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畳む男

作者: 朝倉章子

こちらは、某新聞社の文学賞で一次選考はどうにか生き残れて、二次選考で落とされた作品です。もしよろしければ、色々感想等聞かせてください。


こちらの作品は、性的描写はありませんが、それを匂わすような表現を含んでいます。お嫌な方はご注意下さい。


原稿用紙換算30枚です。

 今まで出逢った中で最低の男の話をしよう。それは彼氏のいない女たちが、酒の席などで過去の武勇伝を自慢したがる時に使う常套句のひとつだ。

 不幸自慢大会をしたがる女には二種類ある。ひとつは、今自分が不幸なのは、昔そんなひどい男に散々な目に遭わされたからだと主張したい女、もうひとつは、自分の不幸にまるで興味が無い風なのを演出したい女だ。そんな女たちが持ち出してくる男は、不倫男だったり貢がせ君だったり様々だが、たったひとつだけ共通していることがあった。彼らは、女たちの宴会を盛り上げるのに一役買ってくれるが、その後彼女たちの記憶に残ることは決してない。女は、自分の不幸に精一杯になると、他人の不幸などどうでもよくなる生き物なのだ。

 だが、その晩智美が酒の肴に持ち出した最低男は一味違っていた。彼は不倫男でもヒモ男でもない、ただの男だった。少なくとも、智美は彼について、それ以上の情報を持っていなかった。智美は男と、たった一度しか逢ったことがなかった。

「たった一度しか会った事ないって、どういうこと?」

 上司との不倫話を気だるそうに語り終えたばかりのみゆきが、思わず中ジョッキから顔を上げた。土曜のチェーン居酒屋の、一席での事だった。

「どういうことって、そういうこと。一回会ったっきりで、連絡も取ってないってこと」

「一回きりって、何で知り合ったの?」

 と身を乗り出してきたのは、彼氏に三股かけられていたとメソメソ泣いていたナツキ。智美の話が始まるや、涙は嘘のように晴れていた。

 三人は、学生の頃、必修科目で知り合った仲間だ。大学四年間を同じキャンパスでダラダラ過ごし、卒業して三年たった今でもダラダラ縁を引きずってつるんでいる。縁と言っても絆とか運命の糸とかいうカッコいいものではなく、ゴムの抜けたパンツの紐のようなグダグダの関係だ。

「ナンパ。道歩いてたら声かけられた」

 周囲の女たちは沸きあがった。

「マジでぇ?!」

「私、ナンパなんてされた事ないよぉ!」

「で、そのナンパ男とどうしたの?」

「ホテル行った」

 智美がサラッというのに、他の二人は一瞬押し黙った。

「ね、まさか智美……」

「レイプ、とか……?」

 深刻な顔で覗きこまれ、智美は初めて自分の失言に気がついた。

「あ、あはは! 違うって! ホテル行く前にお茶してお話とかしてるし、両性の合意に基づく行為っ! 心配しないで!」

 あ、ヤッっちゃったことはサラリと認めるんだね。みゆきとナツキは、親友の相変わらずの無自覚の暴言に頭を抱えた。


「ねえ、ちょっといい?」

 生まれて初めのナンパはあまりにも唐突だった。

 通りすがりに声をかけられて振り向くと、背の高い男がこちらを見下ろしていた。くせの多い髪の毛はある程度綺麗に整えられており、黒い大きなコートに全身を包んでいる。チャラ男と呼ぶには堅実な身なり、そしてワイルドというには繊細な眼差しをした男だった。

「君、何してるの?」

 その瞬間、剥き出しの二の腕にハエが止まって、こそばゆくてムズムズしているような感覚が、智美を襲った。道を歩いている女に「何してるの?」なんて、合コン初体験の女の子が、男の子の血液型を片っ端から聞いて回るのと同じぐらい馬鹿丸出しの質問じゃないか。

 そう、軽蔑の眼差しで見上げて鼻であしらって、その場から去っていけたらどんなに気持ちがいいだろう。だがそうは思っても、智美の足は動かなかった。今まで、彼氏と呼べる男と付き合ったことは何度かあった。だが、今現在は彼氏どころか好きな男もいない、完全フリーの状態だ。そんな時期に、道端でベタなナンパにあうなんて、人生の中でそう何度も経験できることではない。


「何度も経験できないって、それだけの理由で引っかかっちゃったの?」

 みゆきが目を丸くして智美を覗き込んだ。

「だって、丁度彼氏いないんだよ。それだったら浮気にもならないし。いい人生経験になるなぁと思ってさ」

「あんた、あたしゃ呆れてものも言えないよ」

 ものも言えない割にナツキは饒舌だった。

「言うに事欠いて人生経験? 変な所に連れ込まれてまわされたりとか、そういう可能性はまるで頭になかったわけ?」

「現に今無事だからねー」

 二人の真剣な眼差しに、智美は飄々と答えた。

「ま、私だって一応心配はしたよ。だから突然ホテルとかじゃなくて、まずはマックでお茶することにしたんだもん」


 今? 別に何もしてないけど。

 じゃあさ、ちょっとだけ俺と遊ばない?

