくなくなる気がするんだ。わかるかい。酷い頼みごとだってのは、僕もよくわかっている。でも絶対に後悔はさせない。これが済んだ後、絶対に僕と瑞樹は近くなっている。約束する。」

瑞樹は、じっとうつむいたままだった。僕は待った。今、瑞樹は自分の中で葛藤しているに違いない。そうでなければ、今も即座に拒否しているはずだ。僕は、祈るように待った。

やがて瑞樹は、そのうつむいた顔を少しだけ上げて、カクンとこっちを向いた。深い深い水の底から押し出されるような声で、瑞樹は言った。


 い   い   よ   ・・・


僕は今にも涙が出そうだった。瑞樹が僕の言葉を理解してくれた。ただそれだけで、もう僕にとって瑞樹は愛する対象足りえるのだ。

「ありがとう。瑞樹。大丈夫、心配しなくていい。僕は約束を必ず守る。」

僕は瑞樹に微笑を浮かべながら、その右手を強く握った。

僕は瑞樹の肩に手を掛けた。少し、こちらを向けるように体をひねった。瑞樹はうつむいたまま、ざばりとした髪をそのままに、僕の方に体を向けた。

僕は優しく、瑞樹の両肩に手を置き、ぽんぽん、と「大丈夫」という意味の合図をした。僕は、瑞樹の両肩から少しずつ幅を狭め、肩口、首筋をなぞり、両耳を挟むようにしてゆっくりと瑞樹の顔を上に向けた。髪は顔を全て覆ってはいたが、下のほうの隙間から青白い唇のカケラが少しだけ見て取れた。僕は瑞樹の顔を真っすぐにしたまま、ゆっくりと顔全体を覆う前髪に手を掛けた。ビクンと瑞樹は震えた。その後も小刻みに震えている。僕は、ゆっくり、ゆっくりと、瑞樹の前髪の中央に手を差し入れた。それを左右に少しずつ割っていく。下唇が見えた。青白い薄い唇、同じように青白い上唇が続いて顔をのぞかせた。瑞樹は震えていた。そのまま僕は、ゆっくりと髪の毛を開いていった。青白かった肌が、少しずつ薄黒くなっていく。鼻筋が見えた頃には肌の色はどす黒いと言ってもいいくらいに青と黒の混じった斑模様になっていた。鼻筋は通っていたが、少しゆがんで見えた。どす黒いだけではない、皮膚も少しずつ剥がれている。僕は構わずそのままゆっくりと髪を開いて、瑞樹の目を覗き込んだ。現れた目は、まぶたが腫れ、目の周りは真っ黒にくすみ、皮膚がただれて剥がれ落ちそうになっていた。伏せた目は、いつかあの時見たまま、白く濁り、焦点は合っていない。薄汚れた膜のかかったような「死んだ魚のような目」それでも、目はピクピクと動き、その機能を果たそうとしていた。僕は、その全体像を初めてこの目に納めることが出来た。驚きはなかった。醜いとも思わなかった。それどころか僕にはこの姿が愛しくさえあった。この自分の顔を常に隠してこれまで瑞樹はやってきたのだ。つらかっただろう。悲しかっただろう。そう思えば思うほど、僕にはこの瑞樹の素顔が愛しかった。

髪を開いてじっと顔を見つめる僕。震える瑞樹。じっと見続ける僕に、瑞樹は何を感じただろう。恥ずかしさで、今にも逃げ出したい気持ちだっただろうか。ぎょろり、と瑞樹の目が上を向いて僕と目があった。その瞬間、ぼろり、と大粒の涙が、瑞樹の瞳から流れ落ちた。ぼろり、ぼろり、とめどなく流れ落ちる瑞樹の涙に、僕はたまらない悲しみと、愛しさを感じた。

「瑞樹、大丈夫だ。変わらない。大好きだ。僕は瑞樹が、大好きだ。」

耐え切れない愛しさに、僕は思わず両手で挟んだ瑞樹の顔を引き寄せ、その薄く青白い唇に、僕の唇を重ねていた。冷たい、氷にキスをするような、冷たい唇だった。

ぼろり、ぼろり、と大粒の涙をこぼした瑞樹は、うう、とくぐもった嗚咽をもらし、その瞬間に、


ばしゃっ


水飛沫となって、消えていた。僕の唇には冷たい水の感触だけが残っていた。両手にも水がかかり、形を保っていたパジャマは、その形のまま、べしゃっ、とベッドの上に落ちた。

