病魔
『ワルシャワ』
ショパン(フレデリック・ショパン)はポーランド生まれの音楽家で、優れた作曲家、そして素晴らしいピアニストだった。現在、日本でも親しまれるショパンの音楽は、煌びやかな音の使用で繊細であり、聴く人の心を清らかな世界へと招き入れる。
ショパンはフランスへ渡り、その後、ポーランドの土を踏むことは無かった。祖国への募る想いや愛した人との破局など、悲しみや怒り、感情の全てを曲で表現する彼の思いは、ピアノ奏者の手によって現在も受け継がれている。
ワルシャワはポーランドの首都で、ポーランド最大の都市である。中央ヨーロッパの政治、経済、交通の均衡でもある。
今回、私はショパンコンクールのために、初めてこの国を訪れた。ショパンが産まれ、そして他国へと移り住んだあとも郷愁の念を抱き続けたポーランドにはとても大きな憧れがあった。
ショパンが生涯求め続けた故郷ポーランドでは、五年に一度ショパンの誕生日を挟んだ日程でピアノコンクールが開催される。私はショパンの音楽が好きではあるが、ピアノ演奏者としては別段得意なわけではない。ショパンコンクールはその名の通り、ショパンの曲のみで競い合う。ショパンの曲を得意としている者ならともかく、ベートーベンを得意とする私にとっては有利なコンクールではない。
しかし周一兄ちゃんはショパンがとても得意だった。生涯目指す相手が彼であり、どうしても同じコンクールで勝負したかった。永遠に、敵うはずなど、ないと知りながら。
コンクールの前日は精神力との戦いだ。ピアノを人前で弾くことにはいつまで経っても慣れない。どんなに練習を重ね、自信をもって臨んでも、何度発表会やコンクールを経験しても、揺れる。心が揺れて、指が揺れ、音が揺れる。
私のピアノ演奏を聴くために足を運んでくれる聴衆が、この世の中に何人何十人何百人、たとえ何万人いたとしても、本当はピアニストに向いてなどいないのだと、時々思う自分がいる。それでも私はピアノを弾く。弾く事でしか生き方を私は知らない。
ピアノの音の中に、二人を繋ぐなにかを信じたい。そう思いながらも、そんなものはどこにもありはしないのだと私は知っている。
それでも私は音楽以外の全てを切り捨て、ピアノを弾くことだけを本分として生きてきた。あのとき、約束したのだ、私は。
『周一兄ちゃんの夢は私が引き継ぐよ。絶対にピアニストになってみせる』
あのとき、どうしてあんなことが言えたのだろう。
1
初夏の軽い風を切って、自転車を走らせるのが好きだ。
髪が耳元で風とともに踊る。制服のネクタイは左右へと揺れて、白いブラウスの袖は二の腕付近でパタパタと音をたてた。まるで拍手しているみたい。
育ちのいい雑草の緑と緑の間に出来た小道。家々を繋げる小道。人が一人通ればすれ違うのがやっとの狭い小道。その中をもの凄いスピードで走らせる。真っ直ぐに伸びた見通しの良い道なので、人が現れてからスピードを落としても、問題はないから。
私は十五歳になった。周一兄ちゃんは二十七歳になっているだろう。
ピアニストになりたいと東京に旅立った周一兄ちゃんは音大を卒業後、そのまま海外へと移った。その後、いくつかコンクールに入賞し、遠くヨーロッパの地パリで、ピアニストとして活躍している。
私は約束どおり、手紙を書き続けた。
今となってはどんな風に約束したのかも忘れてしまった。十年の年月の中で、たくさんの記憶たちが、知らない間に姿を消していった。でも手紙を書けば、周一兄ちゃんが喜ぶという切り離された記憶は、胸に焼き付いて離れなかった。
手紙が届いてから返信するまでの期間は、年月の経過に比例して、どちらからともなく長くなっていった。それでも細々とでも文通を続けているのは、もしもこれがなくなったら周一兄ちゃんは、私を忘れてしまうのではないかという理由からだ。
頼りない細い糸に結ばれた関係を、パリにいる周一兄ちゃんはどう受け止めているだろう。当時はかわいがっていたとはいえ、十年も前に離れた従兄妹との文通などを、本当に快く思っているのだろうか。喜んだりするのだろうか。実は心の片隅では、わずらわしいと思ってはいないだろうか。
きっと迷惑に思っているはずだから、もうやめよう。
そう何度思っても、私はまたポストへと向かう。
周一兄ちゃんとの関係が完全に途切れてしまうという焦りが、私に再び筆を握らせ、ポストへと急きたてる。周一兄ちゃんからきた返信の手紙を無視し、私から終わらせることなどできはしない。
いくつかの周一兄ちゃんの言葉と面影、イチゴ水のグラスの中で見た夢のような感動と、周一兄ちゃんの旋律、それらが私の心に、まるで存在の意味をアピールするバラバラに散らばったジグソーパズルのように、残存している。けれどもそれは、どんな風につなぎ合わせてみても、薄れゆく記憶のせいで、坂本周一という男性の姿はぼやけてしまったまま、くっきり浮かび上がることはない。
もしも周一兄ちゃんの側から返事が途切れていたなら、私はもう周一兄ちゃんとの思い出を、今頃は忘れられていたと思う。それは過ぎ行くときの中でいくつか失われた記憶のように。いつしか全て忘れ、完全に解きはなたれただろう。
郵便受けを覗くたびにため息をつくこと、書いた手紙をポストに入れる瞬間のためらいも、届いた手紙に胸を躍らせることも、その都度感じる胸の痛みも、全てを忘れていく。周一兄ちゃんの返事が途切れたなら、もうなんの関係もない人だと今頃は思えていて、身近な同じ年頃の男子とかに恋して、楽しい毎日が送れていたかもしれない。
でも周一兄ちゃんは、いくら返事はいらないと私が書いても、かならず送り返してくれる。自分が出してから、その返事が届くまでの期間が長ければ長いほど、手に取った瞬間の喜びは大きい。こんなの優しさじゃないよ、残酷な行為だよ、と呟く。届いた手紙に何度ためいきを落としただろう。
私は自転車を停めるためにブレーキを思い切りかけた。ブレーキの甲高い音が響いて、タイヤの回転が完全に止まる。私は自転車からすとんと降りた。
私はその後もピアノを弾き続けている。周一兄ちゃんへ何度か自分の演奏をカセットに録音し送った。それを聴いた周一兄ちゃんは、必ず感想と自分のピアノ曲を返してくれた。教えられたことをこなせるようになり次に送れるのが私の楽しみだった。
ピアノは指で早く弾けばいいというものではない。自分の出す音をよく聴き、人の出す音との違いをさらに自分でも工夫しながら弾くこと。ピアノは指で弾くのではなく、耳で弾く。感性だけで弾くのではなく頭で弾くことなど、幼い頃とは全く違う課題が私のやる気をさらに大きくさせた。
幼い頃から周一兄ちゃんの音楽に触れていたせいか音楽に強く興味を示し、周一兄ちゃんとの別離後、みるみるうちに上達していった。周一兄ちゃんとの時間の空白を埋めてくれるのはピアノであるかのように、気が付けば鍵盤を私は求めた。
小学校に入学した頃から師事したピアノ教師からの紹介で、名のあるピアに教師から三度ほどレッスンを受けたことがある。その教師から小学校五年の頃、音楽の道に進む気はないか? という話があったことがきっかけで、現在は音楽大学付属高校受験に向けて頑張っている。
でもそのときいつも付きまとうのは、坂本周一という名前。周一兄ちゃんと従兄妹関係であることが、周囲の音楽家への期待が、私に対して高まったのかもしれない。
傍らに白い小さな花びらを付けたハコベが笑うように揺れた。日向でカラカラになるまで乾燥させるとお茶の葉になり、とても美味しいということを思い出した。知らない間に持っていた知識の始まりをたどっていくと、いつも周一兄ちゃんの姿が浮かんでくる。それは漠然とした、ぼんやり滲んだ面影。
久しぶりにお茶にしようと思い、ハコベを摘む。今頃周一兄ちゃんはどうしているのだろう。ハコベのお茶のことなど憶えているだろうか。
弁当箱を包んでいたナフキンをひろげ、それにハコベの若葉を包む。それと弁当箱とを鞄に詰め込んで立ち上がった。自転車に戻った私はカゴに鞄を投げ込んで、再び自転車を走らせた。自転車のタイヤは徐々に回転を増し、加速していく。
家の前に自転車を停め、郵便箱の蓋を開けてみる。私はがっかりしてため息をついた。周一兄ちゃんからの手紙をもう随分手にしていない。
玄関に入ると見慣れない靴があった。お客さんかな? 珍しいな、と思いながら私は玄関口に腰を下ろして、靴を脱ぎかけた。
「あ、帰ってきたわねぇ。あの子、驚くわよ」
嬉しそうな母の話し声が聞こえてきた。来客の笑い声に思わず足元を見た。男性用の黒い革靴が目に入った。どうやら中にいるのは男の人らしい。
しばらくしてから母が居間から出てきた。近づいてきたかと思うと、母は突然信じられない言葉を私の耳元で囁いた。
「周一君が来てるのよ」
え? 周一兄ちゃん? ……が、来てるって?
私は動揺し、身震いした。傍らにある鞄を素早くつかみ取ると、外に飛び出した。
どういうこと? なに? 周一兄ちゃんが帰ってきた?
どこに向かっているのかは自分でも分からないけれど、とにかく逃げるように夢中で走った。
周一兄ちゃんも母の後ろから私を見ていただろうか。恐くて振り向けなかったけれど。
いくつかの畑の間を駆け抜けて、息を切らして立ち止まる。気づけば小川まで来ていた。
あまりに突然のことに動揺し思わず逃げてしまった。ずっと待っていた筈なのに、なぜ私は逃げてしまったのだろう。
久しぶりすぎて恥ずかしい? 伸びた背丈。膨らんだ胸。短めの制服のスカート。大人へ近づくにつれ変わっていった瞳の色。それらは周一兄ちゃんの中に長年住みついていたものとは全く違う。それらを周一兄ちゃんの前にさらすのが、私は恐かったのだろうか。
鞄から鏡を取り出して覗き込む。制服のブラウスの上、今にも泣きそうな弱々しい顔を、鏡は映していた。
今度こそ女性として見てもらえるだろうか。でも従兄妹の関係を理解してしまった今では、ずっと抱きしめ続けたこの淡い想いさえ伝えることはできない。あの頃とは違うのだから。
『千里、周一兄ちゃんのお嫁さんになる』
過去抱き続けた想いが、リアルな感覚で、私の心中を締め付ける。
周一兄ちゃんの方だって変わってしまったはずだ。再会してもきっとぎこちないときを過ごすだろう。
他の親戚が来たときと同じように、うわべだけの笑顔と挨拶を互いに交わし、当たり障りのない世間話をしたあと、いい頃合に帰っていくに違いない。私は以前のみたいに、周一兄ちゃんと呼べないで周一さんとかと呼ぶのだろうか。周一兄ちゃんは千里と呼ばずに千里ちゃんとか呼ぶ。そんなのは嫌だ。今までの十年間とそれまでの思い出が、その瞬間嘘に変わってしまう。
私は様々な想像を胸に掻き立て、手鏡を握る手に力を込め思った。
自分が抱いているのは、妄想だろうか。今残っている思い出も、ずっと持ち続けた恋心も、すべてがありもしない夢想だろうか。ただの憧れだろうか。幼い頃の淡い思い出の中に逃げ込んでいるだけなのだろうか。
執着、依存、逃避などいくつかの単語が脳裏に浮かびあがる。あの頃はもっと大きいと思った小川が今ではこんなに小さい。それと同じで、幼い頃触れた周一兄ちゃんの手や背中、彼を包む全ての要素が、自分の意識の中で変わってしまうかもしれない。
本当はずっと、周一兄ちゃんの帰郷を待っていた。家に帰れば会えるのに、ずっと待っていたのに、どうして足は動かない? 今すぐ家に駆け込んで、現実を互いにさらし、結局普通の従兄妹だったと思えればそれが一番いいはずなのに、どうして足は動かないのか。
周一兄ちゃんとの思い出にしがみつき、鏡を手に小川を見つめ続ける今の自分を、私は芯まで錆びた鉄くずみたいだと思った。もう形がないくせに、茶褐色のガラクタでしかないくせに、物であり続けることを主張する鉄。
五十メートル走を走っても使いものにならないくらい疲れた重い足を引き連れて、私はようやく家へと向かう。
日が伸びて、近頃日暮れは遅れ気味になってきている。それでも辺りはうす暗くなった。時間つぶしに林をうろうろしたせいで、足はすっかり疲れてしまった。家の前まできて、もうさすがに帰っただろうと足を踏み出しかけたそのとき、玄関の戸が開いた。私は無意識に身を隠す。
「すみませんでした、遅くまで」
「こちらこそごめんなさいね、周ちゃん。急に、あの子ったらどこ行っちゃったのかしらね、まったく」
「嫌われたのかな」
周一兄ちゃんの声がそう言ったあと短く笑って、
「驚かしてやろうと思って突然来たのがいけなかった。もうしばらくはこっちに居るから、会う気になったら連絡してって言っといて」
「伝えておくわ。でももう帰ってくると思うのよね。ほんとにご飯食べて行かないの?」
「きっと僕が帰るまで帰って来ないだろうから。どっかでそっと見ているのかもしれない」
「そうね、昔から素直な割に頑固なところあるから」
二人は軽く笑ったあと、「それじゃぁ、行きます。お邪魔しました」と周一兄ちゃんの声。「気をつけてね」と 母の声がしたあと、しばらく経って戸が閉まる音がした。
私は周一兄ちゃんを壁から覗き見ることすら出来なかった。自分の頬を流れる熱い涙に、私はそのとき初めて気づいた。
懐かしかった。
周一兄ちゃんの話し声が、懐かしい。そっと壁の陰から、聴けただけでも嬉しかった。
そっと覗きみると、周一兄ちゃんの後ろ姿と思われる人影が滲んだ。そしてなにかに押し潰されそうな熱いものを胸の中に感じた。
切ない、とても苦しい胸を締め付けるなにか。
無意識のうちに足は周一兄ちゃんの消えた方向へ、右そして左と、交互に踏み出していく。昔、周一兄ちゃんのためにジャムの瓶を大切に抱え歩いた道を、五十メートル走を走っても使い物にならないと思っていた足で、一歩 一歩確実に進んでいく。その歩みはいつしか駆け足に変わっていた。
「周一兄ちゃん!」
背中に叫んだ。周一兄ちゃんはピタッと歩みを止めた。私は視線を合わすのが恐くて、周一兄ちゃんが振り向く前に下を向いた。俯いた拍子に大粒の涙が一滴、ぽたりと落ちた。
「千里?」
周一兄ちゃんの声、同時に靴がこちらへ向いた。
「帰っちゃ嫌だよ。千里に会わずに帰っちゃ、嫌だよ」
首を振った拍子に雫がまた落ちた。今度はバラバラとたくさん落ちた。
「自分が逃げて行ったくせに」
周一兄ちゃんの笑う声がした。
「ごめんなさい」
「びっくりさせてやろうと思ったんだけど、びっくりさせすぎたかな」
私は言葉を失った。唇はもう言うことを聞かないほど震えていたし、しゃくり泣いているものだから言葉を発したところで、ちゃんと伝わるだろうか。だけどここへ戻ったときには絶対に言いたかった言葉が私にはあった。
勇気を出してゆっくり顔を上げると、今まで遠かったはずの周一兄ちゃんは歩み寄り、いつの間にか真ん前まで近づいていた。私はしゃくりあげながら周一兄ちゃんの姿をこのとき、初めてはっきりと見た。
嬉しかったりしたときに浮かべる仕草、照れたとき特有の表情に、何故か冷静に、確かにこんなだったと感じた。アルバムの中、ずっと見つめてきた周一兄ちゃんとは違ったけれど、違和感はなく、むしろ目の前に立ち尽くす姿を、周一兄ちゃんだ、と思えた。
たった今まで抱いていた心中のしこりはもうない。今、心は、前夜掻き回し続けた台風が退いた翌朝の秋空のように、澄みきっている。まだあちらこちらに影響を残しているが、深い安堵に包まれている町の風景のように、不安感は穏やかな安心感と喜びへと変わっていた。
身体中を巡る感情がスクスクと目を覚ます。世の中にこんな感覚があるのかと驚くほどだ。
今まで存在しなかった、欠けていた一部分が誕生したような感動が、私の身体の細部を圧迫していく。自分の半身が繋がったような不思議な感覚。また出会うことを私は大昔から知っていたような気さえしてくる。
周一兄ちゃんの瞳を真っ直ぐに見つめながら、しゃっくりの合間に、「おかえりなさい」やっと口にした私に、「ただいま、千里。長い間待たせたね」
無条件に安心感を抱かせる周一兄ちゃんの優しい声音と、様々な感情を湛えるその瞳が、長年心に巣くっていた疑念の糸を解いてゆき、心の奥底に沈めていく。そして今、目の前にいる周一兄ちゃんが私の心を埋め尽くす。
今まで絶えず失わないように抱きしめ続けた、色褪せていた記憶の断片が、色彩を帯びては、心のどこかから浮かび上がってきた。
「会いたかった」泣きじゃくりながら小さく呟く私に、周一兄ちゃんは静かに頷き、「僕も」言葉を途切れさせ、「会いたかったよ」周一兄ちゃんの唇が微かに歪んで、声が震えた。
ふたりは押し黙った。しばらくして周一兄ちゃんが、
「日本には何度か帰って来ていたんだ。会いに来たかったんだけど、また悲しい想いさせるのも、するのも恐かった。東京にいるとき会いに行くと必ず帰るときに大泣きしていたから、もう泣かせるのが嫌だったんだ」
手を伸ばせば今にも届きそうなのに、手を伸ばし触れる勇気は持てない。昔のように思いのまま周一兄ちゃんの胸に駆け込むことができたなら、どんなに幸せだろう。届きそうなのに届きはしない二人の距離を思うと、遠い空に輝く星を眺め佇む自分を連想させる。
そう、届きそうだけど、届きはしないのだ。
永遠に……。
「でもいつだったかな、一度、会いに来たんだよ」
情景を思い出しているような遠い眼をした周一兄ちゃん。
「門のトコでランドセル背負って、友達と歩いていたよ。でもすぐまた向こうに行くのにって思って。そのまま声かけずに帰った」
視線を移動した行方に、まるでそのころの場面がまるであるかのように、遠くを懐かしげに見つめながらそう話した。
「でも今だって、今回もまた行っちゃうんでしょ?」
周一兄ちゃんは視線を私に戻した。ほんのちょっと躊躇う仕草を見せた周一兄ちゃんは、何かを決意したように、静かに首を振った。
「もうすぐこっちに帰ってくるよ。こっちで暮らすことにした」
信じられない夢のような言葉に、私は目を見開いて周一兄ちゃんを見つめた。
「いいよね? 千里」
「本当に? 本当に?」
「離れているままの方がいいのかもしれないと悩んだんだ。千里はこれからだし邪魔かなと思ったんだけど」
私は首を大きく振った。
じゃ、邪魔だなんて、とんでもない!