 遊ぶって、何するんですか?

 そんな慣用句的なやり取りをした後、二人はとりあえずマックでお茶をすることになった。男はその時既に、ベッドを仄かに匂わせるようなことを言っていた。智美は一応怪訝そうな顔をしておいたが、実のところまんざら嫌でもなかった。彼女は、女なら誰でも道でばったり出会った男と行きづりで、というシチュエーションに憧れを持っていると思い込んでいる。その一大チャンスが、丁度フリーのこの時期に訪れたのだ。これを逃したら、こんな状況を一生経験しないまま生涯を終えることになるかもしれない。

 平日の昼間のマックは、雑談するには丁度いい込み具合だった。男は黒田と名乗り、普段は新宿のキャバクラで客の呼び込みをしていると話した。

「智美ちゃんは何してるの?」

 突然名前で呼ばれ、あのゾワゾワした感覚が呼びさまされた。だが、一瞬後にはナンパとはこういうものなのだろうと変に納得していた。

「ちょっと前まで、大手飲食店の正社員やってたんです。一応、店長候補だってんですよ」

 智美が言うと、黒田は目を細めた。

「へえ、若いのにすごいじゃん!」

「そんなことないんです。新卒イコール店長候補って、それだけだもの。私の周り、店長候補だらけだったんですよ」

 言いながらも、智美はどこか気分がよくなっていた。

「でも残業ばっかりだし、全然休みとれないし、自分の時間が欲しくて辞めたの。三年も頑張ったからもういっかなー、なんて」

 聞かれもしないことを、智美は楽しそうにペラペラと喋っていた。黒田はそれを、うんうんと興味深そうに聞いていた。

「そっかぁ、そんなに大変だったんだぁ。じゃあ折角だから今めいっぱい遊んでおかないとね」

 屈託のない笑顔を見せる黒田は、とてもキャバクラの客引きをやるような男には見えなかった。智美も彼につられて微笑んでいた。


「その黒田って人が、最低の男なの?」

「何か、全然最低なところが見えてこないわよ」

「ナンパなんてしてんだからチャラついてる男なんだろうけど、それぐらいで最低って言われてもねー」

 ナツキとみゆきが言いたい事をそれぞれ口にした。智美は「まあまあ落ち着いて」と制すると、話を続けた。


 マックに、学校帰りの女子高生が群がる時間になっていた。冷めかけのコーヒーカップを摘む黒田のゴツゴツした男らしい指に、智美は僅かに頬を赤らめた。

「黒田さんも、大変なお仕事ですよね」

「まあね。ノルマはあるし、朝帰りだし、面倒な仕事だよ。でも嫌いじゃないんだ。時間に融通聞くし、お陰で君みたいな子とも出逢えたし」

 智美は、黒田のにべも無い言葉に動揺した。にやけるまい、頬を染めるまい、智美は必死に自分に言い聞かせた。こんな、教科書の例文みたいな口説き文句に浮かれてるなんてバレたら女のプライドが傷つく。ここはあくまで、平静に、平静に……

「お店って、どこなんですか?」

「新宿の歌舞伎町」

「あ、私も昔、新宿の店舗に配属された事あったなぁ。三丁目だけど」

「へー、何てお店?」

 しばらくの間、二人はどうでも良さそうな新宿の話に花を咲かせた。話が弾むに釣れ、智美は不安になってきた。黒田の真意が段々見えなくなってきたからだ。彼は確かに、ベッドを匂わせるようなことを私に言った。だが今、彼は心から会話を楽しみ、そんな話があったことさえすっかり忘れ去ってしまっているように見える。いや勿論、会話を楽しんでくれているのは喜ばしい事なのだが、ここでトカゲに尻尾よろしくすぱっとサヨナラなんてことになったら、それはそれでプライドが傷つくではないか。