やはり僕は、瑞樹を傷つけてしまったのか。伝わったはずだと言う思いと、傷つけてしまったという後悔が、交互に僕の心を廻っていた。



それから数日間、瑞樹はまた現れなくなった。前の時もそうだった。何か大きな衝撃を与えた後、瑞樹は僕の前から消える。前は現れたが、今回の衝撃はそれを凌駕するほどに大きかった。そのことが、僕に後悔とともに大きくのしかかっていた。どんな顔であろうとも、どんな姿であろうとも、僕は瑞樹を愛している。それは間違いない真実だ。そのことが伝わっていさえすれば、瑞樹は必ず僕のもとにまた来てくれる。僕は毎日必死でそう心に叫び続けた。

一週間がたち、二週間がたち、次第に僕の心は憔悴し始めていった。僕は瑞樹に取り返しのつかないことをしてしまったのかもしれない。後悔は後悔を呼び、負の連鎖に僕は羽交い絞めにされ続けた。季節は春の香りを漂わせ、陽の光も温かくなってきているというのに、僕の心は寒空のようだった。瑞樹は、もう僕の元には現れてくれないのだろうか。以前に陥った孤独の、さらに数倍の孤独感が僕を押しつぶした。洗ったパジャマとバスタオルは、綺麗にたたんだまま浴室にある。僕は風呂に入るたびにそれをぼんやりと眺め、そしてため息をついた。孤独だ。またやってきた。僕を苛む孤独。自業自得だろう、そう僕は自分に言っては太ももを殴りつけ、酒を呑んだ。小さく口の中で、瑞樹、とつぶやきながら泥のように眠り込む。頭痛のする頭を抱えて、風呂に入り、ため息をついてまた自分に悪態をつく。満足に食事も取らず、また僕は痩せ細っていった。このまま死ぬとしたら、それは僕自身のせいだ。想いは必ず伝わったはずだと、そう思う気持ちが時々頭をもたげては、自虐の念に押しつぶされる。そんな日々の繰り返しに、僕は完全に参ってしまっていた。これも取り殺されたと言っていいのかな。いや、自業自得さ。もう、僕は自分で自分を助ける術を完全に失っていた。


瑞樹が姿を現さなくなってから三週間目、桜も散ろうかと言う暖かい日、僕はやっと自虐の念から解放された。

何も食べず、風呂にだけ入った後、僕はいつものようにベッドに座り込んでいた。今日も十時が近づく。毎晩、このあたりの時間になると耳をそばだてるようにテレビも消し、静かにベッドに座り込んでいる。そんな日々がもう二十日も続いていた僕は、もう半ばあきらめを感じ始めていた。プツンとテレビをつける。下らないバラエティー番組が今始まったばかりのようだ。僕はチャンネルを回す。ドラマ、バラエティー、ドキュメンタリー、バラエティー・・・、見たいチャンネルがあるわけではない。ただ気分を紛らわす何かが欲しかっただけだ。温泉なんとか刑事とかいうドラマが放送されていた。温泉めぐりのシーンらしい。ちゃぽん、ちゃぽんとテレビの中で音がする。僕は死んだような目で、そのドラマを眺めていた。ちゃぽん、ちゃぽん、平和そうな笑い声、ちゃぽん、ちゃぽん。ぼくの頭の中に、水音がこだました。ちゃぽん、ちゃぽん、ちゃぽん、


ちゃぽん


ぼうっと僕はテレビの画面を見た。刑事がパトカーに乗っている。水音はしない。


ちゃぽん


僕は、がばっ!とベッドから跳ね起きた。転がり落ちるようにベッドから降りて、這いずるように浴室の方に近寄った。


ちゃぽん


「瑞樹―!」

思わず僕は叫んでいた。水音が止んだ。

「瑞樹―!いるのか、瑞樹!」

僕は祈るように拳を組み合わせ、力の限り握り締めた。今にも涙があふれそうだった。いてくれ。そして、来てくれ。僕のもとに!


