初めての離別
『ワルシャワ』
ワルシャワの夜景は暗い。
コンクールの予選を明日に控えて、眠れず焦燥感に駆られ、出ていた顔を布団の中へ潜り込ませた。掛け布団の中の小さな空間で呼吸した。いつも薄くて、軽いはずのそれは、今日はやけに重く圧し掛かり全身を圧迫する。
息苦しさが小さな空間の中、漂っていた。その空間に耐え切れずに、布団を剥いで、窓際に逃げ出す。
そして愛しい彼の面影を、ガラス張りに映る町並みの中に映した。自分の愛情を独り占めし、決して放さない人。
思い出というものは、現実に向かい歩く私のうしろがみを引いて足を止めさせる。その思い出が楽しく輝かしいものだったならその分強い力で引き止める。過去に美を感じ、帰りたい、戻りたいと繰り返し願ってしまう。無理なのに、無駄なのに、願わずにいられない。
彼と過ごした日々。それを数字で換算したならば、生きてきた日数に比べてごくわずかだ。けれども彼と過ごした日々はあまりにも印象深く、占める割合はとても大きい。
けれどその日々を追憶したならば、まるで幻想のように思えてしまう。だから私はふたをすることにした。彼との輝かしい思い出も、ひたむきな恋心も、この上ない悲哀も、なるべく思い出さないようにし、忘れたフリをした。そして求めるものの方向性をすり替えることで、私は愛する人への情熱の全てをピアノに注ぎ、自分自身を誤魔化し護ろうとしてきた。
本当に手に入れたかったもの、求めていたものはなんだろう。その疑問は、もう今ではすっかり考えることがなくなった、心の領域。
手が冷たい。
目も痛い。
このままだと明日の予選にきっと影響してしまう。
万全の体制でコンクールに臨みたい気持ちが空回りして私の焦りはもっと、もっと強まっていく。
ピアノを始めたきっかけは、今にして思えば可笑しいくらいとても単純なものだった。それなのに二十五歳になっても未だピアノを弾き続けていて、予選とはいえ、こんな世界的なコンクールの場に身を置いていることには自分自身、奇跡のようにも感じる。
一つの楽譜の表と裏に彼とピアノが存在し、それは紙一重のよう。幼いころから心の中、一緒くたに詰め込んだ二つの大きな存在が混迷し、今ではなにを求めているのか分からない。
いや、分からない振りをしていた。
ずっと抱き続けた想いが、彼に執着する自分が生んだ依存、それは単なる幻惑なのだと思ってしまうから。
長年こんなに一人の人ばかりを追い求めることなど普通なら有り得ないことではないか。それを否定する気持ちと、実際あふれかえる気持ちが胸で混濁し、難解な迷路にまたしても迷い込んでしまう。どんなに考えても堂々巡りで、埒があかないことを知りながら。
今更急いで考えても仕方ない、眠ろう。予選を無事突破し、本選が終わったあとでゆっくり考えればいい。しかし夜の闇がそうはさせない。
長年閉じ込め続けてきた情愛の詰まった心のふたが、ほら、開いてしまったから。
ワルシャワ独特の湿気高い気候によって付いた無数の水滴が、雨が降っていることを、私に想像させる。けれども実際は雨など降ってはいない。
一面のガラス窓に手を当てた。すぅーと筋になって落ちていく水滴。そのガラス越しの向こう、決して賑やかではない漆黒の夜景の中に、自分の幼い日々の記憶を映した。
それは大きな幸せもない代わりに大きな悲しみもない、当たり前に平凡な幸せの中を生きていた、幼い頃の日々の記憶。
『初めての離別』
ツンツンと活きよく伸びる草間の小道を、慎重に歩いていく。イチゴジャムがたっぷりと入った瓶を、小さな手のひらと胸部で大切に、それはそれは大切に包んでいる。
足元に現れる石には特に気をつけなければならない。つまずいて、瓶の中身をこぼしたりしては、大変だから。
私は今、大好きな人のために、お母さんから渡されたイチゴジャムを運ぶという大仕事に向かっていた。いつもならば駆け抜けていくので、幼い私の小さな歩幅でも二分と掛からないのに、その日はとても慎重すぎて、いつもの倍以上もかかった。その慎重さはといえば、お茶碗の中のご飯が、熱いお味噌汁にすり変わったときの緊張感にとても似ていた。
空には雲一つ見当たらない。無限に広がる濃い青さの中には、斑も波うちも凹凸もなく真っ直ぐで、何もさらってゆくことのない平穏な風が、草花を揺らしながら、透明な陽光の輝きを運んでいく。
深い緑の草たちは生きていることを空に強く語りかけているかのように垂直に伸びている。セミたちもまた長い眠りから覚めて、明るい地上へと這い出て、空へと訴えているように思える。ここに生きているのだと。
私はそんな生き物たちの活気がみなぎる夏がとても大好きだ。
目的地へたどり着いた私は、心を躍らせながら思い切りドアを叩き、大好きな人の名を呼ぶ。
「周一兄ちゃん! 周一兄ちゃん!」
ドアは開かなかった。代わりにしばらくしてからその横にあるガラス窓が、ゴトゴト音をさせながらゆっくり開いた。
「おぅ! 千里、待ってたよ」
周一兄ちゃんの優しい顔が窓からそっと覗いて、微笑んだ。
私はこの春、五歳になって幼稚園に入園した。おませだとよく言われる。それもそのはず、淡い恋心を向かわせている相手は、同じ幼稚園の男の子ではなく、目の前で微笑む十二歳も年上の周一兄ちゃんなのだから。
一度窓から姿を消した周一兄ちゃんは、「お母さんから電話があって、遅いから迎えに行こうかと思ってたよ」と今度は玄関のドアを開いた。
ずっと大事に抱えていたイチゴジャムの瓶を、周一兄ちゃんへ手渡しながら思うこと。
大きくなったら、籠いっぱいの新鮮で真っ赤なイチゴを砂糖と煮つめイチゴジャムを作り、甘い香りごと瓶に詰める。いつか自分の手作りをこうして渡すんだ。
来る道中ずっと思い描いていた通りの、優しい笑顔で周一兄ちゃんは、「ありがとう」と受け取ってくれた。
イチゴジャムの礼と私が無事着いたことを知らせるために、周一兄ちゃんはお母さんへ電話を掛けている。そんな周一兄ちゃんの腕の下をくぐり抜けて部屋へ入った私を、黒くて大きなグランドピアノがどっしりと腰を落ちつけて、迎え入れた。
いつもものすごい存在感を押しつけてくるこのピアノは、周一兄ちゃんの手が加われば、まるで先ほど瞳に映した空のように、心の中のあふれ物はすぅーっと遠のいて、澄んだ心の色だけを感じさせる旋律を生み出す。
付近に存在する物、たとえば棚に詰まった本や、キッチンのガス台にある鍋なども眠るように静かで、そこに物音はなく、一切の音はピアノの音色だけになる。
だけど私はこの黒くて大きなピアノがどうも好きにはなれなかった。近づいてピアノの表面を覗くと、その黒い中には姿を変えた自分が映る。周一兄ちゃんの存在も、周一兄ちゃんが生み送り出す旋律も大好きだったけれど、このピアノだけはなぜか親しみにくい迫力がある。むやみに触って叱られた経験はなかったけれど、私には分からない世界を共有する周一兄ちゃんとピアノに、言いようのない疎外感と寂しさが、胸の奥に沸き起こっては不安をかきたてる。小さな私にはそれがどういった感情かがよく分からなかった。その感情がもつ意味が分からなかった。ただ心の奥が、ひどくモヤモヤした。
そんな気持ちとは裏腹に、いつか自分も周一兄ちゃんと同じように、ピアノを弾いてみたいと密かに思っていた。けれどもピアノの強すぎる存在感に気負けして、小さい子供の自分には無理なのだろうという考えに、いつも行き着くのだった。