「――今日もこれから仕事でさぁ、六時には新宿にいなきゃならないんだぁ」

 会話の何らかの流れで、黒田はこんな事を言った。

 智美の顔が、あからさまに曇った。今の時間と新宿に六時という時間を逆算し、二人にどれだけ時間が残されていて、その間に何が出来るのかがスパコン並の速さで計算されていた。

「あんまり時間ないんですね」

「うん、実はそうなんだ」

「じゃあ、何で声かけたりしたんですか?」

 思わず核心を突くことを言ってしまった。

 セックスはしたい。前の彼氏と別れて一年、智美は男の身体に触れていない。行きずりの愛(というか情事)にも憧れはある。

 だからと言って、出勤前の暇つぶしに声をかけられ、公衆トイレのような使われ方をされるなんて、絶対に許せない。女のプライドにかけて、許すことは出来ない。

 智美のプライドをかけた質問に、黒田は、膨らみかかった牡丹の蕾を撫でる様な微笑を見せた。

「君が、あんまり可愛かったからさ」

 一瞬、智美の回りから、女子高生たちの黄色い声が消えた。

 あれほど心に決めていたのに、彼女は熱に浮かされたように頬を染めていた。黒田は繊細な瞳を、恥らうように歪めていた。

「この際、正直に言っちゃうよ。本気の彼女が欲しくて君に声をかけたわけじゃないんだ。でもさ、俺だって遊べる女の子なら誰でもいいって訳じゃないんだ。遊ぶなら可愛い子がいいに決まってんじゃん。それも長く遊ぶんだったら、ね」


「何ソレっ? やだぁっ!」

「てか、それってセフレじゃん! セフレになろうってことじゃん! サイテー!」

「智美っ!何でそんなサイテー男について行っちゃったのぉ?!」

 親友たちが興奮するのに、しかし智美はきょとんとした。

「私まだ、黒田さんの最低なところ、喋ってないよ」

 その一言に、

 三人は居酒屋の喧騒から、一瞬取り残された。


 俺だってさ、仕事の時間があるんだもん、よっぽど可愛いって思う子じゃなかったら、わざわざ声かけたりしないよ。そうだろ? ちょっと時間無理してでもさ、君と出逢った縁ってのを大切にしたかったんだ。だから声かけちゃったんだ。

 黒田の言葉はとても穏やかで、その分説得力に溢れていた。二人はその後マックを出て、ホテルに直行した。休憩二時間五千円のラブホテルだ。一人暮らしの長い智美は、彼氏がいた頃もこういうホテルを使ったことがなかった。これから入るのはセックスをするためだけの場所なんだ。そう思うだけで、身体がじんわりと熱くなった。

 部屋に入ると、智美は黒田と共にベッドの縁に並んで腰を下ろした。流石に二人の間に緊張が走り、ほんのりと熱の篭った沈黙に包み込まれた。

「シャワーとかいいの?」

「だって、時間がないんでしょ?」

「うん」

 そう、ポツリポツリと話すと、再び言葉を失った。智美は今になって迷っていた。こういう展開は期待していたけど……セックスはしたいけど……本当に、こんな風に流されちゃってよかったのかな? それも、ついさっき逢ったばかりの、お互いを何も知らないこのひとと……

 突然、黒田がフッと笑った。大柄なその身を縮ませ、引きつった笑みを見せていた。

「ご、ごめん。実は緊張しちゃってさ……」

 彼は智美に言った。

「実は俺、ナンパなんてしたことないんだ。だからこんな展開初めてで……どうすればいいのか判らなくて……ほら、見て」

 黒田は掌を智美に見せた。小刻みに震えていた。このまま水の入ったコップを渡したら、振動で全部こぼしてしまうのではと思うほど、ブルブルガクガク震え上がっていた。

 黒田の顔を見ると、ワイルドと言うには繊細な光を放つ瞳が、儚く揺れていた。

 智美は喜んだ。このひとは当たりだ。恋人にはなれないけど、恋人になるつもりもないけど、この誠実そうなひとならきっと、私をおろそかにはしないだろう。お互いに楽しく遊べるよう、気を使ってくれるだろう。私は、単なる公衆トイレとしてじゃなく、きちんと選ばれてここにいるんだ。