ちゃぽん  ざー


僕は拳を高く振り上げた。瑞樹が帰ってきた。そうに違いない。それ以外に考えられない!僕の愛する瑞樹。謝らなくちゃ。瑞樹、ごめんって、謝らなくちゃ。僕は浴室の前の廊下に仁王立ちになっていた。出てくる、出てきたらすぐに、出てきたらすぐに、謝らなくちゃ。そして愛してるって、言わなくちゃ。ぼくの頭の中に色んなものが渦巻いた。息を荒げて、拳を握り締め、僕は待ち続けた。


がた  がた   がた


浴室の扉が開いた。中からは黄色いパジャマを着た、僕の愛する幽霊が、立っていた。僕は何を言ったらいいか、完全に混乱していた。瑞樹、ごめん、愛してる、好きだ、ありがとう、ごめん、愛してる、瑞樹、ごめん…。あうあう、としか口が動かなかった。涙が自然とあふれてきた。仁王立ちのまま僕は、あうあうと呻きながら泣いていた。


ぺちゃっ


瑞樹は、頭をうなだれたまま少しずつ、歩み寄ってきた。

「瑞樹、ごめん・・・」

かろうじて、それだけ口にした僕は、その後を続けることが出来なかった。瑞樹はゆっくりと歩み寄り、僕の目の前に立った。ただひたすら呻きながら何かをつぶやこうとする僕の前で、瑞樹はゆっくりと頭を上げた。そして自分で前髪を少し下のほうから掻き分け、ぐっとあごを突き出した。少し猫背気味だったその体を精一杯伸ばして、瑞樹はまだ呻くことしかできない僕の唇に、その冷たい唇を重ねた。そしてその両手を下から僕の背中に添えた。ひんやりと冷たい手だったが、僕は思わず瑞樹の体を抱き寄せていた。瑞樹の左手首から滴る鮮血が、僕の右肩の下あたりに染みてくるのがわかった。べちゃりと濡れた感覚を残して、わき腹へと滴っていく血を僕は嬉しくさえ感じた。僕は瑞樹を強く抱きしめ、冷たくて熱いキスを交わした。


ごめんね


ごめんよ


二人ともが、心の中でお互いに謝っているのが、僕にも瑞樹にも聞こえていたに違いない。声にならない声で、二人は、謝り、慰めあい、そして、愛し合っていた。


僕たちの愛が、戻ってきた。



「光芒」


僕の、僕たちの、日常が帰ってきた。僕は幸せだった。昼はパジャマを洗い、夜はベッドで語り合う。その繰り返しだけで、僕はもう幸福そのものだった。誰にも邪魔されない、僕たちだけの時間。誰にも理解されない、誰に理解してもらわなくても構わない、僕たちだけの密会。

冬物のパジャマが少し暑さを感じさせ始めた頃、僕はまた新しいパジャマを買った。少し薄手の淡い若草色のパジャマだった。前に買ったブルーのパジャマを気にいっていた瑞樹に、気にいってもらえるか少し不安ではあったが、それは杞憂だった。瑞樹は、新しいパジャマを嬉しそうに身にまとい、手を広げて僕に見せてくれた。それはまるで普通に生きている女の子が見せる仕草そのものだった。瑞樹は日に日に、そういったやわらかい仕草が出来るようになっていた。

温かいココアも、徐々に似合わなくなってきた季節、僕たちはココアを飲むよりも、キスをする回数の方が増えてきた。どちらが求めると言うこともなく、自然に顔が近づく。僕はキスの時に唇の間に瑞樹の濡れた髪の毛が挟まっても気にならなかった。それよりもいちいち髪をかきわけて、彼女の顔を大きく見せない方がいいと思った。どんなに僕が受け入れたからと言っても、瑞樹のコンプレックスであることに変わりはないと思ったからである。そんな僕の気遣いとは裏腹に、瑞樹は髪を鼻の辺りまで掻き分けて僕とキスをした。「もう、きにしないわ」とでも言いたげな、満足そうな顔で。僕たちは、お互いの弱さや醜さを認め合ったのである。