電話を切った周一兄ちゃんは、グラスを手に取り冷蔵庫へと行き、二つだけ氷をグラスに入れると、リンゴのジュースを注ぎ入れた。
私は汗のにおいのする麦わら帽子を頭から取り去り、それを見ていた。ジュースの注がれる勢いで、二つの氷はグラスの中を忙しげに回転し、ぶつかり合う音を響かせながら、踊っていた。静まった氷たちはリンゴジュースの 液面に浮かび、静かに旋回している。
飲み物には氷が入っていないことが多かった。グラスに浮遊する氷はいつまでも冷たさを保つことを知っていたし、キラキラ光って魅力的で、同じ飲み物でもとてもおいしく感じた。大人が入れるものだと思っていた私にとっては、リッチでカッコよく思えた。だから今日のように氷が入れてもらえると、少しお姉ちゃんになったような気がした。グラスを揺すると中でカランと音がするのがまたたまらなく嬉しかった。
踊りだしたい気分で足取り軽く傍らのソファーに座り、ガラステーブルに置かれている楽譜へと視線をやった。 その楽譜は周一兄ちゃんが取り上げて、代わりに先ほどのグラスが置かれた。
周一兄ちゃんはテレビを点けて、どの番組が良いか選ぶために違うチャンネルへと変えてみたが、すぐ消してしまった。
「この時間、千里が喜びそうなのやってないな。とりあえずジュースでも飲んでいて。千里、暑い中ご苦労さま」 周一兄ちゃんは私の頭を優しく撫でた。
周一兄ちゃんにはきょうだいがいない。お母さんは周一兄ちゃんが小学生の頃に病気で死んだ。唯一の家族であるお父さんは遠い外国に住んでいて、ときどきは帰ってくるけれど、普段は離れて暮らしている。
周一兄ちゃんはいつでもピアノを弾いてばかりいる。だからお友達との交流はほとんどない。どうしてそんなにピアノが好きなのかは知らないけれど、周一兄ちゃんにとってピアノの存在は、何よりも大切だということは確かだった。
私も一人っ子で、産まれたときから側にいた周一兄ちゃんに、いつもいつもくっついていた。それはひとつずつでは意味を持たない木具が、ふたつ合わさって成りあうカスタネットのように、一緒にいるのがとても当たり前なことだった。
私はジュースの入ったグラスを手に取ってストローを吸った。甘酸っぱいリンゴ果汁百パーセントの香りが鼻を満たし、冷たく心地よい感触が喉を通っていった。
イチゴジャムの瓶を目の高さまで上げ、嬉しそうに眺めている周一兄ちゃんの姿を眼にした途端、私はグラスを置いた。さっきまでの嬉しい気持ちはもう心にはなく、グラスの中で揺らめく二つの氷が心中を切なくさせた。それは炭酸水が胸に染み入るような切なさ。
「千里元気ないな。どうかしたの?」
周一兄ちゃんは瓶をかたわらの棚にそっと放し、私の隣に深く腰掛けて、ひざの間で手のひらを合わせて指を組んだ。
「だって……」
私はひととき言葉を詰まらせ、周一兄ちゃんから視線をそらした。
「だって、千里も早くお母さんみたいに、イチゴのジャム作りたいんだもん」
周一兄ちゃんは声を上げて笑った。なぜ笑うのだろうと、不思議な気持ちで見上げた私の肩をポンポンと叩いて、周一兄ちゃんは微笑んだ。
「すぐだよ。もうアッという間に千里も作れるようになるよ」
「本当? 千里もなれる? 大人に」
早く大人になりたい。早く追いつきたい。だけどこのままなのではないかと不安になる。周一兄ちゃんは私の不安や焦る心を優しく包み込むような眼差しで私を見つめ、
「あぁ。千里もちゃんと大人になれるよ」と微笑んだ。
一日はとても長い。たくさんの周りの大人たちが同じように答える。それでも本当に大人になれるのだろうか、本当にそんな日が来るのだろうかという疑問は、消えないままだった。だけど周一兄ちゃんがそう言ってくれるならば、明日にでも大人になれる日が来るかもしれないと思った。周一兄ちゃんはいつでも私の想いを真っ直ぐに受け止め、そして十分に返してくれた。周一兄ちゃんの言葉ならば、何の根拠もなしに、無条件に信じられた。
私の夢は手作りのイチゴジャムをいつか周一兄ちゃんにプレゼントするということの他に、実はもう一つあった。周一兄ちゃんのお嫁さんになりたい、五歳の夏の日、私の小さな心はそう願っていた。
私は心を躍らせて足をバタバタさせて喜んだ。周一兄ちゃんの足に手をついて、私は身をのりだして訊いた。
「いつ? それっていつ? ねぇ、明日ぁ?」
「ん~、明日は無理だよ。あのね、急に大人にはなれないんだよ、千里。毎日少しずつ大きくなっていくの。お兄 ちゃんも千里も今、少しずつ大きくなっている途中だよ。それにそんなに急いで大きくならなくても平気だよ。お兄ちゃん、千里が大きくなるまでずーっと待っているから。そのときになってやめたなんて言うなよ」
周一兄ちゃんは人差し指で、私の頬をチョンと突付いた。
そんなこと絶対に言わないよ!
私はたまらなく嬉しくなり、尻でソファーを揺らした。そして突然ソファーから床に飛び降りて、今まで言えなかったあの想いを伝えようと決意した。ピアノのかたわらに移動した私はピアノをまじまじと見つめた。
「ねぇ、お兄ちゃん、千里もピアノ弾きたい。周一兄ちゃんみたいに。千里は弾けないの? 小さいから」
「練習したら千里も弾けるようになるよ。いっぱい、いっぱい練習しないといけないけどね」
「お兄ちゃん、千里にピアノ、教えて」
いつもはためらっていた言葉を私は初めて口にした。少しでも周一兄ちゃんに近づきたい、大人に近づきたいという想いがにじんだ手のひらを、胸元でグーに結んで訴えた。
周一兄ちゃんは立ち上がり私の側まで来て、目線を合わせるようにしゃがんだ。
「千里、弾きたいの? ピアノ」
「うん! 弾きたい!」
きっとピアノがちゃんと弾けるようになれば、大人の女性になれると本気で思った。周一兄ちゃんのお嫁さんになれるのだと信じていた。
「今までにもお兄ちゃん弾かせてあげていただろう?」
ピアノは以前、何度か周一兄ちゃんのひざの上で、教えられながら弾いたことがある。不器用な人差し指で弾いた最初の曲は、私が当時よく歌っていたチューリップだった。音が切れ切れだったので、誰が聴いても一つの曲だとは思えなかっただろう。
私はあわてて首を振った。
「違うもん、そんなんじゃないもん。お兄ちゃんみたいなのが弾きたいの!」
口をとがらせて訴える私に、
「そっか、じゃあ、帰ったらお母さんにお願いしてみような」
周一兄ちゃんは嬉しそうに微笑み、私の頭にふんわと大きな手をのせた。
夕焼け空を背に、周一兄ちゃんの温もりに手を引かれながら歩く。
言葉はないが優しい時間だ。
勝手にひとりで押しかけても、帰りは必ず送ってくれた。昼間は遠慮なく鳴いていた蝉たちは心なしか遠慮気味で、草陰で眠っていたバッタたちはチィチィ鳴き始めたようだ。トンボが目の前をときどき横切り、どこかで小鳥が家への帰宅を急いで鳴いた。自然の魔法が重なり合って、音を奏でる優しい瞬間。
私はこうして手をつないで帰る時間が好きだった。三分少ししかない時間。周一兄ちゃんは私を送り届けるといつもすぐに帰ってしまう。今よりちいさい頃は泣いてすがった。別れを泣いて嫌がる私に、明日また会うための帰り道だといつか周一兄ちゃんは言った。悲しいから本当はきらいな時間だったけれど、明日へ続く道のような気がするこのバイバイの時刻が、私は大好きになった。
家へ着くとお母さんが、「周ちゃん、いつも送ってくれてありがとう。ごめんなさいね」と笑顔で出迎えた。
「いや、こっちこそジャムありがとう」