「どうして? だって、ここは周一兄ちゃんの祖国じゃない。故郷でしょ? 誰に遠慮をすることもないよ。私はずっと周一兄ちゃんの帰りを待ってたんだよ。離れてるままの方がいいなんてどうして? どうして思うの?」
周一兄ちゃんはそれには答えなかった。一瞬、止まって、そして妙に明るく話し出す。
「ピアノの腕もスゴイんだよな。叔母さん嬉しそうに話してたよ。僕も早く生演奏聴きたいな」
「まだまだよ。目指すハードルは高いからね」
照れ隠しに微笑みながら、心の中呟いた。
私の目指すのは決して音校なんかじゃない。
周一兄ちゃん、ただひとりだよ。
2
「周一兄ちゃん。ピアノ、聴きたい」
明るい陽光が差し込むキッチンで、テーブルの上に広げた教科書とノートをしまいながら、制服姿の私は微笑む。
周一兄ちゃんは読んでいた本をテーブルに横に寝かせると、「いいよ」と立ち上がった。
周一兄ちゃんはあの夜言ったように、向こうに一度は帰ったものの、すぐに日本に帰ってきた。住まいは昔の住んでいた家ではなく、私の家からは随分離れたところにマンションを借りた。しかしピアノのレッスン日以外の学校帰りには、いつも周一兄ちゃんのマンションに立ち寄った。それまでは学校が終わるとすぐに帰宅しピアノを弾き続けていたが、同じ弾くなら独りよりも周一兄ちゃんに聴いてもらい、教えてもらいたいと思っていた。それになによりも周一兄ちゃんの側に少しでも多くいたかった。
大きくなったら泊まってもいいと昔いつも言っていたのに、周一兄ちゃんは必ず夜になると私を帰らせようとした。
私は面白くない。この間もこんなやりとりをしたばかりだ。
「もう大きくなったもん」
「外泊はだめだよ」
「じゃあ何歳になれば泊まれるの? いつまでも子供扱い」
私は口を尖らせて抗議した。
「女の子はいくつになっても男性の家に泊まったりしてはだめなんだよ」
「そんなの答えになってない! 親みたいなこと言わないでよ。相手は周一兄ちゃんだよ? 親だってそんなカタイこといわない」
「じゃあ、また今度。今日はお兄ちゃん送っていくから、一緒に帰ろうな。また明日くればいいんだから」
「今度っていつ? ちゃんとカレンダーに書き込んでよ」
「参ったなぁ。昔より達者になってる」
周一兄ちゃんの困り果てた姿が悲しくて、渋々腰を上げたものの、私は納得がいかなかった。
周一兄ちゃんはピアノの前に座ると、
「いくよ」
周一兄ちゃんの声に私が静かに頷くと、流れ出す旋律。相変わらず弾くのはショパンの『別れの曲』。
亡くなった周一兄ちゃんのお母さんは、この曲が好きで、テープレコーダーでお父さんの弾く旋律をいつも聴いていたらしい。お母さんがなくなり、しばらくはピアノを弾くこともできなかったお父さんが、次にピアノを弾いたのはこの『別れの曲』だったという。
学校から帰宅した周一兄ちゃんが、ピアノの音に誘われて窓から中を覗くと、そこには号泣しながら懸命に演奏する父の姿があった。周一兄ちゃんは父を怨んだこともあったが、父の方が悲しいに違いないと思った。それからというもの、以前よりも素直にピアノを受け入れ始め、ピアニストを夢見るようになったらしい。
私は、周一兄ちゃんの弾く『別れの曲』を聴きながら、幼い日の光景を思い出す。黒く大きなピアノに違和感を抱いていた自分。眼に映った途端胸を打つ迫力に、近寄りがたさを感じていた自分。
成長した今では少しはマシになったものの、やはり存在感に近寄りがたさを感じるのは相変わらずで、幼い頃は分からなかったけれど、もしかするとこれは嫉妬かもしれないと最近では感じる。どれほど周一兄ちゃんがピアノに愛情を抱いているかを、あの頃から私は誰よりも知っていたから。
それでも癒され、生きていることを実感できるその瞬間が、たまらなく私には大切だった。
あの当時、周一兄ちゃんのピアノ演奏には、活気や強さが足りないと言う者がいた。周一兄ちゃんは音楽大学を卒業後、移り住んだフランスのパリで、師事したピアノ教師と出会えたことで、それを乗り越えられたと私に話した。
でも違う、そうじゃない。昔からこうだったのだ。周一兄ちゃんのピアノ演奏は、昔から少しも変わってはいない。
あの頃の私は、奏法のことなど当然知りもしなかった。演奏会にもコンクールにも行った記憶はないから、そのとき周一兄ちゃんの演奏がどうだったのか、私は知らない。
だけどひとつ言えることは、本来周一兄ちゃんが持っていた技術を本番でも出せるようになったのだということ。東京なんかに行かなくても、パリにウィーン、そんな遠いところに行かなくても、ちゃんと弾きこなせていた。
活き活きとした素晴らしいピアノ演奏。ときには花びらが舞うように切なく。ときには燃えさかる烈火のように熱く。またあるときは光のまったくない洞窟のように暗く。そう、周一兄ちゃんのピアノ演奏は、まるで絵本のようだった。瞳を閉じて聴けば、そこにはいつでも無限に景色が、壮大な世界が広がって、物語る。そして大いなる感動を与えてくれた。私だけが聴く周一兄ちゃんのピアノ演奏は、昔から一番素敵だった。
ピアニストになりたいと、私の前から去った周一兄ちゃんは、確実にコンクールで賞を取りながら夢を現実のものにしていった。国際コンクールであるショパン・コンクールのときは小さい記事だけど雑誌に載っていた。そのときの切抜きを私は今でも大事に持っている。
離れている間は、周一兄ちゃんがとても遠い存在の人のような気がしていた。その「遠い人」が、今では同じ部屋で、自分のためにピアノを演奏している。このような幸せに満ちた瞬間は、いつも夢ではないかと不安になった。そしてまたいつの日か、周一兄ちゃんが突然遠くへ行ってしまうのではないかと、悲しい出来事を予感してしまう。昔はただ愛情と感動を受けて、あんなにも魅せられていたのに。
さっきまで窓を透かして映えていた夕焼けの紅色が、濃い蒼紫へと変化する頃、
「暗くなるといけない。そろそろ送るよ」
周一兄ちゃんは鍵を手に取った。
「今日はご飯食べて帰るからまだいいの。今日は私が作るからね」
私はテレビを見ながら余裕の表情だ。ずっと大人の女性と認めて欲しかった私は、堪りかねず今日こそはと強気の作戦を練っていた。
「まーたそんなこと言う。困ったな」
周一兄ちゃんは頭を掻いた。
「なんで困るの? もう夜中に泣き出したりしないよ」
「なにかあったら困るだろう?」
「なにかってなに? 周一兄ちゃんがいるから平気だよ」
「うん。それは、そうなんだけど、そうでもなくて」
周一兄ちゃんは口ごもりながら鍵をテーブルに置いた。
「本当にご飯だけだよ」
電話の受話器を手に取った周一兄ちゃんの手からそれを奪うと、私は電話機に戻しきっぱりと、
「お母さんには言って来た」
「ほんとに?」
「今日は周一兄ちゃんとこで手料理を作るって言ったら、周ちゃん喜ぶわねって言ってたよ。なんなら明日は学校
休みだし泊まってもいいって言ったよ。でも周一兄ちゃんは、喜ばないんだね」
周一兄ちゃんは参ったな、という表情を浮かべる。私は目を逸らした。
「そんなに千里は邪魔?」
「そんなことはないよ。邪魔だなんて思ってない」
慌てて首を横に振った周一兄ちゃんを横目で見ながらため息をついた。
「昔はなんだってちゃんと真っ直ぐに答えてくれていたのに、今は全然だよ。なに考えているのかサッパリ分かんないよ」
この部屋は外気の温度を時々忘れさせる。こんな言い合いを始めたときは、特に。
「そうだよね」
周一兄ちゃんは言葉を詰まらせ、ため息をついた。
「どうして千里が泊まったら困るのかちゃんと説明してよ。夜になったら彼女でも来るの? だから千里を早くに帰すの? それならそう言えばいいじゃない!」
「おませだなぁ。まったく」
周一兄ちゃんは苦笑した。そして深く頷きながら、
「そうだよね、ちゃんとお兄ちゃん話すよ。そこ座って」
周一兄ちゃんはキッチンのテーブルに近づいて行き、椅子に腰掛けた。私も周一兄ちゃんに続いて、テーブルを挟んで向かい側の椅子に腰掛けた。私を真っ直ぐに見つめ、大きくなったね、と周一兄ちゃんは呟くと一息ついてから、
「あのね。周一兄ちゃんも、一応男なんだよね」
思いがけない言葉に、私は戸惑い言葉に困った。
「分かってる。そんなの、もちろん知ってる」
周一兄ちゃんは首を振った。
「分かってないよ。千里は、分かっていない」
気まずい沈黙。
周一兄ちゃんは、手をテーブルの上で組んで、落ち着いた様子で。
「さっき僕と一緒だから平気だと、千里は言ったね。だから、分かってないと思う。先も言ったように僕は男だ。そして」
内心はなにを言い出すのよ~! と焦る気持ちを必死に押し隠していた。
周一兄ちゃんは、一旦言葉を止めた。躊躇いののち、顔を上げた周一兄ちゃんは私をまっすぐに見てはっきりと、
「そして千里、君は、女性だ」
あまりにも真剣な周一兄ちゃんの顔つきと、今まで話したことのなかった話の内容に、私は明らかに動揺し、周一兄ちゃんを見つめ返した。瞳を逸らす、それすら忘れていた。
慌てて視線を空に漂わせ、強がるがあまり、ツンとした口調で口走る。
「千里、周一兄ちゃんだったらいいもん!」
周一兄ちゃんは首を傾げ冷静に尋ねる。
「いいって、なにがいいの?」
周一兄ちゃんは今の言葉をどう受け止めただろう。私をどう思っているだろう。ふしだらな女の子だと思っているだろうか。
違う、違うよ。私はただ昔のような子供ではなくなったことを認めて欲しかっただけなのに。
言葉を必死になって探してみたけれど、結局なんと返していいのか分からずに、恥ずかしさに耐え切れずに下を見た。赤地に紺と緑が交差するスカートの格子柄に添えられた手の甲を必死に見つめた。そして私は初めて真剣に自分自身の心に問いかけてみた。
もしも周一兄ちゃんに迫られたら私はどうする? どうするの?
「千里、顔を上げて、お兄ちゃんの目を見て答えて。なにがいいの?」
私から目を逸らすことなく見つめる周一兄ちゃんの強い視線を、見取らずとも感じていた。それはとても鋭くとがっていて、痛い。
「私はもう子供じゃないの」
震えた。こわくて身体が震えた。周一兄ちゃんは好きだけど、周一兄ちゃんとこんな話をするのは嫌だった。千里は女性だと言われ、この上なくうれしいはずなのに、その言葉を求めていたはずなのに、実際言葉にされると、身体が硬直して、震えた。男とか女性だかという単語を、こんなにも厭らしく感じたことはない。それでもなお私は口走る。
「私は、私は、もう、あの頃と違う。昔の私じゃない」
「その通りだよ。千里は子供じゃない。子供扱いしてないから帰すんだよ。千里は確かに大きくなった。もうあの頃とは違う。千里は安心しているのかい? 兄妹みたいに育った従兄妹同士だから」
恋しい気持ちは確かにあるはずなのに、周一兄ちゃんとベッドに潜って身体絡める合うことなど想像したことはなかった。
私は下を向いたまま身動きできずに硬直した。どこかで安心しきっていたのは確かにある。自分は好意を抱きながらも、二人きりでいてなにも起きるはずはないというのは、あまりにも矛盾している都合のいい考え方だ。
しばらくの沈黙の後、周一兄ちゃんはきっぱりと、
「従兄妹として言いたい言葉は、はっきり言葉にできないようなことを簡単にいいと言わないで欲しい。それと一人の男としては、責任がもてないから君をこの家に泊めることは出来ない」
また沈黙が続いた。私は周一兄ちゃんの様子を盗み見る。
周一兄ちゃんは怒っているのか、それとも呆れているのか、テーブルの上の鍵を、まるで睨んでいるかのような強すぎる眼差しで見つめている。私はそんな周一兄ちゃんにとても悲しくなって、再び肩を小さくして下を向いた。
「さっき千里は、彼女が来るのかと言ったね。でもここには誰も来ないよ。そういう相手がもしもいたとしたら、その相手にも、同じことを言うよ。千里だからじゃない、今はどんな女性にもきっと今言ったのと同じ事を言う。僕はピアニストとしてまだ駆け出したばかりで結婚などは考えられない。もちろんそんな僕には誰かを幸せにすることなどできない。だから、僕はどんな女性にも、同じことを言う。分かってくれたかな」
私は小さく頷くだけの返答をした。それからまた沈黙が流れて、しばらくして椅子が床を擦る音がした。私はふっと解かれたように顔をあげる。周一兄ちゃんが食器棚へ移動していく。
「なんかお説教みたいになっちゃったな。ごめん。びっくりさせて。千里が小学生だったら泊めてあげるのに、大きくなりすぎたよ」
周一兄ちゃんはやっと笑みを浮かべた。いつも通りの優しい笑い顔を見た途端、目頭が熱くなった。
わがままを言うたび、無理なことを言い出すたび、私は今までこの笑顔に、ずっと守られてきたんだ。無防備に押しかけても、周一兄ちゃんのこの誠実さにずっと守られていたんだ。
「さぁ、終わりだ。叔母さんものんきだよなぁ。こういう話は母親の叔母さんがしてほしいよ、まったく。ちなみに叔母さんだったら泊めてあげてもいいかな」
周一兄ちゃんはいたずらっぽく笑いながらコーヒーを入れて戻ってきた。そして私の前に置いた。
カップからはゆるやかな湯気が、ほわほわと揺れながら漂い出る。
その優しく温かい湯気が、私の硬直した心を解きほぐしてくれた。
周一兄ちゃんが椅子に戻りカップに口を付けたとき、私は上目遣いに周一兄ちゃんを見てやっとのことで、「ごめんなさい」と小さく呟いた。周一兄ちゃんは何度も頷き、コーヒーに手を軽く差し伸べた。
「もういい。いいから、さぁ、飲みなよ」
私はコーヒーのカップを手に取った。真っ白なカップを両手で大きく包んで持ち、湯気に息を吐くと白いゆらゆらは方向を変えた。
「私、子供扱いされているんだって思っていたから……、それを解きたかった。でも私やっぱりまだ子供みたい」
私はカップにそっと口をつけた。
昔、周一兄ちゃんが飲もうとしていたコーヒーを私は欲しがり、周一兄ちゃんは、「まだ小さいからだめ。もっと大きくなってから」と私に言い聞かせたことがった。そんなことをふと思い出した。
「千里は昔、よく欲しがっていた」
周一兄ちゃんのその言葉に私は顔を上げた。周一兄ちゃんは手にあるコーヒーカップを懐かしそうにぼんやりと見ていた。
「うん、私も思い出してた。そうだったね」
「どうしても欲しがるからやると、苦いにがいって大騒ぎしてたよな」
クスクスと思い出しながら笑う周一兄ちゃんの姿を見ながら思った。
周一兄ちゃんは私が泊まったとしても指一本触れはしないはずだ。たとえ私が一方的に求めたとしても、きっと私を守ろうとする。周一兄ちゃんはそういう人だ。周一兄ちゃんの先ほど言った言い分が泊まらせることを拒む理由ならば、昼夜関係なく簡単に家に入れたりはしない。昼間のこうしている間だって同じなのだから。
そしてどんなに時を経てもそういう対象に私はならないかもしれない。周一兄ちゃんの中ではきっとまだ小さな子供のままなのではないだろうか。
十二歳という年齢差という事実、それは私がいくら成長したところで決して追いつくことはない。周一兄ちゃんだって生きている限りはその分大人になっていくのだから。
でも、それじゃあどうしてあんなことを言う? 私の行動が、私が持っていたあの矛盾した都合のいい考えが、危なっかしく思えたからだろうか。もしも他の男の人だったら……、そう思ったから周一兄ちゃんはあえてこんな話をしたのかもしれない。やっぱり私は子供だ。性的危機感と自分を守る術を知らない子供。
「あ~、それと、千里。いい機会だから言うけど、そのチョンチョンのスカートの丈、どうにかならないかな」
「え? なに?」
「目のやり場にすごく困るから」
「周一兄ちゃんのエッチ。なに言いだすのよ」
「エッチって。違うから言ってるんだよ。本当のエッチなら注意なんかしないで黙ってみてる。もう二歳じゃないんだから、その短さは、おかしい」
「普通だもん。長いほうが変だもん」
「そんなスカートはいてて、こわ~いおじさんに連れて行かれてもお兄ちゃんしらないからな」
周一兄ちゃんは悪戯っぽく、「千里、コーヒー、苦くないか?」と訊いて笑った。
私は拗ねた表情でもうさすがに苦くないよと言ったが、実は苦かった。
今はどんな飲み物であっても苦かったと思う。それがたとえホットミルクだったとしても。
幼い頃の私は、大きくなれば距離が狭まり周一兄ちゃんに近づけるのだと信じていた。でもそれは逆だったと今では思う。あの頃ならば当たり前にしていたことができなくなって、距離はあの頃よりも開いてしまったような気がする。
周一兄ちゃんが本当に私を女性だと思っているかどうかは分からないけれど、昔とは違うのだと言ったことは本心だと思う。私だって、周一兄ちゃんに昔のようには甘えられない。意識という名の隔たりを持つ間柄に、変わってしまったのだ。お互いに。
いつまでも変わらないもの、それは私の中に未だにある、幼い頃芽生えた恋心だけ。それだけが時を越えて生き続けている。
私はもうあの日以来、泊まるとは言わなくなった。そして少しだけスカートの丈を長くした。周一兄ちゃんの抱く私への見解を気にする前に、私の方こそ一人前の女性としての自覚を、もたなければいけないと思った。
時々手料理を周一兄ちゃんのために作る。初めて作ったのは肉ジャガだった。出てきた肉ジャガを一口食べるなり周一兄ちゃんは感嘆の声を上げた。それから箸を口に運ぶ度に美味しい美味しいと褒めてくれた。少し大げさなリアクションは、海外での生活が長いせいだろうか。
私は最初に箸を手にしたままの状態で、周一兄ちゃんの喜ぶ顔に、目を細めてニコニコ笑っていた。
「本当はどんな料理が出てくるか心配してなかった?」
「してた!」周一兄ちゃんは笑って、「ウソウソ。でも正直、こんな美味いとは思わなかったよ」
「周一兄ちゃんは外国生活が長いから、肉ジャガがいいねってお母さんと話していたの」
「そう言えば、叔母さんも煮物とか美味かったなぁ。懐かし~い」
周一兄ちゃんは食べかけの肉ジャガに、言葉どおり懐かしげな眼差しを向けた。
「ねぇ、向こうに彼女いたの?」
口に運びかけたジャガイモをポロッと落とした周一兄ちゃんは、「なに? 急に。なにを言いだすんだよ。変なこと言うから落としたじゃないか」と慌ててジャガイモを拾った。
周一兄ちゃんの言動から、明らかな動揺を察して、私は茶目っ気たっぷりに睨んだ。
「あら、別に変なことじゃないわよ。周一兄ちゃん十年も向こういたんだし」
慌てて拾ったジャガイモを手に取ったまま、
「そんな余裕はないよ。向こうにいる間はピアノに夢中で、そんな暇なかった。ほんとほんと」
怪しいものだ。私はティッシュの箱を周一兄ちゃんの前に差し出しながら、
「ふうん。でも向こうの女性は肉ジャガなんか作らないよね」
周一兄ちゃんはティッシュにジャガイモを移しながら、「そりゃ、作らないよ。似たようなものなら」と言ったあと、私に目を移した。私が箸をくわえたまま笑みを浮かべているのに気が付くとわざとらしく咳払いをして、言い直した。
「作らない、だろう、と思う」
「なに、それ。周一兄ちゃん分かりやすいね」
二人して笑った。そして食べた。
向こうに彼女と呼べる人は確かにいたかもしれない。いやきっといただろう。しかし今ここにいるということはその誰も運命の人ではなかったということ。
二十七歳でもしも大切な人がいるならば、その人を置いてわざわざ日本に帰っては来ないだろう。周一兄ちゃんは寂しい思いをたくさんしたようだ。だからこそ、誰よりも温かい家庭を望んでいるはずだ。
私はそれからも色々な料理を周一兄ちゃんのために作った。だが一番作りたかったものが作れていない。それはイチゴジャムとイチゴ水。
クリスマスにはイチゴジャムをプレゼントしよう。イチゴ水を作り、ご馳走を作ろう。周一兄ちゃんが喜ぶ様子がすぐに想像できて、私はその思いつきに鳥肌がたった。たまらなく嬉しい。今年はなんて素敵なクリスマスだろう!
そんなことを思い浮かべながら、心がうきうきした。昔の私ができなかったことが、今ならば出来る。
距離は開いてしまったけれど、今だからこそ出来ることだって実はいっぱいある、あるんだ。
次に周一兄ちゃんの家にきたときにも、とても明るい気分で周一兄ちゃんの部屋のドアを開けた。
「ねぇ、クリスマスは空いてるよね?」
私は宿題の手を休めて切り出す。
「空いてるよねって、なんか失礼な訊き方だよな。決め付けている感がある」
周一兄ちゃんは楽譜から顔を覗かせて苦笑した。
「あら? 予定あるの?」
「あるよ。当然」
周一兄ちゃんは鍵盤を中指でそっと撫でながら、「リサイタルがあるよ」
私は勉強どころの騒ぎじゃない周一兄ちゃんの返答に、「なんでよ。なんで?」と私はピアノまで駆け寄った。
「あのさ、忘れてない? こう見えてもピアニストなんですけど。当然クリスマスははずせないだろ」
周一兄ちゃんは冗談めかした口調で言ったあと笑った。宿題の再開を促す周一兄ちゃんを、私は黙り込んだまま見つめ続けていた。
「千里も友達とか家族と過ごしたらいいじゃない。お兄ちゃん、心配だぞ。レッスン以外はずっとうちにこうして
毎日来てばかりで、友達とか……いるんだろ?」
周一兄ちゃんがせっかく帰ってきたのに、友達なんかと遊ぶ気にはならない。離れていた十年の時間は取り戻せないけれど、だからこそ周一兄ちゃんと少しでも一緒にいたい。かたときも離れたくなかった。だけど周一兄ちゃんは違うんだ。
「同年代の方が楽しいだろう。話も合うし」
「いいよ、もう」
私は拗ねたように呟いた。
周一兄ちゃんの指が忙しく鍵盤を走る。
部屋を流れるのは、ショパンの『幻想即興曲』正式名『即興曲第4番 嬰ハ短調』。私は『別れの曲』に負けず劣らずこの曲が好きでしょっちゅうリクエストする。だがショパンの曲はどれも美しく、大好きだ。
確かに周一兄ちゃんはショパンの曲を特によく弾くけれど、もちろんショパンだけではない。ベートーベンだってモーツァルトだって、シューベルトにドビッシーにリストにバッハ。なんだって弾きこなすのはお手のもの。
周一兄ちゃんが演奏を終えると、私は思い切り拍手した。
「ようし、じゃ、じゃあね、次は夜想曲第二番!」
「千里、音高受けるんだよね?」
周一兄ちゃんが平然とした表情で不意に言ったので私は面食らった。私は戸惑いながら注意深く、無理だろうけど、と呟いた。
「ってことは、音楽の道に進むの?」
周一兄ちゃんさえ受けなかった音大付属の高校を進路にしているのは確かだが、それが自分の実力に及んでいないと指摘されるのではないかという不安と、周一兄ちゃんへの遠慮もあったかもしれない。私はとても複雑な気持ちで周一兄ちゃんから目を逸らし返答の言葉を慌てて探した。
「どうしたの? 千里?」
「無理だと思う、そんなこと。周りが勝手に受けろっていうから」
「千里なら大丈夫だよ」
耳を疑うその言葉に私は、周一兄ちゃんを凝視した。
「僕の聴く限り、千里は受けるべきだと思う。でも千里は周りが言うから受けるの?」
沈黙が流れた。私にとってはどんなにお偉い音楽家よりも、どんなに腕のいいピアノ教師よりも、周一兄ちゃんは一番の師だ。
その周一兄ちゃんが言うのだから私は喜びと驚きに言葉もなかった。願ってもみない言葉に、瞳の奥がツンとした。
「千里自身の気持ちは? 音楽の道に進みたいのかい?」
私は視線を、ピアノの前に座っている周一兄ちゃんに戻した。どんな言葉を返せばよいか分からなくて、また沈黙が流れた。
「どうしたの? 千里」
周一兄ちゃんは立ち上がり私に近づこうと歩を進めた。私は焦った。なにか言わなくてはいけないと。
「どういえばいいのか、分からないの」
今にも泣き出しそうな表情を浮かべ、視線を床に落とした。
「自分の思っていること、素直に言えばいい」
「だって、周一兄ちゃんだって音大の付属は行ってないのに私なんかがって思うでしょ?」
「思わないさ、そんなこと。それに僕は行けなかったんじゃなく、行かなかったんだよ。受験しなかった」
「どうして行かなかったの? 周一兄ちゃんは音楽が好きだったのに、どうしてこんな田舎にずっといたの?」
周一兄ちゃんは苦笑し、ため息をついた。
「千里までそんなこと言うのかぁ。簡単なことだよ。ここが好きだからだよ」
周一兄ちゃんは微笑んだ。私は腑に落ちない顔つきで、周一兄ちゃんを見たと思う。窓に向かってゆっくりと歩き出した周一兄ちゃんを、私は眼で追った。
「ここって言うよりも、千里の側にいたかったんだよ。いつも独りで孤独だった。それが嫌で、嫌で。三歳の千里が泣いているお兄ちゃんを見たとき、頭撫でながら、千里がいるから寂しくないよって言ってオモチャの指輪をくれた。それからは毎日のように家に来るんだ。いつまでもそんな千里の側にいたかった。千里と過ごす日々の幸せから、離れたくなかった。本当に、不思議なほど寂しさを感じなくなっていったんだ」
カーテンを静かにずらし、周一兄ちゃんは窓の外を眺めた。私は周一兄ちゃんの背中に、
「でも行っちゃった」
「音大は仕方なかった」
周一兄ちゃんはカーテンを戻した。
「音楽の道に進みたい意思がある以上、もうあれ以上自分勝手は出来なかった。今の千里なら、分かってくれるよね?」
振り返り訊いた周一兄ちゃんに、私は大きく頷いた。
ピアニストの夢を叶えるためには、選ばなければならない選択だった。
それに音大に行くことは、音楽家になる場合も、なれなかった場合でも、どちらにしても有利だ。
もしもピアニストになれなかったとき、教える際にも随分違う。私の親もそうであるように、音楽を理解していない人たちにとってはその人の演奏などではなく、大抵は出身の大学や経歴を調べ、教えを乞う。音大が一番有名であることは言うまでもない。
音楽だけに全てを捧げていた周一兄ちゃんにとっては当然の道だった。もちろん音大で学ぶことで得る知識と技術のためであることはいうまでもない。
周一兄ちゃんが言ったように、今の私には、それが分かる。
「さぁ、すっかり日が落ちてしまったね」
鍵を手に取った周一兄ちゃんに私は焦り出す。周一兄ちゃんが帰国してから、ずっと訊きたかったことがある。