キスの途中、僕が瑞樹の左腕を掴んだ手を少しずつ滑らせて、彼女の胸元に近づけたとき、瑞樹は左手の鮮血を飛び散らせながら、僕の右手をピシッとはたいた。

「痛ぇ、そりゃないよー。」

そういって僕が照れ笑いをすると、瑞樹の青白い唇からクスクスッという笑い声が漏れた。あんなに低く、暗かった声も、何故か今は心なしか明るく聞こえる。多分、他人から見れば何一つ変わってはいないのだろうが、僕たちの間で認識できればそれでいいのだ。僕と瑞樹にさえわかれば、それで何の問題もない。


四月も終わりに近づき、夜ですらときどき蒸し暑さを感じる初夏一歩手前のある日、瑞樹は妙に淋しそうなたたずまいで僕の横に座っていた。それが何故なのか、僕には分からなかった。

「瑞樹、どうかした?」

心配して聞く僕に、瑞樹はふるふると首を横に振った。

でも、そんな瑞樹の淋しそうな空気は、日を追うごとにその度合いを増していった。何か変化が起こっている。僕は瑞樹をじっと見つめた。小さな変化も見逃さないように。じっと、じっと見つめた。自分をじろじろと見つめまわる僕を瑞樹は少し嫌がった。「なにもないよ」そういわんばかりに両手を後ろに隠し、肩をすくめて見せた。僕は「気のせいかな」といった風に両手を広げて、ふうと息をついた。

それでも瑞樹の「淋しい空気」は消えなかった。時々、また無言でうつむいたまま何の反応もしない時もあった。

「どうしたんだ?瑞樹、なにかあったんじゃないの?」

はっと気付いたように、顔を上げた瑞樹は、「なんでもないよ」といった風に、両手を前でひらひらと振って、膝に置いた。その左手首を見た瞬間、僕ははっとした。瑞樹のパックリと割れた左手首、鮮血の滴る左手首が何か違う。その違和感が、何か気付くのに僕は少しの時間を要した。鮮血が減っている。逆に膿のような液体が滲んでいる。知識のない僕には、それが腐敗だと気付くことはできなかった。

「どうしたんだ?その手首?」

僕が聞くと、瑞樹は慌てて左手を後ろに隠した。

「なにかなっているんじゃないの?手首。変な色になってるような気がする。」

瑞樹はそれを聞くと、うなだれて無言になった。瑞樹は幽霊だ。だから何も変わらないと思っていた。身体的変化が起こるのは、生身の人間だけで、瑞樹の体に変化が起こるなんてことは考えもしなかった。しかし、よく考えてみると瑞樹には物質的側面がある。なんといっても僕が触ることが出来るのだ。パジャマだって着れる。そこに何か変化が起こらないとは限らないのだ。だからといって病院にいけるわけもない。もしも瑞樹になにか致命的(?)な変化が起こったとしても、僕には何もできない。

「瑞樹、どうしたんだ。何かあるんだろ?話してくれよ。」

その質問に瑞樹は答えないまま、なんだか淋しそうに消えていった。


同じようなやりとりを、それから数日続けた頃、僕は部屋に何か異臭が漂っていることに気付いた。それが瑞樹の左手首から発せられていることに気付いたのは、さらにそれから数日たってからである。腐敗だ。ぼくはやっと気付いた。


「瑞樹、その手首、腐敗し始めているんじゃないか?」

僕は単刀直入に聞いてみた。瑞樹は、少し黙ってうつむいた後、顔を上げた。意を決したように、瑞樹は低い声でぼそぼそと言った。


じ  か  ん  が  な  い  の  ・・・


「時間がない?誰の、何の時間がないんだ?」

僕は悪寒のような嫌な気配を感じて、冷や汗を滲ませた。瑞樹は何を言おうとしているんだ?時間がない?誰の?瑞樹の?