「周ちゃん、好きだもんね。千里も周ちゃんにあげるんだとか言って張り切っちゃって。邪魔するから困ったわ」
お母さんはそう言いながら苦笑した。
邪魔とはなんだ。手伝ってくれてありがとう、お母さん助かったわ、と言っていたくせに。私は不機嫌な眼差しでお母さんを、下から見あげた。
「僕にもいつになったら大人になれるのかって訊いてたよ。千里も早くジャムが作りたいんだって。明日にでも大 人になるような勢いだったよ」
「まぁこの子ったら」
どうでもいい、くだらない長話をしているふたりを、私はぷくっと口元をふくらませてにらんだ。ズボンをひっぱり抗議する私を周一兄ちゃんは見おろした。
「そんなことよりピアノ!」
私の抗議で思い出したように、あ、そっかと呟いて、周一兄ちゃんはお母さんに視線を戻した。
「あのね、おばさん。千里がピアノを弾きたいらしくて」
事情をひと通り周一兄ちゃんが話すと、
「えぇ? この子がピアノ? でも周ちゃんは忙しいんじゃないの? 自分のピアノレッスンもあるし、学校の勉強もあるのに。いつもつきまとっているだけでも迷惑なんじゃないかと心配しているのよ。その上、この子にピアノを教えるなんて」
お母さんは困った様子で私を見おろしている。お母さんはときどき、周一兄ちゃんはピアノの勉強が大変だからあまり行ってはいけない、と言ってくる。もしかするとそんなことはダメだと言われるかもしれないと、不安な気持ちでいっぱいになった。
「僕ならいいよ、おばさん。千里なら妹みたいなものだから気も使わないし、千里が音楽に興味持っているならやらせてあげたいから。勝手にさせるのもどうなのか分からなかったから、訊いてみたんだけど。駄目かなぁ」
「もちろん駄目ではないけど。まだ小さいし、すぐ飽きると思うのよね」
「それでいいと思う」
心配な面持ちで見上げている私の瞳を、周一兄ちゃんは微笑み見つめ返した。
そんな私たちの様子を見て、ため息交じりにお母さんは微笑み、
「分かったわ、じゃあ邪魔にならない程度によろしくね。あくまであなたの本分はピアノだから、それを優先してちょうだいね」
「はい!」元気な返事を返した周一兄ちゃん。
不安な心を空中に開放するように、私は両手を広げて飛び上がり喜んだ。夏の日の、まだ明るい夕暮れが見守る中、周一兄ちゃんは、「千里、一緒にがんばろうな」と私を抱き上げささやいた。私は周一兄ちゃんの腕に抱かれながら、少しばかり近づいたと思い、心を夕日の色に染めた。
渡された教本は二冊だった。
私は初めての教本に歓喜し、ページを捲るごとに感嘆の声をあげた。周一兄ちゃんはまず姿勢や指使い、音符の読み方などの基本を教えてくれた。
周一兄ちゃんが、自分を小さな子供ではなく、一人の音楽を志す者として、毅然とした態度で教えようとしていたことは、幼い自分にも十分に伝わった。
まず練習の時にはひざに座らせることをやめた。いつも優しい周一兄ちゃんだったのに、今まで見たことの無いその毅然とした態度には、近寄りがたいものを感じた。そんな周一兄ちゃんの表情を映しながら、きっとこれは大人になるために大事なことなのだと思った。
あるときはグラスを並べ鉄琴の要領で鳴らして遊んだ。
またあるときは面白い音のする物を家から探して集め、それらを周一兄ちゃんが隠して鳴らす。鳴ったものがなんであるかを当てる遊びをした。手作りの楽器を作ったりもした。この音遊びはとても楽しい時間だった。
けれどなにより私の大好きな時間、それは周一兄ちゃんがピアノを弾くのを聴くときだった。
私はいつものように周一兄ちゃんの家へと訪れていた。窓の外は雨が降り出していた。雨粒が集まり大粒の雫となって、ベランダのトタン屋根に落ち、雨の日の憂うつさをさらに大きくさせる。
「昼ご飯うちで食べさせてもいいかなぁ?」
お母さんに電話をかけた周一兄ちゃんがそう話しているのを聞いた。その途端私の心は、周一兄ちゃんと一緒にお昼ご飯を食べられるということに、空模様とは全く逆の、飛び跳ねたいほど明るく晴れやかな気持ちになった。
私は周一兄ちゃんの目を盗み台所へと移動した。ガス台のフライパンが目に入り好奇心をくすぐった。以前から母がしているのを見て一度してみたかったお料理。小さな胸の中は、大好きな周一兄ちゃんのために料理を作れるということに、無数のシャボン玉が舞い上がっている瞬間に出くわしたような、幸せな気持ちでいっぱいだった。
包丁とまな板置き場くらい知っていた。周一兄ちゃんは包丁をシンク台の扉には置かず、私の手が届かないようにと台の上、一番奥に包丁入れのカゴを置いて、その中に寝かせ、布巾を掛けて置いている。
まずその包丁を取ろうとする。……が届かない。私は手を洗う時に使う台を移動することにした。
「はい、分かりました、じゃあ」
周一兄ちゃんが電話を切ってしまった。急がなければ。
用意してきた台に素早く乗り、焦る胸をシンク台に押し付け、手を伸ばす。
あ! 届いた。
包丁の入ったカゴをつかみとり、喜びながら身体を戻そうとした。その次の瞬間、姿勢を崩して身体は揺らめき、踏み台にしていた箱が宙へ飛んだ。
私は悲鳴を上げながらすごい音と共に床へ落ちた。
「千里!」
駆け寄ってきた周一兄ちゃんは強い力で私の肩をつかんだ。叱られると思い眼をつぶって身を縮めた。周一兄ちゃんは怪我しなかったかと不安げに訊いた。私は戸惑いながら静かに頷いたが、それでも周一兄ちゃんは、痛いところはないかと震えた声で何度も繰り返し、手や足、顔など全身を、傷がないかくまなく調べた。周一兄ちゃんの手も声も、落下した私よりもはるかに震えていた。
こんなに弱々しい周一兄ちゃんの姿を見るのは初めてだった。元々男らしい方では決してないのだけど、いつだって周一兄ちゃんは強くて、優しくて、大きい存在だった。落ち着いて堂々としていた。少しくらいの悪戯はいつも笑って許してくれたし、危ないことをすれば必ず冷静にさとした。目の前で今にも泣き出しそうなほどに動揺している周一兄ちゃんに、私は本当に戸惑っていた。
「怪我、ないみたいだな、あぁ、よかった。本当によかった」
周一兄ちゃんは心から安堵した様子で、顔を上やら下やら向けながら、動揺している自分の心を立て直そうと努めているようだ。そして少し落ち着いた周一兄ちゃんはやっと注意の言葉を口にした。
「千里、こういう悪戯はしてはだめだ。もしかしたらすごく痛い思いしなくちゃいけないところだったんだよ」
私はションボリうつむき加減のまま首を縦に動かしたけれど、心の中では、
悪戯なんかじゃない……。
「こんなもんで遊んじゃいけない。女の子だし傷でもできたらどうするの」
周一兄ちゃんは包丁を拾い上げながらまだ話し続けている。
「これはおままごとのオモチャとは違うんだよ」
悪戯なんかじゃない。
遊んでいたわけじゃない。
千里はお兄ちゃんのためにお料理がしたかったの。
千里はお兄ちゃんに喜んでほしかったの。
言うつもりはなかったのに、あふれ出す思いは止められなかった。何度も心の中で繰り返すうちに、その想いはいつしか言葉になり、涙となって周一兄ちゃんへと向かっていた。それは心の内側から溢れ出した雫。
私が戸惑ったのは、決して周一兄ちゃんの動揺する姿が嫌いだからじゃない。手をぐっしょりぬらす涙はひっくり返ったことが恐かったからでも、叱られることへの怯えでもない。自分が喜ばせようとしたことで、こんなにも心配させ、困らせてしまった無力な自分への悔しさと悲しさを、うまく言葉にできずに、感情が先にあふれてしまったから。