音高を目指していたのは、単に周一兄ちゃんに近づきたかったからだ。周一兄ちゃんが側にいてくれるのなら、私は音高など、はっきり言ってどうでもよかった。今までは、恐くて訊くことができなかった。でも今訊かなくてはずっと訊くことは出来ないだろうと思った。受かってから焦ってももう遅い。
「もし東京で高校受かったら、また離ればなれになってしまうね」
私は俯き加減で、周一兄ちゃんの後ろ姿に告げた。
「受かったら、周一兄ちゃんも東京に出てくれる? 一緒に」
躊躇しながらやっとのことで訊いたのに、
「いいよ」
いとも簡単に返ってきた嬉しすぎる返答に、私はすっかり拍子抜けした顔つきで周一兄ちゃんを見つめてしまった。
「実は僕も東京にきてほしいと頼まれているんだ。そのように返事しておくよ」と周一兄ちゃんは付け加えた。
「きゃあ! 本当に? 夢みたい! 夢みたい!」
私は思わず周一兄ちゃんの手を握り締めて飛び上がり喜んだ。周一兄ちゃんと共に東京に住めるという夢のような話は、頬を紅潮させた。
今、停まっていた心の風車が再び回り始めた。風車から旅立って、野原、そして町を通り抜ける澄みきった風。それらが心に映し出されたそのとき。
「おいおい、受かったらの話だよ。だから頑張らなくちゃだめだぞ。受からなかったら、またまた離れ離れだなぁ」
まるでもう合格したかのように喜ぶ私の様子を見て、周一兄ちゃんは冗談交じりにとがめた。周一兄ちゃんの言葉に、私は動きをとめた。突然不安になった。もう心には風車も野原もない。
「どうしよう。私、合格なんかできないのに」
焦り始めた私を横目に見て、「うーん、そうそう簡単にはいかないぞ。キツイかもなぁ。音高はかなりレベル高いんだよね」と意地悪な表情を浮かべた。
「え~、だってさっき、千里なら大丈夫だって言ったじゃない!」
「しらなーい。僕、試験官じゃないしぃ」
周一兄ちゃんはそう言いながら鍵についているキーホルダーをクルクル回しながら笑った。
「だってああでも言わなきゃ、千里何も話してくれないからさ」
私の不安な気持ちを察して言っただけの言葉だったということだろうか。
私は最初から、音楽大学付属の高校など受かるはずがないと、口にはしないけれど正直なところそう思っていた。今もその気持ちはある。それでも私はそれから毎日、夜遅くまでピアノに向かった。
合格しなければまた離れてしまう。私だけ取り残される。そんな焦りが音を狂わせた。実のところ、私はピアニストになりたいとは思ってはいなかった。周一兄ちゃんへの憧れイコール、ピアニストという図式が頭にあるのは事実だけれど、実際に周一兄ちゃんの実力と自分の実力とはかなり違う。
私は悩んだ。ピアニストを目指す若者の多くは中学の時点でもう自分たちの将来を決め、毎日毎日練習を積み勉強しているそうだ。ピアニストを目指すならばできるだけ早い時期に決め、それに向かって教育を受ける必要がある。だが音楽を将来やっていかないのならば、また迷いがあるのならば、普通の高校でもレッスンさえしっかりとやっていけば良いと周一兄ちゃんは言っていた。迷っているならば練習だけは十分にやり、ゆっくり考えればいいと言ってくれた。そして音高だけにこだわることはなにもないと。
私は学校から帰ると一日最低でも五時間はピアノに向かっていた。周一兄ちゃんが帰国してからの私は、ピアノは二の次になっていたから、その分まで取り戻そうと必死だった。
周一兄ちゃんと離れないためには音高しかない。どうしても周一兄ちゃんの側を離れたくはない。周一兄ちゃんと離れないためには、音高になにが何でも受からなければならないのだ。
切羽つまった心の焦りをなだめるために、より一層私は楽譜に眼を落としては、鍵盤に指先を走らせた。
「ねぇ、お父さん」
今日は日曜日で、父の仕事は休みだ。キッチンに座りさっきから新聞を読んでいる父。私は静かに近づいていく。父の座っている前の席に座った。
「ん?」
父は新聞を横にずらし、眼鏡の隙間から私の顔を上目遣いに見た。
「もしも、音高、受からなかったら、東京に行っちゃダメ?」
父は少し考えてから、ため息をついた。また新聞を読み始めた、と思ったら信じられない言葉を口にした。
「別に構わないよ。音大付属じゃなくても東京の普通の高校受けたらいいじゃないか」
「え? いいの?」
私は身を乗り出した。勢い込んで手のひらをついたせいでテーブルがガタガタと揺れた。父は新聞をたたみ、テーブルの上に置いた。
「千里がそうしたいならそうすればいいじゃないか。本当はどこにも行かんで欲しいが、音楽の高校に行くと言い出したときに覚悟は決めた。あとは自分で決めなさい。自分の人生じゃないか」
それまで立ち聞きしていた母が割り込んできた。洗濯物を干し終えた直後らしく空の洗濯カゴを抱えている。
「なに言ってるの。お父さん、ダメよ。千里はまだ十五なのよ」
「お母さん、いいじゃないか。周一もついているんだし大丈夫だよ」
「周ちゃんがついているとかついてないとかじゃなくて、離れたくないのよ」
お父さん、知ってるの? と私は言いかけたが、母の声に圧倒され消えてしまった。
「お母さんは千里が音楽をするから東京に行かせるのか? 違うだろう。自分で決めたんなら親がどうこう言っても仕方ない。音楽の高校がダメでも他の高校でいいじゃないか」
「それならなにも東京じゃなくてもここから通えるでしょ」
「東京で勉強したら次は音大を狙えるじゃないか。こんなところにいて受からんよ。周一じゃあるまいし。あいつは外国でも小さい頃から勉強してきているから合格できたんだぞ。千里は別に外国に行くって言っているわけじゃないんだ。それに結婚がすこし早まったようなもんだ」
「もう。お父さんたらのんきね。私は反対だわ」
母は首を横に振った。
「今でも千里はピアノを習うために週二回、ここから先生のところまでバスと電車を乗り継いで、一時間も掛けて行かなければならないんだろう。可哀相じゃないか」
「だからこんなところに家を買うのは嫌だったのよ」
母はボソボソと抗議した。私は父に手を合わせ、感謝の気持ちを瞳で届けた。父は煙草に火を点けて、フゥーと吐いた。
「千里、おじいちゃんはね、音楽を押し付けてくる人でね。お父さんは嫌だった。おじいちゃんの時代は戦争の時代で、家が貧しかったもんだから、音楽をさせてもらえなかったらしい。それで自分の夢だった音楽をお父さんたちに向けたんだ。ピアノが出来ないと人間じゃないみたいに言われたこともある。どうして教育を受けているのにお前はできないんだ、ってな感じだ。お父さんはそれがとても嫌でね。兄さんは出来が良くて自分は落ちこぼれみたいな扱いだった。周一も見ていてかわいそうだったよ。勉強のためにあちこちやらされて。だから自分の子供にはね。自分の思いは押し付けないようにしようと心に決めていたんだよ。平凡でもいいから、自分の決めた道を歩んでほしいと願っていた。本当はどこにも行かせたくないよ。正直に言えば千里には音楽などせずに、普通の若者のように普通に遊んで、普通に勉強して、卒業したらお勤めにでて、普通にお嫁に行ってほしい。そりゃあ離れたくないよ。それはお父さんだって、お母さんと気持ちは同じだよ」
父は優しい口調で、
「でもそれは、お父さんの勝手な理想だ。押し付けるつもりはない。それに嫌になればいつでも帰ってきなさい。千里の家はここだから」
母はいつの間にかすすり泣いている。私も目が潤んだ。父は何度も頷き、タバコを灰皿に擦りつけ立ち上がった。
「千里、お父さんはなにもお前が決めたことに反対はせんからな。結婚のときにもだ。だからこそ、自分でしっかり考えるんだよ」
そう言い残し、外へ出かけてしまった。
「お父さん」
テーブルに身を屈めて呟いた。瞳から大粒の熱い涙がテーブルの上に落ちた。
私はこんなにも強く優しい愛情に守られて生きてきたんだと、心から実感した瞬間だった。そして父の気持ちなどこれっぽっちも考えてはいなかった自分を恥じた。自分のことしか考えていなかったのが情けなかったこと、父が自分の心の内を心から理解してくれていることが嬉しかったこと、周一兄ちゃんともう離れなくていいという安心感、それら全てが一緒になって私の心を埋め尽くした。
どうして父は結婚のことなど持ち出したのだろう。気が早いよ、お父さん。
でももしかしたら、花嫁姿を見せてはあげられないかもしれない。
千里は、周一兄ちゃんが好きだから。
もしも相手が周一兄ちゃんでも、お父さんは反対などせずに、祝福してくれるの?
お父さんのいうような普通の結婚じゃなくても、今のように味方になって、祝福してくれるの?
3
今年のクリスマスは、周一兄ちゃんと一緒に過ごせない。けれど構わないと私は思った。これからも一緒にいられるのなら来年か再来年は過ごせるかもしれない。今まで離れていたことに比べれば贅沢は言えない。周一兄ちゃんの予定が空いているときには一緒にいられるのだから。
私はインターホンを鳴らした。留守のようだ。でもこんなときのために合鍵を周一兄ちゃんはくれていた。
『合鍵』という言葉を囁くのは、甘い飴玉を舐めるときの感覚に似ていた。あまくて、かるい。だけどしっかりと重さが確かにある。
けれどもその重さは幸せの重量だ。
合鍵、合鍵……。恋人同士のようなその響きを何度も囁く。そのたび顔がほころんだ。
不自然なほどに照れて、ニヤついてばかりで、なかなか鍵を差し込めなかった。
「留守に来たときにはまずこの鍵で中に入って、携帯に電話してくれればいいよ。もしすぐ帰れる状態の時はそのまま待っていてくれたらいいし、帰れないなら待っていても仕方ないからね。とりあえず電話して」
周一兄ちゃんはそう話し私に鍵を渡した。そのことを思い出し、電話をかけた。しかし留守番電話だった。
私は冷蔵庫を開け牛乳をグラスに注ぎ込み、それを一気に飲み干した。
周一兄ちゃんのいないこの部屋は初めてだった。典型的なA型で、性格的に少し細かい周一兄ちゃんの部屋は、生活感をあまり感じさせない。
O型で大雑把な私の部屋にはすぐに物が発生する。年齢と、異性である違いだろうか。
私の想像する男の人の部屋は、カップラーメンとかが食べたままになっていたりして、もっと散らかっている部屋。でも周一兄ちゃんの部屋はまるでモデルハウスのよう。床は光を受けていつもピカピカ光っているし、テーブルにも何もなくスーッとしている。
本当のところ、家事は男の人の方が向いていたりするのかもしれない。事実、両親を見ていても、母親よりも父親の方がきれい好きだったりする。
周一兄ちゃんは父方のそういう部分を受け継いでいるのだろう。そしてどうやら私は母方の血を多く受け継いでいるように思う。泣き虫で、やや楽観的な性質はかなり母方に傾いている。おまけに寂しがりや。
小さい時、片づけについては母より周一兄ちゃんの方がうるさかったことを思い出した。そして周一兄ちゃんは掃除だけではなく料理も上手で、周一兄ちゃんの出し巻き卵は美味しかった。焼けたよと言って皿に載せられた出し巻き卵は、黄色にキラキラ光り、温かくふうわりとしていて、大好きだった。またあれ、食べてみたいな。
再び澄み切った部屋を見回してみる。そこには寂しさを感じた。それは待ち人がなかなか帰ってこないことだけが理由ではない。
料理をするとき、足りないものを買いに行ってもらったことはあったけど、あのときは忙しく食事の支度をしていたので気づかなかった。この部屋は、どこかとてもシンプルすぎて寂しい。寂しがりやな私には、たとえ散らかりものであっても、そこに存在していてほしい。
周一兄ちゃんがこんなところに独りで過ごしていることが、ほんの少し哀しい気がした。でも物静かな周一兄ちゃんにとってはこの部屋と独りきりの生活が落ち着くのだろうか。
私は何気なくリビングから出た。玄関から向かって右手にリビングがあり、突き当たりにも部屋がある。そういえばあの部屋には一度も入ったことがない。どんな風になっているのだろう。
私は興味本位でその部屋のドアをそっと開いた。ベッドとデスクが隣り合って置いてある。あとは本棚が置いてあるだけで他には何もない。
とても薄暗い部屋だった。カーテンは重たさを感じる素材で作られているようで、色はグレー。それが光をほとんど遮断している。こんなにも暗さを感じるのはきっとそれが閉じられているからだと思った。その合わされたカーテンとカーテンの隙間から漏れた光が、ベッド上に幻想的な一筋の線を描いている。
触れたい、と思った。その瞬間、私は焦って目を逸らす。
逸らした視線の先にはデスク。書き物をするわけでもないのにこんなものがあるなんてなんだか可笑しいと思った。
一度逸らした目をベッドへと再び戻した。ベッドの傍らにそっとしゃがみ込んだ。勇気を出して手を伸ばし、シーツにそっと触れてみた。
ベッドの上、まだある、温もりの残存。ここに周一兄ちゃんはいたのだ。私は瞳を閉じて、周一兄ちゃんの眠る姿を想像してみた。
残された温もりなどではなく、周一兄ちゃん自身がもつ温もりに触れることができたなら、どんなに幸せだろう。
この手に伝わる温もりが、彼の残した温もりではないことを知りながらも、冬の弱々しいたった一筋の光りが温めただけで、こんなに温かいはずはない。
いつも周一兄ちゃんが眠る場所。横たわり頬をベッドに埋めたいという欲求が脳裏を過ぎった瞬間、急に恥ずかしくなって動揺した。シーツから手を離し慌てて立ち上がる。
なにを考えているのだろう。部屋の住人のいない間にこんなことを考えるなんて、厭らしい。
昔ならば少しも躊躇うことなく触れ合えたし大好きだと言えた。けれどもいつの頃からか大好きな人や物、自分の求めるものを大好きだと素直に言えなくなってしまった。想いを言葉にすること、手を伸ばすこと、触れ合うことで何かが起きるのが恐くて、平穏な関係を失うのが恐くて、敬遠する自分。
イラナイふりをしながらも、結局は喉から手がでるほど欲しい。欲しいのにまるでイラナイような顔をしてしまう。大好きなのに大好きとは言えない。欲しいのに欲しいと言えない。
そこにあるのは強がりでも遠慮でもない。それはそのあとのことを先立って考えてしまうことからくる恐怖。きっと無意識のうちに大人は前もって自分の行動をシュミレーションしてしまっているんだ。こう言ったらどうなるだろうとあれこれ頭で詮索して、安全なものにだけ手を差し出す。その結果本当の自分の心をおいてけぼりのまま、無表情という嘘をつく。周一兄ちゃんのことがこんなにも好きなくせに、手を差し出せない私はうそつきだ。そのときの周一兄ちゃんの顔が見たくないだけ。そのあと襲ってくるぎこちない関係がこわくて、身動きできないで、弱い嘘をつき続けていく。これからも。
心の中の真実を隠して、自分を守る知恵を備え、これから先、今以上にどんどんずる賢い生き方を覚えていくのだろうか。そしていつかは何も感じなくなる。こんな感覚を知らずに生きていたあの頃、自分が夢見たものは、こんな自分じゃなかったのに。
私はあの頃の自分を裏切らない。
そのあと傷ついたっていい。受け入れられてもらえなくても、純粋に気持ちを伝えよう。周一兄ちゃんに、好きだって伝えよう。
きっと好きだと人に伝えることは、受け入れてもらえるためではない。シュミレーション済みの幸せのためではない。好きだと人に伝えることは、溢れる想いが零れ落ちるから、胸に押し込めてはおけないから、あの頃の私がそうだったように。
私はあの頃の自分を裏切らない。あふれるこの想いを嘘にしない。
今日言おう、周一兄ちゃんが帰ってきたら。
昔と変わらず、それ以上に、周一兄ちゃんが、好き、と。
もうさっきまでの暗い気持ちはない。
心の中はまるで鳥のさえずりが好きこえそうなほどに穏やかで、明るい。思わず鼻歌をうたい出しそうな気分。
何気なくデスクの椅子に座り、肘をついて顎をのせてしばらくぼんやりしていた。
どうしてあんなに悩んでいたのだろう。実は簡単なことだったんだ。こんなに気持ちが軽くなるなんて。
うれしさのあまり口笛を吹いてみた。清々しさをさらに広がりをみせた。
そのとき引き出しが、少しだけ隙間が開いていることに気づき、意識もせずにパタンと閉めた。その後、好奇心が心中に湧き起こり恐る恐る引き出しを開けてみた。
引き出しに入っていたのは、アルバム。開くとまだ幼い周一兄ちゃんと赤ん坊の私がアルバムを埋め尽くしている。幼い自分の姿に恥ずかしくなり、今の自分と同じ年頃の周一兄ちゃんを見つけ嬉しくなった。甘く酸っぱい感覚が、光り輝く炭酸水のように、足元から身体全体に、上昇し広がっていく。
「周一兄ちゃん、若いなぁ」
私はアルバムの中の周一兄ちゃんに微笑んだ。ページをめくるごとに二人は徐々に成長していく。ちゃんとこうしてアルバムに挿んで、本当にお兄ちゃんらしい、きっちりしている、と思った。お菓子の空き箱に詰め込んでいる自分とは大違いだ。
楽しい気分で何ページか繰ったあと、引き出しの中にまだ在った用紙に視線が留まった。
手に取って、眉をひそめて恐々広げてみる。それは婚姻届の用紙で何も記されていない。一度はしわくちゃにしたのを綺麗に広げて四つに折りにし保管していた、と思われる婚姻届の用紙。途中までの破り目に、貼られたセロファンテープが生々しさを大きくさせる。
アルバムをパタンと閉じて、慌ててデスクの引き出しにそれらをしまいこんで、両手で口を押さえた。部屋を出て、無意識にリビングへと逃げ込んだ私は、見なければよかった、余計なものを見てしまったと思った。
周一兄ちゃんにも結婚を考える人がいたのだと思うと苦しかった。今の私には残酷すぎる。
深い海底に沈められた熱帯植物。熱い地で生きていたのに、急に冷たい海の底に沈められた熱帯植物。今の私がそれだ。せっかく見いだした希望を、残酷にも根こそぎ反り取られてしまった。
絨毯の上に力なく座り込み、長いことそうしていた。
また私は恐がりという硬い殻の中に戻ってしまった。まさか結婚を考えていた人がいたなんて。
電話が鳴った。周一兄ちゃんだと思い、急いで受話器を取りかけた手を止めた。
女性かもしれない。そう思うと急に恐くなり、電話の音から逃げるように家を飛び出た。
鍵をかけると電話の音は、もうこの耳を追いかけては来ない。私は婚姻届を見なかったことにしようと思った。
結婚したい人とはどうなったのだろうか。うまくいったはずはない。破かれた紙が、それを物語っている。周一兄ちゃんはふられてしまったのだろうか。だから日本に帰ってきたのだろうか。結婚しなかったのではなく、できなかったのだ。私とまた暮らしたいからではなく、もうその人に会わないために、戻ってきたんだ。
その一件から周一兄ちゃんの家に行くことが恐くて、周一兄ちゃんと顔を合わすのが恐くて、あんなに毎日行っていたのに、それはパッタリと止んだ。クリスマスを約二週間後に控えたある日、周一兄ちゃんから自宅に電話が入った。
「もうすぐ会場の方に行くから明日か明後日、来られる? 渡したいものがあるから」
なんだろう! といつもならばすぐにでも駆けて行きたいくらいドキドキするはずなのに、今の私の心はそうではなかった。急に来なくなったのを、おかしいと思い電話してきたのかもしれない。
そんな中、「周ちゃんにイチゴジャム、プレゼントするんじゃなかったの? イチゴ早めに買っておかないとだめよ」と母が急かした。
もうすぐピアノのリサイタルがあることを、あの件ですっかり忘れていた。クリスマスのことも……。
周一兄ちゃんは早めに向こうに行き、準備があるから明日か明後日には持って行かなければクリスマスが終わりここに戻るまでは会えない。
ずっと夢だった、イチゴジャムを周一兄ちゃんにプレゼントすること、それを躊躇うのはどうしてだろう。周一兄ちゃんが違う誰かを愛していたとしても、それとは無関係なはずなのに。
私は活気のまったくない身体を奮い立たせた。買出しから帰ると、たっぷりのイチゴをテーブルの上に置いた。新鮮さをアピールするイチゴたちは部屋中の光りをかき集めて光り輝いている。私の沈んだ気持ちを励ますかのように。
「もう、イチゴジャム作れるよ」
そう呟きながらイチゴをひとつ口に含んだ。自分の心とは程遠い、素直な純粋さを感じた。甘く酸っぱいそれは、無遠慮に広がり、心まで浸透していく。そして思った。いくら成長しても、無意味だったのだと。
インターホンを鳴らすと周一兄ちゃんが、「きたきた」と言いつつドアを開けた。昔インターホンに手が届かずに、周一兄ちゃんの名前を大声で呼びながら、力任せにノックしていた自分を思い出す。
あの頃は開かれる扉から、周一兄ちゃんが現れることだけを期待し、一秒だって早く会いたいと、切望していた。会えた瞬間は一辺の曇りもない光満ち溢れた笑顔で、周一兄ちゃんを迎えたことだろう。
今の私にはそれがどうしたってできない。沈んだ顔で周一兄ちゃんを待ち、できれば会いたくないと内心思っている。顔を合わせるのが恐くて視線をどこかに傾けながら、笑ってみせる。
玄関に足を踏み入れると有無を言わさずに、正面に構える部屋のドアが目に飛び込んできた。入ってはいけない部屋だったのだ。
「呼んだりしてごめん、寒かっただろう。コーヒー入れような」
私はピアノにそっと手を触れた。大きくなったところで何が変わっただろう。周一兄ちゃんとの距離もピアノとの距離も遠いまま。昔とは比べ物にならないほどピアノは弾けるようになったけれど、今も変わらず威厳を押し付けてくるピアノ。遠い存在なのが、永遠に続いていくように想われた。素晴らしすぎて、立派すぎて、誇り高いこのピアノは、永遠に届かない逸品。
周一兄ちゃんのピアノは自分のピアノとはまるで違って大きい。私の家のピアノは箱型のアップライトなのに、周一兄ちゃんのピアノは大きいグランドピアノだ。調律され手入れも行き届いている周一兄ちゃんのピアノは、きっと種類が違うなどの次元ではない。周一兄ちゃんの愛情が惜しみなく注がれているのだから。
周一兄ちゃんはマグカップをコトンとテーブルに置きながら私を眺めた。
「どうしたの、元気ないね」
「私とこはアップライトだから、やっぱりグランドピアノはすごいなって」
「そうか、そうだったね。アップライトはもう卒業かな。千里も早いうちにグランドピアノに買い換えた方がいいね。もうそろそろ」
「うちにはこんな大きなものは入らないよ」
大きなもの、それは物体の大小だけではない。これの持つ偉大な迫力が私は耐え切れないと想う。きっとわたしなんかには使いこなせない、存在が大きすぎて。
「置けるよ」
「お金もないし」
私は無理やり笑った。嫌な言い方だと言ったあとで思った。空気が重くて苦しい。だがそれを感じるのはきっと私だけ。
「だけどもう千里にはグランドピアノが必要な時期だよ。早めに買った方がいいよ。それまではここで練習してさ。最近こなかったね」
お金のない苦労なんて周一兄ちゃんには分からない。音楽をさせてもらうことがどんなに大変か周一兄ちゃんには分からない。親がいなくて寂しい暮らしを私が分からないのと同じなのだけれど。
突然、周一兄ちゃんがうめき声をあげた。右肩を押さえたまま、テーブルの向こう側、少しずつ身を沈めて行く。やがて完全に私の視界から姿を消した。
「周一兄ちゃん?」
私はピアノを回り込んで、周一兄ちゃんの傍らに身を屈めた。やっとのことでひざまずいて身体を支えているけれど、いつ倒れこむか分からないほどに周一兄ちゃんは苦しげにしていた。肩を押さえながら歯を食いしばる周一兄ちゃんの苦悶の表情に、黒い不安が押し寄せた。
「周一兄ちゃん? どうしたの? 肩、そんなに痛いの? 大丈夫?」
しばらく険しい顔だった周一兄ちゃん。その間は無言のまま、首をしきりに振っていた。
「いや、なんでもないよ。時々、なるんだけど、たいしたこと、ないよ。ピアノの弾きすぎで、肩を痛めた、かな」
しばらくして、荒い息つぎの合間に周一兄ちゃんが言った。そして周一兄ちゃんは笑った。それが私を安心させようとして作った笑顔であることは当然分かった。その笑顔はまだどこかこわばっていたし、再び笑顔は苦痛に歪んだから。
「周一兄ちゃん、大丈夫?」
私は同じような問いかけばかりを繰り返すだけだった。しばらく周一兄ちゃんの苦しげな表情を見続けて、そして、
「うん平気。今までにも、何度もあったから。千里も気をつけろよ。あ、そうそう、渡したいものっていうのは、これ」
周一兄ちゃんはまだ手を庇いながら、立ち上がり本棚へ歩を進めた。
ピアノの弾きすぎで手を痛めるなんて有り得ない。周一兄ちゃんはピアニストだ。私でも脱力くらいマスターしている。それなのに周一兄ちゃんがいくらピアノを弾いたからといって、肩など痛めるのだろうか。それはない。それにそんな無茶な弾き方を、周一兄ちゃんは絶対にしない。
私は何もかもがおかしいと感じたが、周一兄ちゃんがそういうのならそうなのだと無理に納得した。周一兄ちゃんみたいなプロでも故障することがあるのだな、私も気をつけよう、と思った。
引き出しから手にとった封筒を手渡しながら、「リサイタルに来てほしい」周一兄ちゃんは真摯な顔つきで言った。
私は封筒からチケットを取り出した。三枚ある。
「大丈夫だよ、叔父さんや叔母さんにはちゃんと話してあるから。三人で来て」
「ありがとう、嬉しい」
俯き加減なまま言葉だけを返した。
「嬉しい? 全然、嬉しくなさそうだけど?」
周一兄ちゃんは首を傾げて、それから軽く笑った。
「ううん、嬉しいよ、すごく。でもなんか風邪ひいたみたいで、頭が痛くて」
思わず、嘘をついた。
「そうか。ごめん。持っていけばよかったね。体調が悪いとは知らずにわざわざ足を運ばせて、無理をさせてしまってごめん」
周一兄ちゃんは額に手を触れた。冷えた手の感触に、切なさが胸の中をぐるぐる回り始めた。綿菓子作りの機械のように醜い音をたてながら。
「熱はないみたいだけど、薬飲む?」
周一兄ちゃんは手を額から離し、心配そうに顔を覗き込んだ。私は首を横に振った。
「いい。早めに寝たら明日には治るよ。今夜、寝る前に飲むから、大丈夫」
周一兄ちゃんは頷いて、「それがいい」と言った後で、先ほど開けたままの引き出しからまた新たに何かを取り出した。
「それと、これ、母さんの形見なんだけど、千里に」
指輪ケース。そこから取り出したのは、指輪?