じ  さ  つ  ・・・


   ぢ  ご  く  ・・・


     も  う  い  か  な  い  と  ・・・


「どういうことだよ?自殺?地獄?行かなきゃいけないって、地獄に?わからないよ!地獄って?」


じ  さ  つ  ・・・


   さ  よ  う  な  ら  ・・・


「わかんないよ!自殺?自殺した人は地獄に行くって事?そんな、瑞樹はどこにも行かせない!一緒にいるんだ!僕と!だろ?いてくれるんだろ?」僕は早口でまくし立てた。ゾクゾクと背筋の冷たいものが走り、悪寒で震えが来た。いやだ、瑞樹を失いたくない。そんなこと許せない。

「行かせない!瑞樹、僕は君を離さない!」

そう叫んで僕はがばっと瑞樹を抱きしめ、ベッドに倒れこんだ。瑞樹は驚いたようにしていたが、反応はしなかった。僕は瑞樹をきつく抱きしめた。瑞樹は少しの間、抱かれるままにじっとしていたが、急にその白く濁った目から大粒の涙をこぼした。ぽろり、ぽろり、とこぼれる涙を、瑞樹はとめることが出来ないようだった。僕はさらに強く瑞樹を抱きしめ、その冷たい首筋に顔をうずめた。それまで動かすことのなかった手を、瑞樹はぐっと持ち上げて、僕の背中を抱きしめた。二人は強く強く抱きあった。仰向けになった瑞樹は髪が左右に広がって、その顔をあらわにしていた。どす黒い顔の上を涙が流れる。瑞樹は、うう…とくぐもったうめきを上げた。涙を抑えようとする小さな抵抗だった。僕は、そんな瑞樹の顔を正面に見据え、その薄い唇に口づけをした。僕は瑞樹の冷たい唇を貪るように吸い、舌を割り入れた。湿った冷たい舌が僕の熱い舌と絡まりあった。僕は夢中でそれを求めた。そこには、わずかに死臭がした…

僕は気にもとめず瑞樹の唇を、舌を貪った。僕は唇を離し、わずかに下にずらしていった。瑞樹のあごから首筋を優しく吸った。瑞樹は僕の背中をさらに強く抱きしめた。瑞樹の首筋は冷たくそして白かった。流れない血管が浮き出ているようにさえ見えた。ぼくは左右に顔をずらし、瑞樹のその首筋の全てを征服した。ひとしきり吸い尽くした後、僕は抱きしめる手を少し緩め、体を持ち上げた。瑞樹の白い目と僕の目があった。小さく頷くように瑞樹は少し下を向いた。視線を僕の体に移し、またぽろりと大粒の涙を流した。


僕は左手で瑞樹の肩を押さえ、右手でパジャマのボタンを外し始めた。瑞樹は抵抗しなかった。縦につながる全てのボタンを外し終わった時、瑞樹は少し恥ずかしそうに左を向いた。僕は、瑞樹のパジャマの前をはだけた。震える右手で彼女の少し痩せた、それでも十分にふくらんだ乳房を優しくなでた。つめたいマシュマロをさわるような感覚だった。僕は、その先端に唇を近づけ、軽くキスをした。冷たいアイスキャンデーのような小さな丸い粒を、僕は舌の中で転がしながら、左手でもう片方の先端を優しくつまんだ。瑞樹はぴくりと一瞬反応したが、そのあと小さく息を吐いて、少し震えた。僕の背中に回された瑞樹の手にわずかに力がこもった。僕はそのふくらみを十分に愛しつくした後、再び瑞樹の唇に僕の唇を重ねた。瑞樹はきゅうときつく僕を抱きしめ、またぽろりと泣いた。