周一兄ちゃんは指で私の涙にそっと触れると、黙ったまま私を胸に抱きしめた。
随分前に周一兄ちゃんと、外に降る雨の雫を両手揃えて受け止めたのを私はなぜか思い出していた。どちらが先にいっぱいの水を溜められるか、きそい合った。「千里の方が、手が小さいから、きっと先にいっぱいになるよ」と教えてくれた。だけど私の指は長く閉じていられなくて、ちっとも溜まらなかった。きっとお兄ちゃんはうまく溜まっているはずだ、と覗くと、周一兄ちゃんも私と同じように、指を開いてくれていた。
きっと同じことを周一兄ちゃんも思っているはずだ。今、私は周一兄ちゃんに優しく抱きしめられている。同じ体温を共有し同じ鼓動を感じている。身体がぺったりとくっつくことは、心を流れる思いも当然同じなのだと信じていた。
昼食の最中、周一兄ちゃんはまだどこかすっきりとしない面持ちで、茹でたてのスパゲッティを黙々と口へと運んでいた。
私は周一兄ちゃんがするように、フォークにスパゲッティ巻きつけようとするのに、上手くいかずに苛立っていた。それでも夢中で巻こうとする。巻いても巻いても、それは仲間のいるお皿へとむなしくすべり落ちていった。 どうしたら周一兄ちゃんのように器用に巻くことができるのだろう。
食べ終わると、周一兄ちゃんはお皿をテーブルからさげながら、
「お兄ちゃんは後片付けがあるから、千里は絵でも描いて待っていて」
私は持ってきたカバンからクレヨンを取り出す。その際に誘われるように出てきた解れかけの緑の毛糸が、床に落ちた。
端が結ばれて輪になっている。それはいつか周一兄ちゃんがくれたものだ。私がいつか泣き出したときに、なだめるためくれたあやとりをするための毛糸。独りトボトボと隣の和室へと移動し、洋服たんすにもたれて、あやとり遊びをして周一兄ちゃんの手が空くのを待った。
周一兄ちゃんまだ元気ない。千里、すごく悪いことしたのかなぁ。
和室には仏壇というものがあり、昔に亡くなったおじいちゃんの写真が壁に掛けられている。それは写真とは思えない白黒な色をしていて、おじいちゃんはいつも細い目つきで私を黙々と睨みつける。もしもしゃべり出したりしたらそれこそコワイのだけど、黙っていてもやっぱりコワイ。夜中、電気を消すと見えなくなるかと思ったら大間違いで、さらに恐みを増す。だから本当に私はこの和室の部屋が嫌いだった。
以前ならば周一兄ちゃんは家に泊まらせてくれた。
夜中に目を覚ました私は、「おじいちゃんが恐いよぅ」と泣き続け、周一兄ちゃんは私をおぶって家へと送り届けたことがある。それから泊まれることはもうなくなってしまった。泊まると私が言い張っても、もう少し大きくなってからねと周一兄ちゃんは繰り返すだけだった。
私は和室をあとにして、周一兄ちゃんもう洗い物終わったかなぁと思いながらリビングのドアをゆっくり開いた。周一兄ちゃんは布巾をタオル掛けに吊るし、「さてと~」と呟きながらこちらへ振り返った。ドアに手を掛けたまま立ち尽くし、床を見つめる私に気づくと周一兄ちゃんは歩み寄り、しゃがんで私を覗き込んだ。そして周一兄ちゃんは、
「ヒマを持て余して、ご機嫌斜めですか? 姫」
「ごめんなさい。お兄ちゃん、ごめんなさい」
自然とその言葉は出た。
余計なことをして困らせてしまったこと、まだ周一兄ちゃんの気持ちがあの場面から動いていないのではないかと感じ、ずっと気になっていた。
「千里、もうお料理、しない」
「それかぁ。もう、いいよ。千里がお兄ちゃんのために料理してくれようとしたの、分かったし。本当はすごく嬉しかったよ。でも危ないからもう少し大きくなってからにしてほしいな。わかった?」
周一兄ちゃんは微笑んで優しく私の頭を撫でた。強くて、優しくて、大きな手だった。
「本当に? 本当に周一兄ちゃん、嬉しかった? 千里がお料理しようとしたの、嬉しかった?」
「もちろんだよ。嬉しかったよ。千里はとーっても優しい子だなって、思ったよ。だから大好き」
周一兄ちゃんの喜ぶ顔が見たかったのに、困らせることしか出来なかったと思っていたけれど、そのとき初めて嬉しかったのだと知り、胸の中がぱぁっと明るくなったのを感じた。大掃除の時、埃だらけの曇った窓をサッとふいた瞬間、透明感が戻るような感覚で、心に明るい光りが差し始めた。
「ピアノ弾いて~~!」
私は周一兄ちゃんの首に飛びついた。少しよろめいたがしっかりと受け止めた周一兄ちゃんは、「すっかり元気になって。しょうがないお姫さんだよ」と微笑んだ。
椅子に座ると周一兄ちゃんは何を弾こうかと迷うように鍵盤を見つめた。私は拍手しながら、
「わーい! 大好きの曲、弾いて~!」
私がはしゃぐと、周一兄ちゃんは笑顔で頷き、瞳を閉じた。
次の瞬間、両手がパッと開いて、ピアノへと運ばれた。周一兄ちゃんの指が鍵盤に触れ、部屋の中はまるで魔法の世界。
窓を叩き続けた雨はいつの間にかやんでいて、そこからはレモンを散らばせたような眩しい光りが差し込んでくる。その生まれたてのレモンの光りは床を照らし、部屋中を流れるように充満させ、染めていく。しんと静まり返る部屋の中を、周一兄ちゃんの奏でるピアノの旋律だけが時を紡いだ。
音楽のことなど当然分かりもしない。ただ好きで、好きでたまらないことだけが私の心であふれていた。周一兄ちゃんの音楽は力強くて優しい。切なくて、悲しくて、だけど幸せな気持ちになれる。
いろいろな感情を湧き起こさせる周一兄ちゃんの音楽は魔法だ。眠っている身体中の感情を呼び起こし、生きているということを周一兄ちゃんの音楽は教えてくれる。
「この曲はショパンっていう人が作曲したんだよ」
随分前に周一兄ちゃんが話した。
ソ ファーに座った周一兄ちゃんのヒザ高さしかないガラステーブルには、分厚い本が開かれている。
「ほら、この人だよ」
周一兄ちゃんは誇らしげに難しい顔の人物の上に、人差し指でそっと触れた。
「誰だぁ? この人。変な名前だし、変な顔だ。髪の毛長いや。おばさん?」
「男の人だよ。外国の人でね、随分昔だから肖像画だよ。日本だったら江戸時代、ちょんまげだし、それこそ変だよなぁ」
周一兄ちゃんが笑い声をあげたので私も一緒になって、「ちょんまげ、ちょんまげ~!」と笑った。
通称『別れの曲』正式名は『エチュード作品10―3 ホ長調』。
いつも周一兄ちゃんは『別れの曲』を弾いた。彼はショパンが好きだったし、その中でも『別れの曲』を心から愛していた。そして私もまたこの曲が好きだった。物心がつくその以前から、数え切れないくらい『別れの曲』を聴いて育ったのだから当然かもしれない。私は幼い頃、『別れの曲』をなぜだか『大好きの曲』と呼んでいた。
「これはピアノを弾く人のために、練習曲としてショパンが作ったんだ」
周一兄ちゃんは目を輝かせて話を続ける。
どんなに難しい話でも、周一兄ちゃんが話すと、私はいつも黙って静かに見つめ、耳を傾けた。
そのときの周一兄ちゃんの話は難しくて、私の記憶にはほとんど残らなかった。一つだけ私が記憶したのは、好きで、好きでたまらないその曲名が、『ショパンの別れの曲=大好きの曲』と言う言葉だけだった。
周一兄ちゃんのお父さんの伝手で、ピアノ先生が泊まり込みで周一兄ちゃんにレッスンをしにくることが、これまでにも何度かあった。私はピアノの先生が実は嫌いだった。弾き方とかにすぐケチをつけて、周一兄ちゃんを悲しい顔にさせるから。