私の左手を手に取り、薬指にそっとはめようとする周一兄ちゃん。ゆっくりと、私の指にそれが近づく。私は顔を上げた。そのとき見つめる深奥なる周一兄ちゃんの瞳に出合った。それはどこまでも真っ直ぐすぎて、私の胸をグサリと貫く。私は手を無意識にさっと引っ込めた。
「駄目よ。それは周一兄ちゃんのお嫁さんになる人にあげなくちゃ。私なんかがもらっちゃいけない」
手が震える。声も。
どうして? こんなことをするの? 私なんかに。
「ずっと、これは千里にと決めていたから。きっと母さんが生きていたら、千里を娘のようにかわいがったと想う。これは千里が受け取るはずのものだったよ」
嘘。そんなの嘘。
周一兄ちゃんは再び手を差し出し、私の手を求めた。
私は悩んだ。拒む気持ちと受け入れたい気持ちが入り乱れた中、迷っていた。
「千里」
「でも、やっぱり」
私は一歩後ずさりした。
「平気だよ」
周一兄ちゃんはうながし、私は首を振る。
「お願い」
私はギクッとした。
「僕が持っていても仕方ない。今でないと叶わない」
どういうこと? お願いするほどなんて、今でないと叶わないって、どういう意味?
「さぁ」とさらに周一兄ちゃんに手を差し出されて、私はほとんど無意識に手を差し出した。誰かに、何かに、手をあやつられているような感覚だった。
周一兄ちゃんは私の手をゆっくりとその手に取った。私はじわじわ近づき、今まさに通されてゆく指輪を、じっと、じっと見つめていた。また周一兄ちゃんのあの瞳を目に映したら、手を引っ込めてしまいそうだったから、あえて見ないようにした。
そしてとうとう指輪は、私の手に納められた。
「成人式の頃にしようかと思ったけど、待ちきれなくて」
周一兄ちゃんは手を取ったまま私を見つめた。周一兄ちゃんのいつも哀しげな瞳が、今日はいつもよりもさらに哀しげに映った。そこには熱気を感じる。
「これ、はめて聴きに来てくれると嬉しいな」
本当は違う人に贈りたかったはずの指輪。もしかしたらこんな風にはめたのかもしれない。聴きにきてほしい人も本当は私なんかじゃない。それなのにこんな言動を私に向ける周一兄ちゃんに対して反感を覚えた。私はその人の代わりじゃないとも思った。私の心をなんだと思っているの? 簡単にもてあそぶのはやめてほしい。私はこんなに好きなのに。
「千里」
私の涙に気づいて周一兄ちゃんは戸惑いながら手をそっと離した。
「ごめん。強引なことして、迷惑だったかな。やっぱり叔母さんから渡してもらえばよかったね」
「嬉し泣き、っていうのかな、これ」
頭をかきながら、笑った口元が醜く歪んだ。嘘ばかり積み立てていくからだと自分を責めた。
周一兄ちゃんは私の表情を怪訝そうに見ている。きっと嬉し泣きなどではないことを見抜いているかもしれない。
「あのね、千里……」
何か言いかけた周一兄ちゃんの言葉を遮るように、
「あ、そうだ。実は私もプレゼントがあるの」
こんな空気の中で渡すことなど想像もしていなかった、とそう思いながら涙を拭いた。
イチゴジャムをラッピングした袋を、カバンの傍らにある手提げからそっと取り出して、周一兄ちゃんに差し出した。
指輪など慣れていない私の手。少し大きめの指輪をはめた手。そんないつもと違う借り物のような手で包んだイチゴジャムの瓶は重い。早く受け取って欲しいと思った。
周一兄ちゃんは、「ありがとう」と受け取り、「あけていい?」私が頷くのを待ってリボンを解く。袋を覗き込んだ周一兄ちゃんは思わず、「あ!」声を漏らし、表情が鮮やかに輝いた。
「あぁ! 懐かしなぁ! これ千里が作ったの?」
「うん。そう」
「うわぁ。イチゴジャムだよ。千里、ありがとう。憶えていてくれたんだ。嬉しいよ」
袋の中から瓶を取り出した周一兄ちゃん。昔と同じように眼の高さまで瓶を持ち上げ、じっくりと眺めたその瞳は、あの日と同じでキラキラ輝いて見える。
そんな嬉しそうな顔しないで、泣きたくなる。
「待ちくたびれたよ。昔は早く自分も作って渡すんだ! って言っていたくせに、ちーっともくれないから、もう
そんなことは忘れちゃったのかと思ったよ」
忘れないわ。忘れられないから苦しい。
周一兄ちゃんはそんな冗談でも反応の薄い私を心配し、「大丈夫か?」と再度尋ねた。鍵を手に取ると、「送るよ、帰った方がいい。あ、それとも病院行こうか。連れていってあげる。今ならまだあいてるよ」
周一兄ちゃんは時計から私に視線を戻した。
「いいよ。寝てれば治るから」
「だめだよ」
周一兄ちゃんの優しさは、時々残酷だ。
気持ちがないとは分かっていても、優しくされると嫌いにはなれない。
「いい。一人で帰れるし」
「いや、送る。こんな千里を一人帰らせられるはずないだろう」
周一兄ちゃんは私を促す。
部屋を出る直前に私は振り返り、テーブルに眼をやった。
置き去りの冷め切ったコーヒーが、一度も口にされぬまま、飲み手を失い哀しく光っていた。
まだそこに在ることを主張するかのように。
リサイタルの前日、父と母、私の三人は東京のホテルに着いた。父は「周一は出世したなぁ」と嬉しそうだ。母も久しぶりの家族旅行みたいだと浮かれている。
あの日以来、周一兄ちゃんには会っていない。打ち合わせとかリハーサルがあるので会場の方に行ったきりだった。体調を尋ねる電話と、東京へ来る際の説明の電話が2回はさまっただけだった。
ピアニストは当然、それがたとえ遠方であっても、開催される場所に、自らが出向かなければならない。その当然のことが私はわかっていなかった。離れていることに私は心細かった。また戻ってくるのに、それでも遠くに行かれてしまうのは、不安だった。
周一兄ちゃんも伯母さんも、伯父さんが不在の間は、私以上にきっと寂しい想いをしたことだろう。
かなり迷ったためホテルに着いた頃には、足は相当疲れていた。
同じ距離を歩くならば、見慣れた町を安心して歩く方が、見知らぬ町をさまよい歩くよりはマシだと思った。足が棒になったというのはこういう状況のことをいうのだろう。
父は携帯電話を取り出し、周一兄ちゃんに無事着いたことを知らせるため、電話をかけた。
音高受験はもう諦めかけてはいるものの、いずれにせよ春から暮らすかもしれない街だという実感はなかった。
十年前、数え切れない数の高い建物がそびえたつこの街に、十七歳の周一兄ちゃんはたった一人で上京してきたのだ。本当に居たかった場所を捨て、親も友人も居ない街で、たった一人暮らしていたのだ。そんなことまでしてピアニストになりたかったのだろうか。
自分には真似できない。親元を離れても、友人と離れても、私が東京に出るときには周一兄ちゃんがいる。だけど周一兄ちゃんは誰に頼ることなくここで暮らしていた。今更ながら周一兄ちゃんの中にある強さを、私は知った。
その夜周一兄ちゃんも加わり皆で食事をした。しかし周一兄ちゃんは明日に備えるのだと言って早々帰っていった。
ただ別れ際、「やっと夢が叶う」と言った周一兄ちゃんを思い出し、なかなか眠れなかった。
やっと?
パリでも日本でも周一兄ちゃんはもうすでにピアニストとして活躍しているのに、今更「やっと」など言うのはおかしい。
三人をこうして招待したかったのだろうか。それが周一兄ちゃんの夢だったのだろうか。
どうでもいいことかもしれないのに、周一兄ちゃんの言葉は胸にこびりついてなかなか剥がれ落ちないままだった。
「開演までまだ時間があるし、どこか出掛けましょうよ」
翌朝早々と、母は浮かれ調子で化粧をしながら言った。
「遅れるといけないだろう」
父はのんびりしたいと言いたげな様子で言葉を返した。
私もどこにも行く気になれなかった。だが母の浮かれようは止めるのは無理だと覚っていた。
仕方なく買い物をしながら会場に向かった。綺麗なカフェを目にしては、「ここでお茶して行きましょうよ」と母は嬉しそうだ。
お茶ならさっきしたばかりなのに、いつになったら会場に着くのだろう。
リサイタルの開かれる会場のエレベーターをのぼる。
「さすがに都会ね。洒落たエレベーターだこと」
透明で外の景色が見えるエレベータを母はとても喜んだ。
「千里、どうした? 元気がないな」
父は見かねたというような顔で訊いた。いつもならば母と一緒になって興奮し大喜びするはずなのに、あまりにも反応が薄いことに、ずっと前から父は気づいていたのかもしれない。
「緊張しているだけよ」
私はエレベーターのドアが開いたので歩き出しながら告げた。
リハーサルが長引いておりますのでもうしばらくお待ちくださいというアナウンスがあり、まだ会場のドアが開いてないようだと私はホッとした。
間もなく会場のドアが開かれ、中に人の群れがどっと動いた。母がCDを選んでいるのを父はため息混じりに、
「お母さん、全部うちにあるだろう」
「だって記念だもの。かわいい甥っ子のCDなんだからいいじゃないの」
母は斜め後ろの父を向きながら言ったあと、販売員に、「坂本周一、私の甥なんですよ」などと明るい調子で自慢している。
そんな母を私は見つめながらため息をつきかけた、そのとき。ピアノの高い音が耳に届いた。音の出を確かめるために鳴らしているのだと思い、そっと覗いてみた。遠すぎて誰だか分からない。周一兄ちゃんなのか、それとも会場の人か調律士なのか。
今度は低い音。
「お母さん、早く行こうよ」
私は母の腕をつかんで急かした。
「これ買ったら行くわ。先に行ってて」
「チケットは? 席が何処だか分からないよ」
「あ、あぁ。そうよね」
バッグからチケットの封筒を探り出した母の手から、勢い良く封筒を奪い、私は会場へ急いだ。
もうピアノに人影はない。私は急いで席を探した。またいつ姿を現すか分からない。
「7、7・・・・・・7のE。あった! ここだ! お父さん、ここだよ。見やすそう。周一兄ちゃん、見えやすい席を選んでくれたんだね」
ソワソワした。早く周一兄ちゃんの姿が見たくなった。三つの席のうち、どこが一番よく見えるか比べた。そんな私を見て、「女心と秋の空、だな」父は言ってからふっと息をついた。
母も姿を現した。三人は席に腰を据えた。
ドキドキしながら辺りを見回す。母くらいの年齢の婦人が多いが、小学生の子供連れの親子や若い女性もいるし、年配の男性も少なくはない。
そのあとは腕時計とピアノを交互に見ながら開演の時を待った。
「落ち着きなさい、千里」
微笑みを浮かべ父が声をかけた。
父に声を掛けられて、貧乏ゆすりのように身体を揺すっているのに気が付いて、照れ笑いをし、腰を据え直した。 そのとき、頭上と壁面に点いていたライトが消え、同時にステージのライトが点った。もうそれだけでとても幻想的で感動した。
間もなく、大きな拍手が会場に鳴り響き、周一兄ちゃんがステージの上に姿を現した。周一兄ちゃんは、ステージの真ん中に立ち、客席を見渡す。そして視線が重なった。
それは気のせいだったかもしれない。周一兄ちゃんは一切表情を変えることなく瞳を別の方向に向けたから。私は真顔のまま周一兄ちゃんの姿を、瞬きもせずに見つめていた。
周一兄ちゃんは深いお辞儀をしてから、ピアノの前に座った。心を静めているのか、真正面を向いたままじっとしている。
静まり返った空間。聴衆は皆一同、微動だにせず、一点に集中している。息づかいの音、この胸の高鳴りさえも、付近に聞こえてしまいそうな静寂。
そのすぐあと、周一兄ちゃんはピアノに手を伸ばした。
会場の中を流れる『ノクターン第1番変口短調作品9‐1』の旋律は、いつも聴いているよりも遥かに力強く、その美しさに私は息を呑んだ。心の奥底にまで響き渡るその音はピアノだということを忘れさせる。
続いて『ノクターン第2番変ホ長調作品9‐2』。
曲が進むと私の瞳から涙があふれた。母もハンカチでしきりに涙を拭いている。周りから見ると、とっても変な親子だと思うだろう。
次に『バラード第3番変イ長調作品47』。演奏し終えると拍手が沸き起こった。私も慌てて手を叩いたが、なにかいつもと違う気がする。音色も旋律を刻むテンポも、なにかおかしい。聴衆の大勢いるリサイタルの場だからだろうか。
周一兄ちゃんは遠くを眺めている。その後お辞儀をし、ステージから姿を消した。そのすぐ後にドアが開き、遅れたらしい客が二組ほど入って来て足早で席についた。再び周一兄ちゃんがステージに現れた。次曲は『子守歌変ニ長調作品57』。
ステージ上で旋律を奏でる周一兄ちゃんを見つめながら、小さい頃の思い出がチラチラと胸を過ぎった。
そしてもう自分だけが独占できる時は、イチゴ水を作ったあの日で終わっていたということを思い知った。いや、 東京に旅立つ周一兄ちゃんを見送ったあのホームで、寂しい気持ちのなくなる魔法をかけると言い、周一兄ちゃんが抱きしめた私を身体から放したあの瞬間かもしれない。
どんなに愛しても、届かない遠い人だということを、思い知った。
いや、それよりももっと昔から実は遠い人だった。
一歳の私と十三歳の周一兄ちゃんが出会った瞬間からそうだった。どんなに有名になっても従兄妹同士に変わりはない。けれども反対にどんなに愛しても従兄妹同士だということに変わりはない。
私が自分に産まれてしまった以上、私は愛される資格がない。
あの温かく幸せな日々の思い出がある以上、男と女ではない。
けれどもそれを思い知ったところで心の中に何の意味があるだろう。こんなにも恋しい気持ちを消す魔法が、探せばどこかにあるのだろうか。
きっとない。周一兄ちゃんの演奏は魔法のようだけど、恋心は消せない。それどころかどんどん大きくなってく。
周一兄ちゃんの演奏する『ノクターン第19番ホ長調作品72‐1[遺作]』を終え、続いて『バラード第1番ト短調作品23』の演奏が始まった。
中間部を演奏していたとき。和音が乱れた。あの周一兄ちゃんが、なんと大きく音を外した。リサイタルの場なのに。
演奏が中断した。周一兄ちゃんは右肩を押さえている。静まり返った空気の中、少しざわめきが起きた。
ただ事でないことを直感した。心臓音に雑音が入ったような、一定のリズムを崩してしまったような、そんな不安感に襲われた。
失敗はピアニストといっても人間だからある。しかし何事もなかったように弾き続けるはずだ。
もしもどこか不調があったとしても、少々のことでは演奏の中断などしない。周一兄ちゃんはその後弾き始めたけれど、いつもの周一兄ちゃんのピアノ演奏と全く違う。周一兄ちゃんの蒼ざめた表情にその理由を見つけようとするけれど、分からない。
周一兄ちゃんはお辞儀をした。周一兄ちゃんがステージから姿を消すとステージのライトが消え、客席のライトが点灯した。休憩のようだ。
父は身動きもせず、「周一はどうしたんだ」とピアノに視線を留めたまま独り言のように呟いた。
「分からない。でも、前も、肩を痛がっていたの。でも周一兄ちゃん、ピアノの弾き過ぎだっていうから」
正面を向いたままピアノから視線を離さない父の横顔に、私は訴えた。
父は驚き、「周一がそう言ったのか」と険しい顔を私に向けた。あまりにも父の顔が真剣だったので、なんだか自分が悪いことをしたような気分になった。後ろめたい様子で頷くと、「それは、ないだろう」と父はまたピアノに視線を戻し、それ以上なにも喋らなくなった。
休憩が終わり、拍手の中お辞儀をし、ピアノの前に座ると再び周一兄ちゃんの演奏が始まった。
周一兄ちゃんに何が起こっているのだろう。
肩の痛みはやっぱり弾きすぎなんかじゃなかったんでしょ?
周一兄ちゃん、どうしてあの日、私に嘘なんてついたの?
そして四曲が終わり、あとは『ポロネーズ第6番変イ長調作品53「英雄」』を残すばかり。私は休憩以後、演奏を楽しむどころではなく、周一兄ちゃんの肩だけが心配だった。『ポロネーズ「英雄」』は父の好きな曲だ。ポロネーズ随一の人気曲で、力強くたくましい音のタッチから『英雄』というニックネームがつけられた。周一兄ちゃんの手は忙しげに鍵盤上を踊り跳ね滑り、そして止まった。
今日一番の大きな拍手を受けている周一兄ちゃんの表情を怪訝な顔つきで見つめながら、あの日、肩を押さえながら、苦痛に顔を歪めていた周一兄ちゃんを、思い返した。私は手を叩くことも忘れて、周一兄ちゃんを見つめていた。
周一兄ちゃんがステージから姿を消したあとも鳴り止むことのない拍手。それに応えるために周一兄ちゃんは再び現れ、弾き始めたアンコールの曲は、『別れの曲』。
絵を描きながら、あや取りを一人しながら、絵本を読みながら、何度この旋律を聴いたことだろう。
きっと『別れの曲』をここで弾くということは「忘れなさい」ということなのだと思った。俯いた拍子に、零れ落ちた涙は、ちょうど周一兄ちゃんが望んだ通りにはめた指輪に落ちた。
周一兄ちゃんの母の形見である指輪が目に映ったそのとき、忘れていたはずの幼い記憶が蘇る。
「別れの曲って悲しいんだよね? だってお別れでしょ? バイバイするんでしょう?」
ソファーに座った周一兄ちゃんの膝の上で、尋ねる私。
「別れの曲だって作った人が言ったんじゃないんだよ。誰かがそうつけたの、勝手に。そう感じる人が多いから」
「そうなの~?」
「フランスの映画で使われていて、それが元で、日本ではそう呼ばれているんだ。簡単にいうとあだ名みたいなものだな。そのほうが覚えやすいだろ?」
「千里が周一兄ちゃん! っていうようなものだね!」
私の笑顔に、周一兄ちゃんも笑顔を返したあとで、その言葉を大切そうに、ゆっくりと話し出す。
「ショパンは故郷に別れを告げたわけじゃない。故郷を愛している気持ちを表現しているんだよきっと。お兄ちゃんには、愛している、愛しているっていう曲に聴こえるよ。これは大好きって気持ちを表した曲だよ、きっと。生涯、ショパンは故郷を愛し続けていたから」
「そっかぁ! お兄ちゃんはバイバイ! だと思ってないから悲しくないんだね。だから弾くんだね、いつも。大好き大好きの曲だぁ! 千里はお兄ちゃんが大好きぃ~!」
「お兄ちゃんも千里が大好きだよ」
「わーい! じゃぁ大好きの曲、弾いて、弾いて~!」
隣の父がもどかしい様子で小さくため息をついた。
もう、アンコールなんていい。肩を怪我した理由はなに?
