第二幕 賊の棲家 其の一
あの火事から数日たった。
あの日を境に、お花はぼんやりする事が多くなった。
鬼ごっこをすると、小さい子供からもすぐ捕まる。
父親の手伝いで材木を運ぶときもうっかり間違えた木材を運んだりして叱られる。
おまけにただぼんやりするわけではなく、気がつけばあの半纏の鯉を思い描いているのだ。
不思議な事にその都度、甘酸っぱいような感情と、胸がひしゃげそうな悲しみがこみ上げてくるのだ。
「おいお花。お使いを頼まれてくれ。仕事が立て込んでいて手がはなせねえんだ」
ある日、お花は父から下駄をお穐の店に持って行くように頼まれた。
初夏のこの時期、下駄の需要が高くなる。
そうでなくとも、お花の父は腕がいいため注文が後を絶たない。
ふと、積み上げている品物の一番上を見ると、赤い鼻緒の可愛い下駄がちょこんと鎮座していた。
父の降ろす下駄は、大抵下駄の土台部分のみであり、鼻緒は売る店でつけてもらっている。
普段、鼻緒をつけていない下駄を見慣れているお花は珍しそうに眺めた。
「なんでえ、凝ったもん作ってんな。鼻緒付の下駄なんてどういう風の吹きまわしだい?」
「お穐お嬢さんのもんだ」
父は下駄を作っている手を止めずに言った。
「お穐の?」
お花は怪訝そうに聞きなおした。
「お穐お嬢さん、だ。ぐだぐだ言ってねえでさっさと行きやがれ!全く、この忙しい時にぼんやり突っ立ってんじゃねえよ」
暑さと仕事のせいでいらいらとしている父の様子に、お花は荷を引っつかむと慌てて外に出た。
夏の太陽は、てらてらと道が真っ白になるほど照らしつけて、その眩しさにお花は一瞬目がくらんだ。
気がつけばお天道様は頂点に上りきったところで、人々はせわしなく働いている。
お花はのろりと一歩を踏み出した。
お使いが億劫なわけではない。
お穐は嫌いだが店の者はお花に優しいし、この間の喧嘩だってお穐とお花の挨拶みたいなものだから、特に引きずっているわけでもない。
ただ、何をするにも不安で寂しいのだ。
そうして脳裏には常にあの半纏の鯉が優雅に泳いでいる。
お花はため息をついて目を瞑った。
鯉は、高い所を上っている。
花は手を伸ばす。
けれど、鯉はお花の伸ばした手よりも高いところにあって、それもどんどん離れていく。
お花は気がついていない。
お花が本当に触れたかったのは鯉ではなく、それを纏っている誰かさんの背中だった事に。
ふと気がつくと、お花は現実にも手を伸ばしていた。
通りすがる人が不思議そうにお花を眺めており、お花は慌てて手を引っ込める。
顔を少し赤らめながら、荷を担ぎなおし、足早にお穐の店に向かった。
天気に似合わずどんよりとした顔つきのお花はまた一つため息をついた。
「お日さんよ、何でこんなに変な病気にかかっちゃったんだろうね、あたしったら」
やがてついた店の前にはお穐が立っていた。
お穐はお花を見つけるとすぐにその側に駆け寄ってきた。
「あんたが持ってきてくれたのね、ありがとう。ねえ、早く見せて頂戴」
いやに上機嫌なお穐はお花に珍しくねぎらいの言葉ををかけると、持って来た荷をお花から取り上げた。
そして、一番上に置いてある赤い鼻緒の下駄をその手にとった。
「まあ、素敵だこと。さすがあんたのところは腕がいいわね。こんなに可愛い鼻緒までつけてもらってるし。これなら、昇吾さんと花火見物に行っても恥ずかしくないわね」
お穐の口から昇吾の名前が挙がり、お花は思わずお穐を見た。
お穐は目を細めてフン、と鼻を鳴らした。
「今度、昇吾さんとうちのお父さんと屋形船に乗るのよ。そこから花火を見ながら祝言を挙げるの。ね、粋でしょ?大好きな昇吾さんのお嫁さんになれるなんて夢見たい。あんたもちょっとは女らしくしておいた方がいいわよ。本当にお嫁にいけなくなっちゃうわよ」
そういってきゃは、と笑った。
お穐の言葉にお花は胸がむかむかとした。
「女らしくなくって悪かったな!!」
次の瞬間、お穐の腕から下駄をむしりとり、全速力で走り出した。
「ちょ、ちょっと!何すんのよ!!馬鹿お花っ、まちなさい」
お穐も慌ててお花を追いかける。
走りながらお花はお穐にむかってべえっと舌を出した。
「あんたが性悪すぎて可愛い下駄の鼻緒がよがんじまった。いくらうちの父ちゃんの腕がいいったって、へその曲がったあんたにはかれちまったら下駄がよがんじまうってもんだ。かわいそうだから、別の店におろしてやる」
「へそ曲がりって、あんたのことでしょうがっ!もう、あんたの店とは商いしないわよ」
「うちの父ちゃんは下駄を作らせりゃあ日本一だい!そんな職人と商いしないなんてあんたの店つぶれちまうぞ」
「もう!いいから待ちなさいってば!!」
普段走りなれていないお穐はぜえぜえと言いながらそれでもお花についてくる。
お花はちらりと振り返って、お穐の苦しそうな様子に少し後悔の念が混じる。
(本当になんでこんな馬鹿なことをしたんだろう?)
お花は胸が痛んだ。
女らしくないとお穐に馬鹿にされた事に腹を立てたわけではない。
そうなら単純にその場で殴りにかかっただろう。
お花がお穐を困らせたかったのは嫉妬からなのだ。
そしてこれがお穐でなくてもお花は、同じことをしたに違いない。
祝言の決まった昇吾と、お穐は夫婦になる。
これはお花が何をしてもどうしようもない。
けれど、悔しいのだ。
どうにもできない悔しさがお穐への嫌がらせとなって、思わずお穐の下駄を取り上げてしまったのだ。
二人は走りながら、細い路地を抜けていく。
この先には大きな堀があり、その前には少し前までは廻船問屋があった。
しかし一月ほど前に火事でお店が燃えてしまって、今は別の場所で仮住まいをしているという。
ただ、燃え残った廃墟はそのまま残っている。
その廃墟は板塀にぐるりと囲まれていた。
火事のあと慌てて作ったのか、ところどころに隙間がある。
今も、お花の目に子供一人が通れそうなくらいの板と板の隙間が飛び込んできた。
とっさにお花はそこへ逃げ込んだ。
「まてぇ!逃がさないんだからね!!」
お穐も夢中でその隙間に体をねじ込み追いかけ続ける。
「しつっこいなあ。いい加減にあきらめろよ」
あきれながら追いかけてくるお穐を振り返り、呟いた。
するとお花の頭の上に大きな影があらわれた。
同時に目の前が真っ暗になり、ふうっと意識が遠のいた。
「へ、餓鬼じゃあねえか。捕り物かと思ってひやひやしたぜ」
薄れ行く意識の中で、ゲッゲッと笑う男の声と、お穐の恐怖に震える小さな悲鳴を聴いた気がした。