その中でも一番嫌いな先生が来たときのことだ。
ソファーの傍らで絵を描いていたとき、視線を感じてふと顔を上げると、先生が私を冷たく見ていた。
「あの子がお父さんの言っていた従兄妹か」とピアノの先生が呟くように言った。
「はい」周一兄ちゃんは短く返事をし、横目で心配そうに私を見た。
「でも、おとなしくしています。邪魔にはなりませんから」
周一兄ちゃんは精一杯私をかばおうとした。けれども先生は細い目で睨みまるで独り言でも呟くように、
「練習だと言って家に帰しなさい。お父さんからも君のピアノの妨げになるようならば、すぐ帰してもいいと言われている」
本当に呟きに似た低い声でボソボソと話す、聞き取りにくい話し方のおじさんだ。
周一兄ちゃんは慌てて首を振る。
「妨げになんて、なりません。本当にこの子はおとなしく」
「気が散る。そういうのんきなことを言っていると、ライバルはどんどん差をあけていくんだぞ」
周一兄ちゃんは言葉を無くして鍵盤に視線を落とした。私はクレヨンの緑を握ったまま、周一兄ちゃんを悲しい顔にさせた白髪頭のピアノの先生を、睨みつけるようにじっと見た。
「そうでなくとも東京に来て有能な師の元で習うのが当然なのに、君は本当にピアニストになるつもりはあるのか。僕からするととても疑問だ。趣味でやるのなら僕は帰るよ。お父さんもとても心配しておられる」
周一兄ちゃんはほんの少しの間沈黙してから、顔を上げた。
「分かりました。帰らせます」
周一兄ちゃんは私の側に膝をついて座り、小さくうなずきながら微笑んだ。大丈夫だよ、とでも言うように。
「お兄ちゃん、これから大事なピアノの練習があるから、今日は家でお絵描きして待っていてくれるかな。終わったら見に行くからね」
周一兄ちゃんは描きかけの絵に目をやり、再び私を見た。
「いつも、千里、お利口さんにしているよね?」
「千里は悪くないんだよ。でも今日は……」周一兄ちゃんはひと息の間言葉を途切れさせて、「……しばらくだめなんだよ。ごめんね」
私は周一兄ちゃんの訴える悲しげな眼差しに、おとなしく帰ることを決めてコクリとうなずいた。
けれど、ピアノの先生はやっぱり嫌いだ。
あんなに周一兄ちゃんはピアノが上手なのに、どの先生もそれではダメだと叱っていじめるから。特にこの先生は長い物差しで、周一兄ちゃんの手を叩いたりするから、特に嫌い。
クレヨンをケースに一本、また一本としまう。周一兄ちゃんも途中から手伝ってくれた。私は次にお絵描き帳を手に取り手提げカバンにしまおうとした。そのゆっくりとした動作に先生は苛立ってか、「周一君、始めるぞ!」と、いつもとは明らかに違う大きな声を放った。その声に驚いて、私はビクッとし、肩をすぼめた。
周一兄ちゃんは片づけを手伝うのをやめて、手のひらで私の髪をクシャッとすると、「じゃあ、またね」とピアノへ戻っていった。
ピアノの先生は私に構わず、ピアノの前に座った周一兄ちゃんに、話を始めた。
私は重い腰を上げ、ドアに向かってゆっくり、ゆっくり歩いていった。ドアを閉めるとき、周一兄ちゃんを振り返り見た。真剣な眼差しで先生の話を聞いている周一兄ちゃんの姿は、とても遠い存在に感じられて、まるで見ず知らずのお兄ちゃんのようだった。
私が家を出て玄関の戸を閉めた直後、周一兄ちゃんの弾くピアノの旋律が外にこぼれ始めた。窓に駆け寄り覗きみていたけれど、つま先立ちの無理な体勢は、そう長くは続かなかった。
少しでも周一兄ちゃんの近くに居たかった私は窓の下に座り込み、手提げカバンを引っくり返し、クレヨンとお絵描き帳を草むらに広げた。その中から緑のクレヨンを再び手に取ると、野原の緑を描き始めた。窓をすり抜けてくる小さな旋律を耳に刻みながら。
そのまま私は眠ってしまったようだった。眠ったまま私はお父さんに抱きかかえられて連れて帰られたらしい。だからその後のことを私はほとんどおぼえていない。翌朝目覚めてから、周一兄ちゃんが夜遅くうちに来たということを、お母さんからきいた。
「ごめんね」
ほとんど覚えていないけれど、ただ夢うつつに、そんな周一兄ちゃんの声をきいた。眼をあけかけた私を、周一兄ちゃんの手のひらが、ゆっくりなリズムで再び静かな夢の世界へといざなってくれたことを、金色の朝日をガラス越しに見つめながら、私はそっと想っていた。それを私は夢だと思っていたけれど、眠る私のかたわらで、昼間追い返したことを謝っていたんだ、とお母さんから昨夜周一兄ちゃんがきたという話をきいて、私にはすぐわかった。
夏休みが終わり、山の景色を紅く染めた秋はあっという間に通り過ぎて、冬を感じさせる冷たい風が私たちの住む町にもやってきた。
町と言ってもここは田舎。家と家が離れて建てられていることもあり、余計に寒さを感じるのかもしれない。夏には緑々と、活きよく伸びていた草たちは、気温の低下にその身を垂らし、薄い黄褐色に姿を変えた。
いつも家にいるときは絵を描くことがほとんどだった。人形で遊ぶことも、外で走り回ることも、本を読んでもらうのも好きだったけれど、絵を描くことが一番多かっただろう。幼稚園でも絵ばかり描く私を見て、「千里ちゃんは絵が好きだし上手なので絵を習わせてあげたらどうでしょう」と先生から言われるほどだ。
ある夜、私はいつものように絵を描いていた。最初は周一兄ちゃんのピアノを弾く姿。次に去年、周一兄ちゃんと雪だるまを作ったことを思い出して、雪だるまを描いた。溶けてしまった雪だるまの側でションボリしゃがみ込む私に、来年また作ろうと励ました周一兄ちゃん。
次に夏、川遊びをしたときの絵を描き始めた。
そのときお父さんが帰宅した。私は玄関先までバタバタと駆けて行った。
「おかえりなさ~い、お父さん」
にこやかに出迎えた私を、父はただいまと微笑み抱き上げた。
「千里、ご飯が出来るまで、向こうで絵を描いていなさい」
いつになく真剣なお母さんの顔つきを見て、お父さんはしぶしぶ私を下ろした。私は言われるがまま元の場所へ戻り、無造作にクレヨンを握ったが、耳はお母さんの言葉を待っていた。お母さんは私が絵を描き出したのを確認してから、父に告げた。
「周ちゃん、東京行くんですって。大学は東京にするって、お兄さんからそう連絡があって」
私は手を止めた。川の色が、空へ大幅にはみ出してしまった。
「そうか。元々兄さんは高校からそういうつもりだったからなぁ。大学はしかたないだろう」
煙草に火を点けながらお父さんが呟く。
「高校で一人じゃかわいそうよね。いくらなんでも。だけどもう大丈夫だわ。周ちゃんしっかりしているもの。やっぱり親と離れて暮らしているからかしら。しっかりしているわ。本当に」
冷蔵庫からビールを出し、テーブルの上に置きながらお母さんがしきりに言い続けていた。そのあとお父さんがグラスにビールを注ぎながら、「見ていて、かわいそうだよなぁ。まったく」とため息混じりに言った。
「東京ね、その次はまた向こうに帰るのかしら」
父はため息混じりに首を横に振った。
「あっちこっちやらされて、なんだか周一がかわいそうだな。しっかりしているように見えても、そんなのは我慢しているだけさ。まだ遊びたい盛りなのにピアノばっかり」
私は二人の話す内容を覚えている範囲で繰り返す。心に焼きつけるように。
トウキョウに行く? トウキョウって、どこだろう。遠いのだろうか。ダイガクってなんだ? ガマン? カワイソウ?