考えても、考えても、何も思い当たる節はない。
いつもは、本当にどのピアノ曲を聴いても、感動せずにいられないほど、周一兄ちゃんの演奏は素晴らしい。美しいのだ。耳に届いた旋律は自然と心へ入り込んでくる。そして心の中を地震のように揺れ動かし、地響きのような、ひび割れるほどの衝撃を与える。そこには技術を越えたものがある。
だけど今の周一兄ちゃんの旋律はどうだろう。今まで数え切れないほど聴いてきたけれど、こんな周一兄ちゃんのピアノ演奏を聴いたのは初めてのことだった。
私は周一兄ちゃんの演奏がこんなものではないことを知っているけれど、初めて聴いた人は、なーんだ坂本周一というピアニストはこんなものなのか、と思うのではないか。そう思うと悔しい。聴いている心が痛々しかった。
惜しみなく感動を与える周一兄ちゃんのあのピアノ演奏を、いつかまた
聴けるのだろうか。
曲が終わり、拍手が会場に湧き起こり、私は我に返った。そしてステージの上から見つめている周一兄ちゃんを、私はぽかんと見ていた。その瞳は妙なほど落ち着いていて、動揺は見られない。なにかを訴えるような黒い瞳は哀しげで、私は吸い込まれそうになった。
周一兄ちゃんが深々と何度も頭を下げた。姿が消えても会場にはまだ拍手が鳴り止まない。
『お兄ちゃんも千里が大好きだよ』
周一兄ちゃんの過去の言葉を、なんども心にリピートさせながらも、私は自分に言い聞かせる。
それは遠い昔の思い出だと。五歳の少女と十七歳の少年、二人のただの思い出話。
もしかしたらもっと以前のことかもしれない。思うと心は窮屈に締まっていく。ギュウギュウと苦しく締まっていく。
普通、アンコールは少しだけ弾かれることが多いと思う。お愛想のように、少しだけ一部分を何回か弾いて終わる。だがこの日、周一兄ちゃんは『別れの曲』を一曲丸ごと弾いた。しかも一度きりのアンコール。
鳴り止まない拍手の中で、周一兄ちゃんの消えたステージの端を見つめていた。
周一兄ちゃんはもう二度と、そこから姿を現すことはなかった。
ホテルに戻った私たちは、個々にそれぞれの想いを互いに抱きながら、長い時間を過ごした。
父は周一兄ちゃんのケイタイに電話をかけ、留守録にメッセージを残し、電話を切った。その後は無言で、時折ため息をついた。
「きっと調子が悪かっただけよ。人間だもの。ミスはあるものよ」それまで黙り込んでいた母が突然思い出したように顔を上げて元
気付けようとしたが、誰もきいていないかのように流されてしまっ
た。
単なるミスならばいいのだけれど、父も私も、どうしてもそうとは思えない。
ケイタイが鳴る。私は強い視線で父を見た。もう九時を回っていた。
父のお疲れさんの言葉で始まった、電話。
周一兄ちゃんが電話の向こうで、なにを話しているのかは分からないが、父は黙って相槌を打っていた。最後に分かったと言い私に携帯電話を手渡した。私はそれを耳にそっと当てた。
「周一兄ちゃん?」
「心配かけたね。でも何も心配いらないから」
声の様子は元気そうでいつもと変わらない。周一兄ちゃんの声に私は安心した。
「今日はせっかく来てくれたのにあんな演奏で、悪かったね」
なんの言葉も掛けられない自分が情けない。肩のことを訊きたいのに触れてはいけないような気持ちがあり躊躇っていた。きっと私たちを安心させるために掛けてきた電話だと、分かるから。
「帰ったら行くからね、千里。じゃあまたね。気をつけて帰るんだよ」
そう言い残して周一兄ちゃんは電話を切った。
私たちが自宅へ帰ってしばらくして、周一兄ちゃんも後を追うように帰ってきた。リサイタルの期間を終えていないので、その後もまだ帰ってくるはずのない周一兄ちゃんが、何故か予定よりも随分早く帰ってきたのだ。
慌しさを忘れ、空虚な気持ちでいた年末。周一兄ちゃんが帰ったことを翌日に私は知らされた。早速周一兄ちゃんの家へと急いだ。
父は周一兄ちゃんから話をすでに聞いたらしく、何が起こったのかと訊ねたが、周一が自分から話すと言っていたから周一から聞きなさいと言うばかりで、何も教えてはくれなかった。
風の強い日だった。もう辺りはすっかり暗く、すぐに帰されることが分かっていたけれど、一秒も早く会いたかった。
不安だった。私の心を焦燥感が蝕んでいく。根拠など何も無い。ただ周一兄ちゃんが、また遠いところへ行ってしまうのではないかという漠然とした不安が、胸中を覆っていた。
前にも似たようなことがあった。周一兄ちゃんが東京へ行くと知った私は家を抜け出して、夢中で会いに行った、あの夜に似ている。周一兄ちゃんが遠くへ行ってしまうという哀しい予感と、意味不明な不安に追い立てられるように、夢中で走る今の自分は。
喉とお腹から込み上げてくる乱れた呼吸、心臓の内側から痛いほど激しく叩かれているような鼓動。哀しい予感に震える手をインターホンへ伸ばした。ドアを開けた周一兄ちゃんは、私が来ることを予想していたかのように、 落ち着いた様子で、私をしずかに招きいれた。周一兄ちゃんの右上腕部には、包帯が巻かれている。やっぱり怪我だったのだろうか。
「千里、ピアノ好き?」
部屋に入ると、周一兄ちゃんは出し抜けに訊いてきた。不意な質問に躊躇したあと、「もちろん好きよ」と返すと周一兄ちゃんは質問を変えた。
「ピアニストになりたいという気持ちはある?」
ついこの間、急いで結論を出さなくていいと言った周一兄ちゃんが、どうしてそんなことを突然訊くのだろうか。今、すぐに答えをださなくてはいけない事態なのだろうか。私は答えずに、周一兄ちゃんの瞳を見つめ、立ち尽くしていた。
周一兄ちゃんはテーブルに私を座らせ、前側の席に腰を下ろした。
「千里がこの先、ピアノをやっていく気が少しでもあるのなら」
周一兄ちゃんの言葉は一時途絶え、視線はテーブルの上に下りた。
一呼吸してから、力なく言う。
「僕は千里にピアノを教えたいんだ」
「どうして急にそんなことを言うの? ねぇ、それよりお兄ちゃん肩はどうなの? 病院には行ったの?」
私のピアノの練習など、今はどうでもいい。確かにこの先もピアノは弾き続けていくだろう。しかしピアニストにどうしてもなりたいという熱い想いはないのだから。
「行ったよ」
周一兄ちゃんの蒼白な面持ちは、下向き加減のまま動かない。そんな周一兄ちゃんを見つめていると、やはり遠くへ行こうとしているのではないかと、胸中により一層強い不安が湧き起こった。
「どうだったの? お医者さんは、なんて?」
周一兄ちゃんは無言のままで、私はどう話せばいいのか分からず、時間が流れた。
怪我なのか病気なのかは分からないけれど、表情からみて、肩は周一兄ちゃんにとって大きな問題を抱えているように思う。
「怪我なの? 病院には行ったんでしょ? だったらちゃんと治療すれば大丈夫よ」
言葉が苦く感じた。周一兄ちゃんの『何も』分からないまま、放った言葉はとても苦く、全く無力だと感じた。しかし何も話すことの出来ない今の周一兄ちゃんに、それ以上問い質す事など私にはできない。
すると周一兄ちゃんが突然、テーブルに両手の拳を叩きつけて、そこに頭を垂れ落とし、
「どうせ、ダメなんだ。母さんだって、癌で死んだんだから、分かってるんだ」
肩を震わせて、叫んだのだった。
私の眼はどこを見ているのだろう。お兄ちゃんでもなく、物でもない。異次元の暗い、とても暗い世界の一角を見つめている。
「癌なの?」
言葉にはならないくらい小さく囁き、ゆっくりと何度も首を振った。
「決めたんだ。残された時間を好きに生きる。どうせ死ぬんだから」
足が震える。手も震え始める。視線は異次元の暗い世界に留めたまま、その暗闇の向こう側で、苦悩に心を乱しながら頭を抱えている周一兄ちゃんの姿が、ぼんやりとかすんでいる。そして私の全身が小さく震えている。
「うそよ。そんなのうそ。勝手に、勝手に、そんなこと決めないで。嫌よ。死ぬだなんて、そんなことあるはずないじゃない。結婚するって、大きくなるまで待ってるって言ったわ。そんなの許さない。周一兄ちゃんの嘘つき!」
そう叫んだあと、迫ってくる涙を抑えようと頑張る。涙は抑えられても、しわが寄っていく眉間と、歪む口元はどうしようもなかった。みっともない顔を見せたくなくて顔を両手で覆い隠した。
「生きていて。生きていてくれるだけでいいから。私を残していなくならないでよ」
それを言ったときには涙で手のひらが濡れていた。たった今、告げられた衝撃的すぎる話を、未だ事実だと受け入れられないでいるのに、泣くなんて矛盾している。
「もうわがまま言わない。生きていてくれるだけでいい」
私は多くを望みすぎたのに違いない。だから罰が当たったんだ。どんなに遠く離れていても、周一兄ちゃんがたとえ誰を愛しているとしても、同じ世界で生きていてほしい。生きていてくれるのならば、私はもう何も望まない。
ハッと我に返ると、そこには顔を上げた周一兄ちゃんがいた。真っ直ぐに私を見つめる周一兄ちゃんの瞳に、なんだか悪いことをしたような気がした。まるで責めたててしまったようなそんな気がした。
「ごめんなさい、私、ごめん」
どうしようもなく流れる涙を手で拭いながら、謝った。
周一兄ちゃんを責めるつもりなんて、ないのに。
「骨肉腫って病気があるの知ってる?」
周一兄ちゃんが突然告げたその病名を、私はうまれて初めて耳にした。聞き覚えのないその病名を私はオウム返しした。
「骨肉腫……」
私は首を振った。
「なにそれ」
嫌な名前だと感じた。それがどんな病気かは分からないけれど、とても嫌な発音の病名だと感じた。
家に行った帰りはいつも送ってくれた。昔は手をいつも繋いでいた。現在は手こそ繋ぎはしなかったが、私を家まで送る周一兄ちゃんの肩越しに、「カラスが鳴くから、か~えろ」手を繋ぎ歌いながら夕焼けの中を歩いたあの頃の光景を、思い出していた。
しかし今日だけは違った。周一兄ちゃんを残し、私は初めて一人で家を出た。周一兄ちゃんが送ろうと言わなかったのも初めてだ。
葉が落ちて、なにもないはずの路上の木には、クリスマスの名残を思わせるたくさんの電球たちが賑わい咲いている。それはまるで燃えるように。木に点ったその華たちを見つめ足を止めた。細々とした木、それに光る電球も、行き交う人影も、全てが涙で滲んでいった。
私は今日聞いた話の内容を心に甦らせる。
『骨肉腫っていう病気なんだって』
『右手を切断しなくちゃいけない』
どうして手なのだろう。あんなに頑張って、やっと夢をつかんだのに、その手を切り落とさなければならないなんて、あまりにも残酷すぎる。
あまりの衝撃に涙も出ずに、ただ心の中で『どうして?』を繰り返すだけだった。そして周一兄ちゃんの、自暴自棄な言葉の景には死への怯えが、大きく見えていた。生きたいのだと叫んでいるように思えた。
なにが原因でそんな病気になったのだろう。どうして周一兄ちゃんなのだろう。周一兄ちゃんが、何か悪いことでもしただろうか。神様はどうして周一兄ちゃんを選んだのだろうか。私が大人になるまで待っていてくれると、あれほど約束したのに、死んだりしたら許さない。私はまだ大人じゃない。全然追いつけてないのに。
泣きじゃくる私を、すれ違う人が不思議そうに、心配そうな顔をしながら通り過ぎていく。
怒りなのか悲しみなのか分からない感情は、滅茶苦茶にもつれ行き場もなく、胸中をぐるぐると回り続けた。
ひとりで帰ると言った私の言葉を黙って受け入れてくれた周一兄ちゃんは、きっとこんな風にひとり泣き、気持ちを整理する隙間を与えてくれたのだろう。気持ちを走らせて、心遣いをしなければいけないのは私の方だというのに。
周一兄ちゃんがいない正月は何度も体験しているけれど、こんなに重苦しい気持ちで迎えたのは、初めてのことだ。
年明けに、周一兄ちゃんは入院した。
入院までの間はうちに来るようにと父が誘った。今すぐなにかあるわけではないからと言って周一兄ちゃんはそれを断った。
病名を聞いた翌日また、朝から周一兄ちゃんの家へ向かった。手は手袋を忘れたせいでひどくかじかんでいた。
ドアを開けた周一兄ちゃんは、「昨日はごめん、取り乱して」と力なく言いながら私を中へ通し、リビングまで来ると、「心配しないで。ちゃんとお兄ちゃん、入院して、治療していくから」切なさを湛える微笑を浮かべた。私はその言葉にほんの少し胸を撫で下ろし、「よかった」と呟いた。
「生きているだけでいい」
周一兄ちゃんは心に刻むように、昨夜私が言った言葉を繰り返した。
「千里の言葉を夜じゅう繰り返していたんだ。目が覚めたよ。腕が無くなるくらいなら、ピアノが弾けないくらいなら、生きていても仕方ないと思っていた」
相槌を打ちながら、周一兄ちゃんがそう考えることは当然だと思った。今までピアノだけに全てを捧げ生きてきたようなものだから。
「でも、そうじゃなかったと、気付いた」
「一晩で、心の整理ができるなんてやっぱり周一兄ちゃんの精神力はすごいな」
日頃は繊細をかたどったような人なのに、芯はとても強い。私だったら、やっぱりわめき散らしていただろうか。
周一兄ちゃんは椅子に腰掛けながら、
「一晩じゃないよ。ずっと嫌っていうほど悩んでたよ。生きることを本当は諦めてた。だけど千里のことまた置いていくんだなって。そして今度はもう本当に二度と会えないんだと思うと……」
周一兄ちゃんは言葉を途切れさせ、
「最初から諦めるなんて、お兄ちゃんどうかしていたよ。母親も頑張って治そうとしたんだってことを忘れていた。思い出したよ」
私には想像もできないくらい悲しい思い出を、周一兄ちゃんはその心の中に隠し持っている。そしてその悲しい思い出さえ、周一兄ちゃんはたった一人で大切にあたため続けて生きてきたのだ。
周一兄ちゃんが入院した日の夜、帰宅した父は食事の片付けを手伝う私をテーブルに呼んだ。
「周一が今日、入院した。千里には大体話したらしいが」
私は黙ったまま頷いて椅子に腰掛けた。
「あいつの力になってやってくれ。周りの私たちもつらいが、周一自身が一番つらいはずだから。よろしく頼んだよ」
私は数日前、買った本の内容を思い出した。
内臓にできた悪性腫瘍を癌と呼び、骨や軟部組織にできた悪性腫瘍を肉腫という。そのうち骨を形成する組織にできたものを骨肉腫と呼ぶ。発症率は極めて低く、発育盛んな十代に発症することが多い病気で、原因はまだはっきりと分かっていない。
発症する部位は膝周りの骨が一番多く、次いで上腕骨だが、稀に顔などにも発症するらしい。主な治療法は化学療法と放射線治療を併用しながら発症した部位の腫瘍の勢いを弱め、切断するのだという。今は場合によっては温存させる方法もあるという。周一兄ちゃんの腕が残せる道はないのだろうか。
母も、私の隣の椅子に腰掛け、父の顔をじっと見つめた。
「初めて異変に気づいたのは帰国してしばらく経ってからのことらしい。医者に行きレントゲンを撮ったが異常がなく、その後痛みがひどくなるまで放置していたそうだ。痛みがひどくなって違う病院でレントゲンを撮り分かったらしい」
私は何も気づいてあげられなかった。度々周一兄ちゃんの家に行っていたのに。あとになって分かってみると、そういえば何もないときに急に顔を顰めることがあった。どうしたのかと訊く私に、なんでもないと微笑を浮かべた周一兄ちゃん。なんでもないと言う言葉をうのみにして、私は宿題を済ませるために、なんの疑問も抱かずに視線を開かれた教科書とノートに落とした。あのとき、もっと気に掛けていればとは思うが、まさか周一兄ちゃんが命に関わるような重い病気にかかるとは思っていなかった。
「病名は骨肉腫」
「なに、それ」
母も数日前の私と同じ言葉を呟いた。
「簡単に言えば、骨の癌だ」
「私、どんな病気か知らなかったから本を買って調べたの。腕を切断しなくてもいい場合もあるって書いてた。周一兄ちゃんの場合も、大丈夫だよね?」
私は訴えるように訊いた。今は医学も進歩しているし、大丈夫だ。そう言って欲しかった。だが期待した言葉と父が実際に放った言葉は違った。
「まだ分からんが、もし切断ということになっても騒がんように」
私は立ち上がり、「騒ぐよ」と叫んだ。椅子が背後で音をたてて倒れた。
「周一兄ちゃんはピアニストなんだよ? あんなに頑張ってせっかくなれたのに、どうしてそんなことができるのよ」
「命が優先だろ! あいつが死んでもいいのか! そんな簡単な病気じゃないんだぞ!」
通常は冷静な父が、珍しく感情を露わにしている。きっと私がそうであるように、父も悲しみと憤りのやり場がなく、苦しんでいるのだろう。それでも、命が助かるなら腕くらいいいじゃないの、なんて今は考えられない。腕だけじゃない。大好きな周一兄ちゃんの身体のどの一部分だって、切り離して欲しくない。それでも父の言うように、腕を失うことで命が救われるならば……、と思う自分もいることは確かだ。
大半が十代、私くらいの年齢で発症する病。もしかしたら自分がなっていてもおかしくない。どうして周一兄ちゃんがこんな病気にかからなければならないのだろう。
「一刻も早く入院し、治療と手術を急がなければいけないのに、周一はリサイタルが終わるまで話さなかった。それはもうピアノが二度と演奏できないということが分かっていたからだ。それほど周一にとって音楽は大事なんだろう。ピアノ漬けで育ったあいつだ、それはお父さんもわかっている。だが命よりも大事なものはないんだよ、千里」
「私だったらよかったのに」
父の眼は一瞬恐ろしいほどに釣り上がったが、間もなく瞳を伏せた。首を振り、「バカなことを。お前たちは何も分かっていない」と深いため息を吐いた。
自分のいない間、ピアノが痛まないように弾きにきてほしいと周一兄ちゃんは頼んだ。私は持ち主の居ない部屋に訪れて、ピアノを毎日のように弾いた。命に関わる病を患い入院するというのにピアノの心配をするなんて、周一兄ちゃんにとってこのピアノもまたそれだけ大事な存在なのだろう。
「どうだ? 調子は。なかなか良さそうじゃないか」
先頭に父、私と母もそれに続いて病室へと入っていく。周一兄ちゃんはベッドの上で、パジャマ姿だった。
「病院ってたまらなくヒマだ」苦笑したあとで周一兄ちゃんは、父の後ろでうつむき黙り込んでいる私の様子を覗き込むように見た。
入院して初めての見舞いだ。父や母はすでに何度か来ていたが私は初めてだ。私だけが保護されているような、それと同時に阻害されているような感覚に陥っていた。
「読書でもするか。なにか読みたいものがあれば買ってくるぞ。それともラジカセがいいか? ピアノは運べんぞ」
父と周一兄ちゃんはそんな冗談に明るく笑った。どうしたらそんなに明るく振舞えるのだろう。私は、リサイタルの時にはもうすでに破壊されていたはずの、ギブスで固められた周一兄ちゃんの肩がたまらなく痛々しくて、意識して見ないようにした。
妙に明るく話す三人共が、私を気遣っているように思えてならなかった。気遣う相手は私じゃないのに。そして父があの夜に言ったことを思い出していた。
『周一は自分でよかったと言っていた。千里じゃなかっただけでも救われると言っていた』
そんな父の言葉を思い出すとたまらない気持ちになった。
引き出しを開けた周一兄ちゃんは、「遅くなったけど、お年玉だよ」
左手に取ったポチ袋を差し出した。私は苺のイラストが描かれたポ
チ袋を、素直に受け取れずにじっと見つめていた。
「千里、良かったわねぇ」
母は私の肩をそっと抱いた。
「私、もう子供じゃないもん」
唇を尖らした私に、「そんなことを言うこと自体が子供なんだ。いらないならお父さんがもらうぞ」と父が冗談を言うと笑いが起こった。周一兄ちゃんが笑っている。とても楽しそうに。
私は自分をまだ子供だと感じた。そうどんなに背伸びをしていてもやっぱり子供なんだ。この人たちと一緒にいるときは特に。
「いいえ、もらいます。お父さんがもらうくらいなら私がもらうよ」
私は周一兄ちゃんからお年玉を受け取ると、「ありがとう」と照れ隠しに笑った。
来た時よりも少し場の雰囲気に慣れた帰り際、私は周一兄ちゃんに、また会いに来てもいいかと訊いた。とても変な質問だったと思う。だけど私が来ると周一兄ちゃんは私に気を使うのが分かるから、来てはいけないような気がした。
「遠いから来にくいと思うけど、楽しみにしているよ」
周一兄ちゃんは骨肉腫だと確定する検査をするために、組織の一部を取る手術を控えていることを、私たちは別れ際に聞いた。
その二日後、周一兄ちゃんの父親が我が家へ訪れた。繊細そうで神経質そうな物腰と顔つきは、父とは同じ兄弟でも随分と違い、私を緊張させた。だけど笑顔は優しくて、ふとした表情が周一兄ちゃんと似ていた。周一兄ちゃんがまだここに住んでいた頃、時々会っていたはずなのに、私の中で彼の記憶は全くない。こんな人だったのかと、初対面の人に会ったような感覚だった。
「千里ちゃん、大きくなったね」
海外暮らしの長い伯父さんは、一見言葉遣いは日本語だが、中に少しばかり不自然な発音も含まれていた。
「こんにちは」
私は頭を下げ言葉の続きを探したけれど、父や母が話し始めたのでもうその必要はなくなってしまった。突っ立ったまま、黙って会話を聞いていた。周一兄ちゃんの様子を注意深く聞いている伯父さんをぼんやりと見つめていたそのとき、さて病院へ行こうかという話になった。
「千里、今日は家にいなさい」
私は自分も当然ついていくつもりでいたのに、父の言葉に思わず頷いてしまった。
伯父さんの後ろ姿を見送りながら、何とも言えない気分に心を囚われた。その不安の一つに、周一兄ちゃんを迎えにきたのではないかという不安があった。しかし伯父さんはよろしく頼むと何度も父や母に頼みながら、一週間後ひとりで帰っていった。
休みになると、待ち構えていたように病院へ向かう。何度か見舞いに訪れるうちに雰囲気にも慣れてきた。最初はなにを話せばいいのか、どんな表情で接すればいいのか分からなくて恐かったけれど、徐々に笑顔も言葉もスラスラと出てくるようになった。暗い顔を見せないように、必要以上にはしゃいで疲れることも時々あるけれど、周一兄ちゃんに会いたくて、休みになるとまたここへと向かう。その日も私はいつもの元気そうな周一兄ちゃんがいるものと思い込んで病室へと入った。
周一兄ちゃんは眠っていた。抗がん剤の副作用からくる熱のせいで、苦しそうに顔を歪めて眠っている。かわいそうなほど、うなされていたけれど、その眠りを途切れさせてはいけない。
持ってきた花束を生けるために花瓶を手に取り、廊下へ出た。
抗がん剤の治療は主に吐き気や痺れ、眩暈や抜け毛、発疹、浮腫、痒み、発熱、倦怠感などの副作用を引き起こす。骨肉腫やどの癌でも恐いのは、他の臓器や部位への転移だ。私は転移しないよう、毎日毎日祈り続けた。今のところ転移はなく治療は良好らしい。
初詣に行ったときには周一兄ちゃんの病気が一日も早く治ることを祈り、お守りをもらった。周一兄ちゃんのベッドの少し細くなっている部分に、そのお守りを結びつけた。今の私にとっては高校入試の祈願よりも、周一兄ちゃんが早く良くなることを祈願することの方が大事だ。
ベッドの傍らの台に花瓶を戻しながら、周一兄ちゃんが少し痩せてきたことに気づいた。
そのとき周一兄ちゃんの腕がベッドを滑り、手に持っていたと思われる何かが小さな音をたてて、床に落ちた。 私はツルツルの床を這ってベッドの下に潜り、手に当たった物をつかみ取った。立ち上がり、握っている指をそっと開いていくと、そこにはオモチャの指輪があった。
金色の輪に、大袈裟なくらい大きな赤い石がついている、オモチャの指輪があった。音高について話していたとき、周一兄ちゃんが言ったことを私は思い出した。