 私だからと望まれて、このひととセックスするんだ。

 黒田の大きくてゴツゴツした、男らしい手がゆっくりと迫ってきた。彼は智美を抱きしめると、優しく背中を撫でながら頬張るようなキスをした。包み込まれるような行為に、智美の脳髄が溶け始める。ああ、このひとはきっと床上手だ。床上手って言葉が、男の人にも使えるのかどうかは知らないけど。キスだけで昇りつめちゃいそう。インナーの下に滑り込む指のごわごわが、感じやすい線を刺激する。あ、ブラのホックが簡単に……ん……早くブラウスのボタンを外して……

 智美の白い肌が、肩からそっと露になった。


 みゆきとナツキは、だんまりしたまま俯いてしまった。元々最低男話で盛り上がっていた女たちだ。男に飢えているのは皆一緒。その中での智美の回想話はあまりにも生々しかった。

「……それで、どこが最低?」

 ナツキがたまりかねて聞いた。智美はそこで初めて、不満げに口元を歪めた。

「肝心なのは、ここからなのよぉ」


 ブラウスを剥ぎ取られ、智美のたわわな果実があらわれた。彼女は恥らってそれを腕で覆い、瞳を逸らした。もうじき彼がここに来る。震える手で私の腕に柔らかく触れ、優しく覆いを外すだろう。きれいだね、もっとよく見せて。そんなことを言いながら。頬を赤く染めながら、私は彼にさらけ出す。彼は私を押し倒し、私の胸に顔を埋め、私の身体を甘く貪る。

 ああお願い、私のところへ早く来て――

 ところが、

 待てど暮らせど、彼は来なかった。

 智美は悠久とも呼べるような長い時間、黒田を待ち続けた。足はわざとらしい内股、右腕で胸元を隠し、左腕で身体を支えて、ギリシャ芸術の石像のようなポーズだ。彼女は絶妙なバランスで辛うじてそのポーズを維持していた。待っているうちに左腕がガクガクと震え始め、額から冷や汗のようなものが出てきた。期待に胸膨らませていたのと同じぐらいの不安が襲い掛かってくる。智美は耐えられなくなって、遂に目を開けた。

 そして、言葉を失った。


「何やってたの、黒田さん?」

「私のブラウス、畳んでた」

「はぁ?」

「ねぇっ! 〝はぁ?〟でしょ? 信じられないでしょお!」

 みゆきが思わず漏らした言葉に、智美は遂に爆発した。

「もお、聞いてよっ! ブラウスだけじゃないんだよっ。ブラジャーもストッキングもパンティも、脱がした傍からみぃぃんな畳んじゃうんだよぉ! 勿論自分のトランクスも全部だよっ! ホント最低! マジ最低! これからエッチしようって時なんだから、脱いだものなんて放り投げちゃえばいいじゃん! それなのに、ひとのハダカ見ておいて冷静にパンティ畳めるって、一体どういう神経してるの?! 自分のそそり立ったナニを目の当たりにして、どうして落ち着き払ってトランクスとか畳めるの?! もうほんと、マジ興ざめだったよっ!!」


 畳んだものは、智美の分、黒田の分とそれぞれの山になって、部屋の隅にチョンと並べられていた。四隅の角がきれいに整っていて、まるでお母さんが畳んだ洗濯物だ。

 黒田は自分の仕事に満足そうに頷くと、さて、それはそうとと言った風情で智美に向き直った。優しそうな笑顔がお母さんにしか見えない。もう何をされても濡れる気がしなかったが、仕方がないのでされるがまま押し倒される事にした。

 失望を遥かに下回るセックスだった。黒田の愛撫は、下手と言うのとはまた別の種類の怒りを感じさせた。テキスト的と言ったらテキスト的なのだが、ハウツー本をそのまま踏襲しているというのでもない。同じテキストでも、黒田のそれは幼児用のひらがなドリルだ。四角の中に点線で平仮名が書いてあり、それをただなぞっている、という感じ。それも〝み〟とか〝ゆ〟ならまだしも、黒田のはせいぜい〝し〟とか〝つ〟。単に下手だと言うのならまだ盛り上がる方法もあるのに、これではただの嫌がらせだ。


「もうさぁ、感じるふりするのも一苦労だったよ。一所懸命あー、とか、うー、とか言ってみたりさぁ。いれた後もめちゃくちゃ遅くてさぁ、頼むから早く済ませてよって感じだった。ホテル代半額出して大失敗だったよ」