両親の真剣な面持ちを目にして大きな不安が、床に広がる液体のようにじわじわと広がっていった。様々な想像がわき起こって、私は居ても立っても居られずに立ち上がった。そうして難しい顔で話し続けている両親の目を盗んで、家をこっそり抜け出した。
暗い夜の闇の中を駆け抜けた。お父さんやお母さん、意味不明な不安から逃げるように、出来るだけ速く走った。
寒い夜だった。風は容赦なく私の頬を殴るように吹きつける。身体中冷たく冷やされ、痛いほどの冷たさを頬に感じながらも、私の足は周一兄ちゃんの家へと急ぐ。再び大きな風が周辺の草木を殴りつけながらやってきたけれど私は頑張って踏ん張った。
盛り上がっている土に何度もつまずきかけ、やがて足がもつれ、前のめりにつまずいた。地面は湿っていて氷のように冷たい。体温を呑み込もうとする地面を腕で思い切り押して身体を持ち上げた。『トウキョウってところにお兄ちゃんは行ってしまう』それだけを脳裏に繰り返しながら、また立ち上がり走り出した。
「周一兄ちゃん! ねぇ、お兄ちゃん!」
私が周一兄ちゃんを呼ぶその声は、冷たい空気と混ざり合い、白い息へと変化した。私はドアを強く、強く叩いた。ドアの向こうに周一兄ちゃんの気配を感じても、何度も何度も叩き続けた。周一兄ちゃんの名前を叫びながら。
「千里? 今開けるよ」
ドアを開けた周一兄ちゃんは、硬直して身を震わせている私に、驚いて眼を見開いた。周一兄ちゃんは私の瞳を覗き込んで、困惑したように訊いた。
「千里? どうした? こんな時間に。独り?」
かみしめていた歯をゆるめると、白い息がもれて、ガチガチ歯があたり合う。地面を見続ける私に驚き、他に言葉が見つからない周一兄ちゃんは、私の背中を落ち着くよう手のひらで軽くリズムを刻む。けれども動揺している周一兄ちゃんの刻むリズムは心なしか速く、夢の中へいざなうときのものとは違う。
私は歯をガチガチさせながら、白い息を吐きながら、周一兄ちゃんに訊く。
「お兄ちゃんいなくなるの? どこに行くの? トウキョウ行くの? トウキョウってどこ? 遠いの?」
私の必死の問いかけに周一兄ちゃんの眼の色が変化した。まるで予期せぬ出来事にさらに困惑したように手を止め、黙り込んだ。
「お兄ちゃん、なんで何にも言ってくれないの? お兄ちゃんも知らないの? お兄ちゃん、お兄ちゃん、トウキョウって所に連れて行かれるよ」
周一兄ちゃんの腕を両手にとって乱暴に揺すった。
「逃げようよ。お兄ちゃん、行きたくないでしょ? 千里も一緒だから大丈夫。千里が守ってあげるから」
周一兄ちゃんはひざを片方ついて、言い辛そうに、
「ありがとう、千里。だけどお兄ちゃんはちゃんと知っているよ。お兄ちゃん自身が決めたことだから」
私は首を振った。
「そんなの嘘だよ、お父さんとお母さんが、カワイソウって言ってたもん。千里が守ってあげるから隠れないと」
周一兄ちゃんの顔は何故か悲しそうで、私は周一兄ちゃんの袖を引っ張るのをやめた。ただただ強く、握り締め続けた。
「千里、大丈夫さ。大丈夫だよ。お兄ちゃんは、連れて行かれるわけじゃなくて、自分で行くんだよ。ピアノのお勉強をしに行くの。それにまだまだ先の話だから」
「いつ? 先っていつ? 千里、もう大人になってる?」
私の不安げな瞳に周一兄ちゃんは一時言葉を失い、その後ためらいがちに首を振って、答えた。
「なって、ないよ」
私はずっと握り締めていた周一兄ちゃんの袖から手を離した。
「お兄ちゃん、嘘つきだよ! 千里が大きくなっていってもお兄ちゃんも大きくなっていくもん。全然追いつけないよ! すぐに大きくなるってちっとも大きくならないし、お兄ちゃん嘘つきだよ!」
私は震える唇をきゅっと結んで、周一兄ちゃんをキッと睨みつけた。それからまた周一兄ちゃんへ思いつく限りの怒声をぶつけた。
「千里が泊まりたいって言ってもいっつもまた今度って言うし、お料理だって千里は出来るのに、危なくなんかないのに。誕生日に犬が欲しいって言ってもオモチャの犬しかくれないし、千里もうお姉ちゃんだからお世話できるのに。いつも千里の分からない話ばっかり、ばっかりするし」
周一兄ちゃんを責めるつもりなどなかった。私は大好きな周一兄ちゃんを助けに来たはずなのに、感情があふれて様々な意味不明なことを喚き散らして、助けるどころか攻撃してしまっていた。
「すぐ大きくなってからって言うし、お兄ちゃんいっつもピアノばっかり弾いてばっかりだし、嫌い、嫌いだ! 大嫌い!」
私は喉を詰まらせながら急いて言った。パニック状態で、私はグーで幾度か周一兄ちゃんの胸を打った。握り拳は、周一兄ちゃんを幾度かたたいた後、空で震えていた。
それまで黙って聞いていた周一兄ちゃんがしばらくたってから、
「千里、僕がピアノ弾くの、嫌だったんだ」
私をかたく見つめる周一兄ちゃんの瞳は、暗闇の中で、不自然にキラキラと瞬いて見えた。
「違うけど、好きだけど、お兄ちゃんを遠くへ連れて行くピアノなんか、千里、千里、大嫌い!」
「千里、ごめん」
周一兄ちゃんは唇を噛み、瞳を伏せた。強い風の波が二人を通り過ぎて行く。
私はとうとうわぁっと声をあげて泣いた。袖で拭くことも忘れて、わんわんと泣いた。鼻水も、涙も、何もかもが一緒くたに流れ出す。
その大泣きが徐々に静かな嗚咽に変わった頃、
「今日は帰ろう。ほら、ジャンパーも着ないで、寒いのに、風邪ひくよ。お父さんやお母さんに言ってきてないんだろう。心配しているはずだから。明日、また話そう」
周一兄ちゃんは弱々しい笑みを浮かべながら、「だから今日はお兄ちゃんとおうちに帰ろう」と呟いた。
翌日、周一兄ちゃんは学校から帰ると私を散歩に連れ出した。弱々しい草の黄緑色と枯れた薄茶色の草が、ふたり歩く足に触れては揺れた。いつもなら手ぶらで来るのに、今日はカバンを肩にぶら下げている。制服姿の周一兄ちゃんはいつもとずいぶん違って見えた。
野原まで来ると、ひどくやつれたクローバーの上に周一兄ちゃんはカバンを放し、足を投げ出して座った。
春にはシロツメクサがいっぱい咲く野原。そこにタンポポやオオイヌノフグリ、ハコベなどの草花がときどき混じっていて、とてもにぎやかで、私も周一兄ちゃんもとても好きな場所だ。
だけど今、季節は冬。力ない葉が地面にペッタリ這いつくばっているだけで、にぎやかな雰囲気などはこれっぽっちも感じられなかった。
空には小さな雲が、ぽつんぽつんと心細そうに浮かんでいる。私も周一兄ちゃんの隣にちょこんと座り、周一兄ちゃんを見上げた。
「千里の夢は何? 千里は大きくなったら何になりたい?」
「周一兄ちゃんのお嫁さん!」
「あぁ、そうか、そうだったね」と微笑んで頷き、「お兄ちゃんの夢はね」と周一兄ちゃんは冬の寂しげな空に、言葉を探しながら話し始めた。
「覚えているかな? 前にも話したけど、お兄ちゃんの夢はピアニスト。もっともっと、ピアノを勉強して、練習して、上手くなりたいんだよ。そしたらね、お兄ちゃんの弾くピアノを、たくさんの人が聴きに来てくれるんだよ。だけどそのピアニストっていうのになるには、うーんと勉強して練習して上手くならないといけないんだよ。そのお勉強をしにお兄ちゃんは行くんだよ。でもね。今いる家からでは遠くて毎日行けないんだ。だから学校の近くの家にいくんだよ。そこが東京って所だよ」
「周一兄ちゃん、そこ、トウキョウに、行きたいの?」
「夢を、夢を、叶えるためだから」
「コワイ人いない? 先生は周一兄ちゃんをいじめたりしない?」
「平気だよ。いじめる人なんていないから、安心して」
「……遠い?」
周一兄ちゃんはカバンから地図を取り出して広げた。
「ほら、ここが千里やお兄ちゃんが住んでるとこ。ここがこれからお兄ちゃんの住むところ」