周一兄ちゃんの涙を見て、この指輪をそっと渡したその頃の私にとっては、宝物だったかもしれない。けれども時が過ぎればいつの間にかガラクタに変化した。幼い頃家にあったたくさんの宝物たちは、もう一つも残っていない。
しかしこの指輪だけは時間を越えて今も生き続けている。その時周一兄ちゃんが流していた涙も、それを見たときの自分の気持ちも、渡した本人である私にさえ、何一つ思い出せないというのに。
近所に住んでいて、自分に懐いていた小さな従兄妹が、何気なく渡したはずのこんなものを、大切に持っている。そしてこんな過酷な状況の中でも、大切に握り締めている周一兄ちゃんを、私はどう理解すればいいのだろう。
恋愛感情というものをすっぽりと抜いたとき、きっと恋愛感情よりも大きな愛があるのかもしれない。私には分からない大きな愛。親のような、兄妹のような感覚かもしれない。
十年もの時を経て、周一兄ちゃんに私は大切に想われていることを、オモチャの指輪は気づかせてくれた。だけど本当の親子や兄妹だったならば、こんな想いを私はせずに、周一兄ちゃんと同類の愛情を、この胸の中に抱いていられるのに。
周一兄ちゃんはその翌週の見舞いのときも、起き上がり話すことはなく、ぼーっとした様子で顔だけを向けた。
「来てくれたの」
弱々しい声で一言挨拶をしただけで、そのあとぐったりとしていた。吐き気を込み上げて起き上がってはまたぐったりと横になった。やっと寝入った周一兄ちゃんは声にならないうわごとを繰り返した。吐き気を催しても何も出るものがなく、吐き気を込み上げても起き上がる気力さえないときもある。
生きることがこんなに大変なことだったとは、思っていなかった。なんの苦痛もなく元気でいられる自分が申し訳ない気持ちでいっぱいだった。なにもないということを当然のように思っていたけれど、実は当たり前なのではない。なにもないことが実はとても幸福なことだったのだ。
残酷だと感じるほどに苦しんでいる周一兄ちゃんは、悪夢をみているようにうなされて、何度も寝返りを繰り返す。冬なのに、こんなに寒いのに汗ばんで、息を乱してもがき苦しむ。
連日の点滴のせいで腕は紫色に変化して、私はそれを見るたびに瞼を塞ぎたくなった。その点滴から流れるものは抗がん剤で、周一兄ちゃんをこんなにも苦しめる。だけどこの苦しみを一緒に連れてくる抗がん剤は、病気の勢いをくい止め、小さくしてくれるらしい。
私は突っ立ったまま、言葉もなく、手を差し伸べることもできずにそこに立っていた。
ごめんね。目の前でこんなにも苦しんでいるのに、なにもしてあげられなくて、ごめんね。そんなことを心の中で繰り返した。そして自分の無力さと、すぐに泣いてしまう弱さが悔しかった。
目の前に居る周一兄ちゃんの姿がそのときは全てで、この苦しみがただの始まりだということを知らないでいた。そして私だったらよかったのにと口走った私は、この病気がどんなに苦しく恐ろしいものであるかを知らなかった。あのときはまだ周一兄ちゃんの腕のことばかりに、執着していたから。
本当はずっと側にいて、周一兄ちゃんの望むことを、して欲しいことを、叶えてあげられたらいいのに。だけどずっと側にいて何かができるわけじゃない。だから私は自分自身のために出来る精一杯の生活をする。現実はとまっていてはくれない。激しい波のように現実は押し寄せてくる。来月の受験など、とてもそんな気分じゃないなんて、なんの言い訳にもならない。
周一兄ちゃんの部屋で、周一兄ちゃんの無事を祈りながらピアノを弾くことで、自分も周一兄ちゃんのために何かをしているような気持ちに勝手になって、自分を慰める。それは自己満足かもしれないけれど、今私にできることはこれだけしか思いつかない。そしてピアノに触れていると、周一兄ちゃんが側にいて、包んでくれているような気持ちになる。周一兄ちゃんに会いにいく日とピアノのレッスンの日以外は、ここでこうしてピアノを弾いている。
周一兄ちゃんの言葉を、仕草を思い浮かべながら、私は弾き続けた。もしも腕を切断しても、治らなかったら、どうしよう。周一兄ちゃんが死んでしまったらどうしようと、そんなことを想い涙があふれた。
床に座り込みピアノの椅子に身を預け、空虚な眼差しを部屋の空中に漂わせた。最近は余計なことばかりを考え、すぐに涙を流してしまう。馳せる想いはいつでも、周一兄ちゃんが良くなることを祈りながらも、全く逆の悲しいことばかりに到達する。周一兄ちゃんの苦しそうな姿を眼にするたびに、不安な気持ちは大きくなる。
人が死ぬということはどういうことなのだろう。死んだらどうなるのだろう。そんなことまで考えてしまう度に自分を責めた。だが生存率は60~70%だという。あとの30~40%の人は死んでしまうのだろうか。そう考えると恐くて仕方がない。時間が止まることも時間が過ぎることも恐い。今この瞬間とこれから先の時間に、限りない恐怖が襲うのだ。いつまでこんな生活が続くのだろう。生きる先に、未来に周一兄ちゃんはちゃんと存在していてくれるだろうか。
周一兄ちゃんは私が病院へ行くことを望んでいるのだろうか。本当は迷惑だったりするのだろうか。何もできない無力な私を、必要としてくれているだろうか。
立てた膝を腕で抱えたまま、ぼんやりと婚姻届を見つけた部屋の方角に眼をやる。周一兄ちゃんには、本当に来てほしい人がいる。それは決して私ではない。その人はいつか見舞いにくるのだろうか、突然に。私はそのとき居場所を失う。それでも、もしも残された時間が限られているのならば、会わせてあげたい。私には周一兄ちゃんの心を、包み込み、満たしてあげることは出来ないから。
なにも出来ないということの苦痛は、目の前に視界が失せている状態だ。暗闇の中、両手は必死になって空を切りながら、何にも届かない空虚さ。
私に出来ることはないだろうか。相手の名前や住所さえ分かれば、今の周一兄ちゃんの状況を説明して、会いに来てもらえるよう依頼することが出来るのに。
何度かそんな日々が続いたが、一時のことを思うと少し安定してきたようで、今日は顔色も良い。それを周一兄ちゃんは薬が変わったからだと私に話した。
髪の毛が徐々に抜けていくのが嫌だからと、まだ抜け毛の目立たないうちに思い切って坊主にした周一兄ちゃんは、「気分がいいときに早めに切っておかないと、と思って」と照れくさそうに笑った。
私は手のひらで周一兄ちゃんの坊主頭を撫でて、「わ、きもちい~。」とはしゃいだ。
必要以上にはしゃいでしまう。必要以上に明るく振舞おうと頑張る。それが誰のためで、なんの意味があるのかは分からない。
その反動は、病院からの帰り道にやってくる。そのとき立ち止まった私の瞳には涙があふれ出ていて、その手前まで見てきたもの、それまで押し込めていた感情が突然に押し寄せてくる。
「やると思った」
周一兄ちゃんは恥ずかしそうに笑った。
私は壁に寄りかかっている来客用の折りたたみ椅子を引きずり寄せて開いた。
「あ、そうそう。周一兄ちゃん、何か欲しいものはない? それとも会いたい人とか」
椅子に座りかけたそのとき、
「そんなのお前に言えるわけねぇだろ」
私は声のする背後を振り返り、視線を布団に落としていた周一兄ちゃんは顔を上げた。
片足が一歩前に動いた拍子に、椅子が私に蹴られて音をたてた。私は慌てて声の主の名前を呼んだ。
「遠藤!」
「周一兄ちゃん、具合、どうですか?」
遠藤は周一兄ちゃんに笑顔で歩み寄る。
「遠藤、くん?」
周一兄ちゃんは不思議そうに訊いた。
「遠藤です」
遠藤は先天的に持ち合わせた愛嬌いっぱいの笑顔と、饒舌さを思わせるいたずらっぽい笑顔を、同時に周一兄ちゃんへと向けた。
「思い出せないんだけど、誰だったかな」
周一兄ちゃんは少し困惑した面持ちで、私と遠藤を見つめた。
「あっれ~? なんでぇ? サッカーの師匠といつもあがめていたのにひどいよぉ」
「サッカーって、あ、昔、千里と遊びに来ていた、えっと、健一郎君だったかな」
「そうです」
私と遠藤は幼稚園からの幼馴染。こいつほど病院に不似合いな者はいない。だから周一兄ちゃんのことは秘密にしていたのに、どこで情報を聞きつけたのか、遠藤は現れた。いつもこいつの落ち着きのなさと楽観的な性格にはため息が出る。周一兄ちゃんの落ち着きと繊細さを分けてあげたいくらいだ。
「年齢や制服姿から、千里の友達だということは分かったけど、あの頃は健一郎君って呼んでいたし、すっかり大きくなっていてわからなかった。ごめんね。サッカーで分かったよ。大きくなったね」
「なによ、何しに来たのよ。ここはあんたの来るようなとこじゃないわよ」
私は遠藤にしっしっ、と手で払うマネをした。
「千里、せっかくきてくれたのに、そんなこと言っちゃいけない」
周一兄ちゃんは私をとがめたあと笑顔を遠藤に向けた。
「よく来てくれたね」
「もっと早く来たかったんですけど、この雪だるま級の冷たい女が教えてくれなかったのと、ちょっと遠慮もありまして」
遠藤は頭を掻きながらニッと笑った。
「遠慮なんて言葉知ってたんだ? 初耳~」
「バカか、俺だって遠慮くらいするだろ。調子悪い時だといけないな、とか。ちょっと足りないお前と違って色々考えるんだよ」
周一兄ちゃんは微笑を浮かべたままふたりの言い合いを見守っていた。
「仲いいんだね」
「冗談じゃない!」私と遠藤の声がかぶった。
「でも師匠はオーバーだなぁ。ボールを一緒に蹴っただけだよ」
周一兄ちゃんが苦笑すると遠藤は、
「いえいえ、とんでもない。サッカーを周一兄ちゃんに教えてもらったのは今でも感謝しています。サッカーに出合えてなければ俺は高校に行けたかどうか」
当時幼稚園だった遠藤は、周一兄ちゃんの家に遊びに来たときに、ボールの蹴り合いをし、サッカーの簡単なルールや選手のことを、周一兄ちゃんに教えてもらっていた。
「そうそう、今でもコイツ学校でサッカー部してる、サッカーしか取り柄のない男なの。だから高校もサッカーで推薦」
私は周一兄ちゃんにいかに運動バカであるかを伝えたかったのに、
「今でもやっているの。へぇ、かっこいいね」
周一兄ちゃんはちょっと尊敬の眼差し的な瞳だ。
「フッフッ、まぁそれほどでも」遠藤はカッコをつけたが、「やる人によるわ」私の言葉で遠藤はズルッと滑った。体勢を立て直した遠藤は気を取り直した風に、
「周一兄ちゃんも大変ですよね、こんなへんなやつに捕り憑かれちゃって」
遠藤はわざと、『へんなやつ』を強調した。
「捕り憑かれるって……」
周一兄ちゃんは首をかしげた。
「だってコイツ、周一兄ちゃんと結婚するぅとかほざいているでしょ。身分もわきまえずにね。困ったやつだよ、まったく。こういうのは適当にあしらっておく方がいいですよ。単純だからすぐ本気にしていい気になっちゃいますからね」
うっとうしい笑顔を振りまきながら話す遠藤に、それは昔のはなしでしょ! と私は叫んだ。
「なんか最近ぼけ~っとしているからおかしいと思って女連中から訊いたんすよね。まぁ元々ボケッとはしているし、まぁおかしい人だから放っておいてもよかったんだけど。で、聞く話によると、周一兄ちゃんが帰てってきていて、しかも入院をしているって言うし。なんで教えないんでしょうね、ホントに頭回らない奴ですよね、まったく」
言いたいこと言いやがって、あとで憶えてろよと腹の中で念じながら、私は握り拳を磨いておこうという心境で遠藤を睨んだ。
そんな私を、「はい、キミ邪魔」制して押しのけると周一兄ちゃんの前に歩み出た遠藤は、
「話が後先になっちゃいましたが、お加減いかがですか?」
「今日は気分がいいよ。ここのところずっとつらかったけど」
「よかった! 気分がいい日でよかった! 俺、運がいいんですよね。コイツと幼馴染だってこと以外は」
「もう、よく喋るわね、ベラベラベラベラと。で、周一兄ちゃんが私に言えない欲しいものってなによ」
「そんなの決まってんじゃん。女は生理用品、男はあれだよ」
やっぱり訊かなければ良かった、と思った。
「あれって?」
周一兄ちゃんは興味深げに訊いた。
「男はエロ本! これ基本だろ」
「あんたでしょ! それは! 周一兄ちゃんを遠藤なんかと一緒にしないでよ!」
「この二つは、法律で決まってんだよ、知らないのか、お前、おバカだから。六法全書読んどけ」
ふと見ると、私の目に映った周一兄ちゃんは楽しそうに笑っていた。久しぶりに見るその笑顔は、とてもキラキラ輝いて見えた。
しばらく遠藤トークが繰り広げられたあと、「そろそろ」と遠藤が言い出すと私は早々と病室から出て、早く来いと手招きした。
「じゃ、お大事に」
病室を出て行こうとする遠藤を周一兄ちゃんは呼び止めた。
「はい。なんでしょう」
「千里のこと、よろしく頼むね」
「任してください」
遠藤は力強く言ったあと慌てて付け加える。
「あ、でも、どこまでよろしくすればいいんでしょう。周一兄ちゃんが退院するまでですよ? それ以上はちょっと勘弁です。だから早く良くなってくださいね」
病室を出て、エレベーターの前まで来ると、私は遠藤の肩を力いっぱい叩いた。
「いてぇな、なんだよ」
「余計なこと言うんじゃないわよ。ほんとよく喋る男ね、アンタ」
「でも周一兄ちゃん、やっぱかっこいいよなぁ。あの落ち着いた感じといい、あの繊細そうなもの言いといい、お前と従兄妹だとはちょっと考えにくいよな。それに加えてピアノ上手いんだろ? お前が惚れるのも無理ねぇな。男の俺でもマジ惚れそうだよ。俺も結婚申し込もうかなぁ」
「バカ。……でも一応ありがとう。周一兄ちゃん楽しそうだったし。私、あんなに笑った周一兄ちゃん見たのは久しぶり。周一兄ちゃんを笑わせてあげたいって思うんだけど、結局どう接したらいいのか、まだ分からないの」
遠藤はエレベーターの下行きのボタンを押しながらそっけなく、
「いんじゃない? 素で」
私は遠藤を後ろから黙って見つめていた。
「別にお前はお笑い芸人でもねぇし。まぁその天然さはキャラ的にはお笑い向きだけどな」
「その『素』っていうのが難しいのよ。遠藤みたいに元気をあげたいと思うんだけど。なんか空回りで」
「何様だよ、お前。神様か天使にでもなったつもりか? 自分が元気でないのになにが元気をあげたいだよ、まんまでいいんだよ」
エレベーターの扉が開き、先に乗り込んだ遠藤は早く乗れよと急かす。私が乗り込むとエレベーターは下の階に向かって下降していく。
「周一兄ちゃんの病名は?」
「骨肉腫」
「なんだ?」
「骨の癌」
エレベーターの扉が開いた。共にエレベーターを降りた。
「年寄りじゃねぇから風邪ごときで入院はないし、なんかやっかいな病気かもしれないとは思ったけど。だったら長期戦になんだろ?」
私は黙っていた。
「肩の力抜いていけよ。お前がそうやってると周一兄ちゃんなら分かるんだろ? お前がそうやって悩んでいると向こうも苦痛だ」
「でも私、なにもできないんだもん。悔しくて」
「そりゃお前医者じゃねぇし。看護婦さんでもねぇし。看護は病院がしてくれるんだからすることが何もないの、 当たり前じゃん。飯もでてくるわけだし。できねぇことはできねぇ。しょうがねぇ。諦めろ。まぁ俺にしてみればかわいこちゃんなら、側にいてくれるだけでいいけど……、お前だしなぁ。でもまぁ、周一兄ちゃんにはかわいい従兄妹なんだろ、一応。デキの悪いのがかわいい人もいるし。とくに周一兄ちゃんのようにデキのいい人はな、自分にないものを求めるっつうか」
「なにが言いたい?」
私はギロッと睨みつけたが、隣にいる男はそれに気付いてもいない。遠藤の演説が続行した。
「俺はこの通り悩むことのない性格だからわかんねぇけど、そんな悩んでばかりいると、お前がバテるぞ。深く考えることはねぇ。ニコニコしてればいいんだよ。ニコニコ。ホラ、やってみろ。ニコニコ」
「病院でヘラヘラしてたらバカみたいじゃない」
「言うじゃねぇか、笑う角には福来るって。誰だって笑っている人を見て悪い気はしない。元々お前はバカなんだから気にすることねぇよ。それがお前にとっての『素』だ。分かったらやってみろ」
私は何も言う気がなく下を見ていた。
「お前みたいなのだって、ブスっとしているよりは笑っている方がちょっとはマシだ。俺はデカイ病気したこととかないからわかんねぇけど、風邪で寝込んだ時とか、話とかするのは面倒だけど、誰かが側にいてくれるとホッとするじゃん? そんな感じかな、と思うけどな」
いつの間にか病院の入り口まで来ていた。
「じゃあ行くわ。骨髄移植の提供者が必要な時には俺も協力すっからよ。じゃあな」
遠藤の遠ざかっていく後ろ姿を見送りながら、「それは白血病だってば」とツッコミを入れた。そして、本当によく喋るななぁとため息をこぼした。
病室に戻ると周一兄ちゃんは遠藤君帰った? と訊いた。
「面白い子だね」
私はニコッと笑って頷いてみた。
「意外な一面だったな」
「なにが?」またまたニコッと笑う私。
「千里、友達といる時はこんな感じなんだなって。僕の知らない千里を見て、嬉しいような寂しいような、不思議な感覚だった」
「あいつは友達じゃないけどね」
私は笑顔のまま椅子に腰掛けた。しかし周一兄ちゃんの、「そうか、カレシか」という言葉を聞いた瞬間、笑みはパッと顔面から退去し、その変わりに引き攣る感覚を顔中に感じた。
「あ、また雪が降ってきたよ」
風に舞う雪を見つけて私は窓に駆け寄った。見つめているといつしか風は消え、雪は地へと真っ直ぐに下降していく。あとからやってきた周一兄ちゃんも、それをじっと見つめた。
私は思いあがっていたのかもしれない。周一兄ちゃんは病気になって可哀相だとか、ここぞとばかりに自分のことをよく思われたいとか、気づかないうちにそういう想いがどこかにあったのかもしれない。遠藤が、何様だよと言ったのがよく分かる。
意識の朦朧とする中、「もういい。死にたい」いつかうなされていた周一兄ちゃんがそう言ったことを思い出し、胸が苦しくなった。
「病気が治ったら、雪だるま作ろうね」
周一兄ちゃんは雪を見るような遠い眼のまま、私を見て微笑んだ。
どこかに行ってしまう。もしかしたら治らないかもしれない。そんな想いがどこかにあって怯えていた。だから言葉や態度の一つ一つに戸惑っていた。
今すぐには無理だろう。でも来年になればきっと雪だるまも一緒に作れる。きっといっぱい作れる。周一兄ちゃんは絶対に元気になる。元気に生きている。今ならば心からそう思える。信じて待とう。
命などいらないと思うほどの苦しみは、どんなに深く愛しても分け合えない。それを残酷に思う。けれど愛する人の苦しみを瞳に映し続け苦しむこともまた、その人と苦しみを分け合っているということなのかもしれない。無力な自分を嘆いて眼を背けるのではなく、この目に焼き付けるように見つめ続けて共に苦しみたい。
誰のためでもいい。なんの意味もなくていい。あえていうなら自分のために、周一兄ちゃんからひとときも目を逸らさず見つめていたいから。私強くなるよ。
久しぶりにベートーベンの『エリーゼのために』を弾いてみる。旋律と共に、様々な思い出が流れ出す。小さい頃憧れていた曲。早く上手になりたいと、早く、早くと、焦る気持ちばかりを先走らせた小学生の私を、思い出しながら弾く。ピアノの先生に、「まだ無理ですよ」と言われながらも夢中で練習し続けた私。
そしていつか周一兄ちゃんからもらったオルゴールのこと。
「ほらこれ、なーんだ」
私はオルゴールのぜんまいを巻くとテレビの横にそっと置いた。瀬戸物で出来たそのオルゴールは、桃色や黄色や青色の花たちに囲まれた黒い服装の王子様と赤色のドレスに身を包んだお姫様をのせて、音色と共にゆっくりと回る。
「あ、これ」
周一兄ちゃんは一瞬考えたあとで思い出したらしくそう呟くと、オルゴールが奏でるメロディにしばらく耳を傾けていた。そのオルゴールは、引っ越した年の夏休みに、東京から帰ってきた周一兄ちゃんがくれたもの。これをもらったあの頃、この『エリーゼのために』の小さく細い音色をじっと見つめると、音符が飛び立っていくのが本当に見えるような気がした。
音色が止むと、「まだあったんだ。なっつかしいな」周一兄ちゃんは再びネジを回した。
薬や抗がん剤のことは詳しく分からないが使用しているものによってその副作用も異なるようで、調子が良いときは起き上がって話すこともあるが、力なく横たわり見ているのもつらいときがある。化学療法とか、放射線治療とか、あまり周一兄ちゃんは病気について多くを話さないので私にはよく分からない。入院してから周一兄ちゃんはどことなく私から一線置いた接し方をしていた。少しでも甘えや弱さを見せると、そこからたちまち感情があふれ出してきて収集がつかなくなるからかもしれない。周一兄ちゃんはあえてそんなことは言わなかったが、ちょっとした言葉や言動からそれは感じ取ることができた。
私は生と死の狭間で必死に闘う周一兄ちゃんから眼を背けず、強い意志で向かい合おうとした。だけど病院を飛び出せば、一時的にでも目の前の現実から逃げ出すことができる。だが周一兄ちゃんはどこに逃れることもできない。一瞬たりとも病気から開放されることはない。それを思えば私の悲しみなんて小さな欠片でしかない。お互いが苦しいのに、苦しさは同じではない。もっと甘えてもいいのにと思うことはあった。だが周一兄ちゃんはもしかしたら甘え方を知らないのかもしれない。
周一兄ちゃんを取り巻く状況を見るのは悲しいけれど、病気と闘っている周一兄ちゃんを、しっかり見ておかなければいけないと思った。たとえ痛みは分け合えなくても、その痛みを苦しみを、少しでも知ることが出来るなら、それは共感し合うということに、繋がるのではないか。
一生懸命に生きようと頑張っている周一兄ちゃんの姿は、生きることがいかにつらいことで大切かを教えてくれた。今までは考えもしなかった、この世の全ての生命がいかに貴重で、ありがたいことなのかを知った。身体中の神経や、細胞の一つ一つ、骨の一本一本が、当たり前に機能していることに感謝した。学校に通えること、ピアノが弾けること、日常のひとつひとつが奇跡のようだと感じた。
この頃周一兄ちゃんの体調はずっと悪かった。久しぶりに会話ができた。ずっと鞄に入れてきていてもオルゴールを出すことはなく帰っていたので、やっと取り出せたことが嬉しい。
「せっかく来てもらっても話せなくて悪かったね」
周一兄ちゃんは今日、ここに私が来たとき謝った。
「みんな時間にゆとりがあれば調子いいときとかに合わせて来られるのに。周一兄ちゃんたち患者さんもそうやって見舞う人に気を使わせるのもこっちとしては申し訳ないし、もしも周一兄ちゃんじゃなかったら来たくても来られないなって思う」
「でも周囲の励ましがないと乗り切れないよ。普段ならなんでもない会話が、病気になるとすごく心に響くんだよ。いいことも、まぁ悪いこともだけど」
「悪いこと?」
周一兄ちゃんは私に手招きした。私は訳も分からずに身を起こしベッドに近づくと周一兄ちゃんが、「医者の発言とかさ」と耳打ち した。それは囁くような声だ。
そのとき、一旦心臓が停止するかと思った。一瞬、唇が耳に触れたから。
そのあと心臓はやけに早く鼓動を打ち始めた。そしてそのあとも耳元で動いた周一兄ちゃんのその唇をぼんやりと見ていた。
「千里?」
周一兄ちゃんが目を丸くしている。
「医者の発言って、なんかあったの?」焦っていたのでつい大声で言ってしまい口を両手で塞いだ。
周一兄ちゃんは「し~~~っ」と人差し指を口にあてた。