僕は自分のパジャマを脱ぎ捨てて、瑞樹の胸に自分の裸の胸を押し当てた。ひんやりと冷たい。やわらかい人形を抱いているかのように冷たい感触を味わいながら、僕は瑞樹のパジャマのズボンを下に押し下げた。瑞樹は一瞬抵抗するようにパジャマを掴んだが、ゆっくりとその手を離し、あとは僕の行為に身をゆだねていた。僕は瑞樹の唇を吸いながら、彼女の足の間に腰を割り入れた。僕は、瑞樹を安心させるようにぎゅっと強く抱きしめ、唇を合わせた。瑞樹は少し震えていたが、ゆっくりと体の力を抜き、受け入れる決意をしたように見えた。僕は唇から乳房、乳首を吸い、また唇に戻して、腰に力を込めた。冷たい感覚が僕の下半身を突き抜けた。包み込まれるようなやわらかい冷たさを僕は大きく息を吸って受け止めた。そのままゆっくり優しく押し進めた。瑞樹は、少し歯を食いしばるようにしながら、その感覚に耐えていた。僕はそのまま押し進め、全てを瑞樹の中に埋め尽くしたとき、瑞樹ははぁっ、と大きく息を吐いた。また少し死臭がした気がした。

僕は瑞樹と一つになっていた。限りなく瑞樹が愛しかった。瑞樹の首筋に顔をうずめながら、僕は瑞樹を強く強く抱きしめた。瑞樹も僕を強く強く抱きしめた。二人の感覚が一つになる。ぎゅうと抱きしめ合ったその僕の背中に、鮮血と膿の混じった液体がたらりと流れた。瑞樹が僕を抱きしめるたびに、左手首から染み出るものが、僕の背中を濡らした。もはや今の僕にはそれすら快感に思えていた。

ぐっと腰を突き出して瑞樹を感じる。瑞樹はわずかに口を開いて喘ぐような息をしている。僕はそのまま瑞樹を感じ続けていた。瑞樹はずっと僕を受け入れ続けていた。二人の体と心は一つだった。僕は、

「瑞樹、瑞樹、愛しているよ。瑞樹。」

そうつぶやきながら、何度も押し入れた。瑞樹は、「わたしもよ」といわんばかりに、僕の背中を強く抱きしめ、軽く爪を立てた。僕はこみあげる絶頂の予感を感じて瑞樹に目で合図を送った。白く濁った目で瑞樹はそれに応えた。またぽろりと涙がこぼれた。

「瑞樹!僕の大好きな瑞樹!」

そう叫んで僕は大きく強く瑞樹の中に腰を突き入れた。僕は絶頂に達していた。同時に瑞樹もガクガクと震え、ぎゅうと引き絞るように足を閉じた。背中に鮮血を縫い込むように爪が刺さった。

大きく息を吸って、吐いた後、僕は瑞樹の体に自分の体を預けた。瑞樹は、にこりと、心から嬉しそうな笑みをたたえた後、はぁと大きく息を吐いた。


その瞬間だった。僕の体の下の瑞樹が、ふわりと弾力を持ち、そのままするりと僕の下から抜け出るように、すぅと上に抜けていった様な感覚がした。妙にまぶしい気がして下を見たが、そこに瑞樹の体はなかった。僕は顔を上げた。そこには、きらきらと金色に光り輝く瑞樹の姿があった。瑞樹はその美しい裸体のまま、黄金色の光を発していた。僕は四つんばいになって、顔を上に見上げた。ぺたりと座り込む僕の方を向いて、黄金色の瑞樹が微笑んだ。その顔は、腫れたまぶたもなく、瞳は黒々と光り、黒ずんだ肌もいつのまにか黄金色に輝いていた。瑞樹は、そう、例えれば観音様のようなアルカイックな微笑をたたえ、僕を見下ろしていた。


「瑞樹、瑞樹!」

僕は、すうと頭によぎった予感を必死で打ち消した。

「瑞樹!行かないでくれ!瑞樹!」

瑞樹は、少しだけ眉を寄せて哀しそうな顔をしたが、またもとの微笑みに戻った。


 ありがとう


僕の心の中に、澄んだ声が響いた。地の底から沸きあがるような声ではない、これが瑞樹の本当の声なのか僕は漫然と思っていた。心に響くその声に、僕はいつの間にか涙をこぼしていた。僕は力ない声で呼び続けていた。

「瑞樹、瑞樹…」

黄金色の瑞樹は、その微笑のまま僕を見下ろしていた。また僕の心の中に澄んだ声が響いた。


ありがとう

  愛してくれて


その声が響いた直後、黄金色の瑞樹は、その足元から金の粉になってちりぢりと砕け始めていた。砕けた金粉は、小さく舞い上がって宙に消えた。足元から膝、太もも、腰へと砕け始め金粉は宙に消えていった。