周一兄ちゃんの細く長い人差し指が地図の上を移動して止まった。
「近い?」
「そうだよな。こんなもの出しても千里にはまだ分からないな」
周一兄ちゃんはそう呟き、うーんと唸りながら次の言葉を探した。
「千里、千里ね、昨日お兄ちゃんのこと嫌いって言って、ピアノ嫌いって言って、ごめんなさい」
私は周一兄ちゃんの眼をじっと見つめて、
「本当は千里、大好きだよ。でもね、だってね、悲しいの。千里、周一兄ちゃんと一緒にいたいの」
「僕も不安だな。独りぼっちになっちゃう。お父さんやお母さんが居なくて寂しかったけど、今まではいつも千里が側にいてくれたから、お兄ちゃんは頑張れたのに」
周一兄ちゃんは私を見つめ、髪にそっと触れた。
「千里は元気の素だね!」
にっこり笑う私を見ているうちに、周一兄ちゃんは何かを思いついたようで、明るい表情を浮かべた。
「夏休みにはお兄ちゃん帰ってくるから。その他のときは千里、手紙を書いてお兄ちゃんのところに送ってくれる?」
手紙? と怪訝そうに繰り返す私を、周一兄ちゃんは覗き見るように、
「お兄ちゃん引っ越すまでにまだ時間あるから、千里に文字を教えてあげる。頑張って練習しよう」
「お手紙書いたら嬉しい? 周一兄ちゃん元気になる?」
周一兄ちゃんに身体ごと向いて訊ねた。
「もちろんだよ」
「遠くに行っても千里のこと忘れない?」
お友達が引越しをするとき、また遊びにくるねと言う。そして別れる。でも今までにまた来たためしがない。そして私はその子の名前も顔も、思い出すことができない。あんなに仲良くしていたのに。
周一兄ちゃんは大きく頷き、忘れないよと言った。絶対に、忘れないと。
「でもお嫁さんにしてくれるって言ってたのに、千里が大きくなっても遠くにいたら、どうするの? 周一兄ちゃん分からないよ」
周一兄ちゃんは、「そうだなぁ」と空を見上げ考えて、
「お母さんに、千里が大きくなったらすぐに教えてねって頼んでおくよ。それに、千里が教えてくれればいいじゃないか。手紙に、大きくなりましたよって」
「千里が大きくなったら周一兄ちゃん、戻ってくる?」
周一兄ちゃんはゆっくりと頷き、
「大きくなった千里を迎えに来るよ。必ず」
「ゆびきりげんまん!」
私は小さい小指を勢いよく差し出した。それに周一兄ちゃんの長い小指が絡んで、二人で指切りの歌をうたった。
かならず、だよ。迎えに来てね。
浮かぶ雲はまだ心細く感じたが、優しい太陽の光りが背を優しく照らし出し、暖かさを感じた。
手紙が二人を結んでいてくれるのだと、夏にはいっぱい遊べるのだと、未来に小さな安心感を見つけた。
ピアノの他に字の練習が加わった。両方は無理だと思った周一兄ちゃんは、ピアノよりも字を教えることに重点を置いた。元々読むことは出来たけれど書くことは出来なかったので、文字を書くことを毎日練習した。
短い冬が終わろうとする頃、ひらがなの文字を完璧に覚えた。
ピアノの練習もかなり上達し、簡単な曲なら一人で弾けるようになった。
冬の間、文字やピアノを練習するだけではなく、約束の雪だるまも作った。私はその絵を何度も描いた。
周一兄ちゃんは時々東京へ出かけることがあった。でも一日、二日すればすぐに帰ってきたので、もしかしたら東京は、自分が思っているよりずっと近いのかもしれないと、密かに淡い喜びを胸に舞い上がらせていた。
ピアノを運び出す日の当日。最後の練習をした。楽譜を見なくても、私はチューリップが上手く弾けるようになっていた。教本に載っている曲もいくつかマスターした。
周一兄ちゃんもショパンの『別れの曲』を弾いた。心に埋もれた感情を出し尽くすかのように身体中で美しい旋律を奏でた。
そして周一兄ちゃんは泣いた。私の記憶上で周一兄ちゃんの涙をはっきり見たのはこれが初めてだ。けれどむせび泣きながら、ときにしゃくり泣きながらも周一兄ちゃんは手を止めることなく、最後まで弾き続けた。
『別れの曲』はショパンが祖国ポーランドを離れ、その後生活したウィーンからパリに移り住んだ頃に書かれた曲だ。故郷を想い、郷愁の念に駆られていたショパンの心情を、熱い涙を流しながら、痛いほど共感していたことだろう。
私は途中で言葉をかけようと思ったけれど、周一兄ちゃんのかけた魔法の中では一言も口にすることは出来ずに、ただ見つめるだけだった。
演奏が終わると周一兄ちゃんは涙を拭いて、「ビックリしただろう。大丈夫だよ」と笑みを浮かべた。けれども声は掠れていた。私が頷くと周一兄ちゃんは椅子から立ち上がった。
「おいで」
周一兄ちゃんはキッチンに移動した。私もそれについていく。テーブルの上に置かれた材料を私は不思議な気持ちで見つめた。
「お料理しようか」
予期せぬ周一兄ちゃんの言葉に私は目を見開いて、「うん! するぅ! いいの?」と叫んだ。
私は料理がずっとしてみたかった。周一兄ちゃんと一緒にできることが、まるで夢でもみているように嬉しく、無 意識に万歳をしかけて私はハッと思いついたように尋ねた。
「なんのお料理?」
カゴを取り出してきた周一兄ちゃんは、それをテーブルに置きながら、「イチゴ水だよ」
「イチゴ水……」
私は首を傾げ、想像してみた。頭には苺が水の中に浮いている様子しか浮かんでこない。周一兄ちゃんがテーブルに置いたカゴの中身を覗き込んで私は思わず、わぁ!と声をあげた。
小さな粒がぎっしり集まり一つの実を成り立たせるラズベリー。実の間から髭を伸ばしている可愛らしい表情に、私は頬を紅潮させて見つめ続ける。イキイキと笑いかけるようなラズベリーが、カゴの中にはいっぱいだった。
わぁ宝石みたい!
部屋中の光を集めて輝くラズベリーは、たくさんの紅い宝石のようだった。
喜ぶだけ喜んだその後、想像していた苺ではなかったのでぽかんとした。
「ねぇ、これってイチゴ?」
「ラズベリーだよ」
「ラズベリーって?」
「ラズベリーもイチゴの仲間なんだ。千里がいつも食べる苺とは違うけどね。これは木苺だよ。苺の実がね、木にできるんだ」
「木に苺ができるの?」
「そうだよ。いつも食べる苺は地面を葉っぱがつたって生えていて、そこにできるだろう?」
「苺にも色々あるんだね」
私の深く納得している様子を見て周一兄ちゃんは笑っていた。
そして周一兄ちゃんは気を取り直したように、
「それでは、はい、千里。まずレモンを絞って」
私はレモンを絞り器にひたすら押しつけた。懸命に絞ろうとするのにレモンの汁はなかなか出てこない。周一兄ちゃんが搾り器に回すように擦りつけると、ポタポタとすっぱい香りを広げながら、レモンの雫は滴り落ちた。
「はい、じゃあ、今度はこの鍋にラズベリーと砂糖とレモン汁を入れて」
言われた通り、私は鍋にそれらを入れた。
「で、火にかけるよ。千里、ガスに火を点けて」
私は戸惑いながらガスに火を点けようとした。オレンジ色の炎が一瞬上がったかと思うと、次の瞬間にはなにもなかったように消えてしまった。
「消えちゃったよ。お兄ちゃん」
私がしかめっ面で振り返ると、周一兄ちゃんの大きな手のひらが私の手を包み込んで、「こうやって、こう。で、弱火」と一緒になって火を点けてくれた。
私は周一兄ちゃんから渡された木ベラで鍋の材料をかき混ぜた。
「砂糖が溶けたら火を消して。冷ますよ」
私は戸惑いながらも一生懸命に周一兄ちゃんの言う通りに動いた。鍋の火を消し、鍋敷きの上にそれを置いた。
「冷めてからこのグラスに移すよ。あとはこの炭酸水を入れて完成」
「周一兄ちゃん、イチゴ水ってジュース?」
「ん~、本当はお酒なんだけど、コレはジュースだよ。でも千里にはちょっと辛いかも」
鍋の熱が取れて、湯気が完全に見えなくなってから、周一兄ちゃんは冷凍庫からグラスを取り出してきた。