まだ私の鼓動は早い。心臓はいつものリズムを崩した大太鼓。その乱れてしまった太鼓のリズムに重なり交差する高く小さな音。この小さな音はきっとどんなプロでも、世界中のどの楽器でも表せない音。
氷が熱くなりすぎた心中に溶けて染みていく音。
そしてそれは世界中で私にしか聴こえない、大切な音。
受験も終え、心は周一兄ちゃんの病気だけに向かった。音高の結果は不合格。第二志望の東京の高校に決まった。なにが嬉しくて東京の学校なんかに行かなくてはならないのだろう。周一兄ちゃんが東京に一緒に行ってくれると言うから、志望校は全て向こうの高校にしてしまっていた。周一兄ちゃんの病気の存在を知ったときにはもう変更できなくなっていた。
「僕のことで落ち着かなかったし、実力、出し切れなかったんだよ。ごめんね」
周一兄ちゃんはそう言ってくれたけれど、私は分かっている。音高がそんなに容易く受かる学校ではないことを。落ちてよかったとさえ思った。絶対になにが何でも受かるんだという強い信念と努力、実力全てがないと無理だろう。
春を感じ始めた三月の終わり。私は東京に引っ越す荷物をほぼ用意し終えてもうすぐ引越し。
周一兄ちゃんは相変わらずベッドの上で退屈だったり、抗がん剤の副作用に苦しんだりを繰り返していた。ずっと続けてきた抗がん剤の治療も効果があったり、なかったり。早く周一兄ちゃんの中にある癌という嫌なものを取り去って欲しいと思う気持ちがある反面、それは腕を切り取ってしまうことを意味するのだと思うと、私の心は複雑だった。
「あ、そうそう。切断の手術の日が来週なんだ」
帰り際に急に聞かされたその手術の予告に、私はひどく動揺した。私はえっ、と声をあげた。心臓がぎゅっと痛んだ。
ベッドの白いパイプに括りつけている、初詣に行ったときに神社でもらったお守りに眼をやる。本当にそうしなければいけないんだろうか。他に方法はないのだろうか。しかしその言葉は言えなかった。もし他に方法があるのなら、その方法を選び治療を進めていくはずだから。
「言っておかないと次に来たときにいきなり腕がなくなっていたらビックリするだろ?」
周一兄ちゃんは明るい口調だったが、私の心は針金で締め付けられたようだった。
「いつになったら取ってくれるんだろうとちょっと不安だったんだ。とるなら早くとってもらいたいよ。意外ともたもたするんだな」
苦笑しながらも周一兄ちゃんは明るい口調だ。周一兄ちゃんの明るさに合わせようとできるだけ明るく取繕った。あふれくる心中を押し隠し笑ってみた。私には出来る。だって本人の周一兄ちゃんだって、きっと無理をしているのだから。
「意外と気づかなかったりしてね」
泣き出しそうになりながら笑った。声をあげて笑った。
心を無視して無理に明るく振舞いすぎたからか、そのあと、言葉が続かなくなった。笑顔をもう一度浮かべようとした途端、表情が崩れて歪んだ。やっぱり涙を堪え切れなかった。首を振り、「いやだ」と呟きながら泣いた。
しばらく周一兄ちゃんは涙する私になにも言えず見つめていた。そして周一兄ちゃんは瞳を伏せた。
「千里……」
周一兄ちゃんは私の手首を引っ張った。
不意に引っ張られたので私はよろめき、周一兄ちゃんの身体に吸い込まれるように倒れ掛かる。長い周一兄ちゃんの左の腕は私の背中を包み込んだ。
ベッドはギシギシと軋み大きく揺れた。点滴の袋を吊るした台は、ベッドに倒れる。周一兄ちゃんはそれを少しも構うことなく、黙ったままずっと私を抱きしめていた。
私の泣き顔を自分の胸にそっと隠すように。
本当は今もあるはずの両腕で、強く、強く抱かれたかった。利き手ではない左の腕で抱かれていると、もし拒んで突き返したならば簡単に離れてしまいそうだから。昔してくれたように両腕で力強く抱きしめてほしい。それはもう叶なうことはない願いだけれど。
「ピアノが弾けなくなっても、腕を切ってしまっても、いい? 生きていれば、千里は僕を許してくれるのかい?」
周一兄ちゃんが話すと胸は揺れた。その振動で私の顔も揺れた。
首を振った。
「許すとか許さないとか、何言ってるの、ただ千里は、周一兄ちゃんが」
胸から迫りくる嗚咽に言葉を阻まれながら、
「生きていてくれるならば、元気になってくれるならば、千里は」
私は今大好きな周一兄ちゃんに抱きしめられている。こんな状況でなければどんなに幸せだっただろう。今は悲しみしかない。
「千里はね。それだけでいい」
周一兄ちゃんの胸は温かいけれど、真っ白な病床、ここに本当の笑顔を誘う要素はたった一つもない。
白い壁、白いパイプ、白いシーツ。全てが真っ白な病床の中に身を置く、ブルーの縦縞の寝巻きを着た周一兄ちゃんは、点滴の管に繋がれていて、右手を覆う硬いギブスと薬のにおいに包まれている。
周一兄ちゃんを襲った病気が憎い。それでも生きようとする熱い気持ちが、ここにはある。なにを失ってしまうとしても命だけは失くさずにいて欲しい。生きることはとてもつらい。それでも生きていて欲しい。周一兄ちゃんに生きていて欲しい。
私は震えながら泣いた。全身が嗚咽に大きく震えた。転移だけはしてないで欲しいと何よりも願っていた。この病気は肺への転移が多いらしい。転移さえなければ周一兄ちゃんは、元気に退院できるはず。宗教や神様など信じてはいない。それでもなにかにすがりたい気持ちが痛いほど分かる気がする。もうこれ以上、周一兄ちゃんを苦しめないで。
赤い袋に詰まった願いがどうか、届きますように……。私は強く、強く願った。
物音一つしない部屋で、周一兄ちゃんは苦しそうに眠っている。手術は終わった。
もう右腕のない周一兄ちゃんが目覚めてその事実を知る様子をこの眼にするのが嫌だったけれど、両親は帰りなさいと言ったけれど、私は帰らずに病院に残った。
目覚めたとき、周一兄ちゃんの側にいたい。どうしても側にいたくて、帰れなかった。でももう時間が追い込まれている。
昼間は明るい日を差し込んでいた窓ガラスには、暗がりの中で風に揺れる、木々のざわめく様子しか映していない。しかしここにはそのざわめく音は一切聴こえない。私は長いことその無声のざわめきを暗い部屋の中から見つめていた。
「チサト」
夢を見ているのか、その声はゆっくりで小さい。
「チサト」
やっぱり目覚めている。寝言ではなさそう。
「なあに?」
周一兄ちゃんに上掛けをそっと掛け直し、力ない周一兄ちゃんの言葉を聞きとるために、私は顔を近づけた。
「下ろして」
周一兄ちゃんは目を閉じたままだった。
「疲れたんだ、下ろして」
「何を? 何を下ろすの? フトン?」
私は優しく訊いた。
「腕、早く」
周一兄ちゃんの左側に回り、手を握った。
「ほら、上がってないよ。ちゃんと下りているよ」
周一兄ちゃんは苦悶の表情で、首を振る。
「右腕が、痺れて……。痛いよ」
私はぎょっとした。周一兄ちゃんの右手はもうない。それにずっとここにいたけれど、左腕さえ上げていなかった。勘違いでもない。ないはずの右手が疲れたって、どういうことだろう。
「下ろそうとしても、下ろせないんだ。もう、限界……なんだ」
「上がって……ないよ?」
ないはずの右腕を下ろせと言われても、どう下ろせばいいのか。
夢を見ていたんだろうか。麻酔のせいで意識が朦朧としているのだろうか。私はオロオロと戸惑うばかりで、どうすればいいのかわからなかった。
周一兄ちゃんの閉じていた眼が薄く開いて、私を見た。
「お願い……」
言葉のあとすぐに閉じた周一兄ちゃんの瞼の隙間から涙が一筋流れて枕に消えた。
周一兄ちゃん……。
「うん、うん、分かったよ。下ろすね? 下ろすよ」
私は周一兄ちゃんの右側に回り込んで、一生懸命に、大袈裟に、下ろす振りをした。
「ほら下りた、下りたよ。もう大丈夫でしょ?」
周一兄ちゃんはその後何も言わなかった。どうやら眠りについたようだった。その寝顔を見つめながら、涙が一 筋頬を流れて、右側の唇から侵入した。いつもはしょっぱいはずの涙が、今日はとても苦い味がした。
病室を出て、ドアにもたれたまま、しばらく泣きじゃくった。父と母が角を曲がりこちらにやってくる。
「どうした? 千里」
泣き顔で立ち尽くす私に父が声を掛けた。
私は母の胸に飛びついて泣いた。抑えることも忘れて声をあげて泣いた。
「周一兄ちゃんが……。周一兄ちゃんが……」
嗚咽に阻まれながら懸命に伝えようとしたけれど、なんの言葉にもならなかったと思う。
もう、苦しいことなんて、きっとない。これからは笑顔で生きていけるよね。一緒に。昔みたいに。
まだ再発などがないとも言えないし、気づかない小さながん細胞がないとは言い切れないけれど、生存率はぐんと上がったはず。
まだ通院は長く続くけど、元気に退院できるのは間違いない。とりあえずは終わった。あとは再発しないことを願うだけ。
手術をして取り除き退院したからといって、きれいさっぱり完治したとは言えない。この病気は癌と同様、やはり五年、十年と長期の闘いが必要な病気だ。定期的に検査をし、通院しながら気長に付き合っていかなければならない。それはその期間に再発する危険性が高いから。
私は周一兄ちゃんが退院する日がとても楽しみでしょうがない。早くこの病室独特の空気から開放してあげたい。外の空気をいっぱい吸ってほしい。
だけど、持ち主の帰りを部屋でじっと待っている大きなグランドピアノを眼にしたとき、周一兄ちゃんはどう思うだろう。なにを感じるだろう。もうピアノは弾けない。
切断してから東京に旅立つまでの間、周一兄ちゃんは甘えるような熱っぽい目で、よく楽しい話をしてほしがった。楽しい話ではなくてもなんでも良かったかもしれない。誰かの声を聴いていたかったのかもしれない。周一兄ちゃんが望むように学校でのこと、家族との会話、最近のテレビ番組などについて思いつく限りの話をした。どれもたわいもない話ばかりだった。話すうちに周一兄ちゃんは眠った。気づかない間に、とても静かに眠った。小さな子供が絵本を読まれながら眠るのは、こんな風だろうか。
ごめんね、私はこんな状態の周一兄ちゃんを残して行ってしまう。退院のときを待たずに、私は東京へと行かなければならない。
そんなことを何度も周一兄ちゃんに向かって心の中で繰り返した。言葉には出さないけれど、周一兄ちゃんは寂しそうだった。
そして周一兄ちゃんはこの頃特によく眠る。そういう現象は薬のせいだろうか。
「昔から千里は寂しがり屋だった」
ある日、ふとそんなことを周一兄ちゃんが呟くように小さな声で言った。来たとき周一兄ちゃんは寝ていたので、私は折り紙でツルを折っていた。周一兄ちゃんが調子の悪そうなときや眠っているときには、いつもこうして折鶴を折りながら祈っていた。
周一兄ちゃんの声に手をとめて顔を上げた。寝ていたと思っていたのにいつの間にか目を覚ましたようで、ベッドの上、白い天井を真っ直ぐに見つめて、ゆっくりと、ゆっくりと、まるで独り言を呟くように話し始めた。
「僕の家に来ると、帰らないって言うんだよ、いつも。お父さんとお母さんが寂しがるよって言うと、しぶしぶね、帰って行くんだけど、また次の日、同じ事を言うんだ」
まるで夢の中にいるような眼差しで語る周一兄ちゃんを、私はじっと見つめて聴いていた。口調もどことなくスロー気味だ。
周一兄ちゃんは少ししてまた続けた。
「でもお父さんとお母さんが、幸せな気持ちで、千里と離れられる方法があるんだよって言ったら、千里はすごく知りたがっていたよ。どんな方法だと思う?」
周一兄ちゃんはそう言って私を見た。不意に質問をされて戸惑った。誰に話をしているんだろうと思わせる周一兄ちゃんを、私は相槌も打たずにただぼーっとして見ていたから。
私は少し考えたが、話の意図さえつかめない私は、された質問ではなく、どうしてこんな話をするんだろう、何を言おうとしているんだろうということを考えた。周一兄ちゃんはまた視線を天井に戻して、
「それは結婚すること。千里はいつか大好きな人を見つけて、その人のところに行くんだよ。もっと幸せになるためだから、お父さんもお母さんも、嬉しいんだよって言った。それからなんだよ。千里がお兄ちゃんと結婚するって言い出したのは。別にお兄ちゃんとってつもりはなかったんだけど。千里はそう受け取ってしまって」
周一兄ちゃんは懐かしいものを見るような遠い眼を、パッタリ閉じた。
「悪いことをしたと思う」
私は首を振った。
「身勝手な発言して、千里を迷わせて、そのあげくにこんな……。無責任に、悪かった。本当に申し訳ないことをしたと思っているよ」
「そんなこと」私は首をしきりに振り続ける。
「千里は、自分がいないことで、誰かが悲しい想いをしたり、寂しい想いをしたりするのを、嫌がる優しい子だったんだ。寂しがりだったのはお兄ちゃんの方だったね。僕は甘え過ぎた、千里に」
「そんなことない。そんなことないよ、周一兄ちゃん」
私は椅子を引きずって立ち上がり、必死に首を振った。
周一兄ちゃんから教えてもらったたくさんの言葉、それらに包まれて育ったことは私の誇りだよ。謝らなくていいよ。
「東京に行くとき、千里は小さかったから、僕のことなんてすぐに忘れてしまうと思っていたよ。パリから戻っても、きっと千里には好きな男の子とかいて、友達もいっぱいで、僕のことなんて見向きもしないと、覚悟していたのに」
「忘れないよ。忘れたりしないよ、当然じゃない」
周一兄ちゃんは、何故こんな話をするのだろうか。
「どうして帰ってきてしまったんだろうね」
周一兄ちゃんは掛け布団を握り、瞳をゆっくり閉じた。
「千里、もういいよ。ありがとう」
なんだか、お別れみたいで、嫌だ。ドラマとかでこういう話をし始めると話し終わったあとで、ヒロインが死んでしまう。
そんな想像が脳裏をかすめ、私はもっと首を振った。
「周一兄ちゃん、なにを言うの? なんか周一兄ちゃん変だよ。もう病気は治ったのに。もうすぐ退院できるのに」
周一兄ちゃんは妙に悲しげな空笑いのすぐあと、どこか遠いところを見つめて深呼吸した。
「これからは、好きな人を探して、幸せになってほしい」
目の前に、好きな人がいるのに、どうして探さなくちゃいけないと言うのだろう。今日の周一兄ちゃんは本当に変だ。
「まるでもう会えないみたいじゃない。お別れみたいじゃない。変なこと言わないでよ。もう病気は、治るんだよ。周一兄ちゃんは元気になるんだよ。元気になったら東京、来てよね」
周一兄ちゃんは唇を噛んだ。何度も押し寄せる涙を我慢していたのかもしれない。私の視界から涙を隠すように、周一兄ちゃんは寝返り背を向けた。
震えゆく肩越しから、啜り泣く音が漏れてくる。
「東京に行く理由はもうない」
はっきりそれだけ告げたあと、周一兄ちゃんは声を殺して泣いた。震える背中に手のひらを当てると、そこは温かさでいっぱいで、涙で周一兄ちゃんの背中が滲んだ。
確かに東京に周一兄ちゃんが行くのは、ピアノのためだった。でも理由など私はどうでもいい。なんでもいいから側にいたい。本当は周一兄ちゃんを残して行きたくない。ピアノなんてもうどうでもいい。
「ごめんなさい。周一兄ちゃんを残して……」
私はベッドに寄りかかって、布団を思わず握り締め、首を振りながら、
「私、行きたくない。本当は私、どこにも行きたくない。私ピアノなんてどうでもいい。周一兄ちゃんの側にいたいよ」
布団に顔を埋めた私の頭を、撫でる優しい手を感じて、顔を起こした。周一兄ちゃんはいつもの優しい微笑みを浮かべて、こちらに向き直っていた。その目に涙はもうなかった。
Jesuis de`sole` chisato.
Je t`aime.
Tu mariage vouloir re`alite.
不意に周一兄ちゃんが、早口な外国語を口にした。私には意味がわからなくて、それはまるで呪文かなにかのようだった。
「フランス語?」と涙を拭いながら訊くと、「そうだよ」周一兄ちゃんは空虚な瞳を天井に向けた。
「なんて言ったの? 私、千里っていうところしか、分からなかった。もう一度、ゆっくり言って」
先ほど周一兄ちゃんが髪を撫でた手を、私は見つめて言った。
「千里が幸せになりますように……、頑張れますようにって」
周一兄ちゃんの言葉は、半ば涙に消えそうだった。私の頬に触れた周一兄ちゃんの手は、胸が張り裂けそうなほどの切なさを与えた。
「まさか千里が音楽をすることになるとは思ってなかったんだ。叔父さんは音楽を千里にさせるつもりはないと言っていたし。親から離れるのは結婚する時だと、思ってたのに」
瞳にまだ涙を溜めながらも、周一兄ちゃんは笑顔を作った。
「今から思えば、それも僕のせいだったね」
好きだと伝えたい。あふれる想いの全てを……。頬からあふれる涙が周一兄ちゃんの手に染み込んで、ありのまま伝わればいいのに。言葉にできない気持ち全てが。
頭を撫でる、周一兄ちゃんの手のひらを、私は自ら手に取り頬に当てた。昔、何気なしに、数え切れないほど、こうしていた。周一兄ちゃんの手を取って、無意識に頬へもって行き、甘えた。再会してからは、ずっと触れられなかったけれど、やっと触れられた。この長く細い手が好きだった。大好きだった。
私は、すきよ、すきよと心の中で繰り返した。
だけど言葉にしなくても、周一兄ちゃんはなにもかもお見通しなのだと思う。だからこんな話をしたのだと思う。
「春休み毎日来てくれていたよね。向こうに行く用意もあるだろうからいいよ、もう。見送りにはいけないけど、千里、しっかり頑張るんだよ」
このとき、私はもしかしたら周一兄ちゃんは死んでしまうのではないかと、怯えた。
上京する予定日の三日前のことだった。
4
周一兄ちゃんが退院したのは、桜の季節を越えて、もうすっかり熱くなった五月の初め。私は春から東京で新しい生活に移っていた。
周一兄ちゃんも一緒に来るはずだったのに、こんなことなら地元の高校にしておけばよかったと、最初の頃はかなり不満を抱いていた。今でもその気持ちはあるが、今更いくら言ってもしょうがない。
右腕を失くした周一兄ちゃんはその後電話口で、「覚悟はしていたけど、やっぱりキツイな」と洩らした以上の落ち込みを私に見せなかった。
一人でいるときには悔し涙を流したかもしれない。今まで培ってきたピアノから身を退かなければならない現実を前にして、自暴自棄になったかもしれないし、未来への大きな不安もあっただろう。
だが春休みが終わる前に病室で見せたあの涙を最後に、私にその苦しみは見せなかった。側にいなかったせいもあったのかもしれないが、元々私には自分の弱い部分は見せない人だから、距離はあまり関係がないかもしれない。
私は退院が決まったという知らせを聞いて、喜びに満ちていた。
あの病床から開放された周一兄ちゃんに早く会いたい。元気になった周一兄ちゃんに一日も早く会いたい。そう思ってすぐに帰ると言ったのに、父も母も周一兄ちゃんでさえも、帰郷は夏休みでいいと口を揃えて意見は同じだった。
ピアノを教えてくれる先生は、周一兄ちゃんの紹介してくれた葉田さんだ。「ピアノの腕は確かだし、いい人だよ」と周一兄ちゃんから聞いていた通り、音楽の技術も女性としての魅力も、多くを学びたいと思わせる人だった。
年齢は周一兄ちゃんより三歳年上だ。ふとした仕草が色っぽく映って、同性である私でもときにドキッとする瞬間がある。私に向けてくれる言葉遣いや接し方にも気配りを感じた。レッスン中結われる長い髪は普段は下ろされている。その黒髪が大人の魅力をより一層際立たせていた。
男性から絶対に好かれると思う。そんな葉田さんから周一兄ちゃんの話をきくと、いつも決まってモヤモヤした気持ちがどこからとなく漂ってくる。それは私の知らないパリにいた頃の周一兄ちゃんだったから。周一兄ちゃんの知り合いの中に、こんなに綺麗で優しい女性がいたなんて、と最初はただそれだけでショックだった。私など足元にも及ばない。逆立ちしたって敵わない。
周一兄ちゃんの結婚したかった人はもしかしたらこの人かもしれないとずっと思っていた。だが葉田さんはついこの間、それは絶対にないと言った。どうして絶対にないのかを訊くと、その答えは、「私は振られたから」だった。
もしも葉田さんじゃなかったとしても、きっと知り合いの中には葉田さんに匹敵するほど素敵な女性がたくさんいたに違いない。そしてその中にいるはず。あんなにいつも冷静で、思慮深い周一兄ちゃんを思いつめさせた人が。どんな人だろう。その人は自ら望まずとも、『思わず婚約届けを取りいく』という行動に周一兄ちゃんを駆り立たせた。周一兄ちゃんは叶わない恋と知ってもそれを捨てきれずに、机に、心にしまいこんでいた。そうさせるくらい素敵な人が、たったひとりその中にいるのだろう。
「周一兄ちゃんの、その」
そこまで言った私は、葉田さんに見つめられて、思わず照れ隠しに眼をよそに漂わせた。
「周一兄ちゃんは、好きな人とかいたんですよね。いますよね、そりゃあ。すみません。変な話、しちゃった」
私はドギマギしながら言ったあと、ピアノレッスンに取り掛かった。
すると葉田さんは、「ええ。いるらしいわね。別れ話されたときに彼からそう聞いたから」
葉田さんが話し始めた途端、ピアノを弾く私の指はパッタリと止まっていた。葉田さんをまっすぐ見つめ返していた。
「別れ話?」
「付き合ってはいたの。一時期だけどね。でもふられちゃった」
やっぱり、恋人同士だったんだ。周一兄ちゃんは葉田さんとどのような恋愛をしただろう。どんな表情と仕草で、どんな会話をしたのだろう。どんな恋愛を繰り広げたのだろうか。
「どうして? こんな素敵な人なのに」
「まあ! ありがとう。さあ、どうしてでしょうね、私も知りたいわ。もっと魅力的な女性がいたようだけど?」
「葉田さんが周一兄ちゃんと恋人同士だった時期って、いつごろですか?」
私は遠慮することを忘れて思わず訊いたあと、
「あ、立ち入ったことを訊ねてしまって、すみません」
自分の無神経さに気付いて素直に謝った。
「いいの、いいの。もう終わったことだし、何を訊かれたって痛くないわよ」
葉田さんは大人びた笑みを浮かべて、
「そうね、坂本君と付き合ってたのは、たしか二十五歳だったのを覚えてる。何が悪かったのかなぁ? 何かあったわけでもないのに、突然僕にはピアニストの道があるからって言いだしてね」
葉田さんの瞳には懐かしさという色が見えた。もうすべて思い出なんだ。
「でもそんな理由はおかしいじゃない? だってそんなの分かっていたわけだもの。彼も私も、目指す道はむかしっから決まっていたわけだから」
私は合槌をうちながらそれまで黙ってきいていた。
「問い詰めたの。そんな理由じゃ別れられないって。本当の理由を聞かせてくれないと、別れないって。彼ウソが下手なのよね」
いつのまにか夢中になり身を乗り出していた。
「それで本当の理由っていうのが……」
私は言葉を投げかけた。葉田さんは笑顔で頷いた。
「そう。好きな人がいる、忘れられない人がいるって言われたわ。本当は私と付き合うずっと以前から好きだったって、すごく謝ってた。何度も何度もね。それをきいたら受け入れるしかないものね。一度は受け入れてくれて、それでもダメだったんだもの、仕方ないわ」
「どんな人だろう」
「そうね。私も知りたいわ。私の知らない人だって言ってた。詳しくは教えてくれなかったんだけど。彼すごくクールでしょ。彼の理想って私よりももっと大人な人だと思うわ。年上かなぁ? 噂では大手企業の令嬢と結婚するんじゃないかってきいたことあったけど、ただの噂だったのね、日本に帰ったところをみると」
「結婚? 周一兄ちゃん、結婚の噂があったんだ」
私は俯きそう呟いたあと、「あ」と顔を上げた。
「それ、パリの人ですよね」
「もちろん」
その人だったんだ、周一兄ちゃんが愛した人は。