 みゆきとナツキは飛び上がった。

「ホテル代出したの?!」

「だって奢ってもらったんじゃ、まるきり娼婦じゃん。もしこういうことがあったら、ホテル代も何も全部半額にしようって前から決めてあったんだ」

 それがプライドのあるいい女ってもんじゃん! 右手をブイにしながら智美は言った。

 三人の席の丁度隣に、新規の客が入ってきた。若いカップルだった。彼らは生中をひとつずつ注文すると、ジョッキを掲げて「かんぱーい」と大声をあげた。新宿歌舞伎町の夜は、まだ始まったばかりだ。

「その後、黒田さんとは?」

「一応連絡先聞いたけど、それっきり。また逢ってエッチしたとしてもさ、あれ以上楽しくやれると思えなくてさ」

「そうだよね、あはは―」

「そろそろ出よっか」

 三人は、隣のカップルが焼き鳥をついばみ始めるのを横目に、席を立った。

 新宿東急ミラノビル、元コマ劇場前の広場は、その夜も若者のいかれ騒ぎといかがわしい活気、それと路上生活者の匂いに満ち溢れ、他の場所とは違う色の空気を作り出していた。

「久しぶりに楽しかったねー」

「うん、智美、声かけてくれてありがとうね!」

「ところでどうする? まだ帰るには早いけど、どっかでお茶する?」

 みゆきの言葉に、智美は突然「ごめん!」と両手を合わせた。

「実は私、これから寄る所があるんだ」

 智美の平謝りに、みゆきとナツキは「そっかー」「残念だねー」と言ってみた。

「じゃあ、ここでお開きってことで」

 コマ劇場の前辺りで智美と別れたナツキとみゆきはしかし、駅には向かわなかった。二人の足は動き始めると、自ずと軽くお茶のできそうなカフェを探していた。夜の歌舞伎町で、女二人連れで入れる店は限られている。彼女たちはガラス張りの壁で中まで明るく見通せるチェーンのコーヒーショップに奇跡的に空席を見つけ、駆け込むように入店した。

「ね、どう思った?」

 ソーサーに乗ったコーヒーカップをテーブルに置くや、みゆきは待ちきれないとばかりに口を開いた。

「どうって、黒田さん?」

「黒田さんって言うか、智美」

 みゆきは、汚いものを摘んで投げ捨てるように智美の名前を口にした。ナツキも釣られて顔をしかめた。

「あの子、昔からああいうところあったのよね。女のプライドを勘違いしてるって言う感じ」

 そう言うナツキの脳裏には、智美と過ごした七年間のことが駆け巡っていた。彼女はいい子だ、いい人だ。だが同時に、勘違いの激しい女でもあった。ナツキとみゆきがこんなに長く彼女と一緒にいるのは、そんな彼女が危なっかしくて見ていられなかったからに他ならない。

「結局、何も変わってなかったわね。〝いい女〟とか〝女のプライド〟とか、そういう言葉に酔っているだけなの」

「そのくせ、女のプライドってものをまるで理解していないんだよ。ホテル代半額出したって、ナンパ男に足広げた段階でイイ女失格だって、何で判らないんだろう?」

 みゆきは、匙を背中越しに放り投げるしぐさで言い放った。

 思えば、今まで何度彼女のフォローをしてやってきたことだろう。合コンでお持ち帰りされそうになるのを止めてやったのも一度や二度じゃない。彼氏がちゃんといる時期に、唐突に「人生経験の一環」と言い張って浮気した事だってある。その証拠を揉み消すのに二人で力を合わせたのは、今となってはいい思い出だ。前の職場でバイト君と寸前までいきそうになったとか自慢された時など、何でこんな奴とまだ友人やってんだろうと怒りさえ感じたものだ。

 そしてとうとう今回は……

「智美の言う通り、黒田さんって最低」

 みゆきの言葉は、容赦なく続いた。

「でもそれって、エッチの前にパンツ畳んだからじゃない。っても、確かにエッチの前に着てる物畳まれたら嫌だけどさ。黒田さんさ、智美のこと最初から公衆トイレにするつもりだったんだよ」

「私もそう思うわ。それなのに智美……」

「類友だよ類友。最低の女はさ、最低の男を呼び寄せるもんなんだよ」

 最後にみゆきはばっさりと切り捨てるように言った。ナツキは、黙りこんでしまった。

 二人の間で、カップから立ち上がる湯気だけが生き物のように揺らめいていた。

「私、黒田さんはちゃんとした彼女とかだったら、下着畳んだりなんかしないんじゃないかなぁ、って思うの」

 ささやかな沈黙の後、ナツキは小さく言った。

「〝し〟とか〝つ〟以外のことも、本当の彼女にだったら、って」

「ホント、馬鹿な奴。本人が公衆トイレにされてた事に気付いてないのがせめてもの救いだよね」

 みゆきは目の前にいない智美を言葉で鞭打った。だが、

「そうかな?」

 ナツキは、自らの手に収まったカップを見下ろしながら、みゆきの言葉を恐る恐る否定した。

「私、智美は気付いてたんじゃないかなぁって気がするの。事が全部終わって、黒田さんを見送った後、突然自分が公衆トイレだったんだって、気付いたんじゃないかって。彼女でもセフレでもない、ただの排泄場所として適当に処理されたって」