そこにはいくつもの氷が寄り添うように込められていた。いつも入れてもらえるひとつ、ふたつの数でなかったことに、私の喜びはさらに倍増した。
そのグラスに鍋の材料を移して、炭酸水を注ぎ入れた。
紅紫色の液体は、向こう側が見えるほどに透明感がある。その透明な紅色の液体と溶け出した氷と炭酸水がゆらり陽炎のように混ざり合い、時折炭酸の粒がグラスの表面へのぼっていく。とても綺麗で、私は目を輝かせて見入った。
「綺麗だろう?」
「うん! すっごいキレイだ!」
周一兄ちゃんを振り返り見ると、とても満足したように何度も頷いている周一兄ちゃんがいた。
しばらくしてから周一兄ちゃんが声をかけた。
「飲もうか」
「もったいないから、飲めないよ」
グラスに鼻先を近づけのぞきこんだ。そしてときおりはしゃいだ。しばらくの間、そんなことを繰り返し、見つめ続けていた。
それまでグラスの中でくっついていたはずの氷たちが、急にカランと高い音を響かせ、二つにわかれてしまった。
たくさんあったと思っていた氷は、みるみるうちにどんどん小さくなっていき、小さな泡となって水面に消えた。
私はまたそれが綺麗で、あまりにもうれしくなって、「見て、見て、周一兄ちゃん」グラスをゆび指し振り向いた。そのとき、私の目に映ったお兄ちゃんは、何故だかとても、とても哀しそうだった。
今日はなんていい日なんだろう!と私は思った。なぜならその夜は周一兄ちゃんの家に泊まることが許されたからだ。まだ気候は寒く、虫の声も鳥の声すらない、とても静かな夜だった。
ひとつの布団と枕を、周一兄ちゃんと仲良く分け合って寝転んでいた。
ようやく念願が叶ったことにたいそう興奮し、なかなか寝付けずにいた。そんな私に周一兄ちゃんは、「絵本読んであげようか」といくつか家にあった絵本を読んでくれた。
窓から射すかすかな月光と、豆電球の灯りだけなのに、語る周一兄ちゃんの表情は私の眼に、はっきりと映っていた。
いくつかの絵本を読み終え枕元に置いた周一兄ちゃんは、
「まだ、眠れないの? 怖い? 千里」
周一兄ちゃんが不安げに訊いた。
私は首を横に動かした。枕がガサガサと音をたてた。
「周一兄ちゃんがいるから、千里、怖くない」
本当に怖くはなかった。けれども心配だった。私は眠るのが不安だったのだ。眠ればまた途中で目が覚めて泣いてしまうかもしれない。そうしたらまた周一兄ちゃんを困らせてしまうから。
仰向けに寝転んだ周一兄ちゃんに、私は心を込めてお礼を言う。
「周一兄ちゃん、お泊りさせてくれて、ありがとう」
周一兄ちゃんは顔をこちらに向けて、「どういたしまして」やさしく私を見つめ微笑んだ。
天井に視線を戻し、またいつかこうやって一緒に眠れるといいねと、周一兄ちゃんは呟いた。
いよいよ、周一兄ちゃんが旅立つ日になった。引越しの準備は少しずつやっていたらしく、午前中でほぼ家の中は空っぽになった。
私には引越しの経験が一度もなく、どんどん物が姿を消して行く風景に、たまらなく寂しくなっていった。実は トウキョウは案外近いのかもしれないと思っていた自分の考えを不安に思った。
私は昨夜描きあげた絵を、周一兄ちゃんにプレゼントした。
イチゴ水のグラスが二つ、その横には楽しそうに笑っている私と周一兄ちゃんの姿が並んでいる。
イチゴ水を飲んだとき、炭酸を思い切り飲んで、喉に痛いほどの刺激を感じて顔をしかめ咳き込んだことや、ふと振り返った際に見た周一兄ちゃんの哀しそうな眼差しなどを思い出しながら描いたのに、どうしてか画用紙の中並んだふたりは、不思議とぴかぴかの笑顔だった。
空っぽの家を、周一兄ちゃんは無言のまま眺めていた。私が何度手を揺さぶって呼んでも、返事ひとつせずに、立ち尽くしていた。
別れ際、私はやはり大泣きした。
電車はすでに駅のホームに入り、出発の時刻を待っている。
行っちゃいやだ! 泣き叫ぶ私に両親はすっかり困り果てていた。
「ほらほら、周一お兄ちゃんに頑張ってねって言うんでしょ? 泣いてばかりだと、お兄ちゃん悲しいわよ」
お母さんは様々な言葉で私を元気付けようと頑張った。
「ほら、笑われるわよ。お兄ちゃんお勉強しに行くのに」
私はお兄ちゃんについていく、と泣いて周一兄ちゃんの足元にすがりついた。ぎゅっとつかんだ周一兄ちゃんの服を、決して離してはいけない、離さない、と思った。
「周一兄ちゃんはもうピアノ弾くのとっても上手だもん! お勉強なんてしなくていいもん!」
それまで黙っていた周一兄ちゃんが、時計にチラリと眼をやったあと、私の横にしゃがみ込んで、「はい、千里。これはお兄ちゃんからのプレゼントだよ」一本のカセットテープを私に手渡した。
私は泣き止み、手にあるカセットテープを見つめた。それでもしゃっくりがこみ上げてきて、顔の位置を時折微妙に持ち上げた。やがて顔を起こすと周一兄ちゃんの優しい眼差しが待っていた。
「お兄ちゃんのピアノ曲がコレにいっぱい詰まってる。寂しくない、寂しくないよ、千里。コレを聴けば、今まで通り、いつも一緒だよ」
複雑な表情でカセットテープに視線を落とす、周一兄ちゃんと私。
「今から千里に魔法をかけるよ」
「魔法? わぁ! 魔法ってどんな魔法?」
「十数える間に、寂しい気持ちがなくなる魔法」
「すごい、すごい。そんな魔法あるの~?」
「はい、目を瞑って、千里」
私は目をつむった。そこを手で覆いながら、なにが起きるのだろうと考えていた。なにかとてつもなく嬉しい出来事が起こるような、そんな予感がした。すごくびっくりすることかもしれない。
「千里、今までで一番楽しかったことを思い出してみて」
「イチゴ水!」
私は思わず両手と目を開いて微笑った。
「そっか。じゃイチゴ水ね、はい、目をつむって」
どこか遠くでアナウンスと小さなベルが鳴った。でも今、そんなことはどうでもよかった。私は目の前のドキドキ、ワクワクする胸の高鳴りにすっかりこころ奪われていた。どんな魔法だろうとしきりに想像をめぐらせていた。
「ごめんな、千里」
周一兄ちゃんは私を胸にギュッと抱きしめささやいた。なにがゴメンなのだろう。思いながらも大好きな周一兄ちゃんに抱きすくめられて、私はさらなる喜びを感じていた。
「お兄ちゃんが放したら十数えるんだよ。なにがあっても十数え終わるまで目を開いちゃダメだよ。もし目を開けてしまったら、この魔法は、効かないから」
私が、「はーい!」と返事すると、周一兄ちゃんの温もりは私からゆっくりと離れていった。
「イチ、ニィ……」
目の前で周一兄ちゃんがなにかをしている。次に起きる出来事を想像し、微笑みながら四を数えた。
そのとき、けたたましいベルがすぐ側で鳴り響いた。驚いた私は思わず手と目を咄嗟に開いた。
私の眼差しは周一兄ちゃんの姿を探して空を素早くさまよい、周一兄ちゃんの姿を電車の中に見つけた。
駆け出そうとしたその瞬間、後ろからつかまれ動けなくなったと同時に、無情なほどに素早く扉は閉じられた。それはまるで二人を引き裂くかのように。
周一兄ちゃんはそこに手を添えて、私をかなしそうに見つめた。
「いやいや、お兄ちゃん! お兄ちゃん!」
私は首を振り、周一兄ちゃんを何度も、何度も、繰り返し呼んだ。
どうして周一兄ちゃんの服を、私はいとも簡単に離してしまったのだろう。絶対に、なにがあっても離さないと決めていたのに。
周一兄ちゃんを乗せた電車はみるみるうちにホームを流れ行く。
私はお母さんの手を振り解き、カセットテープを握り締めて、周一兄ちゃんを乗せた電車が消えた方向を、いつまでも見つめ続けた。
さきほど目にした周一兄ちゃんの涙。その何十倍もの涙で、顔中を濡らしながら。
千里を置いて行かないで、お兄ちゃん……。
心と声で、そう呟いた。
幼い日
大好きな人との離別
寂しい気持ちがなくなる魔法なんて
ないということを
知った