「待ってくれ!瑞樹!行かないでくれ!僕を一人にしないでくれ!瑞樹!」

すでに下半身が宙に消えた黄金色の瑞樹は、僕の心に囁いた。


ありがとう

  もう、あなたはひとりではないわ

    わたしがいつも みているから

       愛してくれて

          ありがとう


僕は、ボロボロと泣きながら金粉に変わっていく瑞樹を見送るしかなかった。その消えていく左手首に、もうあのパックリと割れたキズはなかった。腕が、胸が、散り散りに消えていく。最後に顔が散る時、瑞樹は精一杯の微笑を見せてくれた。

それは本当に精一杯の微笑だった。それは永遠に僕の心に焼きついた。

あの微笑がなかったら、僕は今生きていないだろう。


瑞樹は、そうやって光芒の彼方に消えた。




「微笑」


瑞樹が消えてしまった後も、僕は呆然とベッドに座り込んでいた。喪失した悲しみと、何か永遠の宝石を得たような満足感が交互に襲ってくる。はじめは悲しみのほうが大きかったが、最後の瑞樹の微笑を思い出すごとに、その悲しみは薄らいでいった。

瑞樹が消えてしまった暗い部屋。僕は、やっと我に返り、部屋の電気をつけた。いつのまに消えていたんだろう?僕は、そう思いながらベッドに目を落とした。そこにはいつものように湿ったベッドとびしょ濡れのパジャマが落ちているはずだった。しかし、今日は違った。ベッドは乾いている。パジャマも、少しくちゃくちゃにはなっているが、ほぼ瑞樹の体の形のままにそこにあった。全く濡れてはいなかった。

僕は不思議に思いながらパジャマを丸めようとして、ふと今までと異なる点に気がついた。そこには、どこを探しても僕の精液が残っていなかった。




ピンポーン


あれから一週間後、僕は、とあるマンションの一室を訪ねていた。着慣れないスーツ姿で、マンションのドアにある呼び鈴をゆっくりと一回だけ鳴らした。

しばらくすると、インターフォンからノイズとともに年配の女性の声が聞こえた。

「はい、どちら様?」

僕は咳払いをして応えた。

「こちら、京本さんのお宅ですよね。僕、国分といいます。」

少し時間を置いて、インターフォンから女性の声がまた聞こえた。

「ちょっと待ってくださいね。今、開けます。」

しばらく待っていると、ガチャリとドアの鍵が開けられる音がした。ゆっくりと開いたドアの間から、品の良さそうな年配の女性の顔がのぞいた。

「すみません、突然。こちら京本瑞樹さんのお宅ですよね。僕、国分良人といいます。失礼ですが…」

といいかけた時、年配の女性は僕の言葉をさえぎった。

「あの、、、すみません。瑞樹はいないんです。」

「存じています。亡くなられたんですよね。すみません、突然に失礼な訪問をして。それで、もし出来たら、ご霊前に手を合わせさせていただければと思いまして、お寄りした次第なんです。」

年配の女性は、少しだけ驚いたような表情を見せたが、僕を疑うこともなく、すんなりと中に招き入れた。僕は、どうやって自分の誠意を説明しようかと一生懸命考えて、意を決してここに来たのだが、こうもすんなり通されるとは拍子抜けした。


