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居酒屋は、平屋を無理矢理に改装した感じだった。その改装はいつ行われたのか疑問に思うくらい、建物はくたびれ果てている(生ビールの中ジョッキが一杯二百円という驚異的な安さだったから仕方ないが)。だが入ってすぐに、その雰囲気をとても気に入る。初めてきたのに、なぜだがそこは懐かしさを感じさせた(それが狙いでわざとオンボロな作りになっているように思えてきた)。
カウンターが十席、テーブル席も十個程あり、少し込み合っていたがどちらでも座れた。私はテーブル席の方を選んだ(その方が落ち着いて話ができると思ったからだ)。席に着くと、とりあえずお酒とつまみを注文した。
しばらくすると生ビールが二つ届いた(例の二百円のビールだ)。ジョッキをお互い持つと“乾杯”と小さな声でそれを合わせた。二人にしか聞こえないガラスの音が響く。私は三口程飲んだだけだが、彼のジョッキは一気に半分以上は無くなっていた。
つまみがだいぶ出そろった所で、私は本の話を切り出した(ずっとずっと待ち望んでいた時間である)。まず高校の教科書に抜粋されていたあの本を例に挙げた(彼はもちろんその本を知っていたし、読んでいた)。その本の登場人物の行動、心理を一通り話し、その後に(ここが一番盛り上がるのだが)作者は《なぜこの話を書いたのか》、《その目的は何か》という著者の思想に思いを馳せ、それを議論した。
例えば本の中で主人公の青年が川を見ていて、いきなり飛び込むという場面があったとする。《なぜ彼はその行動をしたのか》、また《彼が川に飛び込むことで著者は何を示そうとしたのか》という感じである。正解などもちろんない。むしろ問題でもないかもしれない。だけれども、その議論は相手の心理を明らかにする。
最初に挙げたあの本は、読んでからすでに時間が空いていたが、自然と詳細を覚えていた(ずっとその本について自問自答していたからかもしれない)。その本の討論が終わると、また次の本という具合に、一冊の本でおよそ三十分は盛り上がった(私が挙げた本を彼は全て読んでいた)。
モクの見解はやはり見事だった。私が思いもしなかった考えを述べてくるし、しかもそれには無理がなく、話しを聞いているうちに納得させられてしまう(まるで子供の時、大人が言っている事に一切疑いを持たなかったかのように)。また、たまに意見が一致しても、彼は私が考えようともしなかった所まで自ら掘り進めており、本の奥底に閉じ込められている真理にただひたすらに近づこうとしていた(その時の私は彼の意見にただただ脱帽することしかできず、彼のようにもっと自分で深く読み進めないと駄目だとこの日感じる)
ふと店にある掛け時計を見ると、四時間くらい経過したことに気づき、私達は店を後にすることにした(さすがに少し盛り上がり過ぎたことを反省した)。私は“ここは奢る”とモクに言ったが、彼は“それは良くない”と言い、割り勘を提案してきた。だが私はここに入る時にすでに奢ろうと思っていたので(バイト代が有り余っていたのもそう思わせた原因だが)、強引に彼の意見を却下した。彼も渋々納得して、私に礼を言い、引き下がった。
店を出ると家に向かって歩き出した。彼のアパートの場所を聞くと、途中までいっしょのことが分かったので、二人そろって歩く。大体のアパートの位置を聞いた他には、途中で別れるまで何も話さなかった。分かれ道まで来ると、簡単に別れの挨拶を交わし、そしてモクと離れた(考えてみればちゃんと別れたのはこの時が初めてである)。
一人で岐路についている最中、つくづく彼は変わった奴だと私は思った。なぜだが自然と笑みがこぼれる(この頃、彼の事を少し尊敬し始めていた)。ふと久しぶりに空を見上げる。黒い画用紙のような空に白く小さな光が一つだけ、しかしはっきりと見えた。