でも破局になったから日本に帰ってきたんだわ。
「坂本君は真面目すぎるのよ。もっと楽に生きればいいのに」
「周一兄ちゃんは……、その、優しかったですか。葉田さんに」
「ええ。優しさと誠実さは誰にも負けないわ。それは別れる前も別れたあともずっと変わらない。彼が生まれ持ってきたものね」
本当は別のことが訊きたかった。周一兄ちゃんとどこまでの付き合いだったのか。いわゆる、大人の男女の付き合い、肉体関係も、あったのだろうか。
恐くて訊けなかった。その答えを知ったとき、自分だけが思い出の折の中から出られない惨めさを、さらに大きくすることが分かっていたから。
そしてそこは、やっぱり私などが立ち入ってはならない領域だと、わかっていたから。
待ちに待った夏休み、故郷へ帰る日を迎えた。車窓から眺める景色は、建物を次第に消していき、やがては全てが畑や田んぼ、緑の木々に覆われた山々だけになった。
二車両が連結した短い電車だけで、ホームの端からに端までがすっきりと収まる小さな駅。そこに降り立つと、言葉にならない懐かしい気持ちが今更ながらに込み上げて、とても複雑な心境だった。
都会とは比べ物にならない穏やかな空気。駅を囲む壁も屋根も、付近には目印変わりの建物もない。夏休みだというのに、ここにはごった返す群衆も、思わず耳を塞ぎたくなる雑音もない。
ここにあるのは青く澄み切った空。それはどこまでも際限なく続いていそうで、地球の偉大さをもののみごとに教えてくれる。聴こえる虫の音が止んだ瞬間、風が囁いて、地上に咲き誇っているあらゆる植物の存在を知らせる。ホームに駅員の姿はない。そこにあきれるくらいのんびりとした空気を感じるから、その安心感に瞳はなおのこと潤んだ。
私はここで生まれ、育ったのだ。そこにいた間は気付かなかった当たり前のことを、離れたあとで私は知った。私はこの上ない幸せの中を生きていたのだ。ここで生まれ育ったことをとても誇りに思う。何故、周一兄ちゃんが夢へつながる音高を蹴ってまで、ここに残りたかったと言ったのか、今の私には分かる。
春この駅のホームから旅立った瞬間を思い出し、心がいっぱいになった。東京での新しい生活を控えた私は、今まで触れ合った景色、長年すごした家、アップライトのピアノ、両親や友人。そしてまだ入院していた周一兄ちゃん。たくさんの大切な場所や物、人に別れを告げた。心細い気持ちと寂しい気持ちだけを連れて、電車に乗り込んだ、春の日。
そしてそのとき分かったことがある。五歳の私を残し東京へと向かう周一兄ちゃんは、あれほど泣きじゃくって見送った私よりももっと辛かったのだということを知った。
私はあの頃、周一兄ちゃんとの別れに、自分だけが孤独なのだと思っていたような気がする。自分だけが被害者のような気持ちでいた。
ホームの向こうから、周一兄ちゃんが私の名前を呼んだ。私は愛しい声に振り返り、笑顔で大きく手を振った。
久しぶりに訪れた周一兄ちゃんの部屋には、まだピアノが置かれている。きっともう使われていないのだろう。しかし朝起きてから昼間の時間を共に過ごし、眠るときにも同じ家の中にあるこのピアノの存在をどう捉えているのだろう。決して簡単に捨てられるようなものではないのかもしれない。捨てるにはあまりに大きすぎる。けれどもこの先、一緒に生きていくにはもっと大きなピアノ。
しかし私は、これからも周一兄ちゃんがピアノと寄り添い生きていける方法を見つけたのだ。随分前にテレビで放送していた『軌跡のピアニスト』。私は知らなかったが、その話を聞いた瞬間これだ、と思った。脳溢血で倒れたピアニストがいてその人は右半身不随だ。けれども苦難を乗り切り、左手のピアニストとして現在も活躍している。
きっとその話を聞けば喜ぶはずだ、と高を括っていた。生きている喜びを感じて欲しい。たとえ今まで弾き続けてきたショパンの曲の数々を弾きこなすのは無理だとしても、周一兄ちゃんにしか表すことのできない旋律を、これからも聴かせてほしい。そう心から願っていた。
周一兄ちゃんは東京での話を嬉しそうに聞いていた。学校でのこと、友人のこと、私生活の様々なことを私はたくさん話した。
そして早くあの話を周一兄ちゃんに、話したい気持ちを抑えきれずに、トイレのために席を立ったのを機に周一兄ちゃんに尋ねてみた。
「ねぇ、周一兄ちゃん、奇跡のピアニストって知っている?」
周一兄ちゃんはドアノブを握り立ち止まったまま、静止していた。しばらくしてから、「ああ、もちろん知っているよ」振り向くことなく言葉を残し、そのまま部屋を出て行った。
私は部屋の中の雰囲気が少し違うことに気づいた。部屋は確かに綺麗なのだが、私が居ない間に少し生活感のある部屋になったように感じる。その違和感に、それ以上のことはなにも思わなかった。
それよりも嬉しくてわくわくして、嬉しくなり足元のバッグを手に取って、胸に抱え込んだ。知っていたのか。それはそうだ。音楽の知識は、私よりも周一兄ちゃんの方がはるかに詳しい。大ピアニストのことだもん、知らないはずはなかった。それ以上の考えをもたなかった私は、周一兄ちゃんが戻ると、またすぐその話を始めた。
「周一兄ちゃん、知っていたんだね。周一兄ちゃんも左手はあるんだし、練習してみようよ。他にもね、実は左手で弾く人はいて、楽譜も結構売っているらしいの。リストも作曲しているんだよ、左手の曲。リストは戦争で腕を無くした人のために、作曲したんだって」
私の話の間、周一兄ちゃんは席につこうとはせずに、冷蔵庫から麦茶を出し、シンク台に置いた。食器棚から近いはずのテーブルに置かずに、シンク台に置いた。そして無言のまま今度はグラスを食器棚から取り出した。私は話に夢中で、そんな周一兄ちゃんの動作に気付いていながら、心に留めなかった。
「周一兄ちゃん、やろ? ね?」
周一兄ちゃんは何かを考えている。きっと迷っているのだろう。だがきっとやる気になってくれるはずだ。周一兄ちゃんは、ピアノが大好きだから。
「いいよ、ピアノはもういい」
周一兄ちゃんはグラスに麦茶を注ぎ込んだ。
「どうして? せっかくあんなに頑張ってピアニストになれたのに、もったいないよ。周一兄ちゃんならきっと大丈夫だよ。やろうよ、 ね?」
周一兄ちゃんはシンク台を見つめたまま黙っていた。黙りこくっているその肩越しに近づき横顔をのぞいた途端、私はそのとき映った表情からすべてを覚った。
周一兄ちゃんはしたくないんだ。だからあんな遠回りなことをしてまでも、私から遠ざかったんだ。もうピアノを切り捨てたいんだ。自分の人生そのものから。
周一兄ちゃんはやや経ってからやっと振り返り、麦茶をテーブルに置いた。今はもう笑顔さえ浮かべて、
「ありがとな、千里。気に掛けてくれて。でも大丈夫だよ。あのピアノも早く処分しなきゃ。誰か、欲しい人いないかな。千里の家に運ぼうって言っていたんだけど、なんか縁起が悪いしなぁ」
「私は周一兄ちゃんがピアノ弾いている姿が忘れられないの。いつも、いつも弾いていたもん。私が周一兄ちゃんに会ってピアノ聴かずに帰ることはなかった。ピアノ弾いている周一兄ちゃんが大好きだったから」
そう、周一兄ちゃんからピアノをこのまま切り離すことなど、考えられない。
「ほら、見て」私は抱きしめていたカバンから楽譜を抜き取って、周一兄ちゃんに見せた。
「これなんかどうかな。余計なことかなと思ったけど、もう買っちゃった」
周一兄ちゃんは譜面に眼も移さずに、「見たくない」と静かにとても小さな声で呟いたが、私の耳にははっきりと届いた。瞳を閉じそのあと、「しまってよ」と呟いた声も。
「でも……」
私は素直にしまえなかった。また肩を並べて、隣に並んで、協奏したい。ふたりで音を奏でたい。それは十本の私の指だけでは足りない。周一兄ちゃん、あなたの指が必要なの。それがなければ奏でられない音楽がある。
「見たくないんだ。しまって」
周一兄ちゃんの言葉に、角度が見えはじめた。それは鋭く尖った角形。
もう楽譜をしまおう。もう周一兄ちゃんを、これ以上悲しい顔にさせるのはやめよう。心ではそう思いながらも、私は口走った。
「周一兄ちゃんが失うのは、腕だけでいいのに。ピアノの存在まで、失う必要ないと思う」
次の瞬間私の手から、楽譜が空中を舞い、無残に床に散らばった。
私の手から楽譜を振り払った周一兄ちゃんの左手は、その形を保ったまま、握り締められて拳をつくった。
「千里は僕に言ったじゃないか」
日ごろは声質の少し高めな周一兄ちゃんが、驚くほど低い声で感情をじりじり押し殺すように言ったあと、
「千里は僕に生きているだけでいいって! 元気になればそれでいいってそう言ったじゃないか!」
聞き覚えの無い怒鳴り声に、私は思わず眼を見開いた。
周一兄ちゃんは瞳を閉じて首を振った。
生きていてくれるだけでいい。確かにそれは嘘じゃない。だけど人間はなんて贅沢なんだろう。同じ生きているならば、より楽しく、輝いて生きていて欲しい。
「せっかく吹っ切ったんだよ。立ち直ったんだよ。そういう覚悟で切断したんだから、もういいんだよ。もうほっといてくれ」
周一兄ちゃんは、本当にそれでいいのだろうか。立ち直るということは失ったものを吹っ切り、すべてを諦めてしまうことだろうか。今まで共に生きてきたピアノを、これまで自分の人生のほとんどを注ぎ込んできたピアノを、このまま諦めてもいいのだろうか。
「もう頑張れないんだよ。そういう気持ちにはなれないんだよ。それとも千里は、世間の笑い者になれっていうのか」
「そんなこと」
私は慌てて首を振った。
「成功して、今も立派に活躍している人だっているわ。それとも周一兄ちゃんはそういう立派な人たちを笑いの目でみているの?」
「だから、もう頑張れないって言っているじゃないか。そうなれたら確かに立派だよ。だけど簡単にそうなれるわけがないんだ」
「別にプロじゃなくてもいいじゃない。趣味でもいいじゃない。大好きなピアノを」
「普段の生活だけで精一杯だよ。ピアノだけじゃない、今までなら簡単に出来たことが、満足にできないんだよ。金儲けにも何もならないそんなことしてなにか意味でもあるのか」
私はピアノの線が切れる瞬間の衝撃を、身体に感じた。
周一兄ちゃんを苦しめたあの病気は、腕を奪っただけではなく、心までも汚してしまった。こんなことを言葉にできる人ではなかったのに。それとも、これも副作用だと思っていいのだろうか。
「ごめん。千里にあたったりして」
周一兄ちゃんは静かに首を振った。唇を噛んで瞳を伏せてもう一度、「ごめん」と呟きうな垂れた。
私は悲しかった。お兄ちゃんの言った言葉よりも、お兄ちゃんの気持ちを理解しきれない自分がもっと悲しかった。
この世の中には自分が分からないことがたくさんあって、それはどんなに努力しても、理解しきれないものも中にはあるかもしれない。だけど寄り添いたいと願う想いがここにある限り、その状況にならなければ分からないなどと言う言葉で終らせられない。
幼い頃には気づかなかった周一兄ちゃんの悲しみや寂しさを、十年も経って、この春初めて知った。今の周一兄ちゃんの悲しみも、苦しみも、随分あとになってからまた初めて分かるのだろうか。
そんなのは嫌だ。今わかりたい。そんなにあとになってからわかっても遅い。周一兄ちゃんが苦悩に打ちひしがれている今だからこそ、共にわかり力になりたいのに。
それとも私は、実際に自分の腕を失わなくては、周一兄ちゃんの抱く苦悩を、共感することはできないのだろうか。
音もなく、時間だけが過ぎる。それはあまりにも殺風景なこの部屋に似合いすぎている。部屋の中、ただ黙り込んで立ち尽くす二人の姿は、悲しいほど際立って映るのではだろうか。
冷房の効いたこの部屋は、やはり外気の気温を忘れさせる。
そして、実際の部屋の温度より、さらにつめたい空気を感じた。
私は周一兄ちゃんから瞳を逸らし、床に散乱した楽譜に目をやった。私が無理やり奨めたばかりに、痛い思いをした楽譜たち。ゆっくり拾い集めながら、ごめんねと心で繰り返す。
「嘘じゃないよ。本当に周一兄ちゃんがいてくれる、それだけで千里は嬉しい。ピアノが弾けなくなっても周一兄ちゃんの偉大さは、少しも変わらないよ」
言葉が無力なのは、大切なことを押し隠して自分を防衛しているからだ。全てをさらけ出せたなら、違うかもしれない。心に真ん中にある想いはとても柔らかく、傷つきやすくて、だから相手に素直に伝えられないで、閉じ込めてしまう。そしてその想いは決して受け入れられることはないと私は知っている。だけど封を開いたら、飴玉のような恋心はポロポロと零れ出すだけ。コロコロコロと、それは彼の前まで転がっていくだけ。
楽譜を拾い集めるためにしゃがんだままの姿勢で、
「好きよ。周一兄ちゃん」
そのあと立ち上がり、はっきりと、伝えた。
「私、周一兄ちゃんが、好きなの。ずっとずっと、小さい頃から今も」
私は長年、抱き続けた心をそっと床に転がしていく。周一兄ちゃんはうなだれていた顔を上げた。
「周一兄ちゃんが好き。今、ここにいる周一兄ちゃんが大好き。好きで好きでたまらないの。ピアノなんか関係ない。ピアノも年齢も、あんなに追いつきたかった背丈も、関係ないの。そんなの周一兄ちゃんに追いつくためのものさしでしかない」
何百回、何万回、何億回、心の中で繰り返した『すき』の言葉は、言ってしまえば簡単な言葉だった。心の中の想いは決して簡単じゃないのに、言葉にするとどうしてこんなに簡単になってしまうのだろう。身体中に渦巻く愛情と情熱を、一〇分の一さえ伝えられない。
『別れの曲だって作った人が言ったんじゃないんだよ。
誰かがそうつけたの、勝手に。そう感じる人が多いから』
思い出は、なんて残酷なのだろう。もっと簡単に、全てを忘れていけたなら、どんなにか楽だろう。
『お兄ちゃんには、愛している、愛しているっていう曲に聴こえるよ。
これは大好きって気持ちを表した曲だよ、きっと』
『お兄ちゃんも千里が大好きだよ』
「今日はごめんなさい。ただ周一兄ちゃんの役にたちたかったの。喜んでくれる姿しか想像してなかったの。周一兄ちゃんのために何かがしたかったのだけなのに。周一兄ちゃんに悲しい思いさせるつもりなんて、なかった」
今は夏だというのに、凍えそうな寒気に、思わず身震いした。
テーブルの上に、楽譜を置き、「逆に怒らせちゃった」何故だか明るく笑った。
初めから諦めていた。呆れるくらい周一兄ちゃんもピアノも好きで、好きで仕方ないくせに、自分には無理だと諦めていた。自分には無理だから、周一兄ちゃんの夢にのりかかって生きてきた。そんな私に、周一兄ちゃんに左手でピアノを練習しろ、だなんて。遠藤がいたら、『何様だよ』という声が聞こえてきそうだ。
私は今まで出したことのない、自分でもびっくりするほど低い声で、はっきりと言う。
「周一兄ちゃんの夢は私が引き継ぐよ。私、絶対にピアニストになってみせる」
すごく大変なことを口にしていることは知っている。だけど周一兄ちゃんの音楽を誰よりも側で聴いてきた私。
それはきっと無駄なはずがない。無駄にしたくない。
そして私も周一兄ちゃんからひとり歩きしなくてはいけない。いつまでも手を引いて歩いてもらっていてはダメ。
ピアノをもう周一兄ちゃんと私の距離をはかるものさしにするのは、やめよう。
「千里」
何かを言いかけては躊躇う周一兄ちゃんを見つめた。
「私、もうピアノをものさし代わりにするのはやめる」
何も言えずに、だけど何かを言いたげな周一兄ちゃんの表情は、悲しそうで、苦しそうで、迷惑以外のなにものでもない。どう見ても、『嬉しいよ』という顔ではない。ましてや『僕もだよ』の顔ではない。
涙を堪え切れなくなりそうで、私は周一兄ちゃんに背中を向けた。部屋を足早に出ていく私の背中に周一兄ちゃんは言った。
「夢が叶うように、応援しているよ、千里」
もう一つの大好きは、受け入れてはもらえなかった、そう理解して頷いた。
玄関を出てドアを閉めると熱気が身を包んだ。その空気に大いなる安心感を受けエレベーターに乗り込むと、「もういいよ」と呟いた。その瞬間、涙の粒が零れたのを境に、もう涙はあふれて流れ出て、止まらなかった。
よく我慢した。泣き虫な私が今日は何度も危機を乗り越えた。東京に行って、少しは強くなったのか。しかし我慢したその分、涙腺に貯まった涙は半端じゃない。
これがもし血だったら、間違いなく、出血多量で致死となる。急いで輸血しなくちゃいけないだろう。
夏休みが楽しみだった。
夏休みに周一兄ちゃんに会える。その長い夏休みをどうして過ごそうかと、色濃い充実した夏休みばかりを想像していた。一緒に何処かに遊びに行こうと誘ってみようとも思っていた。
しかし帰って初っ端からあんなことがあり、周一兄ちゃんと会うことも無いまま、夏休みはじりじりと過ぎていく。想像していた楽しい夏休みは、現実とかけ離れたところにいってしまった。暇を持て余し、時間の空白をため息で埋めた。
「周ちゃんに会っておかなくていいの?」驚くように何度も母に訊ねられた。だが私は、「いいのいいの」と繰り返すだけだった。
そんな私の様子から、「そう、向こうに彼氏でもできたのかしら?」母が茶化した。
前に母がこんなことを話していた。
「酒屋のおじちゃんから聞いたんだけど、周ちゃん、お酒を飲んでいるみたい。外国暮らし長いから仕方ないのかしら。でも結構な量だっていうの。お父さんは好きにさせてやれって言うだけだしお母さん心配だわ。検査の前はやっぱり控えた方がいいんじゃないかしらねぇ。千里からそれとなく言ってあげてちょうだいよ」
今の私にどうしろというのだろう。私になにができるというのか。
私には何も分かってあげられない。余計なことをして悲しみを大きくするだけ。それでもこのまま会わずに無言のときを過ごすのが本当は嫌だったけれど、会いに行く勇気はもてなかった。カレンダーは沈黙だけが塗りつぶした。
私は絶えず迫ってくる葛藤に、景色も音声も遮断していた。全てが厚い幕の向こうの世界。瞼を開いたら、唇を開けたら、耳を覆う手を下ろしたら、そこからはじまる苦痛が恐ろしかった。
周一兄ちゃんが家にやってきたのは夏休みが終わる四日前、私が帰る前日だった。
母が階下から私を呼んだ。しかしあの日の記憶がよみがえり、すぐ行動に移れなかった。三度目に呼ばれて、重い腰をやっとのことで上げた。
「もうあの子、周ちゃんと聞けばいつもなら飛んでくるのに、なにをやっているのかしらねぇ。時々訳が分からないのよねぇ、あの子」
階段から下りる私の耳に、母のボヤキ声が聞こえた。私は母の言葉を遮るように部屋へと飛び込むと、周一兄ちゃんはまっすぐに机に向かい座っていた。周一兄ちゃんが振り返って、目が合った。私はバツが悪くて顔ごと逸らした。私はそのまま無言で部屋の入り口に突っ立っていた。
周一兄ちゃんも何も言わずに、すぐに正面を向き直った。
母がそんな二人に戸惑いながらお茶を差し出そうとしたそのとき、周一兄ちゃんは座布団を外し、組んでいた胡坐を正座に直して、深く頭を下げた。
「お世話になりました。この度は色々とご迷惑を、ご心配をかけました」
「は、はい。いえ、こちらこそ」
母は思わずそんな返事をしたあと困惑した様子で、「どうしたの? 急に改まって。今日、周ちゃん、なんか変よ」
「父のいるパリへ帰ります」
“帰る”と言った。周一兄ちゃんにとっての故郷はここじゃないんだ。海と国境をいくつも越えた、母親との思い出眠る、綺麗な都会、フランスの、パリだったんだ。
母は私に助けを求めるようにこちらをサッと見たが、私の視線は窓の外の景色へと逃げた。
「お父さんから何も聞いてないんだけど。急ね?」
「決めたのは、今朝方だったので、叔父さんにはまだ……。千里のいる間に、挨拶に来ておこうと思って」
「今朝方って……。そんな急に。何かあったの? 急にどうして? あのねぇ、周ちゃん。世話が掛かるとかを気にしているのなら、そんなこと心配しなくてもいいのよ。あなたは息子同然なんだから」
「そんなんじゃないよ、叔母さん。僕は自分自身を見失ってしまったみたいだ。環境を変えて一からやり直してみる」
「今、引越しなんかして身体、大丈夫なの? お父さんは再婚したんでしょ? 相手の方にまだ、会っていないんでしょう? 誰か頼れる人はいるの? 入院中お兄さんが来た時も帰らないって、帰りたくないって、あんなに言ってたじゃない。もう二度とここを離れる気はないと」
周一兄ちゃんは沈黙した。
「ここではダメなの?」
私は急に話の中に乱入して、机を挟んで周一兄ちゃんの前に座った。
「パリへ行けば、自分の生き方は取り戻せるの?」
どこに行っても、失った右手も、ピアニストとしての栄冠も、もう戻ってはこないよ。
そのとき母は、名案が思いついたとばかりに手をパチンと叩いた。
「環境を変えたいんでしょ? じゃあ、東京にすれば? 千里もいるし、お友達もいるでしょ? 叔母さんね、向こうに知り合いもいるし、なにかあればすぐに飛んで行ってあげられるから。こっちはお父さんだけだし放っておいても大丈夫だからね。なんなら私も向こうで千里と住もうかしら。ね? そうしましょう。ね? 病院だって向こうの方が整ってていいわ」
母は瞳を輝かせて訴えた。その輝きが、眼膜をうるう涙であったことは、声の調子から分かった。
周一兄ちゃんは俯き加減に、しばらく机を見ていた。
「叔母さん、ありがとう。でももう決めたから。あっちならば、なにもかもを捨ててピアノに一心を注ぎこめるから」
周一兄ちゃんは顔を上げて笑顔を作った。
「でももうピアノは……」
母は言いかけて口をつぐんだ。
周一兄ちゃんは真摯な顔つきで私の瞳をじっと見つめて、
「千里、この前、金儲けにもならないって言ったことだけど、ごめん、ごめんね。あのときの千里の顔を思い出すたびに、胸が痛くなる。でも分かって欲しい。あのときはあんなこと言ってしまったけど、お兄ちゃんは音楽をそんな風に思ったことは一度もない、たった一度もない。たとえ左手で、趣味だとしても、かけがえのない、素晴らしいものだと思う。本当だよ」
周一兄ちゃんの声が掠れた。私は顔を上げた。周一兄ちゃんは泣いている。私よりも先に泣いている。
「だけど事実、言ったということは、いつか本当にそんな風に思う自分になってしまうかもしれない。だから自分の全てをピアノに費やした国で、あの頃を思い出すために、暮らしてみようと思う。何もかもを、ピアノに捧げたあの頃の気持ちを思い出したい。ボロボロになっても、どんなに自分が苦しくても、ピアノが好きで弾き続けていれば、ピアノだけじゃない、ひとつのことに信念を曲げずに追い続けたら、そしたら……」
周一兄ちゃんは嗚咽を何度も、何度ものみ込んでは涙を拭う。
「夢は叶う。君は偉大なピアニストになれるよ。音楽を愛し続けていれば、お兄ちゃんもいつか左手で、人の心を動かせる音楽を、また弾けるようになると思う。夢を共に叶えよう」
沈黙が部屋中に広がった。
「やぁ~ね、周ちゃん、千里がピアニストだなんて、もうホント、今日おかしいわ。周ちゃんじゃあるまいし」
母は笑ったが、それでも周一兄ちゃんはなお私に繰り返す。
「好きで弾き続ければ、千里はピアニストになれるよ。夢は叶うよ。だから頑張れよ」
好きで弾き続ければ、音楽を愛していれば夢は叶う。そこに周一兄ちゃんのような溢れる才能がなくても、いいのだろうか。
「明日は見送りに、行かないね。ここでさよならしよう」
その言葉通り、翌日の上京の際、いくら改札口を見つめていても、周一兄ちゃんは現れなかった。
Yの形に 分かれた
恋と夢
悲しい錯覚が始まったのは
好きと言った
あの瞬間から