僕は、居間の奥にある仏壇の前に通された。そこには来客用のテーブルがあり、座布団が敷かれていた。

「どうぞ、お座りになってください。」

年配の女性は、冷たい麦茶を手に、僕に座るよう勧めた。

「恐縮です。」そういって、座布団を横にずらし、僕は畳の上に正座した。年配の女性は僕に麦茶を差し出しながら、ぽつりと言った。

「瑞樹の母です。」

僕は軽く一礼をした。女性は、そのまま続けた。

「国分良人さん、とおっしゃいましたね。確かに、国分良人 さん、なんですね。」

女性は念を押すように僕に聞いた。僕は少々いぶかしがりながらも、表情は変えず、答えた。

「はい、そうです。国分良人です。」

それを聞いて、女性はしばらく何かを考えているようだったが、突然、ずり、と一間後ろに下がって、僕に深々と頭を下げた。

「国分さん、本当にありがとうございます。」

僕はうろたえた。

「ちょ、ちょっと待ってください。僕はあなたに頭を下げられるようなことをした覚えがありません。頭をあげてください。」

女性は全く頭を上げる様子がなかった。

「いいえ、お礼を言わせてください。瑞樹が、瑞樹がそう言っていたんです。」

僕は何がなんだか分からなかったが、瑞樹の名前が出たことで、その話をもっと詳しく聞きたくなった。

「瑞樹さんが?瑞樹さんが、どうしたんですか?もう、亡くなっていますよね。」


女性は、頭をあげて、ゆっくりと説明を始めた。

つい一週間ほど前のことだったらしい。彼女は夢を見たと言うのだ。

「夢の中でね、瑞樹が、瑞樹が現れたんです。瑞樹は、私の前をふわりふわりと漂うように飛んでいました。確か見覚えのない、若草色のパジャマを着ていたと思います。その瑞樹が、私に向かっていったんです。「お母さん、先立ってしまったこと、ごめんなさい。本当に親不孝な子どもでした。今はとっても後悔してるよ。でも仕方ないよね。ごめんね、お母さん。でもね、私、今すごく幸せなの。こんなこと言うのも変だけど、本当に今すごく幸せなの。私、自殺しちゃったからもう救われないはずだったの。でもね、ある人がそれを救ってくれたの。ねぇ、お母さん。多分ね、この家に近いうちに国分良人って人が現れると思うわ。その人は、手を合わせたいってくると思うの。そういう人だから。もしもその人が来たら、私の代わりにお礼を言っておいて欲しいの。私を救ってくれた人。今、幸せなのもその人のおかげ。だから、お願いね。ちゃんと仏間まで通してあげて、お礼を言って。ありがとうって瑞樹が言ってたって。あぁ、幸せだわ、私。ごめんね、お母さんを残して勝手にいなくなっておいてこんなことを言うのもよくないと思うんだけど、でも安心して欲しくて。お母さん、私は幸せです。もしかしたら赤ちゃんも産まれるかもしれないの。ヘンかもしれないけど、本当よ。だから、安心して。お母さん、ごめんなさい、そしてありがとう。じゃ、私行くね。」そう言って、瑞樹はふわふわと光の中に消えていきました。とてもはっきりとした夢だったので、いつまでも覚えていました。そこに国分さん、あなたが現れたんです。私、変かもしれないんですけど、あの夢は本当だったんだと思うんです。だから、瑞樹を、瑞樹を幸せにしてくださったあなたにお礼が言いたくて。」

そういった後、女性は少し涙ぐんで鼻をすすった。

「ありがとうございました」

女性はまた深々と頭を下げた。

「あ、頭をあげてください。僕は、、、僕はなにも大したことはしていません。ただ、もしその夢が本当だとしたら、、、僕もとても、嬉しいです。」

僕は女性に向かってニッコリと微笑んだ。


仏壇に向き直って、僕は線香を立て、手を合わせた。


そこに飾ってある遺影写真には、あの消え入る直前に見せた笑顔そのままの、さわやかな微笑をたたえた、二十歳の瑞樹が写っていた。


(完)



前書きにも書きましたが、初めての投稿で、あとがきなんてかける身分じゃ、到底ございません。

読んでいただけた方、本当にありがとうございました。

思いついたままを、ただただ書き綴った拙い作品です。さぞ、読みづらく、また未熟な部分も山積だったことでしょう。

が、自分以外の方に読んでいただいただけで、気持ちとしては光栄です。

国分良人は、臆病な、地味な、卑屈な、弱い、そこらにいるような僕みたいな存在です。

ですが、つらい思いをたくさんしてきた分、人の立場に立って考えることに関しては人並み以上に心遣える青年です。

どうか、良人の勇気に少しだけでも賞賛を送ってあげてください。

僕にもそんな勇気があればと、思いながら書いた作品です。

ありがとうございました。

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