「まさか! だって黒田さんに連絡も取ってないって言ってるんだよ?」

「そんなの口ではいくらでも言えるわよ。本当は、何度も連絡したんじゃないかしら。で、何度かけてもあしらわれたり居留守使われたり、全然相手にされなかったんじゃないかしら。それでも公衆トイレだって認めることが出来なくて、それでとうとうキレちゃった……って」

「キレるってどういうこと?」

「思い出してみて。今夜、新宿で飲もうって言って、店の予約したのって誰? 黒田さんの勤めてるキャバクラがあるの、どこって言ってた?」

 みゆきの顔が段々引きつってきた。

「そんな、考えすぎだよ。歌舞伎町のキャバクラって言ったって、一店や二店じゃないじゃん」

「でも客引きって、目立つ場所に立ってることが多いんでしょ? 客引きの出来る目立つ場所なんて案外限られているから、色んな店から同じ場所に客引きが来るってこともあるんじゃないかしら。だから智美、黒田さんを探しに……」

「や、やだなぁ、想像力逞しすぎ。大体それで黒田さん見つけたとして、智美はどうする気だと思う? 店のプラカード持ってる所に駆け寄って、私ともう一度セックスしてくださぁい、とか抱きつくつもり? あんな、間違いだらけの女のプライドで塗り固められちゃってるような子がさ、んなことするわけないじゃん」

「そ、それなんだけどね……」

 ナツキの手が震え始めた。今から口にすることが、世界を変える力を持っているかのような怯えっぷりだった。

「智美、前の仕事で飲食店勤めてたでしょ? 焼肉屋さんだったの。で、肉切り場の担当もやったことがあるって……」

 ナツキとみゆきの間の空気が、音もなく止まった。

 ガラス張りのカフェの向こう側には、夜の歌舞伎町が広がっていた。

 やがて、乾いた笑いと共に口を開いたのはみゆきだった。

「あ、あはははー、やだぁ、ナツキったら何を言い出すかと思ったら――」

 みゆきの息が急に止まったのをナツキは感じた。目の前の親友を見ると、彼女は真っ青な顔をしていた。まるで幽霊でも見たかのような瞳だ。表情が凍り付いている。ナツキはみゆきの視線を追った。外に向かっていた。

 歌舞伎町の路地に女が一人、立っていた。その女は般若のように地獄を面に纏っていた。

 智美だった。

 みゆきとナツキは、何度も何度も目を疑った。そこに、さっきまで畳む男をケラケラ笑い飛ばしていた友の姿はなかった。知らない女だった。知らない女だと思いたかった。知らない女は意思を持って交差点付近のある一点を睨みつけていた。そこには、チャラ男と呼ぶには堅実な身なりで、ワイルドと呼ぶには繊細な眼差しをした男がプラカードを持って立っていた。

 それは突然起きた。

 知らない女は交差点めがけて恐ろしい速さで駆け出した。

 みゆきとナツキはその右手に、鈍く光る何かが握られているのを確かに見た。

 肉切り包丁だ。



言い訳をひとつ(汗)

作中に登場する「歌舞伎町のキャバクラの客引き」ですが、現在では規制等で客引きがそうそううろうろ出来ないようになっているのを、作者は知らずに書いていました。

この作品は、よく映画を見に歌舞伎町に行っていた10年前ぐらいの印象で書き上げました。そして投稿した直後に久しぶりに歌舞伎町に行って、当時とのあまりの違いに頭から血の気がざっと引く思いがしました。

本当にうかつでした。作者は理解しているつもりですので、その辺りのことはどうか突っ込まないであげてください。お願いします。


最後まで読んで下さって、本当にありがとうございました。割いて下さったお時間に感謝いたします。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 物語へは女性の裏側を見てみたい的欲求をうまく刺激されさらりと入ることができました。 終盤も、いったん話を「プライドとは何か」のようなちょっと考えさせる風にまとめた後、もう一度落とす。という…
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